104 第6章 教育の認識論についての今後の課題
最後に、探求を中心とする教育の認識論の今後の課題について述べる。まず、教育の 認識論についての現代の動向を簡単に整理したうえで、今後の研究課題を挙げる。
第一章で述べたように、教えと学びを中心とする教育の認識論は、これまで認識論に おいて主題的に研究されてこなかった。その大きな理由は、デカルトから始まったとさ れる近代認識論における、信念が帰属される個人による正当化が必ず必要であるという 意味での「正当化の個人主義」の前提が、教育の認識論研究にあまり適していなかった だろう、というものである。たとえば、小さい子どもの信念の正当化や知識伝達の主題 は、個人主義的な認識論の枠組みでは考慮される余地がない。しかし、現代認識論では、
個人主義の前提はすでに批判的に検討されている。このような現代の認識論的研究の動 向の中で、それまで注目されていなかった教育の認識論の問題が、ようやく、認識論に おいて認知されるようになってきた。その主題には、たとえば、大人から子どもへの知 識伝達の仕組み、教えと学びの文脈における情動の役割、赤ん坊や子どもに特有な知識 獲得の在り方、あるいは、教えや学びの目的などが含まれる。今後は一層、教育に関わ る主題も認識論の中で扱われると予想される。加えて、近代認識論の諸前提に批判的で ありつつ、教えや学びの考察に応用しうる内容を踏まえた過去の教育の認識論研究があ る。
このような研究背景を鑑みると、これからの教育の認識論は、過去の教育の哲学研究 における成果と、現代認識論の議論から新たに蓄積されている成果を、両方取り入れる ことになると考えられる。本研究は、現代の認識論と過去の教育の認識論という二つの 支流を合わせて、新たな教育の認識論を打ち立てようとする試みであった、と評価する ことができよう。
しかしながら、この教育の認識論についての以上の動向には問題点もある。大きな問 題点の一つは、認識論と教育哲学の中では、議論をするにあたり暗黙に想定される諸前 提が異なるということがよくあることだろう。徳認識論の分野で著名な研究者であり、
教育についての認識論にも強い関心を寄せるPritchardは註の中で次のように述べる。
もちろん私は、徳認識論の現代の仕事が教育についての認識論にどのように派生す るのかを最初に考えた者ではないが、しばしばこの点で多くの議論が両者の論争を 平等な仕方で「噛み合わせる」のに失敗し、議論の焦点が現代認識論の視点か、あ るいは、教育の哲学の視点に偏ってしまいがちであるということは、言っておかな ければならない。(中略)私の貢献も、現代認識論に焦点を当てすぎて、うえの伝統 を引き継いでしまっているという不安はある。それでも、この論争を進めるために は、どこかでスタートを切らなければならない。だから、うえのような欠点がある かもしれないにもかかわらず、この仲裁は役に立ってくれるだろうと私は期待して いる。(Pritchard, 2005b, p. 243)
Pritchard はここで、実際、具体的にはどのような違いがあるのかを説明していない。私 の実感ではあるが、教育学と哲学どちらにおいても発表をしてきた私には、次のような 違いがある。それは、哲学は基本的に、自分の疑問を明確にし、それにオリジナルの回 答を与え、その回答を擁護するために論文が書かれている、という点である。それに対 して、第一章で簡単に論じたが、現在の日本の教育哲学の論文の多くは、著名な哲学者 の主張を解釈するものである。もちろん、これは従来の教育哲学研究を批判するもので はなく、別の種類の哲学が教育についての哲学にもありえることを指摘しているに過ぎ ない。以上のような実感はおそらく、哲学科から教育に興味をもち、教育の哲学を研究 する研究者にも共有してもらえるかもしれないと思われる一方で、本研究で示したよう な研究スタイルに理解を示してくれる教育学における哲学研究者もいる。教育の哲学と ともに現代の認識論などを研究するSiegel (2009) は、教育の哲学が他の哲学分野と繋が ることにより、今後、教育の哲学はさらに実りある分野となると考えている。そうであ るとしても、理想に近づくためには、異なる分野の間で暗黙に了解されている前提など を共有し合う必要があるかもしれない。
