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手本を見習うことで理由に対する感受性を養う

ドキュメント内 教えと学びの認識論 (ページ 113-116)

:シーゲルの感覚される理由という概念を批判的に応用する

1 クリティカル・シンキング研究についての概要を知るためには、Bailin et al. (1999) お よびBailin and Siegel (2003) を参照できる。

2 シーゲルの教育哲学の立場について簡単に説明しよう。シーゲルは、現在のクリティ カル・シンキング教育につながる、合理性の育成を教育の理念とする立場である。こ の立場は、シェフラーの考えを基本的に踏襲したうえで、本章第二節で述べるような、

合理的に考えるための傾向性や性格特性の重視など、合理性の育成の議論においてそ れまで軽視されていた部分に焦点を当て、発展させている。

教育の哲学におけるシーゲルの議論に特徴的なこととして少なくとも二つ挙げるこ とができるように見える。一つ目は、或る主張を擁護するための、説得的な理由を提 示する能力という意味での合理性は、さまざまな文化や社会を超えるという意味での 超越的な概念であることを主張している、ということである。このような主張の背景 には、近年、多文化教育が強調されるようになり、合理性の育成との関係が問われて いるということにある。その中には、合理性を強調する教育は西洋中心の考えに基づ いたものに過ぎないこと、それゆえ、合理性の育成は多文化の教育の中の一つ過ぎな い、という批判も含まれる。問題は、この批判が妥当なら、その帰結として、合理性 の育成を教育の理念とすることは或る文化の中で正しいが、別の文化の中ではそうで はないと思われることにある。このような多文化教育の主張に対してシーゲルは、あ る点に同意し、別の点に反対する(Siegel, 1999a; 2007)。この細やかな論証から成るシー ゲルの立場をきちんと理解し、批判的に検討することは、これからの教育の哲学の課 題となるだろう。

二つ目は、議論を明確にするために必要な限りで、関連する他分野の哲学の議論を

114 註

積極的に参照しようとすることである(Siegel, 2009)。関連する概念について他の分野 の哲学で明確にされているなら、教育に適用できる範囲でそれを参照することは、用 いられる概念や議論の筋道をより明確にするために役立つだろう。

3 シーゲルのクリティカル・シンキング理論に関しては、Siegel (1988) を参照。また、

いくつかの批判から擁護する議論に関しては、Siegel (1997, 1999, 2001, 2005a, 2005c) を、合理性の育成における情動の役割など、いくつかの側面に関する、その後の理論 の発展に関しては、Siegel (1997, 2012) を参照できる。

4 本稿で「子ども」というのは、中学生ぐらいまでの子どもが想定されている。本稿の 議論がどのような年齢の子どもに適用されうるのかを詳しく規定するためには、発達 心理学など関連する研究の参照が必要となるだろう。

5 以下で示すように、敬慕の情動に関する主張を論証するために私は、関連する心理学 研究を踏まえる。

6 近年、合理性と情動との関連性について論じる哲学研究がいくつか見られる(cf.

Greenspan, 2004)。また、敬慕の情動など、社会関係に関係する情動が与える動機への

影響についての研究が心理学研究において始まりつつある(e.g., Algoe & Haidt, 2009;

Haidt & Seder 2009)。

7 Passmore (1967, pp. 195–7) において、「批判精神」という語は、良い思考者であるため

の性格特性を指すために用いられている。批判精神の構成素に関する名称や説明は、

研究者によってさまざまである(cf. Bailin et al., 1999)。本稿では、シーゲルの用語法に 従う。

8 批判精神という構成素の重要性に関する別の議論として、Ennis (1986) およびPaul

(1982)を参照できる。たとえば、Ennisは、オープン・マインドや、結論を出す前に別

の帰結があるかチェックしようとする傾向性など、13種類の傾向性を挙げ、批判的思 考者であるために、正しい推論など必要な能力やスキルのほか、これらの傾向性が必 要であると主張する(1986, p. 16; p. 24)。後で私は、批判精神の構成素は、批判的思考 者の品性に関係するものである、ということを説明する。

9 この詳細な分析や正当化に関しては、たとえば、Scheffler (1973)、Siegel (1988, Chapter 3)、あるいは、Bailin and Siegel (2003, p. 189) を参照のこと。

10 クリティカル・シンキング、真理、および、教育の間の関係に関する、重要な認識論 的問題の一つに、「クリティカル・シンキング教育は、学習者が真理を得るという目的 のための手段にすぎないのだろうか」というものがある。この論点に関して、たとえ ば、この考えを支持するGoldman (1999, Chapter 11) と、その考えに批判的なSiegel

