• 検索結果がありません。

教育に関係する探求の問題

ドキュメント内 教えと学びの認識論 (ページ 49-52)

本節では、探求のパラドックスの解決を目指したこれまでの考察についての検討から 分かる、探求に関係する教えと学びに関する発見について評価し、そのうえで、教育に 関係する探求の問題を同定する。

これまでの考察から、探求に関係する教えと学びについてどのようなことがわかった だろうか。それは、教わることと学ぶことはそれぞれ、探求される問題に関連する内容 を知る異なる方法であるものの、教えと学びそれぞれに固有の問題がある、ということ

50 2章 探求のパラドックスを再考する

である。

それぞれの問題について説明しよう。まず、これまで発見されたことのない新たな知 識を獲得するための探求に従事する場合、われわれはみな学習の初心者であらざるをえ ない。学びに関する問題とは、われわれが初心者として臨む新たな探求において、初心 者は、目標の知識獲得につながる内容をあらかじめ意図的に選んで知ろうとすることは できない、ということである。そのような奇跡的なことをなしうるのは、まだ知られて いない探求の目標に至るプロセスをあらかじめ見通しうる超越的な力をもつ者だけだろ う。他方、教えは、探求される問題に関連する内容を、教える者の意図したとおりに伝 えることができる。しかし、教えの問題は、そのように意図的に選択して伝達できる内 容は、その教える者によってすでに探求されたことのある問題に関するものに限られる、

ということにある。

まとめるなら、学びは、探求される問題に関連する内容を、学習の初心者が知る方法 ではあるが、探求の目標の知識獲得につながる内容のみを、あらかじめ意図的に選んで 知ろうとすることはできない。他方で教えは、目標の知識が教える者にすでに知られて いなければならない。そのため、新しい問題に対する探求の場合、教える立場にある者 は存在せず、われわれはみな学習の初心者である。

ここからは、このような教えと学びについての発見から言える、実際の探求と、教え と学びとの関係について考えよう。

まず言えることは、親や教師が子どもに命題知を教えることそのものは、学習の初心 者が、多くのことを知るために役に立つ、ということである。探求の初心者としての子 どもは、さまざまなことを無作為に大量に教わる中で、後にみずから行うかもしれない 探求に関連する内容をも、意図せずに教わることになる。この段階を「初期の(認識論 的)段階」と呼ぼう。おそらく、幼少期から学童期の多くの子どもがこのような段階に いるだろう。

この段階で子どもは、関連する知識を他者の証言から教わることで、探求の端緒にお かれる最初の問題を立てることができる準備をする。言い換えるなら、初期段階は、子 どもがみずから探求を始めることを可能にする段階であると考えられる。

次に、初期の認識論的段階が終わると、われわれはそれが知識獲得につながる内容か どうか判断のつかないままに、さまざまな内容を自発的にも学ぼうとするようになる。

この段階を「自発的学びの(認識論的)段階」と呼ぼう。この段階での学びを通じてわ れわれは、結果的に探求される問題に関連していたと後から分かる内容を、そうとは気 付かぬうちに学ぶ。そして、このような仕方で知ることによって、探求の端緒において 最初の問題を立てたり、探求の過程で中間の問題を立てたりできるようになり、目標の 知識に辿り着くかどうかは分からないものの、とにかく探求を始め、進めるようになる。

自発的に学び始めたばかりの子どもは、まだ探求の目標の知識をいかにして知りうる のかについて見通すことができるような力はないだろう。この段階での探求は手探りの

状態である。たとえば、月が小さく見える理由は何かを調べるために、科学図鑑などを 調べるとヒントが得られるかもしれないということに思い至らないかもしれない。電車 が止まるとき体に感じる力が何かと疑問を抱いても、重力や遠心力などの概念を知らな いため、その疑問をどのように解消すれば良いのか分からないかもしれない。それでも、

このような疑問や問いをもつことと並行して、理科の授業の中で物理や地学に関する内 容を学び、うえの疑問や問いと関連するような知識を学んでいくことになるだろう。こ のようなことから、自発的に学び始めた子どもは、みずから探求をとにかく始め、進め ようとする一方で、結果的に後から探求される問題に関連していたと後から分かる内容 を、そうとは気付かないうちに知ることになると言える。

次の学びの段階は、子どもができるだけ理知的な仕方で探求を進めることに関わるも のである。子どもを含めてわれわれは、未知の知識を獲得するため、その知識獲得につ ながる内容を手探りで学ばなければならないものの、この手探りの学びは、必ずしもま ったく当てずっぽうであるばかりではない。たとえば、目標の知識を獲得するために知 らなければならない内容について、あらかじめ大方の予測をすることができる。電車が 止まるときに体に感じる力が何かという疑問を解消したいと思うとき、親に尋ねても答 えが得られなかったら理科の先生に尋ねようとすることができる。あるいは、近くの科 学館に足を運ぶこともできるだろう。

このように、理知的な探求者は、必要な場面で探求の目標の知識を、できるだけ信頼 できる仕方で、また、合理的なプロセスを通じて、獲得しようと振る舞う傾向性を備え ているだろう。もちろん、このような予測によって必ずしも知識を獲得することに成功 するとは限らない。だからといって、優れた探求者は、探求のきっかけや突破口を得る ために、目標の知識に対する見当もないまま探求するのではなく、目標の知識に至るた めに知らなければならない内容の範囲にあらかじめの見当を付けるし、探求の経過とと もに、その予測を変えていくだろう。

そうすると、自発的に学ぶ者には、より理知的な探求者とそうではない探求者という 区別があることになる。では、両者を区別するものは何だろうか。

多くの者を理知的な探求者とするものは、教育により後天的に習得されることである、

と考えられる。理知的な探求者とするものは、探求の目標の知識に関連する認知的内容 をあらかじめ意図的に選択できる力ではない。というのも、そのようなミラクルな力を もつと想定できるのは、超越者だけであったからである。さらに、学習の初心者を理知 的な探求者とするものには、その人の生まれ持った才能も含まれるかもしれないが、才 能の問題は、通常の環境において正常な発育をする子どもが、社会生活をするうえでよ り理知的な探求をするための要因とは別に考える必要があるだろう。

このようなことから、教育は、自発的に学び始めた子どもがより理知的な仕方で探求 するようになるための最も大きな要因であると考えられる。それゆえ、理知的な探求者 の育成の理念は、自発的に学び始めた子どもが理知的な探求者になることに関わると言

52 2章 探求のパラドックスを再考する

えよう。言い換えるなら、理知的な探求者の育成の目標は、自発的学びの段階から理知 的な探求の段階への移行をサポートすることにある。おそらく、実際の年齢では学童期 から青年期にかけての子どもが、このような教育の中心として想定されることになるこ とだろう。

ここで、理知的な探求者の育成という理念に関して、一つの疑問が生じる。それは、

子どもがより理知的な探求者となるために、教育を通じて習得されるべきこととは何だ ろうか、というものである。あるいは、自発的に学び始めた子どもを理知的な探求者に 育成することに関わる親や教師が、教えるべきことは何だろうか。この問題は、言い換 えるなら「子どもが、より理知的な仕方で探求を行えるようになるため、教育を通じて 学ぶべきことは何か」というものである。これは、理知的な探求者の育成に関わる、も っとも重要な問題の一つであると言えよう。

ドキュメント内 教えと学びの認識論 (ページ 49-52)