博士学位論文
教えと学びの認識論
―理知的な探求者となるための条件 についての認識論的考察―
日本大学大学院文学研究科 哲学専攻
佐藤 邦政
2
まえがき
本研究は、教えと学びを中心とする教育についての認識論的探求の末の小さな成果で ある。「認識論」という言葉は、大まかには、知識の哲学分野のことを指すもので、教育 の認識論とは、たとえば、大人から子どもへの知識伝達の仕組み、赤ん坊や子どもの知 識獲得の在り方、あるいは、教えや学びの目的など、教えと学びという事象に関わる範 囲の中での知識に関する問題について哲学的に検討する分野のこととなる。
本研究の中で主に焦点の当てられる子どもは、通常、「学童期」や「青年期(とくに前 期)」と呼ばれる、小学生から中学生ぐらいまでの子どもたちである。このような年齢の 子どもは、親や教師から多くのことを教わり、やがて、教わった知識について疑問を抱 いたり、自分の体験から問いを抱き、その疑問や問いについてみずから探求するように なると考えられる。たとえば、夜空に光る月は豆粒のように小さく見えるのに、学校で 先生から「月はとても大きい」ことが教えられる。子どもは「どうして月は小さく見え るのだろう」とか、「本当の大きさってどうやって測るのだろう」という問いをもつよう になるかもしれない。
このように、とくに小学生から中学生の子どもはみずから疑問を抱き、そして、本を 調べるなどしてその答をみずから見出そうとし始める時期であるだろう。これが、「学童 期」や「青年期」と呼ばれる子どもが、理知的な探求者の育成という課題を扱う本研究 において想定される理由である。ただし、教えと学びに関する幾つかの個所に関しては、
必ずしも子どもの年齢を限定する必要はなく、実年齢に関わらず、みずから探求を始め、
探求に従事する人一般に当てはまる議論となっている。
さて、教育の認識論がどのようなものなのかについての詳しい説明は第一章に譲るこ とにして、ここでは、教育の認識論研究に従事する私の動機を簡単に述べよう。そうす ることで教育の認識論の研究内容がどのようなものなのかについてのイメージを掴んで もらえると思われること、そして、そのイメージを掴んでもらうことは、第一章以降で 展開される、教育についての哲学的議論に関心を持ってもらううえで重要と思われるか らである。
本研究は、教育の文脈における知識の在り方を知りたいという気持ちを動機として行 われている。たとえば、他者との批判的対話を通じて新しくて重要なことを学ぶために、
どのような構えをとることが合理的なのだろうか。他者の批判を受容する態度は必要か もしれない。けれども、批判をすべて受け入れてしまえば、自分の考えや理論を放棄し なくてはならなくなってしまうだろう。納得いくと思われる理由に基づく自分の考えや 理論を大事にすることと、他者の意見や批判を受容することとの関係はどのようなもの であるべきなのだろうか。
日本大学において優れた哲学者に出逢えたことで私は、うえのような、教えと学びに
4 まえがき
ついての自分の疑問や問いについて哲学していいのだと少しずつ思えるようになった。
それからは、自分の関心に基づきながら、教育の認識論がどのようなものなのかを、一 つ一つの小さいテーマに関する議論を通して示そうとしてきた。
さらに、興味深いことに、研究発表や非公式のやり取りを通じて私は、このような探 求が、研究者とだけでなく、日常、教育の現場で教えや学びに従事なさっており、私と 似たような問題意識を持っていらっしゃる方と共有し合えるものであることに気がつい た。一例を示すなら、合理性の育成における情動の役割について、研究発表の場で、教 育の実践に従事している方からさまざまな意見や質問を頂けたことが挙げられる。たと えば、小学校の先生方から、驚きが一種の反応であるということについて「本当にそう いうことがある」といった感想をもらえた。そして、そのような方からは、理科の実験 で子どもが驚く場面など、より具体的な教室の場面の報告をして頂けた。
このような体験は個人的なものに過ぎないけれども、少なくとも、教えと学びにおけ る知識の在り方を知りたいという気持ちは、哲学者と現場で教えや学びに従事する方と の間で共有しえるのではないかと思う。そうであるなら、私は哲学者として、事柄を表 現するための言い得て妙な表現を探し、できるだけ明確な言葉で筋道の通った議論を通 じて、教えと学びについての哲学的探求を提示したい。これが、教えと学びについての 探求を、哲学という形で完遂しようとする私の動機である。
最後に、本研究は、教育の認識論の全体を提示するにはまだ十分とは言えず、今後、
本研究の中で扱われる、情動、動機、および、徳それぞれの意義について、より深くて、
新しい議論が必要になるだろう。それでも、本研究において教育の認識論のおおよその 全体像を提示することは、他者によってその議論が批判され、各自の考えや理論を洗練 させるための下敷きとして利用されうるという点で意義がある。ここまでで、教育につ いての認識論の漠然としたイメージを掴んでもらい、第一章以降の議論に対して関心を 持ってもらえたなら、この「まえがき」の役割は十分に果たされたことになる。
目次
第 1 章 教育の認識論の現状と本研究の位置づけ・・・・・・・・・・・・・7
1.1 目的と背景 7
1.1.1 教えと学びについての認識論的問題 7
1.1.2 本研究における認識論的研究の方法論の特徴 15
1.2 教育に関連する範囲での探求に関する問題設定 23
1.3 第2章以降の構成と概要 27
1.3.1 探求のパラドックスの議論の目的 27
1.3.2 理知的な探求者となるため学ぶべきこと:情動、動機、および、徳 31
第 2 章 探求のパラドックスを再考する・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 35
