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感覚される理由という概念の特徴と利点

ドキュメント内 教えと学びの認識論 (ページ 80-83)

本節では、感覚される理由という概念を明らかにすることで、小説や映画などのメデ ィアの中の登場人物が批判的に思考する描写やその物語は、われわれの情動や感覚を喚 起しうること、および、そのような情動や感覚は子どもに批判的に思考するよう促す役 割を果たしうることを明らかにする。

感覚される理由の特徴をみてみよう。まず、理由は、感性的特性(visceral quality)を持 ちうる、と言われる。ドストエフスキー(F. Dostoevsky)の『カラマーゾフの兄弟』を事例 にしながら、シーゲルは感性的性質について次のように説明する。

哲学の歴史を通じて、悪の問題は、神の存在に関する諸議論の中で中心的な役割を 果たしている。では、ドストエフスキーによる、悪の問題の提示があれほど影響力 を与える理由は何だろうか。私の考えでは、その答えは、理由がときに持つ感性的 特性と関係している。すなわち、理由がしばしば、感覚する主体としてのわれわれ に対して与える効力と関係している、と考えられる。(Siegel, 1997, p. 48)

『カラマーゾフの兄弟』は、イヴァンとアリョーシャという二人の主人公が神と悪の問 題を真剣に考え合う姿を見事に描写する中で、自由意志の問題など、存在や倫理の問題 を扱っている。その描写を通じて主人公たちの思考過程が提示されることで、読者の中 には、主人公たちの理由を一緒になって考え、その理由に説得力を感じたり、あるいは、

その理由はおかしいと思ったりするように、主人公たちの議論に誘われる者がいるだろ う。一般に小説は、われわれの情動や感覚に訴えるような仕方で理由を提示する仕掛け として機能しうると言え、この特徴は、映画や対話編のテキストにも当てはまるだろう。

ここで、「理由は感性的特性をもつ」というシーゲルの言明をより明確にしなければな らない。一見すると、「理由が感性的特性をもつ」という言明は、理由の存在論的身分に 関わるものであるように聞こえる。そのように解釈するなら、シーゲルはここで、理由 そのものがわれわれの感覚に訴えるという感性的特性をもつという主張をしていること になろう。しかしながら、このような主張を擁護するためには、理由と感性的性質につ いての詳細な説明が必要である。

加えて、第三節と第四節でシーゲルは、理由は規範的効力をもち、それは批判的に思 考しようと動機づけうるものであるという考えを支持していたことを思い出そう。そこ では、規範的効力が感性的性質をもつとは説明されていなかった。それに対して、もし ここでシーゲルが、感性的性質は理由の存在論的身分に関わるものであると考えている なら、ここでのシーゲルの主張は、理由には証拠力と規範的効力のほか、感覚に訴える 特徴としての感性的特性をもっている、というものとなる。しかし、このように考える と、たとえば、理由における証拠力、規範的効力、および、感性的特性との関係などが 理解し難いものとなる。それゆえ、「理由が感性的特性をもつ」という言明で、もしシー ゲルが理由の存在論的身分について論じているならば、その主張を支持するために説明 が必要である。だが、ここではそのような説明がなされていないため、おそらく、シー ゲルの述べることは認めがたいと評価されるだろう。

しかしながら、「理由は感性的特性をもつ」という言明によってシーゲルは、理由の存 在論的身分ではなく、理由の提示のされ方について論じていると解釈するほうが理に適 っていると考えられる理由がある。私の解釈では、「理由は感性的特性をもつ」とは、「理 由が提示される仕方は、われわれの情動や感覚を触発することがある」ということを意 味する。

このように解釈できると私が考える理由には次の二つがある。一つ目の理由は、感覚 される理由に関するシーゲルの引用において強調されているのは、理由の存在論的身分 でなく、理由が提示される仕方である、ということにある。ここで「理由の提示の仕方」

とは、たとえば、登場人物が理由について思考する思考過程や、その際の振る舞いや態 度などの描写や、そのような描写を含む全体の物語のことである。理由の提示の仕方は、

小説や映画の中だけでなく、たとえば、子どもと大人の間での理由についてのやり取り など、われわれの実際の対話の中でも見ることができる。一般的に言えば、「理由の提示 の仕方」とは次のように表現することができる。

