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如何にして実践的先天綜合判断は可能であるか ― カント実践哲学の根本的立場―
著者 阿部 正雄
雑誌名 奈良学芸大学紀要
巻 8
号 1
ページ 29‑36
発行年 1959‑02‑15
URL http://hdl.handle.net/10105/4864
如何にして実践的先天綜合判断は可能であるか
−カント実践哲学の根本的立場−
阿 部 正 雄
カント哲学の根本問題が「如何にして先天綜合判断は可能であるか」という問いにあることは 周知の通りであります。この問いはカンナにより「純粋理性の一般的課題」(K.d.r.V.B.19)と 呼ばれ、且つ「形而上学の立つか倒れるか、従ってその存立如何は全くこの課題の解決にかゝつ ている」(Prolegomena,Akademie・Ausgabe.S.276)と語られていますように、それは一面、
純粋理性による認識一般の可能を問うと共に、窮極的には形而上学的認識の可能制約を問うてい ることは明かであります。カントはこの問題を解決するためKritik を初めるにあたり、数学、
自然科学なる学の事実を一応前提するのでありますが、カントの場合、かゝる学的認識の事実は Erfahrungの事実として、Erfahrung tiberhaupt として捉えられています。そして経験一般の 可能根拠を問うという形で、同時に数学的認識、自然科学的認識の可能根拠を問うているのであ ります。たしかに数学や自然科学は一般的な意味においては確実な学の事実であったのではあり ますが、哲学的、批判的な意味ではそれはなお問題的な事実であったのであります。なんとな ればそれらの学が原理としてふくんでいると考えられる「先天的綜合判断」そのものの可能を、
Kritikは問おうとしているからであります。もとより Erfahrungの事実についても同様のこと が云えるでありましよう。
それではか」る出発をなした第一批判においては、「如何にして先天綜合判断は可能であるか」
というその根本問題は、完全に答えられたでありましようか。たしかにカントは「私にとって最 大の、しかし望むペくぼ無益ならぬ労苦を要した」と告白するあの範疇の演繹によって、この課 題の解決をなしとげたのであります。しかしそれは経験的認識に関してであって、形而上学的認 識に関してではありません。感性論と分析論とにおいて経験一般のアプリオリーな原理として純 粋直観とカテゴリーが発見され、しかも演繹論においてこれらのアプリオリーな直観形式と悟性 形式とが結合して存在そのものにあてはまることが証明せられ、悟性は自然に対して立法的とな り、自然は人間悟性に対しObjektとなったのであります。即ち周知のように「経験一般の可能性 の制約は同時に経験の対象の可能性の制約である」というのが演繹論の結論であり、こゝに悟性 による先天綜合判断の可能は証明せられ、且つかゝる綜合判断を成り立たしめる媒介者Medium の役目を果す第三者ein Drittesが可能的経験一般であり、更に端的には純粋直観であることも 明かにせられたのであります。しかしこれは云うまでもなく経験的認識に関してであって、形而 上学的認識、即ち理性による先天綜合判断可能の問題は、弁証論をまたなければなりません。し かし弁証論は人間理性がその自然の素質として現にもつ形而上学は純粋理性の本性的な弁証性の 故に不可避的にtranszendentaler Scheinに陥り、ためにそこでのアプリオリーな原理である純
粋理性概念による拡張的認識は、不可能であることを明かにしました。従って悟性認識の場合の 如く、直観の協力を期待することの許されない純粋な理性による先天綜合判断は不可能であると いうことが、弁証論の教えるところでありました。理論的認識は現象に限られ、物自体に対して は拒まれたのであります。しからば弁証論は理性による先天綜合判断は、如何なる意味において も不可能であると主張するのでありましようか。
純粋理性概念即ち理念は、今のべられたように、それを経験の領域を超えて超越的に用いるこ とは許されないばかりでなく、実は純粋悟性概念の如く直接に経験的対象にかゝわり、それに対 し、構成的に用いられることも出来ないのであります。しかし理性は、これら二つの方向のいわ ば中間として、直接対象にかゝわるところの悟性認識を相互に聯関せしめ、多様な悟性法則を一 つの理念により秩序づけ、これに理性的統一を与えるということはカントも認めたのであります。
即ちカントは、範疇が対象の概念を構成したような構成的使用を理念に許しはしませんでしたが、
多くの悟性認識を一つの原理にもとづいて体系的に統一せんとする統制的使用は、むしろ理念に とり必然的なものとしてこれを認めているのであります。たしかにカントは古き独断的形而上学 のなした如く、叡知界の対象をも理性により必然的に認識しうるという理性の構成的使用を厳し く戒めはしましたが、理論的認識の場合において理念の使用を一切否定し去ったのではなく、悟 性を媒介として経験的認識の総体の完全な体系的統一を日ざす、それの統制的使用はむしろ理性
