ロシヤインテリゲンチヤ ―主としてイワノフ・ラ ズームニックの説によって―
著者 村井 研治
雑誌名 奈良学芸大学紀要. 人文・社会科学
巻 11
ページ 79‑91
発行年 1963‑02‑28
その他のタイトル Русская Интеллигенция
URL http://hdl.handle.net/10105/3498
ロ シャイ ンテリ ゲンチ ャ
‑主としてイワノフ・ラズ‑ムニックの説によって‑
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1.序
「インテリゲンチャ」という語を耳にして、もっとも一般に誰の頭にも浮ぶのは「知性の持ち主」
という概念であろうOなるほど言葉の構造からいって、この語は英語でいうintelligenceという 語と根を同じくしていると感じられるからである。では「インテリゲンチャ」は同じく英語の intellectual(s)という語と同根だという理由でまったく同義語に用いられるべきなのだろうか。
いや、両者は決して混同して用いられるべきではない。後者intellectual(s)こそ単に「知識、知 性の持ち主」 「知識人」という意味を表わすにすぎないが、「インテリゲンチャ」はもっと深い社 会的、歴史的意義をその内に蔵している。なるほどこの語も知性や知識と同根である以上、イン テリゲンチャの成員が知識人であることを否定することができないばかりか、知識がこの語の重 要な要素となっていることは争えない。しかしインテリゲンチャはただ単にこの一つの要素だけ によって規定されるものではない。
インテリゲンチャは社会的、歴史的な産物である。そしてそれはロシャの社会と歴史において もっとも顕著な発達をとげた。 「インテリゲンチャ」なる語がロシャインテリゲンチャによって 代表されるのもこれがためであろう。そもそも「インテリゲンチャ」なる語そのものが、 「19世 紀60年代のロシャにおいてペ・デ・ボボルィキン(1)によってはじめて使用された」 (2)ということ も、ロヤインテリゲンチャの重要性を示している。したがってそれより以前においては、ロシャ においても「インテリゲンチャ」なる語が存在しなかったと同時に、この語が使用される少し前 までは(詳しくは18世紀中頃まで) 、インテリゲンチャそのものも存在しなかったことになる。
では、ロシャ社会に、そしてロシャ史に特有な産物として現われたロシャインテリゲンチャは一 体いかなる時期に発生し、形成され、そして発展していったのであろうか。インテリゲンチャに 関する説も種々あるが、ここでは主としてイワノフ・ラズ‑ムニック: 「インテリゲンチャと は何か」 (I4BaHOB‑Pa3yMroすk: Hto TaKoe IイHTejumreHUHH)の説を通じ、このロシャインテリ ゲンチャの形成と発展とを見るととによって、ロシャインテリゲンチャの特性を観察したい。
2.インテリゲンヤの形成と発展の要因
一般にインテリゲンチャがロシャに社会集団として形成されはじめたのは、 18世紀の中頃か ら、詳しくはノヴィコフ(Hobhkob H.H. 1744‑1818) 、フォンヴィジン(eOHBIす3Iイh JXM.
1745‑1792) 、ラディシチェフ(PaAHmeB A.H. 1749‑1802)の時代頃からであるとされてい る。それ以後ロシャインテリゲンチャは、あるいはその成員の上からほ貴族出身者からいわゆる
ラズノチンツゥイ(雑階級人)(ォヘと変化し、あるいはグループの上からはデカブリスト(4)、ス タンケ‑ヴィチ派(5)、ゲルツェン派(6)、ザーパドニキ(西欧主義者、西欧派)(7) 、スラグァノフ ィ丁ルィ(スラグ主義者、スラグ派)′8)など種々なものが出現して、その主張するところは細部 においては変化したが、全体として大きな発展をなしてきた。ところで何故インテリゲンチャが 形式されはじめたのは18僅紀の中葉以降なのだろうか、そしてそれ以来発展の道を辿ったのであ ろうか。この理由は種々考えられる。それには、
① ピョ‑トル大帝(1672‑1725)による西欧文明の輸入に端を発するロシャの西欧化、特に ドイツロ‑マン主義およびフランスの啓蒙思想の影響、
② 祖国戦争(1812年のナポレオン戦争) 、
③ 農奴解放(1861年) 、
④ 資本主義の発達、などがあげられるであろう。
これらの諸要因の間には何らかの関係が幾つか存在するだろうが、殊に③と②ほ直接の関係を もっているだろう。ピョ‑トル大帝以後のロシャの西欧化は一般の生活様式においてのみなら ず、いわゆる知識の面、哲学的な面においてもロシャに大きな影響を与えた。殊に後者のことが
