第二章 OCA理論のサーベイ はじめに
2.6 EMU ガバナンスを形成するうえでの OCA の役割-収斂基準との照合
2.6.1 影が薄い OCA 理論
まず、OCA 理論は EMU の設計においてどのような影響を及ぼしたのであろうか。
Mongelli(2008)に依拠して概観する。マーストリヒト条約の青写真となったドロール報告
(1989) に お け る 議 論 は 主 と し て 、 外 為 相 場 の 不 安 定 さ (volatility) や 不 整 合
(misalignment)から生じるリスクを減らすことが狙いだった。これはどちらかと言えば,
EC/EUを防衛するという目的が色濃かった。単一通貨を導入することによって、こうした
外為相場の不安定さや不整合のコストをなくすことは、「単一市場(市場統合)」を補完す ることにもつながった。このような議論はOCA理論と何ら直接の関係はないか、もしくは 非常に薄弱なつながりしかない。すなわち、ドロール報告の中にはOCAの諸特性について 目立つ記述はなく、後にEC委員会が出したOne Money, One Market (Emerson et al, European Economy, 44、1990)においては、初期OCA理論についての批判的な見解が示 されている。OCA 理論は当時、EMUを推進する上で政治的には魅力的な提案ではなく、
脇に追いやられた形となっている。
しかし、逆説的とも言えるかも知れないが、One Money, One Market報告は、OCA理 論への強い関心を再びよみがえらせ、新たに多くの研究が行われるようになった。同報告 では経済統合より通貨統合の影響により重点が置かれ、前述のFrankel and Rose流の「内 生的」効果は想定されていない。
さらに、同報告は「古い OCA 理論」の欠陥は通貨統合から「期待される正味の恩恵
(expected net benefits)」を重視し過ぎることに導く可能性があり、EMUはOCA特性の 適用に基づいて予想されるよりはずっと多くの恩恵をもたらすものであると指摘。例えば、
欧州では労働力移動の程度は低いが、その代わりに資本移動は活発であり、これは代替の 調整チャンネルになっていると主張する。
こうした中で、EMU の完成に向けて、ドロール報告では OCA 理論は採用されず、「収 斂基準(convergence criteria)」が打ち出され、通貨統合参加希望国にはその達成が求めら れるようになった。収斂基準はマーストリヒト条約に明記された。4つの収斂基準を列挙 する。
①過去1年間、消費者物価上昇率が最も低い3カ国の平均値プラス1.5%以内であること、
第二章 OCA理論のサーベイ 41
②為替相場は少なくとも2年間、為替相場メカニズム(Exchange Rate Mechanism=ERM) の許容変動範囲内にあって、切り下げがないこと、③金利については過去1 年間、インフ レ率が最も低い 3 カ国の長期金利の平均値プラス 2%以内であること、④財政赤字は国内 総生産(GDP)の3%以内であり、公的累積債務は GDPの60%以内であり、そしてこの 水準を上回っている場合には着実に「その方向に向かっている(move in that direction)」 が求められている。
これら 4 基準については、当初、すべてに重点が置かれてきたが、次第に④の財政政策 の持続性(財政規律)と過剰債務の回避に重点が置かれるようになった。その後、財政規 律の維持を義務付け、違反国には制裁を科す「成長・安定協定(Stability and Growth
Pact=SGP)」がEU域内で導入されたが、その後、事実上、空洞化したとの指摘もある。
そうした中で、EU27カ国のうち英国とチェコを除く25カ国はユーロ圏内の信用不安に対 応して、ユーロ圏内の財政規律の大幅強化を目指す新「財政協定(fiscal compact)」に署名 した。ユーロ圏各国に財政均衡を義務付ける条項を憲法に明記させ、財政規律違反国には 自動的に制裁を科すという厳しいものだ。
2.6.2 OCA 理論の諸特性と収斂基準の比較
OCA 諸特性としては、Mongelli(2008)に従って(1)物価と賃金の柔軟性、(2)労働力 を含む生産要素の移動性、(3)金融市場の統合、(4)経済の開放度、(5)生産と消費の多 様化、(6)インフレ率の類似性、(7)財政統合、(8)政治統合、であるとの立場をとる。
物価の安定性に関する収斂基準(1)は、OCA諸特性のうち、インフレ率の類似性(6) に似通っている。
収斂基準のうち為替相場の安定②と長期金利の低水準への収斂③はインフレ率の類似性
(6)の必要性を反映している。
また、通貨統合に先立つ市場統合は、OCA諸特性のうち労働力を含む生産要素の移動性
(2)と金融市場の統合(3)を目標として包含している。ただ、生産要素のうち労働力移 動については、前述したように、市場統合の枠組みではあまり進展しなかった。
さらに、収斂基準のうち財政規律の強化は、OCA 諸特性の中では財政統合(7)に先立 つものである。そして、財政統合が実現しなければ、政治統合(8)も達成不可能である。
収斂基準には、OCA諸特性のうち物価と賃金の柔軟性(1)と生産と消費の多様化(5)
の必要性は反映されていない。EC/EU域内では、各国ごとに賃金の決定方式が異なり、下 方硬直性が目立つ加盟国もある。