2.1 目的と背景 35
2.2 探求のパラドックスの議論の理解のために必要な前提 36 2.3 探求のパラドックスの議論の構成 38
2.4 探求のパラドックスの定式化 39 2.5 教えという観点の導入による回答 45 2.6 学びの想起説の検討 47
2.7 教育に関係する探求の問題 49 2.8 結語 52
第 3 章 教えと学びにおける認知的情動としての驚きの意義
:シェフラーによる情動の議論を批判的に再考する・・・・・・・ 53
3.1 目的と背景 53
3.2 合理性の育成を重視する教えと学び 55 3.3 認知的情動 59
3.4 学びにおける認知的情動としての驚きの役割 60 3.5 教えと認知的情動としての驚き 64
3.6 理知的な探求者となる条件としての情動的徳 66 3.7 結語 67
第 4 章 手本を見習うことで理由に対する感受性を養う
:シーゲルの感覚される理由という概念を批判的に応用する・・・69
4.1 目的と背景 69
6 目次
4.2 合理性の教育理念の中心としての批判精神 70
4.3 批判的思考者に関するシーゲルの考えとその評価 71
4.4 クリティカル・シンキング研究における理由と行為の動機との関係の問題 74
4.5 批判的思考者の動機の側面に関する問題 79
4.6 感覚される理由という概念の特徴と利点 80
4.7 手本を慕うという情動 83
4.8 結語 86
第 5 章 知的徳は良い問いを立てることにどのように貢献するか・・・・・87
5.1 目的と背景 87
5.2 ハイグレードな正当化された信念、ハイグレードな知識、および、探求 89
5.3 新しさと重要性という基準 90
5.4 良い問いを立てること 93
5.5 良い問いを立てることと、知的徳との関係 96 5.6 結語 99
第 6 章 教育の認識論についての今後の課題・・・・・・・・・・・・・101
6.1 これまでの議論のまとめ 101 6.2 今後の研究課題 103
註・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・107
参考文献・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 119
第
1
章 教育の認識論の現状と本研究の位 置づけ教えと学びを中心とする教育の認識論は、大人から子どもへの知識伝達の仕組みや、
赤ん坊や子どもに特有な知識獲得の在り方、あるいは、創造的知識を生み出す担い手の 育成などについて研究する。本章では、まず、教育の認識論のこれまでの研究状況と現 在の認識論との関係について概観する。次に、本研究で探求を中心とする教育の認識論 が主題とされる理由を説明する。最後に、本研究の議論の構成と概要を提示する。
1.1 目的と背景
教育には、子どもの成長、親の養育、あるいは、「生涯学習(lifelong learning)」と呼ば れる生涯を通じた学びなどを含む、教えと学びという現象が含まれる。本章では、まず、
教えと学びとは、おおよそどのようなものなのか、および、教えと学びについての認識 論的議論の背景とはどのようなものなのかを概観する。次に、本研究における認識論的 研究の方法論の特徴を明らかにする。
1.1.1 教えと学びについての認識論的問題
教えや学びは、歴史的文脈などにより、その目的や在り方がさまざまに異なる。たと えば、日本では江戸時代、「寺子屋」と呼ばれる施設で、子どもが読み書きや算数を習う という風習があった。現代では子どもは通常、学校の授業の中で、そのような技能や、
「紫式部は平安時代に『源氏物語』を執筆した」など命題の形をした知識など、さまざ まな種類の知識を学ぶ1。他方、教えと学びの中には、時代や場所を超えて見られるもの がある。たとえば、親は子どもにしつけを教え、子どもは父親や母親の背中を見て育つ と言われる。しつけを教えることや、親や教師を見習うということは、さまざまな国や
8 第1章 教育の認識論の現状と本研究の位置づけ
地域でも見られる現象だろう。
教えと学びについての哲学的関心は、西洋ではソクラテスやプラトンまで遡って見ら れ、その後、何人かの哲学者たちの間で、いくらかの注目を集めてきた。2 教えと学び についての広く知られる哲学的議論の一例は、プラトンの著述に見られる「エレンコス
(Elenchos)」と呼ばれる問答法に関する議論である(cf. Siegel, 2014)。3
このような、教えと学びを中心とする教育についての哲学的議論には、少なくとも、
教えと学びに関する倫理的側面、政治的側面、および、認識論的側面についての議論が ある。4 教えと学びを中心とする教育の哲学的議論がどのようなものなのかを大まかに 把握できるよう、教育の倫理的側面を簡単に取り上げよう。教育の目的の一つは道徳を 身につけさせることであると言われる。5 いま、このことを認めると、道徳を教えるこ とや学ぶことについてのいくつかの問題が生じる。たとえば、「子どもに対する倫理は、
大人や動物に対して成り立つ倫理と同じものなのだろうか」、「道徳はどのようにして学 ばれうるのだろうか。たとえば、他者との関係なしに、道徳は一人で学びうるのだろう か」、「道徳は、言明の形をした知識、すなわち、命題的知識6 の伝達の場合のように、
異なる世代間で伝えうるものなのだろうか」、あるいは、「親や兄弟を含めた親しい者に 対する愛着、敬慕、あるいは、憎しみなどの情動は、道徳的行為とどのような関係にあ るのだろうか」などがある。これらの問題の中のいくつかは、これまでも、そして、現 在も活発に議論が行われている。7
以下では、教えと学びを中心とする教育の認識論的側面に関する議論に焦点を絞ろう。
教育の認識論の主題には、たとえば、大人から子どもへの知識伝達の仕組み、赤ん坊や 子どもに特有な知識獲得の在り方、認識論的自律性(epistemic autonomy)、あるいは、教 育の理念などがある。