インテリゲンチャに不可欠な(もちろんこれだけでは不充分であるが)要素である知識をロシャ のある一定の人々に豊富にし、やがてかれらをインテリゲンチャなる社会集団へ結合させる一つ の契機づけとなったことは否定できない。しかし知識だけが決してインテリゲンチャの全部の要 素ではないことは前にも述べたとおりである。ピョートル以後のロシャの西欧化は②の祖国戦争 を経てロシャの民族的自覚を呼びさます道に連なっていた。ピョ‑トル大帝以後全ロシャほ最初 は西欧に酔っているかのようであった。当時「ロシャの専制君主はロシャ人が独自の個性をもっ たことを意に介しなかった。一見人民の心を反映するがどとき民族的自覚も、民族的文学も、民 族的哲学もなかった。ロシャの作家は西欧を模倣して書いた。かれら自身の人民の生活や仕事の 中に題材を見出すことは悪趣味のごとく考えられたoJしかし「この傾向はナポレオン戦争以後一 変したO結局は成功裏に遂行された苦々しい闘争によって新たなる激情が目覚め、それは民族的 自覚を刺激し強化した。詩人や小説家達は今やロシャ人なることを誇りとし、永きにわたってか れらの真似てきた西欧からその顔をそむけた。モスクワは新たに生まれた民族主義の中心とな
り、この民族主義にモスクワの大学はそれ相応の哲学をもたそうと試みた。この新たなモスクワ 哲学はスラグ主義(スラヴァノフィーリストヴォ)として知られるにいたった。」(9)このようにし て民族的自覚はスラヴ主義を生んだ、「しかしながらこの西欧文化に対する排他性は全モスクワの 哲学者が有していたのではなく、次第に西欧の業績を取り入れてロシャ文化を豊富にしようとす る別の傾向が現われた。この傾向が西欧主義(ザ‑パドニチュストヴォ)と呼ばれるものである。」
(10)スラヴァノフィールィとザーパドニキはこのように相対立するグループであったけれども結 局両者はピョ‑トル大帝以後におけるロシャの西欧化と1812年の祖国戦争の共通の産物であった といえる。そしてこの両者はそれぞれ主張するところは異っていたけれども、専制政治、農奴制 に批判的でありヒュ‑マニティを呼び戻そうとする点などにおいては類似点ももっていた。これ はイワノフ・ラズームニックがインテリゲンチャの特性として規定する共通理念(06man hAe兄) である。さらに祖国戦争はロシャにおける民族的自覚のほかに、自由思想を目醒めさせる役割を も果したo デカプリストの一人、ア.ア・ベストゥ‑ジェフ(BecT¥OKeB A.A.)はその書簡の 中で次のように書いている。 「ナポレオンがロシャに侵入するや、その時こそロシャ民族ははじ めて自己の力を知覚した。その時こそ全ロシャ民族の胸に独立感情(最初は政治的な、そして後
には民族的な独立感情)が目覚めたっ これこそロシャにおける自由思想(cbo60月OMblCJIHe)の始 りであった。ナポレオンの敗北後、外国遠征から帰って、軍人たちは始めて民衆の間に不平をま き散らしたoかれらは『われわれは血を流したが.再び戚役労働(oapmHHa)に汗をかかねばな らなくなったD われわれは圧制者から祖国を自由にしたが、再び主人はわれわれを圧えつけてい る。われわれは自分に鎖をかけるためにヨーロッパを解放したのか?』といっている。」(ll)と。
「ベストゥ‑ジェフは正確にデカプリズムの根本的な原因を指摘した。それはナポレオンに勝利 を得たロシャ民族の偉大さと、国の内外においてツァーリズムを演じる反動的役割との矛盾であ った。」(12)またイ・アクサコフ(H. AiくCaKOB)はインテリゲンチャを「自覚せる民族」 (caMO‑
co3HaromH員HapoA)と規定し(13)、イワノフ・ラズームニックはそれを民族によって自ら引き出さ れた「生ける力の総和」 (CoBOKynHOCTb >KHBゝIX C那(14)と呼び、さらにかれは「ロシャインテ リゲンチャの歴史はロシャ的自覚の歴史である」(15)といった。このような自覚こそ、ロシャにお いては西欧との接触と祖国戦争によって得られたものといえよう。次に③の農奴解放と④の資本 主義の発達も、また密接な関係をもってインテリゲンチャの歴史に大きく影響している。 「農奴 制の瓦解と資本主義的関係の急速な発展とは、充分な意義をもってインテリゲンチャの仕事を要
請した。すなわち、事務員、医師、教育家、法律家、ジャーナリスト、統計学者などのあらゆる 種類の仕事を要請したO」(16)資本主義の発達の段階に入ると知識は生産組織のもっとも必要欠くべ からざる武器となったのである。ここに現われたインテリゲンチャこそいわゆるラズノチンツゥ イであった。 「ラズノチンツウイの出現や、ラズノチンツゥイの従事する職業の発達は、資本主義 と密接に関連している。」し17)ラズノチンツウイの成員は種々雑多な身分階層の出身であったため、
かれらのもつ要素.もまたまちまちで、その利害は種々異っていた。しかし、かれらを一つの社会 集団としてのインテリゲンチャに統合させたものは、 「古い農奴制的体制に反抗する闘争、殊に 知識労働の分野における仕事の可能性を拡大し、官憲の妨害をうけないような法的な自由(言論
、出版などの自由)の要求」であった。その出身と利害の多様性にもかかわらず、かれらを結合 させた紐帯はこのような、イワノフ・ラズームニックのいう共通理念(ooma只HAe月)であり、
共通活動(06mee月e員CTBHe)であった.
