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富山の配置薬産業の成長発展要因分析

第8章 考察

第 1 節 富山の配置薬産業の成長発展要因分析

(1)要因分析 1「地域性と県民性」

富山県は、新潟県・長野県・岐阜県・石川県に囲まれ、山地が境界となり、北側のみ海(富 山湾)となっている。一県だけの独立した県域という特性を持っている。歴史的に見ても、

唐からの輸入や北前船の寄港地だったことから、薬種が集めやすい土地柄であった。

最近では暮らしやすい県としても有名である。物価に関する指標は東京の約 9 割程度、

住宅に関する指標では住宅地の平均価格が東京の 1 割程度である。家計収支に関する指標 では、可処分所得が全国で1位と生活費にゆとりがある。47都道府県の就業魅力度ランキ ングにおいては、すべての平均点がランキング1位であった。

共働き率も高い。富山県の共働き率は 54.7%と全国 5位であり、共働きができる環境で あることも裏付けられる。一般世帯の家族型で見ると、「単独世帯」の割合が全国で44位と 低く、「3世代世帯」の割合では全国で5位と高いことから、子供を親にみてもらいながら 働ける環境であることもわかる。

富山県の県民性を一言で表すと、雪国のため男女ともに粘り強く、「勤勉、堅実、まじめ、

生活はつつましやか」な市民性である。それは「儲けるより使うな」という金銭感覚にも表 れている。冷害・水害・火災で苦労した土地のため、万一の備えも怠らない用心深さも持っ ている。物言いははっきりしているが、協調性がある(森田,2012,p.92)。以上のことから商 売で成功する人も多い。この特性こそ、まさに「越中富山のくすり売り」そのものである。

富山県は「持ち家率全国1位」であるが、それは「勤勉、堅実、まじめ、生活はつつまし やか」に暮らしたおかげで、「家を残せるだけのお金を貯めた徳の深い人」であることを意 味し、実践してきたことがわかる。「家を持って一人前」という考えが根付いていることか ら、これは土地柄といえる。家を持っていない人は、地に足がついていないようで「信用」

が薄いという年配者の考えがある。持ち家率からも分かるように、「信用」を重要視してい るといえる。「越中の一つ残し」という言葉もあり、一財産を残し、子孫に土地や住宅を残 していきたいという思いなどからも、堅実さがうかがわれる(森田,2012,pp.23-31)。

(2)要因分析 2「教育」

富山県の薬業教育には古い歴史がある。富山売薬の発展とともに薬学の形も変革を遂げ てきた。江戸時代、富山売薬の隆盛と共に、読み・書き・そろばんの必要性が高まり、寺子 屋が多く作られた。寺子屋は売薬業の発展に重要な役目を果たした。代表的な寺子屋に「小 西塾」がある。教育内容も実践的であり、『商売往来』による「大黄・甘草・麝香」など薬 の名前が45出てくるため、その読み書きについても徹底的に教えていた。特に算術に重点 が置かれていた。第5章で示したように、江戸時代には「算術」は87%と群を抜いて高か った。金額を計算したり、配置薬懸場帳に記載したりするために必要だったのである。

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幕末に 2,700 人に達していた薬行商人は、和漢医学の成果を取り入れた薬の処方が約百

数十種類に達していた。藩や売薬業者は、その信用保持のために努力を重ね、原料である生 薬の入手や吟味、薬剤の調合に最大の注意を払ってきた。生薬の真偽鑑定が生命に関わるこ とから薬学が生まれた。1895年、日本で初めての薬学専門学校「共立富山薬学校」が設立 された。薬剤師の育成・売薬行商人の育成を目的をとした。その後、入学者の応募が伸び悩 み、関係者の経営努力にもかかわらず、私立としての経営が困難となり、市立へ移管となっ た。設立から6年、困難を乗り越えながら実験機械器具などの整備がされてきたが、1899 年の富山市の大火によって類焼してしまった。校舎の再建運動などにより、1907年、「富山 県立薬学校」へと移管され、開校式を迎えた。これが日本で初めての県立薬学校である。

総務省(2014)の経済センサス-基礎調査によると、「そろばん教授業」の事業所数は、全 国のそろばん教室6,753軒で、人口10万人あたり5.31軒である。全国で最もそろばん教 室が多いのは富山県で20.84軒、全国平均の3.9倍であり、偏差値も94.92と飛びぬけてい る。今日でも寺子屋教育の流れが脈々と生きている。

富山県の高等学校進学率は 98.6%で全国 7位、大学進学率は 54.6%で全国14位、国立 大学進学率は全国で2位である。「富山県は教育県」といわれる所以である。江戸時代から 寺子屋による配置薬の行商人の育成が、高い教育文化として今日まで受け継がれているの である。