ここで、教えと学びの認識論の中の具体的な問題を提示することで、うえのような認 識論的側面に対する哲学的議論がどのようなものなのかみてみよう。そのために、以下 では、まず、「信念(belief)」と「証言(testimony)」という認識論の中で用いられる用語を 導入する。次に、証言に関する認識論の議論を二つ紹介する。最後に、それら二つの認 識論の議論と関連させながら、教えと学びの文脈における証言に関する認識論の議論を 二つ提示する。
はじめに、認識論の議論の中で広く用いられる擁護を導入する。一つ目は「信念」と いう用語である。この語に関しては、戸田山 (2002, p. 3) の説明を参照しながら、事例 を示すことで説明しよう。たとえば、私が A さんとの会話を通じて、「ブラジルでワー ルドカップが始まった」という A さんの証言から、「ブラジルでワールドカップが始ま った」と思うとする。認識論の議論の中では、私の抱いた思いについて、私は「『ブラジ ルでワールドカップが始まった』という信念をもつ」や「『ブラジルでワールドカップが 始まった』と私は信じている」と表現する。日本語で「信念」という言葉は、「信念をも って臨む」という句に見られるように、心に強く抱く思いや考えがある場合に使われる
ことが多いと思われるが、以下の議論では断りのない限り、認識論における用語法で用 いることとする。
二つ目は「証言」という用語である。「証言」という日本語は通常、裁判所での証人尋 問など、或る事柄の証明を明示的に行う場面で用いられることが多い。証言に関する先 駆的な研究であるCoady (1992) では、「証言」という概念を明確にするため、はじめに、
英語の「testimony」が司法の場面で使用されるものであることが確認される。そのうえ で、司法の場面での証言と、レポートや会話の中で用いられる伝聞や報告などを表す証 言が区別され、それぞれ「公式的証言(formal testimony)」と「自然的証言(natural testimony)」
と呼ばれる(pp. 25–7)。近年の認識論の議論の中では、「証言」と言えば、たとえば今朝 の食事の話から科学的発見に関する話題に至るまで、他者から得られる伝聞や報告のこ とが想定される。証言を通じて知ることについての具体的事例を出そう。たとえば、タ バコは健康に悪いことを会社や学校での同僚との会話を通じて知ることが挙げられよう。
さらに、排気ガスが原因でオゾン層が減少していることをオンラインの新聞やテレビの ニュースを通じて知ることも身近な事例であろう。あるいは、教育の文脈に即した事例 として、第二次世界大戦において日本は、1945年、ポツダム宣言を受諾し降伏したこと を、教科書を通読して知ることが挙げられよう。
この証言に関する議論はCoady (ibid.) に始まり8、ごく最近の認識論において活発に論 じられるようになっている。9 そこで次に、証言に関する議論の中から二つの主要な問 題を紹介しよう。これらの問題背景を知ることにより、この後提示される教えと学びの 文脈における証言の問題が、そもそもどうして問題とされるのかという理由が理解しや すくなると考えられるからである。
一つ目の問題は、「他者の証言を通じて獲得される信念は、正当化されている、あるい は、知識10 であると言えるだろうか。そう言えるとすると、どのような条件のときに正 当化された信念や知識であると言えるのだろうか」というものである。この問題が重要 である理由は次の通りである。われわれは、日常的出来事から政治経済のことまで大量 の信念を、インターネットなど、さまざまなメディアを介して証言によって獲得してい る。加えて、法律、医療、あるいは、科学などの高度な専門知識に関しては、医師や科 学者など、専門家が述べることや提示する証拠を、われわれ自身では理解することなく 受け入れていることも多い。たとえば、「タバコは健康に悪い」という信念に関して、私 はその信念が真であることを立証する証拠を実験で確かめてはいないし、たばこが健康 に及ぼすメカニズムについて理解できる知識を持ち合わせているわけでもない。にもか かわらず、新聞やニュースを通じて私は、タバコは健康に悪影響を及ぼすことがあるこ とが正しいと思っている。Hardwig (1985) は、現代において、専門分野の異なる科学者 同士の間など、専門家同士の間に生じていることを指摘している。だが、このようなこ とは、一般市民と専門家との間でも生じていると言えるだろう。
このようなことから、現代生活では、インターネットなど、われわれが知識を容易に
10 第1章 教育の認識論の現状と本研究の位置づけ
入手できる手段が増え、その結果、われわれが現代生活の中で受け入れている信念、お よび、われわれのもつ各々の信念に関連する理由ないし証拠の量は膨大となっているよ うに見える。さらに、専門的知識に関しては、その理由ないし証拠をみずから理解する ことがますます難しくなってきている。したがって、われわれ一般市民は、みずからの 信念の証拠を獲得するとき、通常、書物や専門家の忠告などを含む他者の証言に依存せ ざるをえなくなっていると考えられる。Hardwig (ibid.) は、このように他者の証言に依 存することを「認識論的依存(epistemic dependence)」と呼ぶ。
では、他者に認識論的に依存することは、知識を獲得するうえでの非合理的な態度な のだろうか。必ずしもそうとは言えないと私は考える。たとえば、次の場合、他者に認 識論的に依存することは合理的であろう。
例1
太郎くんは、名医として知られる医者を探し出し、その診断を傾聴し、その医者の述 べることを信じる。だが、太郎くん自身は証拠や理由をもっていないし、その証拠を 見せられても、それが良い証拠となるのかどうか理解できる十分な知識をもっていな い。