特に欧州大陸諸国では、経済ショックを受けての実質賃金の調整のスピードが遅いとさ れる(OECD、1999。欧州においては、失業率の上昇が実質賃金に対して下方圧力をかけ る中で、賃金調整のコストの大半は経営側が負担しているとみられる。
労働市場の統合は地理的側面と職業的側面の両方から研究されてきており、地理的側面
第二章 OCA理論のサーベイ 42 における労働力移動の程度をみると、米国は欧州より 2,3 倍高いとの研究結果がある
(OECD, 1999). OECDはさらにユーロ圏においては、国境を越える移動は経済的インセ ンティブが低く、経済的ショックへの対応となりにくいと指摘した。
EMU が完成した 1999 年時点で、OCA諸特性をめぐる状況はどのように総括され得る かMongelli(2008)は概観している。
すなわち、経済の開放性(4)と生産と消費の多様化(5)は高度に進んでおり、インフ レ率も低水準で類似してきた。一方、物価と賃金の柔軟性の達成程度は低く、労働力の移 動も低水準にとどまっている。さらに、金融市場の統合については、依然、低水準である ものの進展しつつあると指摘している。
2.6.3 「マネタリスト派」と「エコノミスト派」
前項で、物価の安定性に関する収斂基準①と、OCA諸特性のうち、インフレ率の類似性
(6)が似通っていると指摘したが、EMUを達成する過程で、主要な推進役を果たした独 仏両国の間で通貨統合参加国間でいかにインフレ率を低水準に収束させるかについて「哲 学論争」があった。
独仏両国の意見対立の背景には、フランスは共和国の伝統を有する中央集権国家であり、
一方、ドイツは「秩序自由主義(ordo-liberalismus)」15)を掲げる連邦国家であるとの事 情があった。
EMU完成に向けて、フランスは「マネタリスト的」アプローチをとり、ドイツは「エコ ノミスト的」アプローチを採用した。
フランスは、為替相場の安定と為替相場の支援メカニズムを求め、新たな共通中央銀行 の設立を主張(後に欧州中央銀行=ECB として結実)、それが通貨統合参加国における低 インフレを保証するものの、「ディスインフレ(極度の低インフレ)」に向けたプロセスは 長期間にわたり、高コストになるだろうとの立場をとっていた。
一方、ドイツは通貨統合参加国間の経済政策の協調を重視し、金融政策の整合性を図る ために経済パフォーマンスを長い時間をかけて収斂させることを通貨統合の前提条件とす べきだと主張した。ドイツの主張は安定志向の少数の国が通貨統合を進めるというもので あり、これにより高インフレ国からの「悪影響(negative spillover)」を防げるとみていた。
結局、EMU実現の方法は独仏両国の主張を折衷する形となった。すなわち、完全な収斂 の達成は不必要であるとするマネタリスト派のフランスは EMU 第三段階がスタートすべ き日付の設定を勝ち取り(1999 年1 月と設定された)、金融政策の整合を主張するエコノ ミスト派のドイツは収斂基準の設定を確保した。
15 ドイツにおいて秩序自由主義は「社会的市場経済」の理論であり、第二次世界大戦後の旧西独の 経済復興を支えた。
第二章 OCA理論のサーベイ 43
2.6.4 EMU の便益と費用 -OCA 理論との関連
EMUとそれに基づき導入された単一通貨ユーロの便益と費用については、これまで数カ 所で簡単に触れてきたが、この節でまとめてみよう。
2.6.4.1 便益
実現した便益として、
① 欧州中央銀行(ECB)の設立による金融政策枠組みの誕生
② 貿易の促進
③ 金融市場の統合
④ ユーロの国際的役割
が挙げられる(Mongelli, 2008)16。
① については、ドイツ連邦銀行(Bundesbank)をモデルに設立されたECBが信頼性
(credibility)を勝ち得ることで、インフレ期待が抑制され、低金利が確保された。
これによりユーロ圏参加国は債務支払額を減少させ、投資と成長を促進することが できた。②の貿易促進効果については、さまざまな研究が行われ、数字はばらつい ている。例えば、Micco, Stein and Ordonez(2003)は、ユーロ圏参加国間の二国間貿 易はユーロ圏非参加国間の貿易に比べて5-20%増加したとの試算を示した。一方、
通貨統合のユーロ圏内貿易拡大効果については3%もしくは5-10%との試算もある。
③の金融市場の統合に関しては、対外直接投資(FDI)を製造業分野における企業の クロスボーダーM&A(合併・買収)を促進した。EMU はFDI を 7%押し上げたとの 試算もある。
さらに、英誌エコノミスト (2002)は、金融市場の統合により、株式資本コストは平均約 50 ベーシスポイント、債券発行による資金調達コストは約 40 ベーシスポイント下落した 可能性があるとしている。金融市場統合の総合的な影響に関しては、大半の EU 加盟国の GDPを0.9-1.2%押し上げたと試算した。
④のユーロが果たす国際的役割から生じる便益については、セニョーリッジ(seignorage , 通貨発行がもたらす利益)と国際取引コストの低下を挙げた。
一方、De Grauwe,(2009)は共通通貨の便益として、
① 取引費用の削減
② 価格の不確実性を減らすことによる価格メカニズムの配分効率の改善
③ 為替相場の極端な変動の除去
④ より高い価格の透明性を生み出すことによる競争の促進
16 ibid. pp 48-50