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学びにおける認知的情動としての驚きの役割

ドキュメント内 教えと学びの認識論 (ページ 60-64)

シェフラーの考察は、主に学びの文脈における認知的情動としての驚きの果たす役割

に焦点が当てられている。そこで本節では、まず認知的情動としての驚きと学びとの関 係を明確にする。

認知的情動としての驚きと学びとの関係に関してシェフラーは次のように述べる。

[認知的情動としての]驚きに対して受容的である(receptive to surprise)からこそ、

われわれが初めにもっていた信念が適切なものではなかったことを認め、さらに改 善する必要性があることを認識することができる、すなわち、われわれは経験から 学ぶことができる。それゆえ諸理論の真偽を確かめることは、理論を生み出すこと と同様、適切な情動的傾向性(emotional dispositions)が要求される。(カッコ内筆者, PCE 12)

ここで「経験から学べる」とは、初めにもっていた信念の誤りを認め、さらに改善する 必要性を認識することであり、この学びの文脈として合理的生活が想定されている、と 言える。この引用では、経験から学べるために、認知的情動としての驚きに対する受容 性が必要である、と主張される。ここで次の二つの疑問が生じる。第一に、驚きに対す る受容性とは何か、第二に、受容性は学びをどのように促進するのだろうか。以下でそ れぞれの問題を考えよう。

まず、受容性について明らかにしよう。シェフラーの議論において、受容性とは、認 知的情動に対する開かれた態度のことである。たとえば、或る人が質問や批判を受けて、

事前にもっていた信念の正しさが不確実なものとなり、その人が不安な気分になる、と する。「不確実性」は、真偽が問われている信念状態のことであり、「不安な気分」はそ の不確実な状態を起因とする気分のことである(PCE 13–4)。この事例から、ここでの受 容性は、信念状態のことでも気分のことでもなく、重要な認知内容が変化することによ り生じる自分の情動を受け入れる態度のことである、と言える。言い換えるならば、

(3-2) 受容性とは、認知的情動に対する開かれた態度のことである、

となり、現在の議論は驚きに焦点を当てるものであるから、

(3-3) 受容性とは、認知的情動としての驚きに対する開かれた態度のことである、

となる。いま、受容性について詳しく論じているSlote(2013b)の議論を参照するなら、こ のような態度は、たとえばオープン・マインドのように、認知に関わる性格特性と見な すことができるだろう。

ところで、ここでの受容性によって認められる情動は、認知的情動であることが重要 である、ということに留意しよう。たとえば、ある人が、任意の情動に対して開かれた

62 3章 教えと学びにおける認知的情動としての驚きの意義

態度をもっているとし、合理的生活における任意の質問や批判に対して驚きうるとしよ う。この場合、この人は些細な問題や重要ではない批判に対しても驚きうることになり、

それは、あまりに多くの驚きに圧倒されてしまうことで、自分の主張や理論を放棄する ことにつながってしまうかもしれない。だが、そこで与えられた質問や批判はすべて瑣 末なものであり、その人の主張や理論は後に重要なものであることがわかるようなもの であった、ということはありうる。この事例は、任意の驚きに対してただ受動的である ことは学びにとって問題とさえなりうることを示唆している。

しかしながら、シェフラーの議論においては、(3-1)の規定より、受容性によって認め られるものは認知的情動に限定されているため、受容される驚きによって生じるものは、

当の特定の状況に関連のある認知内容に限られる。学ぶという現在の文脈を考えると、

ここでシェフラーの想定する受容性は、ただ驚きを受動的に受け入れるのでなく、当の 教えや学びに関連のある事柄に対してのみ驚くという仕方で驚きを選択する働きがある、

と言える。より一般的には、受容性とともに生じる情動は、当の学びに関連する特徴を 顕著なものとする。そうして、情動は、当人にその特徴に注意を向ける役割を果たすこ とがあると言える。

さらに、認知内容に対する気付きとともに生じる情動は、多くの場合、当人が無意識 のうちになされる反応である。たとえば、驚きは、学びに重要な事柄について、はっと 気付かせてくれることがある。これは、熟慮の末に見つける発見と異なり、気付きとと もに生じる情動的反応である。気付かれた問題点は、当人によって意識的な注意が向け られることで、後に熟考されることになるだろう。同様に、批判に対しても注意が向け られることで反省的に思考されるようになる。たとえば、事前に持っていた主張や理論 が何らかの仕方で修正する必要があるかもしれないことが自覚されるかもしれない。こ のように、問題点の正確な同定や、理論の修正や補強などの認知的仕事には熟慮が必要 であるだろうが、驚きは、そのような仕事をするきっかけを与えうると言えよう。

このことから、次のように言える。驚きは、学ぶ者が認知内容に気付くときの情動的 反応であり、そのような情動的反応を示すことは、その認知内容に注意を向けさせる役 割を果たす。驚きを感じた当人は、みずから驚くという反応を示すことで、当の学びに とって非常に重要かもしれない認知内容に注意を向けることができる。これは、学ぶ者 に反省的に思考する契機を与えることにつながるだろう。この点で、驚きは、合理的な 探求をするうえで重要であると言える。以上のことから、