この事例での太郎くんの場合のように、信頼できる他者の証言に依拠して信念を受け入 れることが合理的であると考えられる場面は多くあるだろう。この事例のポイントは、
専門家の証言から得られる信念が正当化されていると考えられる理由には、証言そのも ののほか、証言者として専門家が信用できるということが含まれている、ということに ある。太郎くんが専門家に認識論的に依存したほうが合理的であると言えるとすると、
その理由は、太郎くん自身で理由や証拠を獲得することとは別に、信用できる専門家を 識別する十分な証拠を入手することや、信用できる専門家の証言のみを信じる態度をも っていることなどにある。
このように、われわれは多くの信念獲得に際して認識論的に依存せざるをえないこと を考えると、「証言を通じて獲得された信念は正当化されていることや知識であると言え るかどうか。そう言えるとすると、どのような条件のときに正当化されていることや知 識であると言えるのか」という問題は認識論における重要な問題となる。これが、現代 の知識獲得状況を鑑みたときに、この問題が重要とみなされる理由である。以下では、
この問題を「第一の問題」と呼ぼう。
この第一の問題を明確にしておこう。そのために必要な限りで記号を導入する。また、
問題を単純にするため、ここでは正当化という主題のみを扱う。いま、「p」は具体的信 念、「e」は具体的理由、「A」は信念pの専門家以外の者、「B」は信念pに関する専門家 を表すこととする。ここで、Bには信念pを信じる認識論的に良い理由eがあるとする、
すなわち、Bのもつ信念pは正当化されているとする。他方で、A自身は理由eをもっ
ていないとする。このとき、
(1-1) Aが信念pに関してBに認識論的に依存している、すなわち、Aは、Bの証言の
みに基づいて信念pを信じるとすると、Aのもつ信念pは正当化されていると言え るだろうか。
(1-2) Aは、Bに関して次の証拠をもっているとする。それは、Bは信念pに関する理
由eをもち、それゆえ、Bが証言者として信用できるという証拠である。ここで、A が、Bの証言のみに基づいて信念pを信じるとする。この場合、Aのもつ信念pは 正当化されていると言えるだろうか。
このような問題が、第一の問題である。
二つ目の問題は、第一の問題に関連するものであり、「認識論的に依存すること、すな わち、他者の証言を受け入れることと、認識論的に自律していることとの関係はどのよ うなものだろうか」というものである。第一の問題が、証言によって得られる信念の認 識論的身分に関わるのに対して、この問題は、信念を受け入れる者の認識論的身分に関 わるものである。ここでも、まず、この問題が重要である理由を考えよう。
歴史上、自分自身で物事を考えること(thinking for oneself)の重要性は広く信じられてき たが、このことは現代でも当てはまるだろう。いま、自分のもつ信念に対する理由を自 分自身で考えることを「認識論的に自律している(epistemically autonomous)」と呼ぼう(e.g., Fricker, 2006, Section 1 & 5; Zagzebski, 2009, Chapter 4)。すると、理想的な認識論的自律者 とは、自分のもつ信念すべてに対する理由を自分で考える者のこととなる。
ここで、現代では多くの信念に関して、われわれは認識論的に依存せざるをえないだ ろうと述べたことを思い出そう。このことと、うえの認識論的自律性の概念規定に基づ くなら、認識論的に依存する者とは、定義上、他者の証言から獲得した信念が真である とされる理由を自分自身で考えることのない者のことである。そのような者は、みずか ら正当化することなく信念を受け入れることがあるため、認識論的に自律していないと いうことが帰結してしまう。
しかしながら、多くの信念に関して認識論的に依存せざるをえないと思われる現代に おいて、うえの認識論的自律性の概念は狭すぎではないだろうか。たとえば、次のよう な例を考えよう。
例2
花子さんは、街中でスコットランドの独立運動を推進する政治家の演説を聞く。花子 さんはその後、独立のメリットについて詳しく説明する政治学者の意見を聞く一方で、
スコットランドの政治経済の状況をみずから調べ、現時点で独立しないメリットのほ
12 第1章 教育の認識論の現状と本研究の位置づけ
うが大きいと思われる証拠や理由を見つける。
おそらく、街中の街頭演説によって得られる信念を安易に受け入れないことは、認識論 的自律性の条件であることは、認められよう。だが、事例2における花子さんはその後、
独立のメリットを説明する専門家の意見を聞く一方、それと反対の考えを支持する証拠 や理由をみずから見つける。このように、信頼できると考えられる証言者の証言に基づ く信念と、自分で考える理由に基づく信念が食い違う場合、いずれの信念を信じること が合理的なのだろうか。あるいは、このような場合でも、自分自身で考える理由に基づ く信念のほうを信じるべきとしたら、その理由は何だろうか。
例2の場合のように、他者の証言から獲得される信念と、自分自身で考える理由に基 づく信念との関係は簡単に決着のつく問題ではないだろう。それゆえ、「理由や証拠を自 分自身で考える者は認識論的に自律しているが、証言に基づく信念を受け入れる者はそ うではない」と結論づけるのは早計である。このことは、次のことを示唆する。それは、
先ほどの認識論的自律性という概念の規定は、現代の認識論的状況を考えると議論の余 地がある、ということである。認識論的依存が合理的である場合があることが認められ るなら、先ほどの認識論的自律性という概念を見直す必要があると言えよう。
