74 第4章 手本を見習うことで理由に対する感受性を養う
4.4 クリティカル・シンキング研究における理由と行為
のが、理由に導かれる要因を特定しているわけではないからである。批判精神とは、理 由の強さの評価に関わる理由評価という構成素とは対照的に、理由を考えようとする傾 向性や動機に関わるものであるとされていただけである。そうすると、たとえば、理由 を考えようとする動機の要因は情念ばかりとは限らないだろう。批判的に思考する傾向 性や動機の要因が何かは、別に考えなければならない問題であろう。それゆえ、批判精 神が情念と同一視されることを、あらかじめ想定することはできない。
このようなことから、以下の議論では、現在のクリティカル・シンキング理論で広く 見られる、理由評価と批判精神という構成素という区別を踏襲することにし、理性の領 域と情念の領域というカイパーの区別には従わないこととする。
以上を確認したうえで、シーゲルのクリティカル・シンキング理論に対するカイパー の批判をみてみよう。カイパーは、理性と情念と呼ばれる伝統的な区別に基づいて、シ ーゲルのクリティカル・シンキングの理論に対して、理性はわれわれの行為の動機に関 与しない、と主張する。
クリティカル・シンキングにおける理性の適切な役割は、論理―認識論的基準(普 遍性、公平性など)にしたがって理由を評価することであるため、理性だけでは、
われわれの動機や行為に影響を与えることはできない。たとえば、道徳的理由に従 って行為しようという動機はつねに、批判精神によるサポートを必要とする。(Ibid., p. 86)
まず、幾つかの前提を整理しよう。第一に、第二節の議論から、動機は、理由評価では なく、批判精神の構成素の中に含まれるものである。第二に、理由に従って行為しよう とする動機は、批判的に思考しようとする受動的傾向に関わるものである。第三に、そ れゆえ、理由によって行為するよう動機づけられることは批判精神をもつために必要で ある。うえの引用でカイパーが指摘しているのは、彼が「理性」と呼ぶものは、批判的 思考者であるために必要と考えられる、以上のような動機に関与しない、ということで ある。
この指摘は、カイパーが「理性」ということで何を意味しているのかによって、その 解釈が変わる。第一に、「理性」は、理由評価の構成素のことである、と解釈されうる。
この場合、カイパーがうえの引用で指摘しているのは、理由評価の構成素は、批判的思 考者の動機の側面と無関係である、ということになるが(ibid., p. 87)、このことは、前節 の議論から、現在のクリティカル・シンキング理論が述べていたことである。
この解釈のもとでのカイパーの批判は、理由評価の構成素は、批判的に思考しようと いう動機に対して不活性であるため、「理由評価と批判精神の構成素の間に内在的、、、
関係を 打ち立てるような、クリティカル・シンキングに関する単一の、、、
理由概念」(強調原著, ibid.,
p. 88)が必要である、というものである。この批判は、「内在的関係」という語の意味は、
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おそらく、「理由評価と批判精神が、一方が機能するときには、かならず他方も機能しな ければならない」というものである。簡単に言えば、両要素はつねに連関し合わってい なければならない。
しかしながら、このように解釈されたカイパーの批判は、シーゲルの議論だけに対す る批判とは言えないだろう。すでに述べたように、子どもを理由評価と批判精神の両方 を連関させるような批判的思考者に育てることは、クリティカル・シンキング教育が目 指すべき一般的な理念である。(4-1) や (4-2) において規定されていたように、理念的な 批判的思考者とは、理由のもつ証拠力を評価することに卓越し、かつ、その理由に導か れる者のことであった。シーゲルが、このような理念があることを認めながらも、それ があくまでも理念に過ぎないと付け加えていた理由は、クリティカル・シンキングの理 由評価と批判精神の二つの構成素はかならずしも両方が一緒に機能するとは限らないと いうことを認めざるをえないだろう、ということにある。たとえば、理由の評価に卓越 した能力をもつ者でも、その能力を必要とするときに批判的に思考しようとしないこと がある。