(4-3) 理由の提示の仕方とは、理由について思考する思考過程や、その理由がやり取りさ

れる際の振る舞いや態度などを含む、理由についてのやり取りが織り込まれている 文脈のことである。

小説や映画は、理由の提示の仕方を描写することで、われわれに何度も理由の提示の仕

82 4章 手本を見習うことで理由に対する感受性を養う

方を示してくれる。また、対話の中では実際の理由のやり取りが行われるため、理由が 交わされる文脈の中に入り込むことになる。

シーゲルによれば、感覚される理由という概念は、理由の提示の仕方の重要性をわれ われに認識させてくれる。

感覚される理由とは、日常的理由のことであるが、そのような日常的理由の中で、

理由や、理由が向けられる人に対する描写の仕方によって、読み手の心を動かす力 が明らかにされたり、明確にされるような理由のことである。感覚される理由は、

理由についての異なる種類、、

なのではない。それは、理由についての特定の種類の提、 示、

なのである。(強調原著, Ibid., p. 52)

このようなことから、感覚される理由という概念を持ち出してシーゲルが説明しようと しているのは、理由の中には感性的特性をもつものがあるという、理由についての存在 論的身分ではなく、理由の提示の仕方であることがわかる。

二つ目の理由は、理由はわれわれの感情に訴えるような仕方で提示されうること、そ して、同一の理由に対して、理由の提示のされ方に応じて感性的特性の強さが異なりう ると言われていることにある。いま、感性的特性が理由のもつ性質であるとする。する と、理由の提示の仕方に関わらず、各理由のもつ感性的特性は不変になるはずである。

だが、シーゲルは、理由の提示の仕方に応じて感性的特性の強さが変わりうるとはっき り述べている(ibid., pp. 49–50)。このことから、シーゲルが、感性的特性が理由のもつ性 質であるとは考えていないことが推察される。

他方で、うえで説明したように、理由の提示の仕方は、われわれに感覚的に訴える、

言い換えるなら、情動の感覚を喚起させることがあることは認められよう。たとえば、

理由について真剣に意見を交わす登場人物たちを感情移入できるような仕方で描く文学 や映画には、純粋に理由を提示する学術書などを読むのに比べ、子どもに理由を考える よう誘う強い効果があるだろう(ibid., p. 51)。

以上の理由から、「理由は感性的特性をもつ」ということで、シーゲルは理由の存在論 的身分についてではなく、理由が提示される仕方について論じていると考えるほうが理 に適っている。感性的性質についての議論を通じてシーゲルが明らかにしている重要な 点は、次のことにある。すなわち、

(4-4) 理由の提示の仕方は、その提示の仕方に応じて異なる強度の情動や感覚をわれわれ

において喚起することがある。

ここで、この(4-3) および(4-4) が、第五節で提示された動機に関する問題に答えるた めにどのように役に立ち、次に、何が明らかにされなければならないのかを確認しよう。

まず、第五節で提示された動機に関する問題とは、「理由に対する感受性がまだ発達して いない子どもにとっての、批判的に思考しようという動機要因は何でありうるのか」と いうものであった。この問題の回答は次の二つの条件を満たすものではなければならな い。すなわち、一つ目の条件は、子どもがしかるべき状況で、親に指示されることなく 批判的に考えるよう動機づけられる必要がある、というものである。二つ目の条件は、

小さい子どもにとっての批判的に思考しようとする動機要因は、理由以外のものでなけ ればならないというものである。(4-3) および(4-4) から言えることは、次のことである。

メディアを用いて理由を魅力的な仕方で提示することや、子どもを理由が交わされる対 話に参加させることで、子どもに十分な強さの情動や感覚を喚起することができる。さ らに、そのような仕方で生じる情動や感覚は、理由に対する感受性の発達していない子 どもを含めて、みずから批判的に考えようとする動機要因の候補となりうる。

その一方で、感覚される理由についてのシーゲルの議論では扱われていない重要な問 題が残っている。それは「子どもが批判的に考えようと促しうる情動や感覚が具体的に は何か」という問題である。それゆえ、(4-3) および(4-4) を認めたうえで、情動や感覚 が、子どもにとっての批判的に考えようとする動機要因となることを論証するためには、

批判的に考えようとする動機要因となりうる具体的な情動や感覚を特定すること、およ び、その情動や感覚が批判的に思考しようとする動機要因となると言える根拠を示すこ とが必要となる。

私は、そのような情動や感覚として、合理性を示す手本に対する敬慕という情動を考 える。次節では、この考えを明確にして、動機に関する問題に対する私の回答を与えよ う。

ドキュメント内 教えと学びの認識論 (ページ 80-83)