• 検索結果がありません。

売薬による富山の近代経済の形成と工業化

第5章 富山の配置薬産業の史的分析

第 5 節 売薬による富山の近代経済の形成と工業化

富山の産業界におい江戸時代から売薬で蓄積された資本が、富山の近代経済の形成と工 業化の基礎を築いた。

図 5-3 柳行李 出所:鎌田(1986)「イラストで

つづる富山売薬の歴史」

104

江戸時代中期から和紙の生産や印刷業が売薬にかかわって起きている。代表的なものと しては薬袋や預け袋がある。富山独特のものとしては版元が地元で刷った売薬版画がある。

印刷手法も時代とともに木版→石版→活版と変化をとげた。その後、「ます寿し」のパッケ ージ産業、缶飲料等のチューブの製造業へと受け継がれていった(家庭薬新聞社,2009,p.57)。

明治時代になると売薬人たちが、長年かけて蓄えた資金や知識をもとに、金融機関、鉄道、

水産、繊維、水力発電、銀行業、出版・印刷業、教育など幅広い分野に投資し、富山の産業 育成に貢献した(富山県,1987,pp.543-579)。

金融では、1878年設立の第百二十三銀行や明治後期設立の第四十七銀行など多くの銀行 に売薬業者の資本が入っている。これらが統合され、現在の北陸銀行となった(富山 県,1987,pp.543-551)。富山売薬は産地型産業集積と位置づけられる。

金岡家は江戸時代末期から明治にかけて、富山売薬業の総元締めとなっていた薬種商の 豪商である。金岡家は江戸末期より薬種商を営み、家祖である金剛寺屋又右衛門の長男の金 岡又左衛門は、人々の信頼をえて、若くして県議会議長、衆議院議員を歴任した。

密田孝吉の理解者として、共に1899年に大久保発電所を完成させ、北陸で初めて電灯を 灯した。その後も次々と発電所を建設、現在の北陸電力株式会社となる。また、1913年に 富山軌道株式会社の創立委員長となり、北陸初の電鉄の工事を完成させた。

1922年には、常願寺川治水同盟の会長となり、砂防工事を国営事業に組み入れるよう国 政に働きかけた。その他、紡績、育英事業にも尽力し、水力・電力を基礎に多くの産業を誘 致し、富山の経済基盤の土台となった(富山県民会館,1986,pp.62-69)。

表 5-3 富山の経済基盤を築いた金岡家の歴史

初代金岡又左衛門 県議会議長、衆議院議員を歴任。薬種業者とともに銀行の開業、発電所建設、電鉄 会社創業、治水・砂防工事など富山県経済の基盤を築く。

二代目又左衛門 第一薬品株式会社と富山合同無尽株式会社(現在の富山第一銀行)を設立した。

三代目又左衛門 テイカ製薬株式会社や富山女子短期大学を創立、富山相互銀行を経営し富銀奨学 財団を設立した。

五代目金岡幸二 1964 年に株式会社富山計算センター(現在のインテック)を設立し、富山国際大学を 創立した。

出所:富山県民会館(1986)「富山の売薬文化と薬種商」と富山県(1983, 1987)「富山県薬業 史資料集成上下」「富山県薬業史通史」に基づき表を筆者作成

薬種商時代の資本をもとに、金岡家はエンジェルとして富山の経済界に多くの業績を残 している。現在でも富山市内で、金岡薬店として漢方薬の販売を行っている。金岡家の人々 は、創業以来「累功累徳」の精神を引き継いでいるのである(富山県民会館,1986,pp.26-27)。

三代目又左衛門の長男祐一氏は家業の第一薬品株式会社やテイカ製薬株式会社の代表取 締役を引き継ぎ、併せて富山国際学園理事長、富山女子短期大学学長として教育事業に尽力

105 するほか、日本学術会議会員も務めていた。

江戸時代、売薬で利益を得た資本を他の事業に投じることは禁止されていた。また、薬以 外のものを扱うこと、仕入れることも富山藩により禁止されていた。それが明治になると、

自由に商売ができるようになり、資金力のある売薬業者が、銀行や電燈、鉄道など幅広い分 野に事業を展開し始めた。1878年に富山第百二十三国立銀行は、士族の前田則邦を頭取と して設立された。資本金は 8 万円であり、そのほとんどを副頭取の密田林蔵と田中清兵衛 が出資した。1876年には売薬業者が集まり広貫堂も設立された。富山第百二十三国立銀行 は売薬業者の預金・出資が多かったので、広貫堂に出張所を置き原料の仕入代金、働く人た ちの給料、売薬人の仕入代金の金銭事務も担当した(富山県民会館,1986,pp.26-27)。

売薬業者中心の富山第百二十三国立銀行は 1884 年士族中心の金沢第十二国立銀行と合 併、富山第十二国立銀行となり北陸地方で大きな力を持つ。1897年、国立銀行としての満 期を迎え、十二銀行と改名し私立銀行になる。売薬業者の関係した銀行は他にもあり、千葉 県から移転した元国立第四十七銀行、富山貯蓄銀行、水橋銀行、四方銀行、そして北陸商業 銀行の設立には密田林蔵と田中清兵衛がやはり関係していた(富山県民会館,1986,pp.26-27)。