以上の理由から、「認識論的に依存すること、すなわち、他者の証言を受け入れること と、認識論的に自律していることとの関係はどのようなものだろうか」という問題、簡 単に言えば、認識論的依存と認識論的自律性との関係の問題は、現代の認識論的状況を 勘案しながら詳細に検討すべきものである。このような問題を「第二の問題」と呼ぼう。
第二の問題も明確にしておこう。先ほどと同様、「p」は具体的信念、「e」は具体的理 由、「A」はpに関する専門家以外の者、「B」はpに関する専門家を表すこととする。こ こで、Bにはpを信じる認識論的に良い理由eがあるとする、すなわち、Bのもつ信念p は正当化されているとする。このとき、
(1-3) Aは、Bの証言のみに基づいて信念pを獲得するとする。いま、「Bの述べること
は信用できない」など、Bの述べることに対する否定的証拠を入手しない限り、A がpを信じるとする。この場合、A は認識論的に自律した者であると言えるだろ うか。
(1-4) Aは、Bの証言だけでなく、「Bが信念pに関して信用できる」という理由をもつ
とする。ここで、Aが信念pを信じる場合、Aは認識論的に自律した者であると 言えるだろうか。
さて、ここまで、証言に関する二つの認識論的問題を提示してきた。次に、それら第 一の問題と第二の問題に関連する、教えと学びの認識論の文脈の中での証言の問題を二
つ提示しよう。
まず、第一の問題に関連する次の問題である。それは、「親や教師の証言を通じて獲得 された子どもの信念は、正当化されている、あるいは、知識と言えるのだろうか」、そし て、「それらが正当化された信念あるいは知識であると言える理由は何だろうか」という ものである。
子どもは、教科書を通じて、あるいは、親や教師との会話を通じてさまざまな信念を 獲得する。このような信念獲得は、多くの子どもが大量の信念を教わるという意味で信 念獲得のための基本的プロセスだろう。11 他方で、まだ理由を自分自身で考えることの できない子どもは、親や教師の証言から多くの信念を、みずから正当化することなく受 け入れざるをえない。すなわち、われわれには、多くの信念に関して他者に認識論的に 依存せざるをえない幼少の時期がある。
では、親や教師の証言から獲得した子どもの信念の身分について、われわれはどのよ うに考えるべきだろうか。ここで、近代認識論の代表人物であるデカルトは『方法序説』
において、親や教師は最善のことを教えてくれるわけではないという理由から、彼らの 証言を知識の源泉とすることを拒否する。
われわれはみな、大人になる前は子供だったのであり、いろいろな欲求や教師たち に長いこと引き回されねばならなかった。しかもそれらの欲求や教師は、しばしば 互いに矛盾し、またどちらもおそらく、つねに最善のことを教えてくれたのではな い。したがって、われわれの判断力が、生まれた瞬間から理性を完全に働かせ、理 性のみによって導かれていた場合ほどに純粋で堅固なものであることは不可能に近 い、と。(後略)
わたしは次のように確信した。(中略)わたしがその時までに受け入れ信じてきた諸 見解すべてにたいしては、自分の信念から一度きっぱりと取り除いてみることが最 善だ、と。(デカルト, trans. 1997, pp. 22–3)
しかしながら、デカルトに反して、信頼できる者から教わったことも、そうでない者 に教わったことも無差別に信じることをやめ、代わりにわれわれ自身の理性を働かせて 得られることのみを信じることは、知識を獲得するための最善な方法論とは思われない。
たしかに、親や教師の証言から獲得された信念の中にしばしば誤りがあるということは 認められよう。だが、そのことから、他者から教えられる信念すべてを受け入れること をやめ、代わりに、自分の理性のみに基づいて知識を求めようとすることが最善の方法 論である、ということは出てこない。
ここで、現代の認識論的状況における困難、すなわち、すべての信念を自分自身だけ で正当化することは著しく困難であることを考えると、親や教師から教わった信念の多 くは正当化されている、あるいは、知識であると考える選択肢があるだろう。加えて、
14 第1章 教育の認識論の現状と本研究の位置づけ
知識を獲得する探求者として未熟な時期に絞って考えるなら、信頼できる者の証言に認 識論的に依存することは、後にみずから自発的に探求することができるために必要なこ とであると思われる。というのも、子どもが自発的な探求ができるようになるためには、
当の探求において扱われる概念を習得し、関連する知識をすでに獲得していなければな らないからである。
以上の理由から、すでに獲得された信念の多くは正当化されている、あるいは、知識 であると考える可能性を模索するほうが、現代では知識獲得のためのより善い方法論で あると言えるのではないかと思われる。そうすると、次の問題が生じることになるだろ う。それは、「親や教師に認識論的に依存した小さい子どもの信念のいくつかは正当化さ れている、あるいは、知識であると言える理由は何か」というものである。
いま、複雑さを避けるため、証言の正当化に関する問題に焦点を絞ろう。この問題に 対する回答の仕方はさまざま考えられるが、一つの回答は、親や教師に認識論的に依存 した子どもの信念について、それがどのような場合に正当化されていると言えるのかに ついての条件を分析し、「特定の条件を満たす場合に限り、証言を通じて得られた信念は 正当化されていると言える」と主張することである。たとえば、教師は、担当する授業 科目の内容に関して信用できるだろう。すると、信用できる教師の証言に限って、その ような教師から獲得される信念は正当化されている、と考えることができるだろう。同 様に、小さい子どもでも通常、信用できる人のみの証言を信じるような感受性をもち、
それにより、信頼できる証言を非反省的に識別していることはありそうなことである。
