第四章 OCA 理論再構築のための 2 条件―(1)成長戦略
4.6 成長戦略―競争力と経常収支の不均衡
4.6.3 キャッチアップ
別の視点から不均衡の問題をみてみよう。ギリシャ、アイルランド、スペイン、ポルト ガルは「低所得国」の状態から抜け出すために過去数十年間「経済的キャッチアップ(追 い上げ)」の時期にあった。これにより経済にいくつかの「緊張状態」が生まれた。まず、
生産性の上昇は交易可能品(tradable goods)の分野でペースが速くなり、これに伴い非 交易品分野からの資源の再分配が進み、インフレが高進した。次に、キャッチアップによ って急激に変化する経済は安定化させることが困難となった。また、内需は過熱気味とな り、潜在的経済パフォーマンスは弱体化し始めた。これに旺盛な不動産投資と借り入れが 加わり、1980 年代後半の日本の「バブル経済」の状況に似通ってきた。換言すれば、ギ リシャ、アイルランド、ポルトガル、スペインにおいて活発な借り入れは、持続不可能な 高成長が期待される中で行われたのである。
金融自由化と欧州経済通貨統合(EMU)の完成に伴う金融政策の信用度の上昇は、借 入コストの減少の効果もあり、南欧・周辺諸国の経常収支赤字を膨らませることになった。
通貨統合の完成に先立つ 5 年間、名目長期金利はイタリア、ポルトガル、スペインにおい
て 5%超低下したのに対し、ユーロ圏全体の平均低下率は 3%だった。名目借入コストの
低下は、実質金利や期待インフレ率が下がったことやリスク・プレミアムの減少を反映し たものだ。南欧諸国における名目長期金利の低下はユーロ圏全体における市場金利の収斂 傾向を示す。さらに、単一欧州資本市場の発展により、ユーロ圏諸国にとって資本の調達 可能性が高まったという要因もある。
こうした南欧・周辺諸国の状況と比べると対極ともいえる状況にあったのがドイツだ。
同国では2000年の景気後退を受けて、回復の初期段階にあったものの、1990 年の東西ド イツ統合以降の経済調整が続いていた。失われた競争力を取り戻す必要がある中で、建設
第四章OCA理論再構築のための2条件―(1)成長戦略105 ブームの余波が投資を抑制していた。製造業の生産システムは再編成され、生産設備の一 部は中東欧諸国に移転された。シュレーダー政権の下で構造改革が優先され、労働市場や 年金の改革が実施された。例えば、退職年齢は 67 歳に引き上げられることになった。一 連の改革は家計貯蓄の増加にもつながった。ユーロ圏内では唯一、ドイツの住宅価格は下 落した。さらに賃金も抑制され、単位当たり労働コストは減少した。こうした中で、ドイ ツにおける内需の伸びは抑制され、2002-07 年には 0.3%にとどまり、ユーロ圏平均の 1.8%を下回った。一方、輸出は年率7.5%の伸びを示した(OECD, 2010)。
オランダでは IT バブルの崩壊により国民の消費意欲が大幅にそがれるとともに、年金 保険料率が大幅に引き上げられる中で、財政再建が進められた。
このように 2002-07 年のリーマン・ショックに先立つ 6年間において、南北格差のパ ターンが定着しつつあった。
4.6.4 不均衡の拡大を防げなかった財政政策
それでは財政収支と経常収支の間に強い相関関係はあるのだろうか。長期的には強いよ うだ。ある計量経済学的実証分析によれば、財政収支が対 GDP 比で 1 パーセンテージポ イント悪化すれば、経常収支は短期的には 0.5 パーセンテージポイント、長期的には 0.75
-1 パーセンテージポイント悪化するという(Kumhof and Laxton, 2009)40。
直近の景気上昇期において、アイルランドとスペインは当初、小幅の財政赤字を記録し、
その後、黒字に転換した。しかし、財政黒字は民間部門における不均衡を相殺するには不 十分であった。それでも財政収支は経常収支赤字に積極的に貢献したわけではなかった。
一方、ギリシャとポルトガルは2002-07年にそれぞれ対GDP比で5.4%と3%超の財政 赤字を計上し、それが経常収支赤字の大きな部分を引き起こしたとみられている。
ドイツとオランダも財政赤字を記録したが、旺盛な民間貯蓄がそれを相殺するにあまり あるほどだった。両国では 2002-07 年における緊縮政策は中期的な財政安定化に貢献す るとともに国民貯蓄率の上昇を導いた。
4.6.5 過熱化した経済を移民流入で調整
Mundell(1961)の「最適通貨圏(OCA)理論は非対称的ショックへの対応で労働力の移 動を重視したが、国外からの移民の流入は想定していなかった。
過熱化した経済においては、物価と実質為替相場は上昇するが、その効果は移民が大量 に流入することによって抑制される。
欧州における労働力の移動の度合いは一般的に米国よりずっと低いとされるが、ユーロ 圏の対外開放性が高いことが EU 域内および域外からの移民の流入を活発化させている。
40 M. Kumhof and D. Laxton “Fiscal Deficits and Current Account Deficits” , 2009 IMF Working Papers p 23
第四章OCA理論再構築のための2条件―(1)成長戦略106 また、労働力の移動は単一市場の存在や EU 拡大、旧植民地とのつながりによって促進さ れている。近年においては経済成長と国内経済の不均衡も移民の流入を後押ししている。
