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「盛り場」としての新宿

第 3 章 大都市東京のインナーシティの現在――新宿,大久保を通して

第2節 「盛り場」としての新宿

インナーシティ大久保の盛り場としての地域史をみる前に,東京の一大「盛り場」として,

現在も国内外から大量の人びとを引き寄せる,「盛り場新宿」の歴史を辿ることから始める.

「盛り場新宿」と隣り合わせの大久保が,どのように現在の姿となっていったのかを,新宿 の歴史を辿ることで,より鮮明に描くのが目的だ.

第1項 関東大震災からの再建を契機として――百貨店,カフェー街,二丁目遊郭

河村(1999)は,江戸中期の「内藤新宿」37の誕生から,グローバリゼーションの影響を 受けながら,新宿が近代大都市になるまでを,社会,歴史的背景とともに詳細に記述してい る.河村(1999)によると,新宿の「盛り場」としての発展は,新宿の街が 1923 年の関東 大震災の被害を受けたことが契機となっている.新宿の街は,山の手地区では例外的に震災 の被害を受けたという.大震災の災害で新宿の街は,「新宿駅をはじめ,新宿通り第一の建 物の武蔵野館,また市電車庫など,駅前から新宿二丁目にかけて一帯が焼失した」(前掲書:

73).この後,新宿は,大震災の災害からの再建を契機として,新興の「盛り場」として変 貌を遂げていく.河村(1999)の記述を以下に引用する.

37 「内藤新宿」は,現在の新宿区の原型であり,1698(元禄11)年,第5代将軍徳川綱吉の時 代に,高井戸と日本橋の間の宿場として開設したときから出てくる地名である(河村, 1999:10; 新 宿区地域女性史編集委員会編, 1997:191 ).

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いままで街外れにあった二幸(現在のスタジオ・アルタ)前に,青バスがターミナルをつ くった.そして市営自動車も運行を開始,また市電も二幸前まで延長された.新宿駅は災害 被害をうけたこともあり,大正14(1925)年5月 1日,甲州街道沿いから新興の青梅街道

(新宿通り)沿いへと移転し,鉄筋コンクリート二階建てのモダンな駅舎として開業した.

新宿駅は,これを契機に市電やバスターミナルとも連結,また同年9月には,新宿―荻窪間 を走る西部電車が二幸近くの新宿通りから発車するようになるなど,新宿のターミナル機能 は一段と向上していった.これに伴い現在のスタジオ・アルタの辺りが交通の要衡となって いった(前掲書: 73).

このように,新宿駅がターミナルの拠点として発展していく動きと平行して,新宿通りを 中心に商業施設や娯楽施設の建設ラッシュが始まり,現在の新宿三丁目交差点から「スタジ オ・アルタ」の間には,もの凄い速さで新興の商業地が形成されていった.その立役者とな ったのが,三越,ほてい屋,松屋,新三越,三副,伊勢丹などの百貨店であったという38.百 貨店以外にも,新宿駅付近には,東京パン,中村屋,新宿ホテル,紀伊国屋書店,帝都座や ムーラン・ルージュなどの映画館がこの時期に相次いで建設された(前掲書: 74; 新宿区地域 女性史編集委員会編, 1997: 223).

また,この新興の「盛り場」を,一層発展させたものとして,新宿の「カフェー」39街も忘 れてはならない.「新宿区地域女性史編集委員会」が編集した,『新宿 女たちの十字路―

―区民が綴る地域女性史』(1997年発行)には,新宿の歴史が,女性の生き方を通して詳細 に記述されている.本書によると,新宿の「カフェー」街は,関東大震災後のほんの数年の 間に出現したものだという.「カフェー」街は,以下のような場所に形成されていた.

新宿の「カフェー」街は,一つは三越裏カフェー街(T 字街ともいう)で,現在の丸井フ ァッション館の裏付近,二つ目は東海横町(東海通り)といい今の広末亭前の通りで,この 他に武蔵野館前の通りにもミドリ,タイガーなどのカフェーが集まっていた.カフェーで働 いている女性は女給とよばれ,客に酌をしたりレコードにあわせて客と踊ったりしてサービ

38 それぞれの百貨店の設立について,河村(1999)を参考にまとめる.「三越」は,1924年に新 宿三丁目交差点付近に新宿初の百貨店を開業した.「ほてい屋」は,1926年に現在の伊勢丹の角 に地上6階地下1階の百貨店を開業した.「伊勢丹」は,1933年に地上7階地下2階のビルを建 設し,神田から新宿へと進出してきた.1927年に京王が新しいターミナルビルを建設し,このビ ルの2階から上に京王パラダイスという名前の松屋デパートが入居.これが,ターミナル・デパ ートのはしりである (河村, 1999: 74).