このことを、関連する心理学研究を証拠として立証できるなら、子どもは任意の証言を 盲目的に信じているわけではないと考えることができるだろう(cf. Goldberg, 2008)。12
このように、子どもの成長過程において、子どもは比較的早い時期から、みずから理 由を考えるという仕方とは異なる仕方で、受け入れる信念を選別しているように見える。
このようなことが論証されるなら、理由について考える能力がまだ十分に発達していな い子どもでも、親や教師に認識論的に依存しながら、子どもは正当化された信念を選別 していると主張する可能性は残されている。
次に、教えと学びの文脈における証言に関する二つ目の問題を取り上げよう。小さい 子どもは親や教師などの証言に依拠して多くのことを学ぶが、その一方で、自分で理由 や証拠を挙げながら考えることができるようにも教えられることだろう。Goldberg は、
両者の関係に関して次の問題を提示している。
教育のプロセス、とくに、小さな子どもに対する教育のプロセスでは、多くの事柄 について、子どもが教師の言葉を受け入れるということがしばしば見られる。同時 に、どのようなレベルであれ、良い教育は、子どもに自分で考える能力を教え、発 達させ、サポートするものでなければならない。それでは、いかにして、この二点 を整合的に取り込んだ教育方法を考えることができるだろうか。(中略)この問い
に 答 え よ う と 挑 む こ と を 「 認 識 論 的 依 存 に つ い て の チ ャ レ ン ジ(Epistemic Dependence challenge)」と呼ぶことにしよう。(Goldberg, 2013, p. 165)
この引用で問題とされているのは、子どもが、親や教師とのコミュニケーションを通じ て、あるいは、教科書を読むことを通じて大量の信念を得るという意味で認識論的に依 存することと、クリティカル・シンキング教育において典型的に見られるように、子ど もがみずから理由を考えるようになることとの関係である。教育者だけでなく、多くの 親や教師も、証言を通じて子どもに社会で必要となる技能や知識を教えたいと思うと同 時に、子どもに自律的に考えることができるようになってもらいたいと思っているだろ う。教育は、どちらの学びにも重要な意味で関わることになる。Goldberg の結論は、自 分のもつ信念すべてに対して、みずから理由を考えることを「認識論的に完全な自律性」
と規定した後、この認識論的に完全な自律性を教育理念とすることを疑問視する、とい うものである。ここでは、Goldberg の考えについて論評するのは避けよう。いま確認し ておきたいことは、次の二点である。一点目は、「認識論的依存とクリティカル・シンキ ングとの関係を明確にし、どのような関係が適切なのか」という問題は、教育の文脈で の証言の重要な問題である点である。二点目は、この問題は、「子どもの認識論的自律性 とはどのようなものであるべきなのか」という問題に通じている点である。
ここまで、教育の文脈における証言に関する認識論的問題を詳しく取り上げてきた。
Robertson (2009, pp. 28-9) は、ほかにも、教育の認識論的問題の主題として、好奇心や探
究心(inquisitiveness)などの認知に関わる徳や、教えや学びの認知的活動に関わる情動など
を挙げている。そのほか、「現代の認識論的状況における教師に特有の役割とは何か」と いう問題もあるだろう。知識の専門化が進んだ社会で教師の一つの重要な役割は、専門 的知識を伝達することより、子どもに、専門的知識につながる内容に興味を抱かせ、子 どもがそれを理解できる程度に咀嚼した形で学ばせ、将来、その子どもが必要な折に、
高度な専門的知識を獲得しうる準備をさせることにあると思われる。13
このように、教えと学びを中心とする教育の認識論では、教えや学びのさまざまな認 識論的側面が扱われ、そのような諸側面に関する多様な問題が論じられる。このような 問題に取り組むことは、「教えや学びとは何か」という問題に認識論的観点からアプロー チすることであると言えるだろう。
1.1.2 本研究における認識論的研究の方法論の特徴
本節では、本研究が、教育に関係する現代認識論の議論だけでなく、過去の教育哲学 者の残した教育の認識論研究を踏まえる理由について詳説する。
前節では、証言という概念を中心に、教えと学びを中心とする教育の認識論的側面と、
それに関連する具体的な問題をみてきた。ところで、教育に関する哲学研究の歴史を顧
16 第1章 教育の認識論の現状と本研究の位置づけ
みると、教育の認識論は、それほど主題的に研究されてこなかった。このような状況は、
認識論が倫理学や政治哲学と、同程度かそれ以上に広く研究されていることを考えると、
やや不思議である。また、証言の問題などこれまで述べてきたような認識論的問題が、
教育に関する倫理や政治哲学の問題と比べて検討の価値がないということは考えにくい。
では、教育の認識論の研究がこれまで、それほど焦点を当てられてこなかった理由は 何だろうか。この歴史的事実についての理由を正確に同定することは哲学史研究に譲る が、以下では、教育の認識論の意義を明確にするために、二つの理由を簡単に推定して みる。
一つ目の理由は、教育に関わる哲学的議論では、倫理的側面や認識論的側面などが一 緒に論じられることも多いということにある。たとえば、著名な教育哲学者の一人であ るイズラエル・シェフラー(Israel Scheffler)の議論をみてみよう。14 シェフラーは、合理 性の育成を教育の理念として重視する。シェフラーによれば、合理性の育成において子 どもが習得するべきものには、理由を公平かつ批判的に評価する能力のほかに、他者の 議論の向かうところに付いていき、その良い点と問題点を見極めようとする態度などが 含まれる(Scheffler, 1973, p. 64)。いま、シェフラーの主張内容の是非は措こう。この一例 からわかるのは、合理性という認識論的概念が主題として扱われる議論の中でも、教育 の文脈では倫理的側面が検討されている、ということである。15
