まず、第五節で提示された動機に関する問題とは、「理由に対する感受性がまだ発達して いない子どもにとっての、批判的に思考しようという動機要因は何でありうるのか」と いうものであった。この問題の回答は次の二つの条件を満たすものではなければならな い。すなわち、一つ目の条件は、子どもがしかるべき状況で、親に指示されることなく 批判的に考えるよう動機づけられる必要がある、というものである。二つ目の条件は、
小さい子どもにとっての批判的に思考しようとする動機要因は、理由以外のものでなけ ればならないというものである。(4-3) および(4-4) から言えることは、次のことである。
メディアを用いて理由を魅力的な仕方で提示することや、子どもを理由が交わされる対 話に参加させることで、子どもに十分な強さの情動や感覚を喚起することができる。さ らに、そのような仕方で生じる情動や感覚は、理由に対する感受性の発達していない子 どもを含めて、みずから批判的に考えようとする動機要因の候補となりうる。
その一方で、感覚される理由についてのシーゲルの議論では扱われていない重要な問 題が残っている。それは「子どもが批判的に考えようと促しうる情動や感覚が具体的に は何か」という問題である。それゆえ、(4-3) および(4-4) を認めたうえで、情動や感覚 が、子どもにとっての批判的に考えようとする動機要因となることを論証するためには、
批判的に考えようとする動機要因となりうる具体的な情動や感覚を特定すること、およ び、その情動や感覚が批判的に思考しようとする動機要因となると言える根拠を示すこ とが必要となる。
私は、そのような情動や感覚として、合理性を示す手本に対する敬慕という情動を考 える。次節では、この考えを明確にして、動機に関する問題に対する私の回答を与えよ う。
84 第4章 手本を見習うことで理由に対する感受性を養う
ということである。ここで「批判的に思考するとはいかなることなのかを示す」とは、
批判的に考える思考過程や、それに伴う振る舞いや態度を示すことである。批判的思考 に、推論や理由の証拠力の評価に関わる思考過程だけでなく、振る舞いや態度も含まれ る理由は次の通りである。第一章第二節の(1-8)の探求の特徴で述べたように 、探求は共 同でも行われる。それゆえ、批判精神をもつためには、批判的対話において他者と共に 理由について考えようとする姿勢も必要となるだろう。たとえば、Burbules (1995, pp.
88–90)は、道理(reasonableness)には、議論の中でうまく意見を交わし合う能力が含まれる ことを指摘している。同様に、自分と対立する主張や異なる経験を背景とする相手の立 場に敬意を払う態度も挙げられよう(cf. Scheffler, 1973, p. 64)。17
手本を示されることで、子どもは批判的に思考するとは、おおよそどのようなことな のかを了解することができる。Elgin (1991, p. 199) によれば、具体例は、それによって例 化される特徴に対する「認識論的アクセス(epistemic access)」を与える。このことに基づ くなら、理由の提示の仕方を描く小説や映画を通じて、あるいは、理由が交わされる実 際の対話によって、子どもは合理性という特徴に対して認識論的にアクセスすることが できるようになる、と言える。
ここで、合理性の手本を示すという学習方法は、推論能力など、理由の証拠力を適切 に評価する能力を培うためには不十分ではないかと思われるかもしれない。たしかに、
妥当な推論に習熟することなど、クリティカル・シンキングに精通するためには、子ど もの成長に応じて、より複雑な問題を回答させるなどの教育が求められよう。それでも、
理由の提示の仕方を描く小説や映画を見ることや、理由の交わされる対話の中に参加す ることは、小さい子どもに、批判的に思考しようとするとはおよそどのようなことなの かを了解することにつながるだろう。ここで「批判的に思考しようとするとはおよそど のようなことなのかを了解する」とは、理由のもつ証拠力を了解し、規範的効力を感じ るようになる、ということである。子どもが小説などの事例を通じて学びに従事するこ とは、やがて理由の証拠力をより精確に評価できるようになることや、より多くの適当 な状況において理由の規範的効力に導かれるようになるための準備になる、と思われる。
