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伝統的な謝罪からメディア謝罪へ

ドキュメント内 社会的機能としてのメディア“謝罪” (ページ 118-134)

第 3 章 謝罪・メディア・社会

第 4 節 伝統的な謝罪からメディア謝罪へ

事件が起きたときに、まず謝罪が必要かどうかは重要な問題である。謝罪が必要として も、誰が誰に謝罪するか、あるいは誰が責任を負うのか大きな問題となる。更に、いつ謝 るかも重要である。つまり、謝罪は「申し訳ございません」と言う言葉だけではなく、謝 罪の対象とタイミングを細かく考える必要がある。謝罪があった場合とない場合でも困る ことが起こり得る。事件が起きた後に、補償金ではなく、謝罪を要求する人は少なからず いる。また、謝罪だけでは足らず、補償金を要求してくる人もいる。つまり、謝罪の方法 はケースバイケースで考えなければならないと言える。本節では、謝罪のいくつかの定義 を紹介し、文化圏によって異なる謝罪の方法を見ていく。

(1)研究における謝罪

謝罪は人間関係の中でよく現れる行為であり、様々な学者により研究が行われてきた。

そして、謝罪は一つの場面からだけではなく、言語学、社会心理学、法学の側面からも定 義することができる。多くの学者達が、それぞれの分野で謝罪が自己イメージと面子と強 くつながっていると述べている。

社会学・心理学における謝罪

Goffman227は社会的な人間関係で謝罪は重要な意味を持つと考えていた。Goffman はこ

う述べた。人はみんな社会的に他人に出会い、生活している。「そうした個々の出会いに おいて、人は方針と呼ばれるものを打ち出す傾向を見せる。方針とは、言語行為・非言語 行為の型によって、人は自分がいる状況についての意味を表明し、またその場にいる人に 対する評価、とくに自分自身に対する評価を表明する」。つまり、人間はイメージ(自己 イメージあるいは他人に対するイメージ)の世界に住んでいる。

Goffman の研究でよく使われている面目あるいは面子は、自分についてあるいは他人に

ついて作られたイメージの社会的な価値として把握される。

「面目という概念を定義づけるなら、ある特定の出会いの際、ある人が打ち出 した方針(その人が打ち出したものと他人たちが想定する方針)にそって、そ

227 ゴッフマン, 儀礼としての相互行為―対面行動の社会学.

の人が自分自身に要求する積極的な社会的価値、ということになるだろう。」

228

一方、その面子に被害が起きる場合は、つまり偶発的に事が起きて、その人間関係が壊 されている場合には、修正プロセスが必要である。「その際に参加者の中に礼儀としての 不均衡・不名誉の状態にいる人が一人ないし複数いるわけで、その人たちにとって満足で きる儀礼的状態を改めて確立させる試みが必要になる」229

Goffman によると修正プロセスは、三つの重要な部分に分けられる。それは報告と謝罪

と要望である。修正の一つには謝罪がある。謝罪するときに、謝罪者は自分を二人に分解 され、一人の自分は罪を感じて、責任も感じる。一方、もう一人の自分では、犯罪行為か ら解離し、被害者に距離を置く230

Goffmanの理論を踏まえて、Schonbachは遺憾の感情と補償金の提供によって、恥の受

け入れ方が二つに分けられると述べた231。更に、Schlenker は「無罪の防御」「弁解」

「正当化」の三つに報告を分けた。その中で、「無罪の防御」は事件が起きていないこと を前提にするか、あるいは責任が持てないことを条件に232。一方、Meier によると、修正 プロセスで責任を断言するではなく、前提条件として推測されるように考えるべきだ233。 つまり、謝罪会見は自分のイメージをを訂正するために行い、その行為の中に責任が含 まれているかどうか学者によって意見が異なる。

言語学的側面における謝罪

社会学者は、謝罪が人間関係をどのように変化させるのか、動かすのかに注目するが、

言語学者は、表現の使い方を研究する。言語学者によると謝罪はスピーチ・アクト234であ り、視聴者は潜在的に妨害にかかわった時、サポートを提供する意図で行う。謝罪をする

228 Ibid., 5.

229 Ibid., 18.

230 Goffman, Relations in Public, 113.

231 Benoit, Accounts, Excuses, and Apologies. Ibid.

とき、謝罪する側は恥を感じて、自分の行動に対する失敗と責任を認める。謝罪を行って、

謝罪が認められて、謝罪者が許されて、何も起きてなかったように人生を続けたいという 要求が(謝罪する側には)ある235

謝罪は謝罪者の積極的な面子236にダメージを与える行為である。一方、被害者の面子に 対する消極的な演技でもある。謝罪は二重の構造で、消極的な丁寧構造と積極的な面子に ダメージを与えるものである。謝罪者の目的は、自分の積極的な面子のダメージを最小限 にすることである。一方、被害者の目的は、謝罪者に対して明白な謝罪を強制させること である237