3.インテリゲンヤの特性 1)明確な 社会集団
前にも述べたとおりインテリゲンチャは知識、知性をその欠くべからざる要素としているが、
これだけがその要素の全部ではない。イワノフ・ラズームニックは、インテリゲンチャは先ず何 よりも先に「明確な社会集団」 (onpeAejieHHaa odiuecTBeHHan rpynna)であると規定した.古 代および中世においても、 「知識の持ち主」は存在しえた。しかしかれらは、いわゆる「インテ
リゲント」であって、決してまだグループ(集団)としてのインテリゲンチャを構成するにはい たらなかった。かれらは貴族であり、僧侶であり、宮廷詩人であり、あるいは道化者であった。
かれらはいわゆる「知識の独占」を亨受し得る貴族階級、特権階級に属していたに過ぎず、決し てグル‑プとしてのインテリゲンチャを構成してはいなかった。イワノフ・ラズームニックはい っているo 「知識労働の一定の成果を特徴的に保持したり、あるいは基本的な倫理社会学的問題 にある程度関係することを特徴とする人びとは何時も存在したし、また将来も常に存在するであ ろうが、このような人びともまだグループとしてのインテリゲンチャを形成していない。このよ
うにしてたとえば、個々のロシャインテリゲントなるものは16世紀においてはクニヤ‑ジ・クル プスキー(K朋3b Kyp6CKHft)もそうであったし、イワン・グロ‑ズヌィ(HBaH rpO3Hblft)も そうであったし、この典型的なロシャ・アナキスト、フェオドシ・コソイ(Oeo^oci捕Koco蕗)も そうであったし、 17世紀においてはマトヴェエフ(MaTBeeB) 、コトシキン(KOTOIIIKI叫、フ ヴォロスチ‑ノフ(XBOpOCTHHOB)もそうであったし、 18世紀の初期においてはピョ‑トル一世 (UeTp 1)も、タチ‑ンチュフ(TarameB)も、ロマノ‑ソフ(JIomohocob) ‑‑・もそうであ った。しかしながら、 17世紀においてもまた18世紀においてもロシャにはインテリゲンチャは存 在しなかった。」(18)と。
またかれは現代においても「高度の知識労働の成果を有してはいても、グループには入らない 個々のインテリゲントたちの存在しうる」ことを指摘し、 「どんなに学識ある学士員や大学教授で もわれわれのいうこの言葉の意味におけるインテリゲンチャには属しない」(19)と述べ、ラヴロフ
(JIaBpoB n.Jl. 1823‑1900)の意見に従って「インテリゲンチャはどんな職業に関する概念と も少しも関係がない」ことを主張している。
さてそれでは、職業とは無関係としても、知識労働の一定の成果を有し、一定のグル‑プを構 成しているものならば、すべてそれをインテリゲンチャと呼びうるのであろうか。何らかの連帯に よるグループというだけでは、しかもそれがたとえ教養ある人びとによって形成されていたとし ても、まだそれをインテリゲンチャと呼ぶには不充分である。 「個々のインテリゲントたちが常に 存在したと同様に、あるいは綱領の連帯によって、あるいは行動の連帯によって統一された当時 のもっとも教養ある人びとの緊密に結束したグループもまた常に存在していた。」(20)として、イ ワノフ・ラズームニックは15世紀におけるニ‑ル・ソルスキー(HIすA CopCKH員)を中心とし他 方ではイヨシフ・ヴォロッキー(Hoc坤BoJIOUKIift)を中心として結合された当時のインテリゲ ントたちのグループ、マクシム・グレク(朋aKCi州fpeK)の信奉者たちの党、 17世紀のいわゆ るポーランド党(nojibCKa只napTHH) 、キエフ学派(KHeBCKan uiKOJia) 18世紀初めのシュリャ へッストヴォ(UIJIHXeTCTBO ‑ロシャ18位紀の貴族階級)のグル‑プやタチ‑シチュフ(TaTHmeB) のサークルなどの例をあげている.しかしながらかれは「ニ‑ル・ソルスキーからもロマノーソ フからも、タチーシチェフからも、あるいは以上のようなグループやサークルからも、決してグ ループとしてのインテリゲンチャの歴史を始めるわけにはいかない。」という。では一体何がグル ープとしてのインテリゲンチャの特性なのか.個々のインテリゲントたちを統一のとれた単一の グループに組織的に結合させた時始めてインテリゲンチャは現われるというが、それも単に何ら かの連帯によるグループというだけではインテリゲンチャを成立させるに不充分であるとするな らば、何がインテリゲントたちを組織的に結合させて、インテリゲンチャなる集団を形成させる 紐帯となるのであろ̲うか。この紐帯こそ歴史的にもロシャインテリゲンチャの発生期を画し、ロ シャインテリゲンチャ史の発端を開く要因となるであろう。そこでこの紐帯、この要因を考究す ることが次に来るべき当然の段階となろう。
2)継 承 性
イワノフ・ラズームニックはこの紐帯を継承性(npeeMCTBeHHOCTb)に見出した。継承性と は、正確にいえば、連続的機能である。 18世紀の初頭以前に存在したところの、単に何らかの連 帯によって構成された個々のサークルやグル‑プには、この継承性はなかった。それらの個々 の、バラバラのサークルやグループは特定の目的や利害をもっていても、その他のサークルやグル ープとは何の関係もない。しかし、 18世紀の中葉からはじめてこのような継承性が現われ出した。
この時期とは、すなわちノヴィコフ(21)、フォンヴィジン(22)、ラデイシチェフ(23)の時代である。
この継承性を支える要素は、共通理念(06ma只HAe只)であり、さらにこの共通理念から発展 した共通活動(ofimee ae蕗CTBHe)であると、イワノフ・ラズームニックはした。しかしかれの いおうとするこの二つの要素は、もっと正確には、それぞれ「共通した社会理念」、 「共通した社 会活動」として理解されるべきであると思う。ノヴィコフもフォンヴィジンもラディシチェフも 理念の上では共通したものをもっていた。そしてそれはすべて社会に対する理念であった。かれ