以上のことから次の二つのことが言える。一つ目は、小さい子どもにとって、メディ アの中の登場人物は、批判的に思考する思考過程や態度など、それぞれ異なる点で合理 性を示す手本でありえる、というものである。小説や映画などのメディアの中の登場人 物が理由をやり取りし合う過程やその振る舞いや様子についての描写や物語は、子ども に、批判的に思考するとはおおよそどのようなことなのかを提示する適当な材料となり うる。そのようなメディアの中の登場人物は、まだ理由について考えることに慣れてい ない子どもにとって、合理性を示す手本とみなされうる。
二点目は、教師や親もまた、理由についての対話を通じて、子どもにとっての合理性 の手本となりうる、ということである。たとえば、子どもに小説や映画が与えられるだ けでは、その子どもは、登場人物が合理性の見本という認識論的役割を担っていること
に気付かないかもしれない。このようなとき、小説や映画のようなメディアにおける登 場人物が合理性の手本であることは強調されなければならない(Warnick, 2008, pp. 37–40)。
たとえば、教師や親は、子どもと一緒に、小説や映画の中の理由を明確にし、それらの 理由が説得的かどうかを検討し、より適切な別の理由がないかどうかを考えようとする ことができよう。さらに、親や教師がみずから批判的に考える良い振る舞いや態度を示 すこともできるだろう。このことは、親や教師も子どもにとっての合理性の手本となり うることを意味する。このような仕方で、子どもに批判的に思考しようとするとはどの ようなことなのかを了解させる手助けをすることができる。
では、合理性を示す手本は、いかにして子どもに手本を見習うように促すことができ るだろうか。現在の文脈において「手本を見習う」とは「子どもが批判的に思考する」
ということであるから、この問題は「合理性の手本を示された子どもに批判的に思考し ようと動機づける要因は何か」という問題に等しい。この問題に回答するために、第六 節の考察から明らかになった(4-4)、すなわち、「理由の提示の仕方がわれわれにおいて情 動や感覚を喚起することがある」ということを利用しよう。もし小説や映画、あるいは、
実際のやり取りを通じて理由が提示される場面で、合理性の手本がわれわれに情動や感 覚を喚起するなら、それは、子どもに批判的に思考するよう動機づける要因と考えるこ とができるはずである。
手本としての登場人物や教師や親は、子どもに彼らや彼女たちを慕う情動を子どもに 呼び起こすことができ、そのような情動は手本を見習いたいという欲求の原因とみなせ ると考えられる。まず、この敬慕という情動と手本を見習いたいという欲求との関係に 関して、道徳学習との類比を用いて説明しよう。Olberding (2012) は「敬慕は、概念的に、
われわれを動機づける情動のことであり、慕う対象のようになりたいと思う欲望をあら かじめ含めて、われわれを惹きつけるものである」(p. 64) と述べている。たとえば、道 徳的な人を慕うということで、その人を手本として、その人の道徳的振る舞いや態度を 見習いたいという欲求を喚起させることができる。
うえのようなことは、合理性の育成における、敬慕という情動の役割にも当てはまる だろう。子どもは合理性の手本を示す登場人物や、教師や親を慕うことで、彼らや彼女 たちを見習いたいという気持ちを抱くことがある。現在の文脈では「見習う」とは「批 判的に思考する」ということであるから、見習いたいと思うとは、批判的に思考したい と誘われることである。
ここで、いくつかの心理学研究によれば、手本に対して慕うという情動は、われわれ を更に学ぶよう動機づけることができる(e.g., Algoe & Haidt, 2009; Haidt & Seder, 2009)。 このことから、理由をうまく提示することで、子どもに手本に対する敬慕という情動が 生じうると言えよう。それゆえ、手本を慕うという情動によって、子どもは批判的に考 えるよう動機づけられることがあると言える。言い換えるなら、合理性を示す手本に対 する敬慕の情動は、子どもが批判的に思考しようとする動機要因となりうる。