39 「日本に初めてカフェーができたのは1876(明治11)年のこと,神戸の珈琲店といわれてい るが,広く知られているのは10年後東京上野に開店した可否茶館である.ともにフランス風のコ ーヒー専門店だったが,当時コーヒーはまだ一般的でなく三年ほどで店をたたんだ.ところが,

明治末年,画家松山省三が銀座に開いたカフェー・プランタンでは,コーヒーだけでなく酒を飲 ませた.作家や画家などが集まる特異な店であったが,これが評判になり,カフェー・ライオン やカフェー・パウリスタなどが次々とできた.これらの店では着物に白いエプロンをつけた「女 ボーイ」のサービスが売り物で繁盛し,たちまち全国にひろまった.「女ボーイ」はおかしい,と

「女給仕」やがて「女給」とよばれるようになり,大正期に女給さん付椅子テーブル付飲み屋が 大流行した.これがいわゆるカフェーの始まりである」(新宿区地域女性史編集委員会, 1997: 223).

48 スをした」(前掲書: 223).

震災直後の大正後期から昭和にかけて,東京都心と近郊の盛り場では,新しい娯楽として

「カフェー」ブームに湧いていたようだが,新宿のカフェー街の賑わいは,当時新宿二丁目 にあった,新宿遊郭(通称,二丁目遊郭)40によってもたらされていた面が強かったようだ.

新宿区地域女性史編集委員会編(1997)では,林芙美子の『放浪記』の記述を引用しながら,

新宿のカフェー街の賑わいと新宿遊郭の関係について,以下のように述べている.

〈カフェーは〉2 時がカンバンなのに,遊郭がえりの客がたてこむと主人はのれんを引っ 込めようともしないで,女給たちは「厭になってしまうわ。…」といいながら4時過ぎまで 遠くの方で鳴く鶏の声や,新宿駅の汽車の汽笛が鳴るのを聞きながら働く―という様子が描 かれている.これは大正末年のころのことで,その後1933(昭和8)年「特殊飲食店営業取 締規則」により,カフェーの閉店時間は12時と決められたが,東海横町のカフェーは間近に 二丁目の遊郭を控えていたので,午後2時までは営業が黙認されていたという.新宿カフェ ーのにぎわいは周辺の飲食店同様,遊郭によってもたらされていたのである(前掲書: 225).

以上のように,関東大震災からの再建をきっかけに,新宿は,新興の盛り場地域として大 発展した.そして,この新宿の盛り場を特徴付けるのは,百貨店や映画館といった巨大商業 施設や当時大流行したカフェー街,そして,二丁目の遊郭である.新宿の二丁目遊郭は,新 宿が宿場から近代の盛り場として大きな転身を遂げた,重要な要因となっている.

盛り場としての新宿は,大震災直後からの商業施設の建設ラッシュを経て,わずか 5年後の 1929年には,「四谷・神楽坂から山の手の繁華街の地位を奪い取り,銀座につぐ東京第二の 盛り場にのしあがっていった」という(河村, 1999: 75 ).

40 新宿遊郭の歴史は古く,始まりは,新宿が宿場「内藤新宿」として誕生した,元禄11(1698)

年まで遡る.内藤新宿は,元禄11(1698)年に名主・高松喜六らによって提出された,宿場設置 願を受けて建設された宿場町である.高松らは,翌年2月に738軒の家並みの続く宿場を完成さ せた.このうち,52軒が「飯盛女」のいる旅籠屋(はたごや)で大変に繁盛した.飯盛女は,公 式には「食売女」と呼ばれ,江戸時代に街道の宿場の旅籠屋で旅人相手に寝食の世話をした,幕 府黙認の売春婦である.彼女たちは,旅の男の求めに応じて売春を強いられていた.内藤新宿は,

物資流通の役割より,飯盛旅籠のある宿場として発展したため,次第に遊郭としての性格を強め ていく.内藤新宿は,享保3(1718)年,いちど廃宿となるが,それから約半世紀後の明和9(1772)

年に宿場再開となり,その後は明治へかけて,遊興地としての性格を変えることなく繁栄の一途 を辿る.明治期に入り,東京府の公婦制度の成立(1873年)などを経て,内藤新宿の大通りにあ った遊郭は,明治30(1897)年頃より,移転が議論され始めた.そして,大正7(1918)年,警 視庁令第16号により,新宿遊郭を現在の新宿二丁目に強制移転することが伝えられ,3年後の 1921年までに移転が完了した.移転後の新宿遊郭は,通称「二丁目遊郭」と呼ばれた.大正12

(1923)年の関東大震災の後,新興の「盛り場」として,新宿が大発展していた当時,この二丁 目遊郭では,娼婦約560人を擁しており,大繁盛していた(河村, 1999: 新宿区地域女性史編集 委員会編, 1997 ).

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