らは当時発生し発展しかけている資本主義関係の表明者であり擁護者であった。そのことは現存 せる社会体制に対する批判に達り、それを否定し、改造しようとする理念に通じていた。ノヴィ
コフは「宮廷貴人の気質を非難し、農奴制に憤慨し、町人の勤勉と徳行を称揚した。」(24)フォンヴ ィジンは「未成年」(He皿OpOCJlb)において農奴制下における地主貴族を批判した。ラデイシチュ フがその主著「ペテルブルグよりモスクワ‑の旅」において専制政治と農奴制をもっとも痛烈に 批判したことはあまりにも有名である。このようにしてロシャインテリゲンチャの歴史ははじま った。そしてそれ以来続いたロシャインテリゲンチャの歴史はまた「殉教の歴史」であり「受難 の歴史」であるとさえいわれる。現存せる社会体制に対する批判は、当然専制的権力からは見逃 がされなかったO ノヴィコフはエカテリーナの政府によって革命的扇動者、自由恩想家として迫 害され、 1792年捕われた。ラディシチュフは「恐しい謀叛人」として死刑の宣告を受けた。しか し、減刑となりシベリヤに流され、その後釈放されたが、再び問題視されてシベリヤへ送られる ことになった。そこでかれは自殺した。デカブリストたちはその叛乱のため逮捕され、それぞれ 絞首刑、懲役、流刑などに処せられた。ゲルツェンは「社会にとって危険極まる大胆な自由思想 家」(25)として流刑を受けている。オガリョフ(26)は「頑固な打ち解け難い狂信者」(27)として流刑に 処せられた。べリンスキーは農奴制反対の内容をもつ戯曲「ドミトリ‑・カリ‑ニン」 (1831) を書いて大学を遣われた。バクーニンは外国へ亡命した。
ロシャインテリゲンチャが誕生し、発展の過程を辿るうちに、それは「時としてはサブ・グル ープ(no且rpynnu)に分れたが、しかしその発達は連続的であり」 「一つの共通理念がこれらの グループを連続的な全体に結合」(28)させたのである。同じザ‑パドニキの中にもまたいくつか の流れが存在した。スタンケ‑ヴィチ派とゲルツユン派の二つのサークルはザ‑パドニキのイ デオロギーを形成するのに大きな力をもった。スラヴァノフィ‑ルィとザーパドニキとの対立 は甚だしく顕著なものであった。スラグァノフィールィはシュリングの哲学を根底とし一般に
「ロシャは西ヨーロッパとは別の独特の国である」と唱え、したがって西ヨーロッパの文化を否 定するとともに、ロシャにおける資本主義の発達を否定したO これに反しザ‑パドニキほへ‑ゲ ル哲学を根底とし、 「一般にロシャはヨーロッパの国家である。ロシャ民族は西ヨ‑ロッパ諸民 族の文化的範噂に属するものである」と主張し、したがってロシャにおける資本主義の導入、発 達を強調した。スラグァノフィールィがあのように主張したのは、その背後にギリシャ正教とい
う宗教的な色彩が濃厚であったからであるが、ザ‑ノヾドニキにはこのような宗教的色彩は皆無で あった。このようにスラヴァノフィールィとザ‑パドニキとの間には極めて甚だしい相違がみら れるが、後者はもちろんのこと前者においても、大体において農奴解放を是としている点などで は類似点がみられた。すなわち前者は保守的、後者は自由的あるいは進歩的であったけれども、
前者がかならずLも当時の社会をそのまま是認し、維持しようとしていたのではなく、 「かれら がその上にと,:マニティを呼び戻し得るところの新しい型の文化を確立できる何らか特にロシ ャ的なるものを熱心に探し求めていた」(29)のである。すなわちスラヴァノフィールィもザ‑パド
ニキもその取ろうとする方途こそ異っていたが、その日標とする理念においては共通するところ があったといえる。そしてこの理念は呼び戻そうとするヒューマニティにおいて共通していたと いえよう。しかし後者の方が遥かに自由的であり進歩的であった。そしてこの思潮はさらに発展 してナロードニキに通じ、その後の革命思想に影響を及ぼした.ナロードニキにもいろいろな派 があるが、いずれもいわゆる「人民の中へ」 (Ⅹ0)KAeHHe b HapoA)を唱えて、殊に農民の中‑
革命思想を拡め、社会を改造しようとする理念では一致していた。
社会理念は、このように枝の関係においても、縦の関係においても連続性をもち共通性をもっ ていた。逆にいえば共通した社会理念がインテリゲントたちをサ‑クルやグル‑プに結合させ、
これらのサークルやグループの人たちがさらに一つの社会集団としてのインテリゲンチャを構成 すると考えられる。そしてインテリゲンチャはさらに「共通せる社会理念」によって次の時代へ
と継承されていくD ラディシチェフはノヴィコフ出版の訊刺雑誌「画家」(>KHBonHceu)を通じて ノヴィコフと交った.オガリョフとゲルツェンは「鐘」(コロコル(30)を中心として活動した。
スタンケ‑ヴィチはカ・アクサコフ、べリンスキー、バク‑ニンとともにいわゆる「ス/マンケー ヴィチ派」 (KpV>KOFくCra*壬KeBina)を組織していた。しかしゲルツユン派もスタンケ‑ヴィチ派 もともに大きくはザ‑パドニキとしての理念で結合された1860年代には一方では、ピサレフに よって指導される雑誌「ロシャの言葉」 (pyccKoe cjiobo)を発表機関にもつグループに当時の ラズノチンツウイたちが集った。かれらは「その知識力を誇りとし、知識によって主導的な階層 となり、自己の民主原理によって社会を改造しよう」 (31)と考えた。他方では、チェルヌイシュ ーフスキー、ドプロリユーボ7、ネクラーソフなどによって指導される「同時代人」(COBpeMeHHHK) をその発表機関にもつグループにも、ラズノチンツウイたちが集った。かれらは、農民に近い層か ら出て、独立した社会階層としてのインテリゲンチャの微弱を感じていたため、農民の中にその 足場を見出そうとした。この流れが70年代、ナロードニチュストヴォという形をとるにいたった。
デカブリストの薮乱は成功しなかったが、ゲルツェンやオガリョフのサークルはデカブリストに 大いに影響された。ザ‑パドニチュストヴォはその後のナロ‑ドニチェストヴォにも影響を及ぼ
