教えと学びにはさまざまな文脈がある。本節では、シェフラーが擁護し、現代のクリ ティカル・シンキング教育の理念と強く関係する、合理性の育成という考えについて、
主にシェフラーの議論を中心に明らかにする。そうすることで、第一節で言及された、
合理性の教えと学びとはどのようなものなのかについて明らかにし、驚きという情動が 組み込まれる教えや学びの文脈を明確にすることができるからである。10
はじめに、合理性について、シェフラーがどのようなことを述べているのかをみてみ よう。
認知的領域においても道徳的領域においても、reasonは、reasonsを等しく検討し、
自分たちの遵守する一般的原則の観点から問題についての判断を下す、ということ に関わるものである。(RT 76)11
まず、この引用で見られるように、シェフラーの議論における不可算名詞で用いられる
「reason」は合理性を意味し、シェフラーの議論において複数形で用いられる「reasons」
は「(具体的な判断および行為に対する特定の)諸々の理由」を意味する(RT 3; 62)。12 こ こでは、合理性についてのシェフラーの考えに関する二つの重要な点が見られる。第一 に、合理性は、諸々の理由を批判的に検討し、自分たちが従う原則に照らして判断を下 す、ということである。第二に、このような合理性は、認知的領域だけでなく、道徳的 領域においても適用される、ということである。
二点目をもう少し詳しくみてみよう。うえで規定された意味で合理的な者は、たとえ ば、学会での討論や教室でのディベートなどで、すすんで諸々の理由を等しく扱い、議 論の利点や問題点を批判的に評価することや、自分と対立する主張や異なる経験を背景 とする相手の立場に対しても敬意をもって対応することだろう(RT 63)。あるいは、利用
56 第3章 教えと学びにおける認知的情動としての驚きの意義
できる証拠に基づいて何をすべきか考えて行為し、自分の下した判断や行為の責任を引 き受けようとすることだろう(RT 29)。このように、シェフラーの考える合理性は、認知 と道徳の両方に関わる具体的な文脈において発揮されうるものである。
このように規定される合理性は、われわれの具体的な探求や生活に関係するという意 味で実践的なものである。たとえば、シェフラーによれば、合理性は「発展しつつある、、、、、、、
多数の伝統、、、、、
の中で具体化され、そこでは、問題は諸々の理由、、、、、
を参照することで解決が図 られるという基礎的な条件が成り立っている。そして諸々の理由それ自体が今度は、公 平で普遍的であるよう意図される諸々の原則、、、、、
によって定義される」(強調原著, RT 79)。合 理性は、理由を批判的に検討し合う話し合いや議論の中で発揮されるものと見なされ、
それゆえ、或る共同体における伝統の中で具体化される、と言われる。
このような実践的な合理性という概念を提示することで、シェフラーは、合理性を教 えや学びと関連させる。では、この合理性は、具体的には、教えと学びとどのように関 係しているのだろうか。
シェフラーは、現代のクリティカル・シンキング教育に影響を与えている、合理性の 育成を重視する教えと学びについての考えを提示している。シェフラーによれば、合理 性を育成することは、教育の一つの基礎的理念である。
私の考えでは、合理性とは諸々の理由、、、、、
に関わることであり、合理性を基本的な教育 理念とするということは、あらゆる研究領域において、諸々の理由についてできる 限り広い範囲で、自由かつ批判的に探求する、ということである。(強調原著, RT 62)
すでに見たように、合理性とは諸々の理由についての批判的検討に関わることであり、
それゆえ、合理性を教育理念とすることは、教育を、合理的な判断や行為を身に付けさ せることを目標とする活動とみなす、ということである。そして理念的には、このよう な教育によって、学生が理由についてできるだけ広く自由に、かつ、批判的に探求でき るようになることが目指される。この目標が理念であると言われる理由は、この教育的 目標は満たされることがないかもしれないが、それでも教育的活動の指針としての役割 を果たす、と考えられていることにある(Siegel, 2001, p. 144)。
以上のような教育理念を達成するための手段の一つとして、教えは、信念が獲得され、
伝達されるいくつかの方法と区別される。
信念は、何も考えないまま受け入れることや、プロパガンダ、教え込み(indoctrination)、 あるいは、洗脳によっても獲得されるし、伝えられる。それに対して、教えるとい うことは、どのような内容を教える場合でも、学習者の判断する心(the mind)に関わ る。具体的には、教師は説明する、、、、
用意がある、すなわち、教師は、生徒の理由を求 める権利、および、それに伴う比較考量し自ら判断する権利を承認する準備をして
いる。この標準的な意味で教えるとは、開かれた合理的な議論へのイニシエーショ ンである(initiation into open rational discussion)13。(強調原著, RT 62)