(3-4) 驚きは、従事している学びに関連する認知内容に対して、驚きを感じる当人に意識

的な注意を向けさせるセンサーの役割を果たしうる、

と言えるだろう。

このような驚きの役割は、第二節で明らかにした、認知的領域や道徳的領域で発揮さ

れる合理性に沿うものである。この点で驚きは、合理的生活における学びに貢献すると 言える。そして、驚きに対する受容性は、学びに意義のある驚きを認めるという点で、

このような学びに貢献する、と言えるだろう。シェフラーの言葉を借りるなら、「承認そ れ自体は、可能な、そして重要な態度であり、そこで認められる状況を超えていく道を 開くものである」(PCE 14)。20

しかしながら、諸々の理由や予測に基づく信念をもったうえで、事前に予想していな かった重要な疑問や説得的な批判を受けると、われわれは驚きを感じるほか、自分の考 えが受け入れられなかったことに対して落ち込むことがあるし、ときには批判を受けて 頭に血がのぼることさえあるだろう。21 このような困難があることを認めたうえで、驚 きへの受容性には、次のヴァルネラビリティが伴う、とシェフラーは述べる。

驚きへの受容性には、或るヴァルネラビリティが伴う。それは、自分の信念が不安 定になってしまう―それには痛みが伴いうる―というリスクを受け入れることであ り、そのうえで自分の予期を手直しし、自分の行為を別の方向に向ける必要がある ことを受け入れることである。(PCE 12)

諸々の理由や予測に基づく事前の信念を修正したり、これまでの議論や探求の方向性を 変えざるをえないような状況は「認識論的苦境(epistemic distress)」と呼ばれる(ibid)。認 識論的苦境においてわれわれは、たとえ他者の意見が説得的なものであることや、探求 や批判的対話の末に到達した結論が妥当なものであるとしても、即座にそのことを認識 することは容易ではないし、そのことを認識したうえで自分の信念を修正することはな おさら難しいだろう。ヴァルネラビリティとは、この認識論的苦境において自分の信念 が不安定になるリスクを受け入れることである、と言える。このヴァルネラビリティを 示すことは、認識論的苦境における自分の信念の不安定な状態から、自分の判断や行為 を手直ししようと再び学ぶ、すなわち、学び直す(relearn)ことができるために必要なこと である、と考えられる(PCE 14)。

もちろん、このような認識論的苦境をはじめから回避する方法もある。たとえば、諸々 の理由を検討することや、事前に証拠に基づいて予測することなどをやめてしまうとい う態度である。これは、正しい信念や妥当な結論を得るための好奇心や関心をもたない ということであるため、「認識論的無関心(epistemic apathy)」と呼ばれる(PCE 13)。ある いは、自分の信念と相容れない意見や考えを頑なに拒否することや、自分の信念の正し さや、理由や論証の妥当性を調べることを避ける態度―「独断主義(dogmatism)」と呼ば れる―もありえるだろう(PCE 14)。

しかしながら、認識論的無関心という態度や独断的態度を決め込むことで認識論的苦 境を避けることは合理的生活を放棄することになる。というのも、第二節における議論 から、合理的生活を営むためには、認知的にも道徳的にも合理的である必要があるから

64 3章 教えと学びにおける認知的情動としての驚きの意義

である。たとえば、諸々の理由を公平に批判的に検討するだけではなく、それらを批判 的に吟味する態度をもつ必要がある。あるいは、必要な場合に自分の信念が誤っている ことを認識し、学び直すことができる必要がある。しかし、合理的生活において学ぶた めに必要なこれらの条件が認識論的無関心や独断的態度では満たされないのである。こ のような理由から、合理性の可能性を放棄せずに学び続けるためには、事前にもってい た信念が不安定になることに備えておく必要がある、と考えられる。この準備を可能に するという点でヴァルネラビリティは学びを促進しうる、と言える。

これまでの議論から、第一に、受容性を伴うことで驚きが、当の教えや学びの内容に 関連のある質問や批判に意識的な関心を向けさせるセンサーの役割を果たしうるという こと、第二に、その結果として、驚きは、事前の信念の誤りを認め、問題点を明確に把 握し、自分の主張や理論を修正したり、補強しようとする良いきっかけを与えるもので ある、と結論づけることができる。言い換えるならば、認知的情動としての驚きに開か れた態度をもつことで、驚きは、経験から学ぶ良い機会を与えてくれる。

興味深いことに、認知的情動としての驚きと学びとの関係についての以上の議論が認 められるなら、合理的に考える者は、学び続ける限り、驚きを経験し続けることになる だろう。この驚きと継続的な学びとの関係について、シェフラーは次のように述べる。

問いに答えることは、最初の信念を生み出すことであり、それによって前には説明 できなかったことは信念の中へと整合的に取り込まれることになるだろう。これは、

諸前提の枠組みを改良することであり、そのような枠組みの中では、それまでの驚 くべき出来事も予測されたものかもしれず、同様の出来事が驚くべきものではなく なることになる。

説明を追求するための批判的探求とは、驚きの構成的結果であり、はじめの行き詰 まりを、意欲的に取り組まれる探求へと変えていくものである。(PCE 15)

学生のときだけでなく、われわれが正しい信念や妥当な判断を追究する、すなわち、学 び続ける限り、驚きの経験をし続けることになるだろう。この意味では、合理的生活の さまざまなところで見られる、経験からの学びのプロセスとは驚きの連続の歴史である、

と言えるだろう。

ドキュメント内 教えと学びの認識論 (ページ 60-64)