している。このようにしてロシャインテリゲンチャは継承され、発展してきた。
さて共通した社会理念は単にそれだけに止らないでかならず共通した社会活動に適っている。
この社会活動はイワノフ・ラズームニックのいう「解放のための闘争」 (6opb6a 3a ocbo60〉K一 月eHHe)であり、これがロシャインテリゲンチャを結合させたのである。かれらはいう「この画 期的な、英雄叙事詩的な闘争はロシャインテリゲンチャを信じ難い程の大きな抵抗力をもった一 つのマス(集団)に固く結合させた。この闘争は、ちょうど火が鋼鉄を鍛えるように、ロシャイ
ンテリゲンチャを鍛え上げた。この闘争は他国や他民族にはあり得ない武器をロシャインテリゲ ンチャから作り出した。」(32)闘争には迫害と抑圧が伴った。ロシャインテリゲンチャの歴史が「殉 教の歴史」であり「受難の歴史」であるといわれるのもこれがためである。迫害、抑圧が強けれ ば強いほど、それはロシャインテリゲンチャをより強固な集団に結合させた。
われわれはここで、ある社会集団をみる場合、普通、客観的側面よりと、主観的側面よりこれ をみることに気づく。そこでインテリゲンチャを客観的側面より見れば、つぎのことがいえる だろう。インテリゲンチャは決して封鎖階級(身分層)にみられるような文化共同態的な要素は もっていない。初期にみられるロシャインテリゲンチャはなるほど貴族的インテリゲンチャであ った。かれらは貴族出身者である以上、貴族としての文化を持ち合わせ、したがってかれらに共 通せる文化、共通せる行為様式によって他の層と区別されることができたO しかし貴族階層がイ
ンテリゲンチヤでもなければ、インテリゲンチャが貴族階層でもない。もしもそうであるとする ならば、インテリゲンチャという用語はまったく不必要になる。インテリゲンチャが貴族階層で ないのみならず他のどんな階層とも一致しない集団であるということは、ラズノチンツウイの例 をみれば明白である。インテリゲンチャを集団たらしめる客観的な要素、それはイワノフ・ラズ
ームニックのいう共通理念であり、共通活動であると考えられる。
インテリゲンチャを主観的側面よりみようO ガイガーは「選良としてみるならば、インテリゲ ンチャは共属感といった特殊感情によって結合していない個々人の小群である」(33)といい、さら に「インテリゲンチャは決してインテリゲンチャだけの特別の集合意識を発達せしめない。それ はインテリゲンチャのもっている特殊な機能が、極めて孤立的かつ個人的であるからである」(34) といった。なるほどもっともな意見と考えられるが、ロシャインテリゲンチャを論じる場合は、
このような一般的インテリゲンチャ論とは少し異った特殊な要素が考えられるべきだと恩う。も ちろん同一階層や同一階級に属する入びとが客観的な共通せる文化、其通せる行為様式を基礎と して、自己の集団に対して持つような共属の意識ほど明確なものでなくても、殊にロシャインテ リゲンチャはかれらの間に共通した何らかの意識をもっており、またこの意識を媒介としてかれ らと他とを区別していたと考えられる。マーチン・マリア(Martin Maria)によればインテリゲ ンチャは「自己の生活している社会から区別され、分離されているのだという特別の観念を明瞭 に感じとっている。」(35)のである。この意識の基礎をなすものが共通した社会理念であり、共通し た社会活動であった。そして、殊に共通した社会活動、すなわち「解放のための闘争」、 「自由 のための闘争」によってその意識はより鮮明化され、この間争に対する迫害、抑圧が強ければ強 いはどこの意識はますます激しくなった。ボリス・エルキン(Boris Elkin)は「インテリゲン
チャとは教育ある階級のうち、現存するロシャの政治体制の沈滞を克服し、体制の変革を達成し ようとする熱望をその顕著な特徴とする人びとである」(36)といっている0
3)非身分性、非階級性
インテリゲンチャはいかなる身分にも、いかなる階級にも属さない。もっともそれは「基本的 には小ブルジョア階級に極めて接近している」ともいわれるが、それにしてもインテリゲンチャ はあらゆる階層の出身者より成るものであり.階層や階級とは直接的には無関係なものであると いうことにおいて大ていの人は一致している。ガイガーは「インテリゲンチャとは特殊な社会機 能のために、あるサークルの人びとを指すが決して階序的考えはもっていない」(37)という。中間 階層論的にいえばインテリゲンチャとは特権階級と下層階級との中間に存在するあいまいな概念 ともいえるJリチャード・パイブスはロシャインテリゲンチャを次のように規定しているo 「こ のあいまいさにもかかわらずこの用語が広く通用しているとすれば、それは教育の力によって人 民から分離され、また啓蒙されたヨーロッパ的見地のゆえに専制君主やその官僚たち(特権貴族) からも区別される一つの公的な集団である。」(38)と。イワノフ・ラズームニックも、インテリゲン チャの一つの重要な特性として「非身分性および非階級性」 (BHeCOCJIOBHOCTb, BHeKJiaCCOBOCTb) をあげている。
ところで以上のようにはいうものの、ロシャインテリゲンチャの歴史をみても先ずこれに登場 した成員は貴族の出身者であったO知識を亨受し、独占できる階級が貴族階級であったことから して、初期のロシャインテリゲンチャの構成員が貴族出身者であったことは当然と考えられる。
当時のインテリゲンチャが「貴族インテリゲンチャ」と呼ばれるのもそのためであろう。その意 味においては、当時のインテリゲンチャが多分に「身分的」 (COCJIOBHa兄)であり、 「階級的」
(KJiaccoBa兄)(39)であったことは否定できない。ノヴィコフも中流地主の出身であり、フォンヴ ィジンも中流貴族の出、ラデイシチュフも高くないが貴族の出身であった。しかしながらインテ リゲンチャは貴族でもなければ他のいかなる階層、階級でもない。ノヴィコフ、フォンヴィジ ン、ラデイシチュフなどをその崩芽とするロシャインテリゲンチャは「その成員の上からは貴族 地主的(ABOpHHCKO‑3eMJieBJiaAejibnecKan)なもの、すなわち身分的一階級的(eocnoBHO‑KJiac‑