ここで教えることは、教え込みや洗脳と次の点で区別される。それは、教えることにお いて学習者は、特定の意見や主張に対して、それらが正しいことや理に適っているとさ れる理由を問う権利が認められ、さらに、推論や結論が妥当かどうかについて自分で判 断する権利が認められている、という点である。14 ここで教えにとって重要とされるの は、子どもが信念を獲得する仕方についてである。具体的には、教えることの重要な点 は、教わることで獲得した信念に対して、子どもが理由を尋ねることや、疑問を提示す ることを認めるという点である(Siegel, 2001, pp. 143–4)。
合理性の育成では、このような教え方が必要になると考えられる。まず、合理的判断 ができるようになるために、親や教師から合理的に考える技能などを教わらなければな らない。次に、合理的な判断ができるようになるということは、親や教師の証言から教 わる信念に対しても、子どもは適当な場面で疑問を抱き、その理由を尋ねたり、証拠を 求めるということを含む。そうすると、教える場面でも、子どもが理由や証拠を求める 権利は認められなければならないことになる。他方で、子どもに対して、合理的に考え るよう教える親や教師もまた、質問されることに対する用意をしておく必要があると言 える。
しかしながら、教えるということを、うえのような実践と規定する考え方は、教えの 概念に対して狭すぎではないだろうか。というのも、教えには他の形態もある、と考え られるからである。たとえば、歴史や政治など、多様な分野に関する基本的な情報を大 量に伝えることは、現代の情報社会における教師の重要な役割の一つであると考えられ る。15 具体的には、政治経済や現代社会の授業を通じて、海外と日本の貿易について学 び、輸出と輸入についての日本の現状を知ることは重要なことであろう。
シェフラーは別の論文で、このような情報の伝達などを含めて、さまざまな種類の教 えについて包括的な検討をしている(e.g., LE 60–75; RT 67–81)。このことを考えると、シ ェフラーが教えについて主張していることは、教えについての目的の一つに学生に合理 性を身に付けさせることが挙げられる、ということであると考えられる。16
このように、合理性の育成が諸々の教育目標の中の一つであるとすると、このような 教育は、信念の伝達などを目的とする教育とともに行うことができる。具体例として、
先ほどの日本と海外諸国との貿易についての現状について学ぶ例を考えよう。たとえば、
教師は、日本の貿易の特徴や関税の仕組みについての基本的知識を教えた後、「どうして 関税が必要なのだろう」といった問題を取り上げることができるだろう。このような問 題を提示することで、子どもは学んだ知識を支える理由について疑問をもち、各自の考 えを思案するだろう。子どもは教師とともに、各自の意見を出し合い、なぜそう考える のかについて他の子どもと考えることもできるだろう。この事例が示唆するように、子
58 第3章 教えと学びにおける認知的情動としての驚きの意義
どもの合理性の育成は、子どもに知識を伝える教育と並行して行うことができると思わ れる。
次に、合理性を習得について考えてみよう。子どもの合理性を伸ばす教育とはどのよ うなものだろうか。シェフラーは、必要と考えられる学びについて次の説明を与えてい る。
議論の中で自分の相手に敬意を払いつつ批判的であることを学ぶこと、自分の信念 が誤りうることを認識できるようになること、議論の向かうところに付いていき、
その良い点と問題点を見極めその結果の責任を負うこと、自分と対立する主張や異 なる経験を背景とする相手の立場に敏感であること、公平に判断できるようになり、
自分自身の判断に責任をもつこと、こういったことは認知的徳だけではなく、道徳 性や性格に関する学びである。(RT 64)
合理的生活を他者とともに営むために必要な学びとは、子どもが認知的だけでなく道徳 的にも徳を身に付けることである、と言われる。すでに述べたように、たとえば、子ど もは、理由を批判的に検討できるようになるだけでなく、相手の議論についていき、異 なる考えをもつ他者の立場に敏感にならなければならない。しかし、このようなことは、
学校や教師が前にいる間だけでなく、実生活や社会の必要な場面で適切な仕方で発揮で きることが理想であろう。そのような理念の達成のためには、合理性の育成において子 どもが学ぶものには、合理的に考えるテクニックや技法だけでなく、そのような技法を 適切な場面で適切な仕方で発揮しようとする子どもの傾向性や性格も含まれている必要 がある。なぜなら、子どもが合理的に考えるテクニックや技法を習得するだけでは、そ れを用いる適切な場面を見極めることができないことや、適切な場面において用いるよ う動機づけられないことなどがありえるからである。17
しかしながら、シェフラーやそのほかの哲学者の支持する、このような合理性の育成 という考えに対して、いくつかの批判が考えられる(cf. Bailin & Siegel, 2003)。その中で も重要な批判の一つは、合理性という能力を育むことを重視することで、その教えや学 びのプロセスで果たす情動の役割が軽視されてしまうのではないか、というものである。
18 しかし、「教えることについての哲学的モデル」(1964年) という論文においてシェフ ラーは、そこで論じられる合理性の教育を経験や情動と対立させる意図はないと述べ(RT 78)、「認知的情動を称賛して」(1977年) という論文の中で、認知的活動に関係すると考 えられる、さまざまな情動の役割を検討している。そこで次節では、合理性を養うよう な教えと学びと、情動との関係について考えよう。