このように、教えと学びを中心とする教育の認識論的問題では、倫理的側面がしばし ば検討される。このような傾向は現代の認識論でも見られる。たとえば、真理を獲得し ようとする動機づけ、証言の信用などに関する認識論的権威(epistemic authority)、あるい は、合理的な思考に関わる性格特性といった主題が扱われるようになってきている。具 体的な事例を一つ挙げよう。Hardwig (1991) は、科学者共同体における認識論的依存に 関する考察では、共同体のメンバーを証言者として、証言者の信用を考慮する必要があ り、それゆえ、この考察は、証言者の性格特性にまで関わるという意味で従来の認識論 や科学哲学を超えて倫理や政治哲学とも関係すると述べる(p. 708)。
このような傾向を考えると、これからの認識論の議論でも、伝統的には倫理学や政治 哲学の議論の中で論じられていた概念が導入され、認識論の主題との関係の観点から論 じられていくだろうと予想される。ここで、はじめの話題に戻ろう。うえで述べた認識 論の現状と、教育の認識論がもともと、教えと学びに関係する知識獲得だけでなく、道 徳や政治的な主題について論じなければならない分野であるということから、教育の認 識論は、認識論、倫理学、あるいは、社会科学の哲学などとの間にある伝統的な学問的 区別のもとでは扱いがたい分野であったと推察することができよう。16
二つ目の理由は、デカルトから始まったとされる「近代認識論」と呼ばれる認識論の 枠組みが、教えや学びを中心とする教育の認識論的問題を同定し論じること、すなわち、
教育の認識論研究にあまり適していなかった、というものである。ここでは、教えと学 びの認識論に強く関係する、近代認識論の特徴を一つだけ挙げよう。17 その特徴とは、
信念の帰属される各個人の正当化を知識の構成要件とする、というものである。
まず、伝統的な正当化の概念をみてみよう。Kornblithは伝統的な意味での正当化につ いて次のように説明する。
伝統的説明によると、部分的には、正当化が知識の本質的要素であるということを 理由に、認識論の中心的仕事は、正当化の本質の在り処を説明することとなる。そ して、伝統によると、或る人が信念をもつことが正当化されている、、
ために必要なこ とは、その人がその信念に対して何らかの正当化をもっている、、、、、
ことである。ここで、
正当化をもっているとは、典型的には当の信念について適切な議論を提示する用意 がある(be in a position to)ことと同じことである。(強調原著, Kornblith, 2001, p. 2)
この意味での正当化が知識に必要なのかどうかは現代認識論の中で活発に議論されてい る。たとえば、Goldman (1979) によれば、信念が知識であるためには、うえの意味で正 当化されている必要はない。その代わりに、「信頼性主義(reliablism)」と呼ばれる、別の 意味での正当化が提案される。18
ここでは、正当化に関する議論を教えと学びの文脈に限定して考える。この文脈で、
うえの伝統的意味での正当化に対する最も重要な批判は「正当化が信念の帰属される各 個人によってなされる」という前提に向けられるものだろう。たとえば、信念pが正当 化されているとは、その信念が帰属される者Aが、信念pに対して何らかの正当化をも っていることである、とする。A がまだ理由を自分で考えることのできない者である場 合、たとえAが信念pを信頼できる証言者から得たとしても、Aのもつ信念pは正当化 されることにはならず、それゆえ、知識ではないことになる。しかし、前節における証 言の議論から、「特定の条件を満たす場合に限りで、証言を通じて得られた小さい子ども の信念は正当化されていると言える」と考えることはそれほど不合理な発想ではない。
いま、正当化に関する条件として、その信念が帰属される個人による正当化が必ず必 要であるという主張を「正当化の個人主義」と呼ぼう。これは、先のデカルトの『方法 序説』の引用に見られると思われる立場である。そうして、この正当化の個人主義を否 定する立場、すなわち、その信念が帰属される個人による正当化は必ずしも必要ではな いとしたうえで、別のルートの正当化、ここでは、自分以外の者によって、何らかの仕 方で自分の信念が正当化されうると主張する立場を「正当化の社会性」と呼ぼう。いま、
Bのもつ信念pは正当化されているとする。このとき、正当化の社会性とは、A のもつ 信念pに対して、「Bの証言によって獲得されることで、Aのもつ信念pが正当化される」
という可能性があることを主張するものである。
正当化の社会性のポイントは、信念が帰属されるA自身による正当化が、認識論的正 当化のすべての場面で必要であるわけではないと考える点にある。この点で、正当化の 社会性は、正当化の個人主義だけでなく、「Aのもつ信念p は、A以外の Bによって必
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ず正当化されなければならない」という正当化の社会主義的な考えとも異なる。
正当化の社会性の批判は、「そもそも伝統的意味での正当化は知識のために必要ではな い」という、正当化の内容そのものに対する批判とは異なる。うえの正当化の社会性が どのようなものなのかを詳述するために、両者の違いを必要な限りで説明しよう。
現代の認識論では、伝統的なものとは異なる正当化の概念を提案する立場が見られる。