それゆえ、カイパーの批判を、「理由評価と批判精神は、一方が機能するときには、か ならず他方も機能しなければならない」というものと解釈したとき、カイパーの述べる ことは、シーゲルの議論に対する特有の批判ではなく、いかにして理由評価と批判精神 が連関するように子どもを育成することができるのかという、クリティカル・シンキン グ教育全体に対する一般的課題である、と言えよう。
再び、シーゲルのクリティカル・シンキング理論に対するカイパーの批判に戻ろう。
カイパーの批判についての第二の解釈は、「理性」は信念、判断、ないしは行為を基礎づ ける特定の理由を指示している、というものである。この解釈によれば、カイパーの批 判は、「シーゲルのクリティカル・シンキング理論の中で解釈されるように、理性は動機 に対してだけでなく、規範に対しても不活性である」(ibid., p. 86)というものとなる。以 下の議論では、規範に関しては扱わず、動機に議論の的を絞って検討しよう。カイパー の批判を言い換えるなら、理由は行為の動機要因となりえない、ということになる。
この批判に対して、シーゲルは、理由は行為の動機要因となりうるものであるが、必 然的にそうであるわけではない、と返答する。より具体的には、
対照的に私の考えでは、理由は動機づけうるものであり、それゆえ、必ずしも動機 に対して不活性であるわけではない。私はただ、そうする理由にのみ基づいて行為 するかもしれない(たとえば、そのように行為するのが私の義務であると認識して いるということを理由に、そのように行為するなど)。(Siegel, 2005b, p. 538)
他方で、シーゲルは次のように続ける。
カイパーが説明するカントの考えとは異なり、私の考えでは、行為することに対す る良い理由は、そのように行為しようとする動機づけとならないかもしれない。(中 略)私の考えは、ヒュームの考えと異なり、理由は動機要因となりうることを認め る点で、ヒュームが想定したような「動機に対して不活性である」のではない、と いうことになる。また私の考えは、カントの考えとも異なり、理由が動機づけとな らないことがあり、そのため、適切な評価に従って行為をすることを保証するもの ではない、ということを認める点で、カントが想定したような「動機に対して強固 な力がある」のでもない。(Ibid., p. 539)
じつは、第三節で、理由は証拠力のほかに規範的効力をもっていることが説明されてい たことを思い出すなら、シーゲルが、理由は行為を動機づける要因となると考えるだろ うことは自然に予測されることであるが、そのうえで、上の引用では、そのことを新た に確認したうえで、適切な理由が必ずしも行為するよう動機づけるわけではないと付け 加えられている。13
そうすると、上の引用からまず確認できることは、シーゲルの合理性に対する考えを
「ヒューム的な道具的合理性」と同型と解釈したうえでのカイパーの批判は、シーゲル の考えを誤解していることである。次に、そうは言いながらも、カイパーの批判が正鵠 を射ていないとしたとしても、理由と行為の動機との関係に関するシーゲルの立場が正 しいということにはならないことである。その理由は、シーゲルはなぜ理由が、行為を 動機づける規範的効力という特徴をもつのかを説明していないことにある。
うえのシーゲルの考えが正しいかどうかの検討は保留にせざるをえないが、このよう な説明がないことは、ある意味では理解される。というのも、シーゲルがカイパーの批 判に応答して自身の立場を明確にしている理由は、批判精神は、理由評価とともにクリ ティカル・シンキングの概念の構成素である一方、規範的効力は証拠力とともに理由の もつ特徴であるということを明確にすることにあるからである。これまでの議論の中で シーゲルが、理由と行為の動機との関係について独自の理論を打ち立てることを意図し ているわけではない。
では、理由と行為の動機との関係の問題は、クリティカル・シンキングの研究という 文脈において、いかに扱うべきなのだろうか。私の考えは次の通りである。まず、批判 精神に関する問題を扱う文脈では、理由そのものが行為を動機づけることがあるという 考えは自然な想定であるだろう。たとえば、次の事例を考えてみよう。
例2
花子さんは、スコットランドの独立の是非を問う国民投票を前に、スコットランドの 政治経済の状況をみずから調べ、現時点では独立しないメリットが大きいと思われる 証拠や理由を見つけ、独立反対に票を投じる。