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第 3 章 理論的枠組み

3.1 認知言語学の枠組み

3.1.1 事態把握と視点―〈主観性〉と〈客観性〉

認知言語学は、〈主観〉と〈客観〉という述語を多く用いて事態把握と視点について論じ ている。「主観的・客観的」という述語は、話者が認識の場面の中にどれだけ自己を客体的 に反映されているか論じるために使用されている。

Langacker(1985,1990)は、言語表現の意味は、概念化にあり、話者(言語主体)が自ら選 択した外部世界の解釈の仕方であると主張している。そのため、あらゆる言語表現には話 者の解釈が関与しているという。よって、同じ事態でも、話者の視点や解釈が違えば、言 語表現の意味も異なってくる。話者の解釈によって異なる表現が産出される典型的な例と して、以下の3つの文(1a~c)が引用されることが多い。

(1) a.Vanessa is sitting across the table from me.

b.Vanessa is sitting across the table from Laura.

c.Vanessa is sitting across the table.

Langacker(1990:20) 王安(2014)は上記の例(1a)と(1b)の違いについて次のように分析している。

「〈Vanessaと話者はテーブルの両側に座っている〉という同一の事態を捉えている。文 脈から分かるように、両文とも話者が解釈の参照点として関与しているが、その関与に おける解釈の仕方が異なっている。(1a)では、参照点としての話者の関与が代名詞「me」

によって明示されている。即ち、話者の関与が(1a)において客体化されている。それに 対し、(1b)の場合は、話者が参照点となっているにも関わらず、その関与が明示されて いない。この点で、(1b)は(1a)よりも話者の関与が主体的表現となっている。このよう に、言語表現の意味を話者の捉え方や解釈との関連で捉えようとするのが認知文法の考 えである。」.

(王安2014:182)

21 また(1b)と (1c)の相違について徐(2009、2013)によると、(1c)は(1b)と同様に、話者が

〈参照点〉として明示化されているのに対し、(1c)では明示化されていない。「この言語 的に明示されているかどうかというのは、話者の把握の仕方がどのくらい主観的かまたは 客観的かによって類像的11に反映される(Langacker1985)」という(徐2013:16)。

このように、英語という単一の言語の中でも、話者の事態の認識に基づいて異なる視点 が投影され、主観的表現と客観的な表現が産出される。また言語によって「どちらの表現 が高頻度で用いられるか、或いは好まれるかでかなり異なる」(長谷部,2012:7)という 言語間における主観的・客観的の傾向の相違も指摘されている。このことは、池上(2003)

は、この好まれる傾向を〈好まれる言い回し〉と呼び、どの言語にも〈好まれる言い回し〉

と呼べそうなものがあるとしている。

この〈好まれる言い回し〉の違いの代表的な例として、以下の日本語小説である『雪国』

(川端康成著)の冒頭の文とその英訳が頻繁に引用されている。

(2) 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」(川端原文)

“The train came out of the long tunnel into the snow country.”

(Edward Seidensticker訳1996、“Snow Country”)

原文は主人公(もしくは、主人公に自らを同化させた語り手)が自らの体験を語る文──

従って、独白のことばのようにも読める文──である。主人公は自らの体験している状況 の内に身を置いており、主人公を乗せて走る汽車は主人公の〈拡大エゴ〉となって、主 人公自身の知覚の対象として客体化されることなく、従って言語化されていない。これ に対し、英語訳では、語り手は汽車の外のどこかに身を置いて、トンネルを出て自分の ほうへ向かってくる(came)汽車を知覚の対象として客体化するという構図を採ってい るように読める。この場合、語り手が汽車に乗っているということでも構わない。ただ し、その際には、語り手の分身が汽車から出て外のどこかに身を置き、そこから自らの もう一つの分身を乗せた汽車を知覚の対象として客体化しているという構図になるとさ れている。

11 「〈類像性〉(iconicity)とは、表現の形式が表現の内容(意味)をなぞらえることを言う。」

(徐2013:40)