1943年、戦争当時の国策、「一県一行」の方針のもと、十二銀行、高岡銀行、中越銀行、

富山銀行が合併し、北陸銀行が誕生した。初代頭取には十二銀行の頭取であった薬種商の田 中清兵衛(十五代)がついた。

銀行の他には、零細業者が金融を受けられる相互扶助金融機関として富山売薬信用組合 が1902年に設立された。発起人となったのは密田林蔵、田中清兵衛、阿部初太郎、沢田金 太郎など15名の大手売薬業者であった。懸場帳のほかに担保を預けることのできない売薬 業者を救済した。のちに富山信用金庫となり、広く中小企業向けの金融機関として2017年 12月現在、富山県内に45支店を構えている(富山県民会館,1986,pp.62-75)。

このように、富山・北陸地方の発展には、銀行と売薬との重要なつながりが認められたの である。富山売薬が他の地域に比べ競争優位を持つ要因の一つであるといえよう。

北陸地方で初めて電灯を灯したのは売薬業を営む密田家分家の密田孝吉である。1894年 5月18日勧業博覧会でのことであり、出品したのは東京電燈からの借り物の発電機を使っ たアーク灯で、期間中の点灯費用約 350 万円は密田本家が援助した。その後、火力発電の 開発を描いていた密田に、薬種商の金岡又左衛門が水力発電を提案した。二人は急流による 豊富な水力での発電研究に着手したが、住民の理解や資金の調達に苦労し、ようやく1897 年富山電燈株式会社を設立した。社長は金岡又左衛門、支配人には密田孝吉が就任した。発 起人11名のうち8人が売薬業者であり、出資者には金岡又左衛門、田中清兵衛、密田兵藏 ら薬種商や売薬業の人々であった。また、十二銀行など銀行資本も積極的に融資を行った。

富山市に送電を開始したのは1899年4月の家庭電灯用である。しかし、同8月に発生した 大火によって需要家の4分の3と社屋・送電施設を失う。経営陣の尽力により数年後に再 生を果たし、電灯から産業用電力へと開発を進めた(武知,1995b,pp.51-52)。

106

富山電燈は各地にできた中小の電気会社と合併を繰り返し、1907年富山電気、1929年日 本海電気となり、1941 年北陸 3 県の電力会社がまとまって北陸合同電気を発足、戦後の 1951年北陸電力となり現在に至る(家庭薬新聞社,2009,p.55; 富山県,1987,pp.552-554; 富 山県民会館,1986,p.66)。

その他にも繊維、運輸、水産、保険、出版など売薬資本で発展した産業は多い。初代金岡 又左衛門は育英資金を出資し、100 人を超える優秀な人材を世に送り出した(富山県民会 館,1986,p.69)。

電力産業が富山の発展に与えた影響は大きく、その恩恵は今日まで続いている。豊富な水 量による水力発電を中心とした電気料金の安さが、企業誘致に優位に働いていることはま ぎれもない事実である(富山商工会議所,2008,pp.38-39)。ここにも売薬資本による富山の 競争優位性が認められる。

江戸時代まで使用していた草根木皮を中心とする自然の薬物を利用した和漢生薬は、明 治維新とともに西洋薬が流入し尊重されるようになったことから和漢医薬の効き目を疑問 視する考えが強まり、薬の西洋薬化が指導された(富山県民会館,1986,p.19)。

売薬業は「売薬取締規則」に基づき1871年から官許となり、富山県は売薬人に「売薬鑑 札」を発行し身分を保証した(富山県,1987,pp.426-430)。また、和漢薬を主体としてきた が西洋薬学の知識を身に着けるため、1872年、「洋学授与願」、1873年には「舎密学校建設 願」を当時の文部省へ提出、富山に薬学校の設置を求めた(富山県,1987,pp.562-563)。広 貫堂が製薬会社として設立許可されたのもこの年であった。広貫堂は富山売薬の中心的役 割を果たすとともに、薬学教育に尽力した。

1883年、明治政府は西洋医学重視の立場と財源不足を補い、それまでの売薬をおさえよ うと、和漢薬を扱う売薬に定価の1割という高額な売薬印紙税を賦課するようになる。1882

年に9,700人いた売薬商人は1年後には6,000人まで激減し、薬の生産額も8分の1まで

落ち込んだ(富山県民会館,1986,p.20)。高額の印紙税は売薬を苦しめたが、後の近代化の きっかけともなった。1926 年、44 年もの長い間実施されていた売薬印紙税は廃止された

(富山県民会館,1986,p.21)。

1893年、薬学校の許可が下り富山市の補助金を基に売薬会社の広貫堂、師天堂らの多く の売薬業者の寄付により「共立富山薬学校」が設立された。薬剤師を養成する本科(2 年)

と薬業家の子弟および売薬商人の育成を目指す速成科(1 年)で構成されていた(富山 県,1987,pp.565-566)。その後「市立薬業学校」「県立薬学専門学校」「官立薬学専門学校」

「国立富山大学薬学部」を経て、現在の「国立富山医科薬科大学」となる。

富山県製薬団体からの寄付により、富山大学和漢医学総合研究所に、寄付講座「和漢製薬 剤開発研究部門」を設置し、和漢薬製剤の開発や県民への漢方医療情報を提供している。

2007年より富山大学大学院に寄付講座「免疫バイオ・創薬探索研究講座」が設置された(富 山県, 2018,p.5)。

これらの薬業教育学校の設立・発展は、富山の薬品業に対する人材の供給源・起業家供給