この背景には、現代科学の成果により、人間以外に高度な知的生活を送る生物がいるこ と、そして、そのような生物の中には人間に無い知覚能力を備え、その知覚に依拠した 特有の知識をもつことを自然に受け入れるようになってきている、ということがあると 思われる。知覚や記憶など、人間も動物も共有する知覚機能に基づいて知識獲得につい て考えることはそれほど不合理な発想ではないと思われ、それゆえ、そのような知識観 に沿う正当化の概念が提唱されるようになる。理由や議論による正当化は知識の構成要 件ではないと考える立場は「外在主義(externalism)」と呼ばれる。この外在主義の具体的 内容や強度は哲学者によってまちまちであるため(cf. Kornblith (ed.), 2001)、ここでは、知 識と言えるために伝統的意味での正当化が必要であるのかどうかなどの問題に関して、
認識論の中で議論がなされていることを確認できれば十分としよう。
このような外在主義に対して、正当化の社会性を主張する立場は、信念が帰属される 者以外の誰かによる正当化を認めるものの、通常は、他者による理由や証拠に基づいた 正当化が必要であると考える。それゆえ、伝統的意味での正当化の概念を捨てているわ けではない。このように、正当化の社会性を特徴づけるものは、信念をもつ本人だけで なく他者の正当化の可能性を認める点である。この意味で正当化の社会性は、認識論に おける民主主義的な立場であると言える。
この正当化の社会性の観点を取り込んだ、認識論的民主主義的な立場を考えることで、
認識論において検討される価値のある次のような問題を考えることができるようになる。
第一に、小さい子どもや赤ん坊の信念の正当化や知識の伝達の問題がある。動物の場合 と異なり、人間の子どもは後に高度な知識を発見し、前例のない知的技術を創造する担 い手となるために重要なことであると考えられる。このように、通時的な観点から見る 知識獲得の在り方や知識の担い手の合理性の問題について検討できるようになる。
第二に、認識論的依存と自分自身での正当化(あるいは、認識論的非依存)との関係 の問題がある。現代の認識論的状況においては、知識を獲得するために適切な場面で適 切な仕方で認識論的に依存しつつ、自分の考えや理論に対して理由や証拠に基づいて擁 護することが重要であると思われる。では、他者の証言に適当な仕方で認識論的に依存 することと、自分の理由や証拠の証明力を信用することとの間のバランスはどのような ものなのだろうか。真理獲得を目的とした文脈での、このような自己と他者との関係の 問題について検討できるようになる。また、このような問題は、知的生活における人間 の認識の在り方に関わるものであるため、人間の合理性や自律性の概念に対する再検討 にもつながるだろう。
以上の理由から、近代認識論が正当化の個人主義という特徴をもつなら、その認識論 では、教えと学びを中心とする教育の認識論的側面にそれほど強い関心が向かないかも しれない、と結論づけられる。教えと学びの文脈は、信念の正当化についての社会的性 格や、認識論的文脈における自己と他者との関係などの問題が先鋭化する文脈である。
このような主題は、これからの認識論の中で重要な課題となるだろう。
ここで、教育の認識論に関するこれまでの研究状況に対して、以下の二つの留保が必 要である。第一に、教えと学びについての認識論が主題的に研究されなくなったのは、
近代認識論が確立し勢いを得て以降のことかもしれないということである。たとえば、
教育の認識論に含まれる研究として、冒頭に挙げられたエレンコスという問答法に関す るプラトンの議論や、徳の育成に関するアリストテレスの議論がある。
第二に、近代認識論が勢いを得た以降も、数は少ないものの、現在の教育思想に影響 を与えている教育の認識論的研究はあるということである(cf. Robertson, 2009; Siegel, 2004)。先に言及されたシェフラーによる教育の認識論研究を一例として挙げよう。シェ フラーは、教育の文脈において知識の概念について次のように述べる。
教育的文脈において、知識、、
という用語は、しばしば次の二つのことを含むとされる。
一つ目は、環境を技術的に制御することに関連する蓄積された技術や伝承であり、
二つ目は、それ自身、内在的な価値をもつ知的技芸や経験である。このような文脈 では、知識、、
はわれわれの知的財産すべての内容に関わるものであり、教育は、それ を次の世代に伝達することに関与している。(強調原著, Scheffler, 1965, p. 2)
教育は、証言による命題知だけでなく、技術や伝承を含めて、さまざまなことを大人か ら子供に伝えることに関わるとされる。ここで、教育は必ずしも過去の知識の継承だけ ではなく、創造的な知識の産出にも関わることに留意しよう。なぜなら、教育は、優れ た探求の仕方を教えることなど、新たな知識を生み出すことや、技術を創り出すことに も関わり、この点から見ると、教育は、創造的知識を産出する担い手を育てることだか らである。このようなシェフラーの研究を典型例として、教育の認識論的研究では、近 代認識論における議論の諸前提に批判的でありながら、応用しうる考察内容を踏まえて、
教えや学びについて検討するという姿勢が見受けられる。19
他方で、これまで説明してきたように、現代の認識論ではさまざまな認識論的側面が 議論されており、それに応じて、教育の認識論に対して少しずつ関心が持たれ始めてい る。20 そのような代表的分野として、社会認識論と徳認識論の分野が挙げられる。社会 認識論に関しては、すでに論じたように、証言についての認識論的問題が教育の文脈で も重要であると言える。その中でも問題の焦点にあるのは、批判的思考力を発達させて いく途上にある子どもに対して、そのような子どもが他者の証言を受け入れることと、
批判的思考力を身につけることとの関係の問題である。これに関連する問題に対しては、