coBaa)なものでありながらも、階級的な、すなわちこの場合においては地主的な利害は共通理 念のためにこのグループによって犠牲にされた」(40)のであるGすなわち「身分的な目的は健界観
(MHpOBO33peHHe)の舷の外‑放り出された」のである。
共通した社会理念を基礎として成立したロシャインテリゲンチャも最初はこのように身分的な 傾向をかなり強くもっていたが、次第にこの要素は取り去られていった。50年代より出現しはじめ たいわゆるラズノチンツゥイが60年代大挙してインテリゲンチャの舞台に登場した。時あたかも 農奴制の瓦解と資本主義の急速な発展とがラズノチンツゥイの出現を促したのである。これと同 時にいわゆる「憾悔せる貴族たち」 (KaioinHecH 」Bop刃He)も出現してインテリゲンチャの中に入 ったが、このようにインテリゲンチャはその構成の上で貴族出身者から低階層の僧侶、商人、町 人というあらゆる階層の出身者、すなわちラズノチンツゥイをも含むようになってきたOバクーニ
ンやオガリョフは富裕な貴族、地主の出身であった。ゲルツェンも大きな地主を父として生れた が、かれはドイツ人を母にもつ私生児であった。べリンスキーは医者の息子であり、チュルヌイ
シェーフスキーやドプロリュ‑ボフは僧侶の子弟であった。もはやこの段階に入ったインテリゲ ンチャにはいかなる身分的、階級的な要素もみられなかった。かれらがそれぞれもち合せていた 自分の出身の身分的利害は、ここでは共通した社会理念や共通した社会活動によって埋没させら れていた。
4)批判的思索性
このことはすでに言及したことと相関達する。ラヴロフはインテリゲンチャという用語を使用 する代りに「批判的に思索する人」 (KpHT班necKH MwcjiamEe jihhhocth)という用語を使った ことから、イワノフ・ラズームニックもこの特性をインテリゲンチャの特性の一つとした,この 表現を用いているのはラヴロフだけではないOすなわちピサレフ(Ji.nHcapeB)も同じような表 現「批判的に思索するリアリスト」 (KpHTI川ecKH MbicramHe peajiHCTbi)を用いているO とこ ろが「批判的に思索する人」といえば直に英雄だとかー群衆の指導者だとか、活動家などを考え がちだが「これは誤っている」とイワノフ・ラズームニックはいうO またインテリゲンチャとい えばすぐに一定の知識水準を特徴として有している人びとの総体だとか、すべての教養人を指す のだとか考えがちだが、これも誤っている。イワノフ・ラズームニックはいう「文化性は教養性 と同様に、何ら内面的な内容を規定しない。単なる外面的、形式的な特徴に過ぎないのに、イン テリゲンチャといえばすべての『文明的』あるいは『文化的』な社会の部分を考えがちである‑
‑・しかし文化的なものがことごとく批判的に思索する人のグループ、すなわちインテリゲンチャ のグループに入るわけではない」(41)と。では文化や文明とインテリゲンチャとの関係はいかなる ものであろうか。ラヴロフによれば「文化は人間生活における動物学的な要素であり、文化を基 礎とした批判的な思索の働きのみが自ら文明を条件づける」すなわち「文化を基礎とした思索の 働きのみが科学、芸術、遺徳などの要求によって社会生活を条件づける時、文化は文明に転じる のだ」(42)という。ゆえに「批判的に思索する人」とは「思想という武器によって古い文化を新し い文明に改める文化人」であり、これがすなわちインテリゲンチャであるという。さてこの特性
はつぎの特性に重要なる関連をもっている。
5)アンチ・メシチャンストヴォ(反俗物)
すでにインテリゲンチャの特性として四つのものをあげた。すなわちインテリゲンチャは非身 分的、非階級的、継承的、集団であると。ところがイワノフ・ラズームニックは「これらと同じ ような特性をもっているものでもインテリゲンチャにはいることができないものがある。それは メシチャンストゲォ(MemaHCT】〕0>4:であるO したがってインテリゲンチャはアンチ・メシチャ
ンストゲォと規定すべきだ」という。
「メシチャンストヴォ」という語の意味にはじめてふれたのはゲルツェンであり、かれはそれを
「身分的でもなく経済的でもなくて、倫理的な特性をもつ現象の集合体を標示するもの」 (44)だと した。ブルジョアジーという語は明らかに階層概念、階級概念を示す。それは身分社会において はいわゆる「第三階層」であったし、近代になっていわゆるブルジョア階級として始頭したもので ある。しかし「メシチャンストヴォ」の概念はもっと広く、それは非身分性(BHeCOCJIOBHOCTb)、
非階級性(BHeKJiaCCOBOCTb)を特性とする。だがしかし「メシチャンストゲォ」はインテリゲンチ ャではないOそれは「個性(HH^HBH^yaJlbHOCTb)の欠如、世界観の欠如の故である」とイワノフ
・ラズームニックはいう。メシチャンストヴォが非身分的、非階級的であるといっても、それは インテリゲンチャとは趣を異にする。すなわち「メシチャンストヴォは個人の福利を志し、自分 だけの快適な場所、自分だけの福利を作ろうとし、そしてそのようなものの蔭に世界との関係、
階級との関係が見失われている」(45)のであるから、それの方向はインテリゲンチャの方向とはま ったく正反対であるといえよう。もちろんメシチャンストゲォを構成するメシチャネ(MemaHe) (46)の中には文化的、教養的なものもいるO また文化的な職業にたずさわっているものもいる。し
かし「文化的な人間ことごとくは批判的に思索する人‑インテリゲンチャではない」のである。
ラヴロフほ文化的なメシチャネに「高度の文化をもった野蛮人J (AHKapi壬BblCUie員KyjibTypw) (47)という特徴的な名称を与え、日比判的に恩索する人」の集団からかれらを除外している。