(3)要因分析 3「売薬から関連産業への発展」

富山の産業界において江戸時代から売薬で蓄積された資本が、富山県の近代経済の形成 と工業化の基礎を築いた。江戸時代から和紙の生産や印刷業が売薬にかかわって興きてい る。印刷手法も時代とともに変化をとげ、パッケージ産業、缶飲料等のチューブの製造業へ 受け継がれてきた。明治の売薬業者たちは、金融機関、鉄道、水産、繊維、水力発電、銀行 業、出版・印刷業、教育など広い分野に投資し、富山県の産業の育成に貢献した。

医薬品関連産業として、原料から薬品製造および最終のパッケージまで、多数の中堅・中 小の医薬品製造業と包装資材製造業など周辺産業の集積があることがわかった。原料から 医薬品製造および、製造過程で使用する一般機械、容器・包装・印刷物などの包装資材製造 業など、医薬品関連の産業集積が充実している。

富山地域は医薬品産業のバリューチェーンが形成されている。更なるバリューチェーン を強化するために、産官学一体の研究開発体制・人材育成を、県をあげて牽引している。

(4)要因分析 4「先用後利の信頼と精神」

江戸時代より富山の薬は、あらかじめ家庭に預けておき、必要になった時に先ずは薬を使 ってもらう。そして代金は後からいただくという「先用後利」という商法で広まっていった。

「先用後利」の売薬商法は、現金収入の少なかった一般市民や地域の人々に受け入れられ 定着していった。地方の一般庶民の生活では、貨幣の流通が不十分で医薬品は常備できず、

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疫病が流行しても病気のたびに買わざるをえなかったという時代である。医療が普及して いない時代に数種類の薬を購入、備蓄することは民衆には経済的に不可能である。時代の要 請に合致した、お互いの信頼と信用の上に成り立った画期的な長期信用取引商法といえる。

現代では、広貫堂や第一薬品工業をはじめとする富山県内の医薬品メーカーから薬を仕 入れ、顧客一軒につき年2回から3回まわり、使用された薬を補充し代金を受け取る「先 用後利」の伝統的な商法を受け継いでいる。都会ではドラッグストアの台頭で苦戦を強いら れているものの、地方へ行けば高齢化の問題も顕著であり、まだまだ需要は多い。

また、富山には「おかげさま」と感謝する、「他力」の思想精神風土がある(森田,2012,p.

57)。生きること自体を「おかげさま」とお互いに感謝することである。この地では、感謝 の気持ちが基礎になって地域社会が作られている。この「おかげさま」こそ、貧困であえぐ 全国各地の庶民に薬を届け、健康と尊い命を守る「先用後利」の精神の元となっているので ある。

それと同時に「粘り強く、楽天的、チャレンジ精神が豊富」な面も併せ持っている。富山 は大きな急流が多く、現代でこそ治水工事によって川は整備されたが、それまでは何度も繰 り返し洪水を起こしてきた。その度に田畑は流され「なるようになれ、くよくよしても始ま らない」と気持ちを切り替え、「めそめそする暇があれば、努力して再建すればよい」と割 り切ってしまうことを繰り返してきたことが根底にある。これを富山弁では「いっちゃぁ」

(なるようになる)という(森田,2012,p. 67)。その精神は今日まで受け継がれている。美 味しいものは独り占めせずみんなで分け合う。分けてあげた人が次にまた分けてくれる「や ったりとったり」の精神、「だれかの『おかげ』で自分は成功できるのだ、という身の回り の人や物、すべてに対する感謝の気持ちを持つ「おかげさま」の精神である。

富山の薬売りとして半世紀以上働いてきた中島信行(富山県薬業連合会副会長)は「代々 続いてきた『人と人とのつながり』が富山の薬売りの財産であり、この仕事のやりがいでも ある」と述べている。

この精神は今日の経営理念にも受け継がれている。この「おかげ」を大切にしていたYKK の吉田忠雄氏は、次のようにも述べている。「重要なのは『くもりなき信用』を得ること」

であり、「商売は表面の信用ではなく、心からの信用を得ることが肝要」(森田,2012 pp.78-79)で、これが「持続可能な経営」に繋がってくる。

コクヨの創成者 黒田善太郎氏は「商売にはいろいろな『おかげ』があるものだ。商人な らこのことを絶対に忘れてはいけない」と述べている。

富山県の人々の根底には、江戸時代から続く人と人との触れ合いや、信頼関係を大切にす る「先用後利」の精神が、今日まで生きているのである(歴史群像編集部編,2011)。

(5)要因分析 5「金岡家(起業家、エンジェル)の貢献」

富山発展の代表的な経営者として、金岡家があげられる。1864年、初代金岡又左衛門は 富山売薬の総元締めの家に生まれる。県会議員を経て国会議員となり、水害復旧を内務大臣