(2005c) との間で立場が異なる。Goldman (1999) は次のような明快な立場を取る。「(シ

ーゲルのような)多くのクリティカル・シンキング擁護者と異なり、私はクリティカ ル・シンキングをそれ自体で認識論的目的とはみなさない。クリティカル・シンキン グないし合理的推論は真なる信念獲得という基礎的な認識論的目的のための有用な手、 段、

である」(p. 363)。Siegel (2005c, p. 348) は、クリティカル・シンキングは、真理獲得

のための手段としての価値があることを認めたうえで、それだけでなく、真理獲得の 手段とは別の点で教育的に基礎的なものであることを主張している。

11 このパラグラフにおける議論が示唆するのは、批判精神は、クリティカル・シンキン グに関係する、良い性格特性に関連するものである、ということである(Siegel, 2008)。 クリティカル・シンキングに関係する、良い性格特性の育成に関する議論については、

Battaly (2006) を参照できる。

12 カイパー(2004) は、クリティカル・シンキングに関するシーゲルの考えにおける、別

の点も批判しているように見える。しかし、以下の議論では、批判精神の中の動機の 側面に関する批判に議論の的を絞ることにする。

13 動機と道徳的判断との関係の議論と類比するなら、シーゲルの立場は、「動機的外在

主義(motivational externalism)」と呼ばれる立場に近い。その立場は、「道徳判断と動機

との関係はいかなるものであれ偶然的なものである」というものである(cf. Rosati, 2006, Section 3)。

14 Hank (2008) によれば、「カイパーとハジは、クリティカル・シンキングの動機に関す

る構成素について問題を立てている。彼らは、クリティカル・シンキングの動機の要 素、理由をやり取りし合う習慣、および、良い理由に基づく行為などもまた、教え込 み(indoctrination)とは別の方法で養われる必要がある、と主張している」(p. 196)。ただ し、ここで言及されている教え込みに関する問題は、本稿の主題と異なるため、扱わ ないこととする。

15 カイパーは、「批判的思考者の予備軍(a proto critical thinker)」から批判的思考者になる ための教育について議論している。批判的思考者の予備軍とは、動機に関する必要な 構成素に関しての自律性が欠けている者と定義される(Cuypers & Haji 2006, p. 724; p.

727)。いま仮に、カイパーが考えるように、理由が動機要因になりえないということ が正しかったとする。そうすると、ここでカイパーは、理由以外の動機要因となるも のについて問題を立てていると解釈することができるように見える。

すでに論じたように、理由のもつ規範的効力によるわれわれへの影響により、理由 はわれわれを更なる理由を考えるよう動かしうる、という想定はクリティカル・シン キングの文脈では自然なものである。この想定のもとで、動機に関する問題は次のよ うに定式化できる。すなわち、批判的思考者の予備軍である小さい子どもはまだ規範 的効力に敏感ではないが、そのような子どもはいかにして理由のもつ規範的効力に気 付き、批判的に考えるよう動機づけられうるようになるのだろうか、という問題であ る。

16 カイパーとは異なるアプローチに基づいて動機に関する問題を扱う別の理由がある。

カイパーは、シーゲルが提示する、感覚される理由に関して、それは動機要因の補強 にはつながらない、と主張する。感覚される理由が動機要因とならないというカイパ ーの主張は、クリティカル・シンキングについてのシーゲルの考えに対する批判を展 開する中での、註においてなされていることを考えると、この主張は、カイパー自身 の動機に対する理論の陳述ではなく、シーゲルのクリティカル・シンキング理論に対 する批判と見なすことが理に適っている。

しかしながら、私は次節で、感覚される理由という概念が動機の問題を論じるため の鍵となる、ということを論証する。そこで以下では、うえのカイパーの主張は、シ ーゲルの議論に対する批判としては失敗していることを確認したい。

感覚される理由についてのカイパーの論証をみてみよう。

理性だけでは、内在的な、、、、

動機の力は備わっていない。純粋な、道具的理性は動機的 に不活性である。シーゲルは、実践理性に情(affect)や感覚を組み合わせることで、

この困難に対処しようとしている。しかし、情動理性(affective reason)や感覚される 理由を持ち出して、純粋ではない実践理性へ向かおうとするシーゲルの方向性は、

二つの構成素から成る理論の中では、純粋、、

理性の評価構成素に関する、内在的動機 の力を補強することに役に立たない。(強調原著, Cuypers, 2004, p. 89)

ここでカイパーは、シーゲルの提示する感覚される理由が、理由を批判的に考えよう とする動機要因とならないと主張するものの、そのように言える理由を示していない。

うえのカイパーの述べる内容が、自分の理論の陳述ではなく、シーゲルのクリティカ ル・シンキング理論に対する批判であるなら、シーゲルのクリティカル・シンキング 理論では、感覚される理由が批判的に考えようとする動機要因とならないと言える説

ドキュメント内 教えと学びの認識論 (ページ 113-116)