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公開から ‟ メディア謝罪”へ

ドキュメント内 社会的機能としてのメディア“謝罪” (ページ 59-63)

第 2 章 日本における謝罪の変容

第 3 節 公開から ‟ メディア謝罪”へ

(1)メディアの立場の変化

しかし、次第に「公開謝罪」を開くのが困難なケースが増えてきた。それは、世の中に は企業などが被害者に直接謝ることができないケースが多いからである。例えば、大勢の 被害者、あるいは被害者を特定できない場合は「公開謝罪」というかたちでは行えなかっ たので、謝罪者がメディアを通して被害者に対して謝罪するという「謝罪会見」の形が生 まれたと考えられる。被害者を特定できない場合は、謝罪者はメディアを利用して、視聴 者全員を被害者として扱い、視聴者は観察者ではなく、潜在的な被害者の立場となる。今 まで「公開謝罪」を外から見ていた視聴者は自分たちも潜在的な被害者として「謝罪」に 含まれることとなる。

10.産経新聞オンライン版42

つまり、「謝罪会見」ではテレビニュースの視聴者が被害者として考えられることで、

メディアの立場も変化する。メディアは視聴者を代表して、メディア自身も被害者の立場 に入った。これまで「謝罪」を利害関係の外から見ていたメディアが、事件を被害者の視 点から見るようになったのである。それは、日本人全員が被害者になるような場合、報道 関係者も潜在的な被害者になるばかりでなく、被害者の代理人となり、事件に対する怒り を表明する形になったのである。

このような原因から考えて、メディア・イベントの「謝罪会見」が登場したと考えられ る。「公開謝罪」と「謝罪会見」の間には、大きな違いがある。「公開謝罪」では謝罪者 と被害者の私的領域にメディアが立ち入っただけなので、誰に対して謝るかを視聴者は容 易に理解できる。しかし「謝罪会見」では、メディアが被害者のいわば代理人として現れ、

謝罪者は会見に出席している記者側へ向かって謝るため、被害者の映像がないことで、誰 に対する謝罪なのかが一見不明確である。

(2)写真アングルによる誤解

11.1産経新聞オンライン版43 11.2 産経新聞オンライン版44

上の写真は、ファミリーレストラン「サイゼリヤ」の社長と関係者の「謝罪会見」45を2 つのアングルから撮った写真(写 11.1、11.2)である。左の横から撮った写真では、手、

目、顔の表現がよく見える。右の真正面から撮った写真では頭のてっぺんのところしか見 えない。もちろん、記者会見で撮影する位置が決まっているし、大勢の取材陣がいる場合 は思うようにいかないこともあるから、意図的とは限らないが、二つの写真のメッセージ はかなり違うと考えらえる。

筆者は「謝罪会見」を写真のメッセージによって二つの種類に分けた。そのひとつは、

謝罪者が真正面から撮影され、頭を下げている姿が正面から見えるケースである。もう一 つは、謝罪者が横から撮影されているケースである。横からの撮影は、謝罪者のさまざま な行動がよくわかるために多くなっている。その時、謝罪者の前に記者がいるということ を意識できるが、誰に対して謝っているかは分からない。「公開謝罪」とは似たような写

43 http://sankei.jp.msn.com/photos/life/lifestyle/081021/sty0810211135004-p1.htm 2010.01.10.

44 http://sankei.jp.msn.com/photos/life/lifestyle/081021/sty0810211135004-p5.htm 2010.01.10.

45 イタリア料理のファミリーレストラン「サイゼリヤ」で販売されたピザの生地から有害物質メラミンが

検出された理由で謝罪した。

真だが、相手の被害者が映っておらず、構成がわかりづらい写真として考えられる。一方、

右の写真は頭のてっぺんしか見えないが、私、つまり視聴者に対して謝っているように感 じる。つまり、私、視聴者が被害者となっているように捉えられる。このように写真、あ るいは映像を撮ったアングルによってそれを読み取る読者、視聴者の印象も変わるだろう。

(3)視聴者―謝罪者―メディアの立場変化

視聴者の目線から「謝罪会見」を見ると、この行為は不思議に感じられる。なぜ不思議 に感じるかというと、横から謝罪者が映っている場合は、被害者が映っておらず、謝罪者 は誰に対して謝っているかが分からないからである。一方、写真を真正面から取っている 場合は、「どうして私に対して謝っているのか」と考えられ、どちらも不思議に感じる。

事件とは無関係な人にとって、無理やり私的な謝罪行為に入れられている感じがする。こ れは写真だけの問題ではなく、自分が被害者ではないのに、被害者として扱われているこ とが間違っているだろう。

しかし、謝罪者の目線から「謝罪会見」を見てみると、不祥事を起こした場合は、社会 すべてに、同時に謝ることができるのが楽なところである。被害者に 1 人ずつに「ご迷惑 をかけしまして、申し訳ございません」というより、一回で完璧に、感情的に気持ちを伝 えれば謝罪のプロセスを終わらせることができる。演技のように考えると、毎日舞台に立 って同じ演技をやるより、生放送のように一回だけで終わらせられるとも考えられる。し かし、その生放送を完璧にしないと、修正することができず、注意が必要である。そのた めに第1章で説明した謝罪トレーニングが生まれてきたのだろう。

最後にメディアの目線から「謝罪会見」を見てみると、メディアにとっても「謝罪会見」

は楽なイベントである。メディアが視聴者の立場を代表し、『水戸黄門』の黄門様の役を 担っているのである。つまり、謝罪者に許すかどうかをメディアが判断する。なぜこのよ うになったかというと、「公開謝罪」では、謝罪者と被害者は直接会っていたので、被害 者は自分で許すか許さないかを判断できた。一方、「謝罪会見」では被害者と謝罪者は直 接会えないので、メディアは現場で被害者の役を演じる。メディアは「国民の目」として 動き、謝罪者と直接会って、視聴者の視点で謝罪を見、視聴者の代わりに反応する。この ために本当は直接利害のないメディアが謝罪者を視聴者=謝罪を受ける側の強力な力を背 景にし、厳しい目で見、許すか、許さないかを判断するのである。

つまり、謝罪者の役以外は、被害者とメディアの役が入れ替わったために、視聴者は

「謝罪会見」を不思議な存在として考えてしまうのだろう。

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