そこでインテリゲンチャは「アンチ・メシチャンストヴォ」である。しかしこれは消極的な限 定であるとすれば、積極的にはインテリゲンチャはいかに規定されるべきであろうか。すでに前 項においても「批判的に恩索する入、すなわちインテリゲンチャは思想という武器によって古い 文化を新しい文明に改める文化人」であるといった。そこでインテリゲンチャの積極的な特性とし て、イワノフ・ラズームニックは「思想の創造」をあげている。この特性は「もっと正確にいえば、
創造の行為そのものでなく、創造の方向と目的に向おうとする活動性」(48)であるとかれはいう。メ シチャンストゲォほ古い型にはまったフォームを貴重な対象とするOそこには創造も活動性も欠 けている。インテリゲンチャは新しい理念、フォーム、活動的な遂行をもつ。そこでイワノフ・
ラズ‑ムニックはメシチャンストヴォを規定して「それは狭小(y30CTb)、平凡(iMOCKOCTb) 、 無性格(6e3JIH"MOCTb)、すなわちフォ‑ムの狭小、内容の平凡、精神の無性格を特徴とする」 (49)
というoすなわちメシチャンストヴォほ「一定の明白な内容をもたないでいて、どんな内容とも 一定の関係をもつことを特性とする」というのである。そこには個性や世界観や、創造が欠けて いるからである。インテリゲンチャはメシチャンストヴォとは異って創造性と活動性とを特性と する。そして「ロシャインテリゲンチャの創造とは個性のための闘争、すなわち人間的な『私』
(刀)の広さと深さと明るさを獲得するための闘争に在った。そしてロシャインテリゲンチャの 活動性とは個人のための闘争、すなわち政治的、社会的な個人のための闘争を特徴としていた」
(50)のである。
4.結 び
以上ロシャインテリゲンチャの特性を、主としてイワノフ・ラズームニックの説に基づいてみ てきた。そしてそれによってロシャインテリゲンチャの発生と発達とをも合わせてみてきた。以 上によってもうかがわれるようにロシャインテリゲンチャは一般に他でいわれているような「イ
ンテリゲンチャ」ともちがい、またなおさらわれわれが日常常識的に用いる「インテリゲンチ ャ」の概念ともその性質を異にすることがわかる。ロシャインテリゲンチャはその発生の上から いっても、その発展の過程からいっても、ロシャの社会、ロシャの歴史に独特のものである。そ してロシャインテリゲンチャが基本的には小ブルジョアジーに接近したものであろうと、その構 成する成員の上から、いわゆる「雑階級的」なものであろうと、ロシャ専制政治に対する反対や 闘争においては極めて大きな役割を果たした。そしてロシャでは「この闘争においてはインテリ ゲンチャはブルジョアジーに期待をかけることはできなかった。当時のブルジョアジ‑はロシャ
においては、ブルジョア革命時代のヨーロッパにおけるブルジョアジ‑より一層にもろく、地主 やツァーリと協定する傾向にあった。インテリゲンチャはその闘争において、ただ民衆の上にの み期待をかけることができた。」(51)この点においてもロシャインテリゲンチャの特異性をみるこ とができる。
最後に、ここでは主としてイワノフ・ラズームニックの理論を中心としてみてきた。しかしも ちろんこれだけがロシャインテリゲンチャを規定する全部の要素を含んでいるともいえないであ ろう。あるいは「インテリゲンチャ」一般に関して、あるいは「ロシャインテリゲンチャ」その ものに関して読むべき書物は他にも沢山ある.マンハイムもマ‑トンもそしてマルクスもレ‑ニ ンも‑・‑D また19世紀のロシャ文学に現われた「インテリゲンチャ」を分析することもこれに関 連して必要なことであろう。すべてこれらのことは今後の課題とし、ロシャインテリゲンチャの 研究を始めようとした最初の試みとしてイワノフ・ラズ‑ムニックをみたわけである.
註
(1)ペ・デ・ボボルイキン(Bo6opbiKHH n./l‑ 1836‑1921).小説家,戯曲家,ロシャブルジョアジーの 発達と, 70年代よりロシャインテリゲンチャの気質の推移を描写して,大きな観察力を発揮 し,ロシャ社会史にとって有意義な資料を提供した。
(2)的ajiaa CoBeTCKaa dHUHKJiorleAEl兄, tom.3, ct. 475, 1929
(3)ラズノテンツウイ(pa3HOHHH岬)・ 「ラ‑ズヌイ」(pa3HH員).という形容詞は「不同の」, 「種々異る」
という意味。したがってラズノテンツウイとは「各種の地位,身分の人びと」を意味している。
19世紀50年代から70年代にかけてロシャKあらわれた種々雑多な小市民ゲル‑プの系列一低階 層の僧侶,商人などの系列出身の人びとより形成された社会ゲル‑プ
(4)デカブリスト(月eKafipHcr). 1825年,ツァ‑リズムと農奴制に反対して立ち上った革命家o この暴動は 完全に失敗したD
(5)スタンケーヴイチ派 (6)ゲ ル ツ エ ン派
19世紀30年代,社会的関心と個人的な結合を基にしてサ‑クルガ組織されるよう になった。一つはスタンケ‑ヴイチ(OraHKeBiM H.B.1813‑1840)を中心とする いわゆる,,Kpy>KOK GraHKeB的à̀で,主として詩と哲学に関心をもっていた。 ‑つほゲルツ
ェン(XepueH A.M. 1812‑1870),オガリヨフ(OrapeB H.n. 1813‑1877)のサ‑クルで,
デガブリストを模範として新しい社会を作るべきだと主張した。
(7)ザーパドニキ(3anaAHkKK). 19世紀40年代から50年代にかけて存在した一つの社会ゲル‑プ。その思 想をザ‑パドニチェストヴォ(3ana月HHHeCTBO)という。その主張するところは, 「ロシャは
ヨーロッパの国家であり,ロシャ民族は西欧諸国の文化的範噂に属するO ロシャと西欧との歴 史的に辿るべき道は一つである.」ということにあった。
(8)スラヴァノフィールイ(C,naBHHO<i>IォIH). 19世紀30年代から70年代にかけてのゲル‑プ。その思想をス
(9)
瓢m 艦配 艦f
﹂サ
﹂i 翫 阻 弧 fe ォ5
│