最後に、探求を中心とする教育の認識論の今後の課題を三つ挙げよう。一つ目は、教 えと学びの認識論的文脈における自己と他者の問題である。二つ目は、情動的徳という 概念の明確化の問題である。三つ目は、手本を見習うことと創造性の習得との関係の問 題である。
はじめに、一つ目の教えと学びの認識論的文脈における自己と他者の問題について簡 単に説明しよう。携帯電話やインターネットなどのマス・メディアが普及した現在の認 識論的状況では、われわれは大量の信念を容易に入手できるようになったが、それに応 じて、自分のもつすべての信念を自分自身で正当化することは非現実的なこととなって いる。また、法律、医療、あるいは、科学分野が発達する中でますます細分化し、それ らの分野に従事していない一般市民としてのわれわれには、法律、医療あるいは科学に 関わる信念に対する証拠は理解できないものとなっている。このようなことから、われ われは日常において多くの信念の獲得を他者の証言に依存せざるをえないだろう。
さらに、われわれの知的生活では、他者とともに議論をするなど、他者に関わりなが ら探求がなされることが多い。他者との議論では、他者から疑問や批判を受け入れるこ とで、自分が事前に持っていた信念を修正することも多い。あるいは、探求が進んでい くにつれて、過去に正しいと思われた信念について疑問を抱き始め、最終的に当初の信 念を改訂することもある。このように、知的生活における探求においては、これまでの 議論や探求の方向性を変えざるをえないような状況に遭遇する。
このような状況を考えると、知的に高度な知識を獲得するためには、他者の証言に対 する信用と慎重さのバランスを保つことなど、適当な場面で適当な仕方で認知的に依存 すること、あるいは、みずからの理由や証拠に対する批判的な眼差しをもつことと同時 に、しかるべき状況では現在の自分のもつ信念にこだわり、それが真である理由や証拠
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を一層、精緻にすることなどを通して、自分の考えや理論を粘り強く論証しようとする 態度こそが合理的な態度であるだろう。
では、他者の証言を通じて獲得される信念と自分自身の理由に基づく信念のどちらを 信じることが合理的なのだろうか。あるいは、いかなる場合に、他者の批判を受け入れ て自分の考えや主張を修正することが合理的であり、いかなる場合に、自分の考えや理 論を粘り強く論証しようとすることが合理的なのだろうか。今後の課題の一つは、教え と学びの認識論的文脈において自己と他者との関係について検討することである。これ は、教育理念として目指されるべき理知的な探求者とはいかなる者のことなのかについ ての概念を明確にする研究となる。
次に、情動的徳という概念についての明確化の問題を説明しよう。情動的徳とは、適 度な量の情動が、しかるべき状況においては繰り返し生じるようになる傾向性である。
現代の情動の哲学の中では、情動の働きには、認知的側面に対する貢献と動機的側面に 対する貢献という二つの側面がある。本研究で焦点を当ててきた情動的徳の働きとは、
従事している教えや学びに関連する疑問や批判に気付くときに情動的反応を示すもので あり、それによって教える者や学ぶ者の意識的注意を向けさせることに役立つ、という ものであった。この点で、これまであまり焦点に当てられてこなかった情動の認知的側 面に関する新しい事柄がいくらか明確にされたと言える。
今後の課題は、このような情動的徳の認知的側面をさらに明確にすることで、情動的 徳の本質を明らかにすることである。このような研究は、教えと学びの認識論的文脈に おける情動の役割や情動的徳の習得について明らかにすることにつながる。たとえば、
誕生と喜びとの関係は、私がぜひとも考えてみたい主題である。「生まれてきた」と「い る」という誕生と存在との関係の問題はそれ自体でも哲学的に興味深い問題であると思 われるが、喜びという情動との関係の観点から考えることで、親と子に関わる教育の問 題とつながるだろう。
最後に、手本を見習うことと創造性の習得の問題を説明しよう。子どもはさまざまな 知的徳を、手本を見習うことで学ぶと考えられる。このような手本を見習うことで、子 どもは将来的に、新たな知識や技術を生みだすようになるだろう。では、手本を見習う ことで身につける徳と、新しい知識や技術を生み出す創造性との関係はどのようなもの だろうか。今後の課題は、手本を見習うことと創造性を身につける教育との関係を明ら かにすることだろう。