謝罪は5段のセットで構造されている。

1、 IFID(Illocutionary Force Indicative Device)には、謝罪の慣例と定式化 された形が含まれている。遂行的な動詞を使いながら謝罪を表す。

2、 謝罪者が責任を取ることに対する表現 3、 説明

4、 修正に対する提供 5、 辛抱の約束

また、Holmesによると、謝罪はA者とB 者の間のバランスを戻すための行為である。

謝罪する時にA者は責任を取る。謝罪に必ず含まなければならないのは

① 謝罪行為

② AはBに罪を犯した意見(自供)

③ Aは自分の行為に対して責任(自責)

言語学者は、謝罪を被害者に対して行う面子支持行為として見ているが、社会学者は謝 罪者のイメージ回復の道具として謝罪を見ている。面子に対するダメージは謝罪者と被害 者の間に起きた事件との関連ですでに存在するが、謝罪が行われない場合、そのダメージ

235 Olshtain, Apologies across Languages.

236 Goffmanの文献では面目と呼ばれているものと同じ

237 Brown and Levinson, Politeness.

はもっと大きくなる。謝罪するときに積極的な面子に対するリスクはなく、積極的な面子 に対する回復の試みのみある238

法的場面の謝罪定義

クライシス・コミュニケーションの中で最も難しい方略を持っていおり、議論の余地が ある行為は謝罪である。それは、謝罪の二つの種類を区別することができる。。一つ目の

「全面的謝罪」はクライシスの認識を認めて、必ず責任も含めて、関心と遺憾を表示され て、もう二度と行わないという約束も含まれている複雑な行為である239。一方、「一部的 謝罪」は関心と遺憾を表示するのみの行為である。なぜこの二つが存在するのかは、法的 な負債の有無による。責任を負っていると訴訟を起こし、裁判で補償金を払わせることに なる。一方、感心と遺憾のみの謝罪は責任を含まれていない。ということで、「謝罪」と いう定義を使う時、「全面的謝罪」あるいは、「一部的謝罪」を指しているのかを区別し ないといけない240

Coombs の研究に基づき、筆者は責任を二つに、「道徳責任」と「法的責任」に分けた。

「法的責任」は Coombs の「全面的謝罪」であり、謝罪の中に債務的な責任も含まれてい る一方、「道徳的謝罪」は Coombs の「一部的謝罪」であり、財務的な責任は含まれてい ない。

筆者は本論文では、主に社会的と法的な謝罪の定義を使い、責任を負わされているのか、

否かによって謝罪を区別している。次に、日本人はどの定義に基づく謝罪を使っているの か、謝罪に対してどのような気持ちを持っているのか調べる。

(2)謝罪と文化圏

日本の謝罪の特徴

聖徳太子が 604 年に制定した十七条の条令は、和の精神を基とし、儒教・仏教の思想を 調和して、諸人の従うべき道徳を示したもので、

Holmes, Apologies in New Zealand English.

和をもって尊しとなす=和を必ず守ろう!不調和を避けよう

は、日本人の心情の根幹を成している。

論理的な口論より日本では義理(行動ルール)と人情(感情)が大きな役割を持つ。

裁判に呼ばれることは、日本では恥とされ、日本人にとって法的行動は人間関係を壊す と考えられている。これを避けるため、事故をした人は謝罪し、事故にかかわった人は法 的動きをしない241。一方、この行動のもう一つの意味は、「ごめんですめば、警察はいら ない」ということでもある。つまり、「許してください」というのは、単語の意味からす れば、「責任を追及しないでください」「なかったことにしてください」という意味も含 まれている242

それをメディアの謝罪会見で考えてみると、いったん謝罪会見をして、それが終わって しまえば、もう事が済んだかのような感じになっている。具体的な責任の取り方もあいま いなまま、ただの儀式として行ったテレビの前だけの謝罪会見ではないかと批判される243。 これを分かっているから、メディアの「まず謝れ」という表現は、「責任を取れ」とは全 く違うということが明らかになる。

謝罪の中でよく「世間様をお騒がしてしまい申し訳ございません」と言われているが、

「世間様」とは誰か。結局、日本の謝罪は誰に対して行なわれているのかという批判が残 る。

多くの国では、他民族が一緒に住んで、伝統的価値観が同質ではなく、その国の道徳的 な基準として宗教が考えられている。しかし、日本の場合は、「神」だけではなく「世間」

が共通の道徳標準として置かれているわけである244。このことにより、公的な謝罪の時に、

「『世間様』をお騒がしてしまって、申し訳ございません」という表現がよく使われてい る。「世間」というのは、観念的な社会として思われているのだろう。

241 Kondorosi, Maros, and Visegrády, A Világ Jogi Kultúrái, a Jogi Kultúrák Világa.

242 新谷, 日本人はなぜそうしてしまうのか.

243 Ibid.

244 岡本, 世間様が許さない!――「日本的モラリズム」対「自由と民主主義」.

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