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日本型謝罪の様式

ドキュメント内 社会的機能としてのメディア“謝罪” (ページ 134-137)

第 3 章 謝罪・メディア・社会

第 5 節 日本型謝罪の様式

本章の目的は、様々な国で行われている謝罪行為の違いの様々な原因を明らかにするこ とであった。謝罪は、日本と欧米でもそれぞれ違うように行い、異なる報道がされるので、

その相違を理解できるように、各国の謝罪プロセスを明らかにする。

本章は、大きく二つに分かれており、1節と2節はメディア、3節と4節は社会に分類し た。メディアが謝罪をなぜ報道するのか、どのように報道するのかを理解する必要がある。

まず、理解すべきことは、謝罪がメディア・イベントであることである。メディア・イベ

ントはBoorstinに定義され、自然に発生したニュースではなく、メディアの報道のために

わざと作られたイベントという意味がある。謝罪会見はメディア・イベントのすべての基 準に当てはまる。メディア・イベントはもともとニュースが足りない時に、記者によって 作られ、視聴者の注目を得るために報道された。一方、多くの研究者は、メディア・イベ ントが偽装されたイベントであるならば、信頼できる情報なのか、報道する価値があるの かについて批判している。

筆者は、謝罪会見には特有の価値観があると考えるが、それはBoorstinが定義したメデ ィア・イベントの意味だけにはとどまらない。視聴者のための価値観ではなく、メディア にとっての価値観がある。謝罪会見のようなメディア・イベントに多くの視聴者が興味を 持つために、メディアは視聴率を上げるために、非常に多く謝罪会見を報道する。日本の メディアでよく聞かれる表現は「世間様をお騒がせして申し訳ございません」であるが、

この言葉に対して筆者はいくつかの批判的見解をもっている。まず、世間様とはどなたを 指すのかということである。「世間」が「社会」であれば、なぜ『社会』とは言えないの か。更に、「様」という敬語の表現を付けるのが、謝罪行為以外ではほとんど耳にしない 表現であり、無理やりつけられた感じがする。二つ目は、「騒がせる」と言うのは世間の 平穏を乱すという意味で、平穏を乱したのが誰であるか明らかにしていない。もしかする と、メディアが世間を騒がせているだけではないだろうか。三つ目は、騒がせたから謝る というのが間違っているだろう。つまり、「世間様をお騒がして申し訳ございません」と は、正しくは「メディア様が騒いでいるので謝ります」という表現であり、正しく用いて ほしいと考えている。

メディアの目的は、謝罪しなくてはいけない人々を見つけて、それらに視聴者の注意を 引きつけることである。どんなに時間がたっても、罪を忘れることなく、あらゆる手段を

使って謝罪すべき人を探し出し、追跡し、謝罪するまで離れない。更に、謝罪を必ず否定 的な立場から報道し、謝罪者は否定から中立な状態へ戻る努力をするが、最終決定はメデ ィアが出す。筆者がずっと疑問であったのは、なぜ、日本のメディアがこのような圧倒的 な権力を持っているのかということであった。その答えは、2 節で述べた「記者クラブ」

制度にある。

日本の記者クラブはあまりにも独特で、理解しにくいものとして、以前から諸外国から 注目されている。2 節で書いたように学者の多くは日本には言論の自由がないと述べてい る。日本のメディアは政府に動かされて、「グッド・ニュース・オンリー」の政策に従っ て、視聴者のために報道するのではなく、政府の道具となっている。目的は、政府の指示 に従って、視聴率を高くすることである。筆者はこれまで、日本のメディアには圧倒的な 権力があると述べてきたが、実は日本のメディアの力は一面では弱すぎるため、権力があ るように見えているだけかもしれない。つまり、重要なテーマではメディアは権力がなく、