アイルランドとスペインでは 2002-07 年、年間平均で人口の 1%に相当する移民が流 入した。アイルランドの人口は約400万人、スペインは約4100万人。
スペインでは労働人口に占める外国人の比率は 2001年の 4%から 2007 年までに 13%に 拡大した。アイルランドでも外国人労働者は労働人口の約 10%を占めるようになった。
活発な内需の一部は移民によって吸収されたとみられる。移民の流入による追加労働力は 交易品分野ではなく、建設業やサービス業など非交易品分野において大量に雇用された。
景気上昇サイクルのピークが過ぎると移民の流入は減速した。
ここでEUの移民政策についてみてみよう。
欧州委員会によると、2006年1月時点でEU域内に在住する第三国の国民は1850万人 に上った。これはEU加盟国市民の約4%に相当する。国別では、トルコ(230万人)、モ ロッコ(170 万人)、アルメニア(80 万人)、アルジェリア(60 万人)の順だ。EU が域 外から受け入れる移民は毎年 200万人前後に達している。移民の受け入れでは、英国、ド イツ、イタリア、スペインの4カ国で全体の4分の3を占めている。一方、EU域内では 日本と同様に少子高齢化が進み、医療、IT部門などの熟練労働者、農業、建設、旅行サー ビスなどの非熟練部門などでの人手不足が顕著となり、移民労働力への需要が高まってい る(村上、2009)。
4.6.6 住宅ブームと信用循環が不均衡に拍車
スペインなどユーロ圏の一部諸国では低金利が住宅ブームと信用循環に拍車をかけた。
スペインの住宅価格は2002-07年に名目で 80%上昇、フランスとアイルランドではそれ ぞれ70%、45%上昇した。対GDPでの住宅投資のシェアは、ピーク時にアイルランドで は 13%超、ギリシャとスペインでは約9%に達した。このように住宅投資は活発化し、
低金利もしくはマイナス金利下であることも影響して、住宅バブルが発生した。住宅価格 の上昇期待が高まったことで住宅投資のための借り入れは家賃収入の見込みがどうであれ、
儲かるものと見なされるようになった。さらに、建設コストの高騰により、国内諸コスト が上昇し、輸出が「クラウディング・アウト(押し退け)」の対象となった。国内におけ る住宅に対する旺盛な需要は景気上昇期において、アイルランドとスペインでは移民の大 量流入によって増強された。住宅投資と経常収支赤字の間には密接な関係がある。
一方、ユーロ圏における金融規制・監督の脆弱性はこの間、リスク取り行動を結果的に 奨励することになった。これに対し、スペインは証券化(securitization)の抑制措置を通 じて、活発化した金融循環に対抗しようとしたが、住宅ブームと信用循環の活発化を防ぐ ことはできなかった。
国際金融危機が発生したとき、多くのユーロ圏諸国は自国金融システムにおける膨大な 信用リスクもしくはクロスボーダーのエキスポージャーを通じた大きな信用リスクにさら
第四章OCA理論再構築のための2条件―(1)成長戦略107 されていた。危機発生後、クロスボーダーの銀行活動もしくは金融仲介(インターミディ エーション)が大幅に縮小し、ギリシャやアイルランド、スペインなどにおいて資金調達 が非常に厳しくなった。こうした状況に対応するために EU による公的支援と ECB によ る流動性供与が行われた。ユーロ圏参加国間の金融支援システムが存在しなかったからで ある。
需要の減退と信用循環ブームの終焉により、債務国政府の財政収支は圧力にさらされる ようになり、緊急融資などによる公的支援は公的債務の増加につながった。対 GDP の公 的債務比率は 2007-09 年にアイルランドでほぼ 40 パーセンテージポイント、ギリシャ で19ポイント、スペインで17ポイント上昇した。これら3カ国は自動安定化装置を作用 させることはできなかったので、裁量的政策は景気循環増強型(procyclical)となった。
こうした財政収支の悪化と金融市場におけるリスク感応度の高まりを背景に、3 カ国の国 債利回りの対ドイツ国債スプレッドは拡大していった。
ただ、ユーロ圏諸国における対外不均衡は 2009 年までに縮小した。ドイツの対 GDP 比経常収支黒字は2007年の7.7%から2009年には5%に縮小。一方、スペインの対GDP 比経常赤字は同期間、10%弱から 5.4%まで縮小した。対外ポジションの変化は経済不均 衡の是正が相当進んだことを示している。特に、アイルランドとスペインでは民間部門の 内需が大幅に減少した。ただ、こうした調整は景気循環的であり、景気が回復すれば逆転 する可能性がある。
4.6.7 加盟国間での競争力の乖離拡大
次にソブリン債務危機と密接な関係があるとされる競争力をめぐる問題について De Grauwe(2011)をベースに検討する。
ユーロ圏における基礎的不均衡の一つが 2000 年以来のユーロ圏参加国間での競争力の 乖離拡大だということが広く認識されるようになってきた。各国の競争力は単位当たり労 働コストで表されると考える。図 4-6は 2000 年をベース年=100 とした場合の変遷を 表している。
図4-6 ユーロ圏における相対的な単位当たり労働コスト
(2000=100)