22 このように日本語話者と英語話者の好まれる表現を比較分析した上で、日本語話者が主 観的な表現を好むのに対し、英語話者は、客観的な表現を好むという両言語の事態把握の 対立をこれまでの研究で示されている。(池上1999、2003、2004、200612;中村2004、200913 など)。勿論、Langackerが取り上げた例のように、同じ言語の中でも、異なる傾向が見ら れる。英語だからといって、常に客観的な表現がなされるというわけではない。同様に、

日本語でも常に主観的表現だけが用いられているわけではない。しかし、 日本語と英語 の事態把握の違いは、「認知言語学において広く認められている」(長谷部、2012:7)。

〈主観性〉と〈客観性〉の面で論じた認知言語学での先行研究から、事態把握は、以下の ように二つに分けられる。

〈主観的事態把握〉

話者は問題の中に自らの身を置き、その事態の当事者として体験的に事態把握をする―

実際には問題の事態の中に身を置いていない場合であっても、話者は自らその事態に臨場 する当事者であるかのように(自己投入)、体験的に事態把握をする。

〈客観的事態把握〉

話者は問題の事態の外にあって、傍観者ないし観察者として客観的に事態把握をする― 実際には問題の事態の中に身を置いている場合であっても、話者は(自分の分身をその事 態の中に残したまま)自らはその事態から抜け出し、事態の外に身を置いて、傍観者ない し観察者として(自己分裂)、客観的に(自己を含む)事態把握をする。

12 池上(2003、2004、2006)は、話者が言語化しようとする事態をどの程度、〈自己―中 心的〉(ego-centric, ego-centered)なやり方で行うか、即ち、話者が問題の場面に自らの 身を置き、体験の場の〈イマ・ココ〉に視座を捉えて事態把握をするか(主観的事態把 握)、あるいは問題の場面から抜き出して場面の外から捉えるか(客観的事態把握)とい う主観的と客観的事態把握の違いを論じている。池上によると、日本語話者は〈主観的 事態把握〉をする傾向があり、英語話者は、〈客観的事態把握〉をする傾向があると主張 している。

13 中村(2004、2006)は、Iモード(Interactional Mode of Cognition)とDモード(Displaced

Mode of Cognition)という概念を提唱している。Iモードは、状況の観点から眺める認知

モードであり、Dモードは状況外からの眺めるモードであるとしている。中村によると、

I モードでは話者の視点は内置され、D モードでは話者の視点は外置されるという。ま た、I モードは日本語で優勢なモードである一方、D モードは英語の物語文の言語表現 に優勢な特徴であるとも述べている。

23 言語の主観性と客観性を判定する基準は、言語学では主にモダリティで検討されてきた が、認知言語学では、〈自己投入〉か〈自己分裂〉かの違いから、主語を言語化するかどう かという〈主語の省略)(自己のゼロ化)の現象で検討することが多い。以下の例(3)~

(5)はその違いの表れである。

(3) a.When the weather is nice, you can see the Alps from there.

b.天気が良ければ、そこからアルプスが見える。

(4) a.I heard someone is knocking my door.

b.誰かがドアをノックしているのが聞こえる。

(5) a.Do you smell something burning?

b. 何か焦げ臭くない?

(長谷部、2012:10)

以上のことを踏まえ、本論文は、ベトナム語母語話者は、どの事態把握をするか、また、

日本語の視点をどのように表すかを明らかにするために、認知言語学の〈事態把握〉にお ける〈主観性〉と〈客観性〉の理論に基づき、事態を描写する立場としての話者の視点を

〈事態の内からの視点〉と〈事態の外からの視点〉という観点から検討する。その判定は、

第2章で述べた視点の基本的な研究に取り扱われている〈受身表現〉や〈授受表現〉、〈移 動表現〉などの表現の用い方と共に〈主語の明示・非明示〉の面も検討する。視点の判定 基準の詳細は、次項で述べる。