ただの情報を伝える道具であるが、重要ではないところで権力があるように見せる。謝罪 会見はただのメディア・イベントであり、その場で圧倒的な権力を見せるのは間違ってい るだろう。社会的な事件で力を見せることで、政治関係の報道での弱さを隠したいのだろ う。日本のメディアはそのバランスをかなり上手に守っている。一方、研究者は、記者は 謝罪会見で謝罪者に非常に厳しい質問を出すが、総理大臣の記者会見では、前に書かれた 質問、さらには、決まっている質問しか出せないことを分かっている。これを考察すると、

なぜ記者クラブの制度は今でも必要なのか、なぜ外国人の記者は今も記者クラブに入れな いのか、なぜ日本の新聞とテレビ放送局のニュースは類似するのか、すべてが明らかにな る。また、このことは普段はめったに明らかにならない。いくつかの難しいケース297があ ったが、まだまだ日本の政府とメディアの秘密の「浮気」はばれてはいない。

謝罪会見は、メディアにとって、自分に存在しない権力を一方的に見せられる場所であ ると言える。これはメディアの態度にたいしての答えになる。筆者がこのテーマを選んだ 理由の一つは、どのようにメディアが謝罪者にメディアの意思を強いているかを不思議と 考えたからである。

ヨーロッパの謝罪では、どれほどメディアが頑張っても、謝罪者の家の前で待っても、

会社まで行っても謝らせることができない。それなのに日本では、なぜ当たり前のように みんな頭を下げるのか理解できなかった。その答えは、本章3節で見てきた。

Hofstede の研究に基づくと、日本の社会は集団主義であり、ヨーロッパと欧米社会は個

人主義である。その意味は、日本人は集団の中で住み、集団の調和を守る。一方、個人主 義者は個人のために努力する。責任の取り方も異なり、西洋人は個人で責任を取るが、日 本人は共同で責任を負う。それ故、謝罪するときにも会社の場合は一人ではなく、みんな で謝罪し、頭を下げる。自分の弱いところを見せるのは、日本の文化では悪いことではな く、美徳と思われている。しかし、このためだけで日本人は事件後すぐ謝るのではなく、

企業の評判に対するダメージを最小限に止めるために謝罪する。日本の謝罪は欧米の謝罪 と違って、責任が含まれていない。もちろん、道徳的責任が含まれてはいるが、つまり、

謝罪者は、自分が失敗したことについて、事件にかかわっていることは認めるが、債務的 な責任は含まれていない。このように考えると、謝罪しない理由は一つもない。一方、欧 米では、まず自分の弱いところを見せるのは美徳ではなく、さらに、謝罪は債務的な責任 とつながっているので、できる限り謝罪しないように努力するのである。

日本の謝罪のもう一つの特徴は、上手に視覚化されていることである。欧米では言葉の 表現だけで謝罪を表すが、日本では言葉も、お辞儀も、土下座も、丸刈りも、さらにまれ なケースでは自殺もある。実は、頭を下げることは、謝罪だけではなく、お礼を伝えると きにも日本で使われている。逆に、お礼を言う時に「すみません」と言う言葉も使われて いる。それは、Coulmas によると、日本では感謝と謝罪の境界線があまりにも近くて、は っきりと区別できない。一方、欧米ではこの二つは全く違う行為である。そうすると筆者 の疑問は、謝罪者は頭を下げて、「大変申し訳ございません」と言いながら、それは謝罪 であるのか、あるいは今後の信頼のお礼であるのか、はっきりとは分からない。

本節をまとめると、謝罪会見は、メディアと謝罪者にとっても重要な行為である。メデ ィアは権力を見せながら、視聴率を高めて、謝罪者は失うものが全くないので、道徳的責 任を持ちながら、社会の調和を守るためにとりあえず早く謝罪する。二つの分野は、お互 いの要求をよく理解しながら相互行為を行っている。この行為で、利益と目的がないのは 視聴者だけである。

ドキュメント内 社会的機能としてのメディア“謝罪” (ページ 134-137)