ラヴァノフイ‑リストヴオ CcjiaB只HO如JIfaCTBO)と呼ぶDその主張するところは, 「ロシャ ほ独自の,他の諸国とは似てもつかない歴史的道程を辿っている独特の東方スラヴ的国家であ る,」ということにあったO かれらは,ピョ‑トルー世の改革には反対だった.そして「この 改革はロシャを嘘偽の外れた道に導くものであって,ロシャ人たちはロシャ独特のピョ‑トル 以前の道に庚らねばならないO」と考えた。
Heelこer J.F.: Russian Sociology, p.29, The Columbia Univ. Press, 1915
〝 P.29, 〝 〝 〝
A.A.3epH3HHHOB, J¥.刀,PaftxHH, B.H. GrpaHceB: PyccKa兄JIHTepaTypa, ct‑5 ynnejnrH3. 1952 CT.5
HBaHOB‑Pa3yMHKK: Wto TaKoe IイHTe^ji即eHUH刃, CT.5, 1920
〝 CT.5, 〝
〝 CT.b, 〝
mana兄CoBeTCKa兄∋HI岬KJioneAH兄, TOM‑7, CT‑154, 1930
〝 〝 CT‑154, 〝 HBaHOB‑Pa3yMHHK: "‑Ito TaKoe HHTejun汀eH岬兄, CT.6, 1920
CT.6, 〝 CT.7, 〝
ノゲイコフ(Hobkkob H.H. 1744 ‑1818),作家,社会活動家,教育者。訊刺雑誌「雄蜂」 , 「画家」
などを出版し,農奴制を批判,反対したo
(22)フォンヴイジン(eOHBK3HH fl.H. 1745‑1792), 18世紀の有名な作家,商人貴族の代表者であり,イ デオローグ。
(23)ラデイシテェフ(.PajxaueB A.H. 1749‑1802),ロシャにおいてブルジョア革命思想をはじめて唱え た作家, 「ペテルブルグよりモスクワへの旅」において農奴制と専制政治を痛烈に批判した。
(24)刈ajia兄CoBeTCKa只∋叫HKJIOrleノlh‑刃 TOM.5 CT.824, 1930
(25) A.A‑ 3epnaHHHOB, J¥.臥PafixKH,B.H‑ CTpaaceB; PyccKa兄JIKTepaTypa, ct‑ll, 1952 (26)オガリヨフ(OrapeB H.n. 1813‑1877)社会政治評論家,詩人,ゲルツエンの親友,協力者o富裕
な地主の家に生れる。註(30)参照。
(27) A.A. 3epqaHHHOB, A‑fl‑ PaftxiiH, B.H. GrparaeB : PyccKaa JIKTepatypa, ct.ll 1952
HBaHOB‑Pa3VMHIイk : 4to TaKoe MHTejMHreHUP相, CT.8, 1920
(29) Hecker J.F. : Rnssian Sociology, p.31, The Columbia Univ.Press. 1915
BO)コロコル(kojiokoji), 「鐘」の意味で1857年より1868年にかけてゲルツェンによって外国で出版された 2過1匡l刊行の政治雑誌,ロシャにおけるインテリゲンチャ的リベラリズムの発展に大きな役 割を演じた。オガリョフもモスクワ大学の学生時代に追放を受けて, 1年の監禁後領地へ帰っ たが, 1856年債地を清算して外国へ行き,そこでゲルツェンとともに「コロコル」編集をはじ めた。
(31)州ajia月CoBercKa兄∋H岬KjioneAk刃,TOM.7, CT.154, 1930
HBaHOB‑Pa3VMHHk: 4to TaKoe MHTejiJiiireHUH兄, ct.8, 1920
Geiger T.: Intelligensen, 1944 (鈴木幸寿訳136頁,玄海出版社1953)
(34) 〝 〝 (152頁, 〝 〝 )
Russian Intelligentsia (edited dy Richard Pipes) Colum. Univ. Press. 1961 (気賀健三,和田敏 雄訳,160頁,時事新書1962)
(36) 〝 〝 〝 〝 〝 129頁 〝 〝 )
(37) Geiger T.: Intelligensen, 1944 (鈴木幸寿訳, 22頁,玄海出版社, 1953)
Russian Intelligentsia (edited by Richard Pipes) Colum. Univ Press.1961 (気賀健三 和田敏雄 訳, 100貢‑101貢,時事新書1962)
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HBaHOB‑Pa3yMHHK: 4to TaKoe H山TejumreH岬a, ct. 9, 1920
CT. 9, 〝 CT.ll, 〝 CT.ll, 〝
メシチャンストゲオ(MemancTBO),ゲルツェンによって最初使用されたこの言薬の意味は身分的でも なく,経済的でもなく,倫理的な特性をもつ現象の集合体を示すo もともとこの語は「町人階 級」の意味をもつが,ここでは前者の意味o
HBaHOB‑Pa3VMHHk: Hto TaKoe HHTCMHreHU脚, CT.20, 1920 脚 majia只CoBeTCKaa SHitMKJione即は, TOM.5, CT.191‑192, 1930
(46)メシテヤ‑ネ(Me叫aHe)とはメシチャンストヴオ(MemaHCTBo)を構成するメシテャニン(MemaHHH)
F 4
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︑ 叩 p 仲 山 い 抜 目 岬 は 6 位
の複数
HBailOB‑Pa3VMI川k= 4to TaKoe HHTejMHreHi;Ha, ct.13, 1920
CT.15, ′′
CT‑22, 〝
sa引wmk
爪ajian CoBeTCKaa 9叫HKJIOIleAH月, TOM. 3, CT.475, 1929.
〔昭和37年9月29日受理〕