の正しい経験的使用としてすゝんでみとめたのであります。
このようにカントは純粋理性概念の構成的使用はみとめませんでしたが、それの統制的使用は 可能であり、かつ必然であるとしたのであります。こゝに理性の理論的使用の限界が定められ、
叡知的対象にまで及ぶ如き理論的認識の不可能が示されると同時に、その反面理念による、理論 的認識の体系的統一の可能が示されているのであります。弁証論の教える所は正にこの二面にあ ったと考えられます。理念は経験の限界を越えて超越的に用いることは不可能ではあるが、経験 の領域に内在的に用いられ、悟性自身には不可能な「悟性認識の完全な統一を要請する」(B・673)
のであります。
従って弁証論においては叡知的対象に対して認識を拡張する如き形而上学的認識、即ち純粋理 性の構成的使用にもとづく先天綜合判断の可能はきびしく否定されはしましたが、一切の経験的 悟性認識のdurchg岩ngigなsystematischな統一という、Ideeにのみ可能な一種の形而上学的 認識、即ち純粋理性の統制的使用にもとずく先天綜合判断の可能は示されていると云わねばなり ません。それではか⊥る意味の先天綜合判断を可能ならしめる原理は何であるか。それはもとよ り悟性による先天綜合判断の場合の如く、純粋直観ではありえません。悟性認識の体系的統一に 対応する如き感性の図式は、見出されえないからであります。カンロは弁証論の最後のAnhang の中の「純粋理性の理念の統制的使用について」という章で、この役割を果すものは、「一一つの原 理における悟性認識の分割と結合の最高度という理念」dieIdee des Maximum derAbtheil・
ungund der Vereinigung der Verstandeserkenntnissin einem Princip(B.693)である と語っています。
今簡単にこれを説明すると、カンロはこのMaximumの理念を感性の図式のAnalogonであ ると云い、史に理性の図式das Schema der Vernunft(B.693)であるとよんでいます。悟性 統一はもし感性の図式がなければunbestimmtであると同様、理性統一はこのMaximumの理 念がなければunbestimmtとなります。Maximumの理念は理性の図式として推論的に多様な悟 性概念を限定し、偶然的な寄集めとしてではなく必然的法則に従ってこれに体系的統一を与える
のであります。即ち無限なる経験の体系をIdeeを頂点とした完結へ限りなく接近せしめるので あります。たゞし悟性認識をこの理性の図式に適用しても、Kategorieを感性の図式に適用する 場合の如く対象の認識を成り立たしめるのではなく、すべての悟性使用の体系的統一の原理たら んとするに止るのであります。それはこゝでは理性が構成的にではなく、単に統制的に用いられ ているがために外なりません。しからばかゝる統制的使用における理念は、・何ら客観的実在性を もたないものでしょうか。カソ日はそのようには考えませんでした。それはたしかに直接に対象 を限定せず、悟性の経験的使用があたう限りそれの普遍性に接近せんとするProblemであり、
PrOjektierenされた統一ではあるが、それは「間接的にではあるけれども経験の対象に対しても 妥当するが故に、それは経験の対象に関してObjektive Realitatを有するであろう」(B.693)と いうのであります。
カントは弁証論において古き形而上学が十分理性能力を吟味することなく、たゞ統制的にのみ 用いられうるはずの理念を構成的に用いたが故にScheinに陥った所以を明かに示し、それは人 間理性の本性から必然的に生ずる虚妄なる弁証術ではあっても学ではありえないとして、古き形 而上学を否定したことは、正に周知のことでありますが、それと同時にカソ日は理念の使用を構 成的にではなく、たゞ統制的に用いるよう限定することによって全く新しい意味での学としての 形而上学の可能根拠を、同じ弁証論において示しているのではないかと考えられるのであります。
それは今申して来ました、理性の統制的使用による経験的悟性認識の体系的統一の可能というこ とであります。
もとよりこゝに学としての形而上学と云っても、それは叡知的対象に対し認識を拡張する如き 最もすぐれた意味での形而上学を意味するのではありません。かゝる形而上学は理性の構成的使 用によってのみ可能であり、今こ上で云われている理性の統制的使用によっては望みうべくもあ りません。従って学としての形而上学はいわば一つの制限をもった形而上学でありますが、同時 に理論理性の限界に成立つ形而上学であると考えられます。それはいわばIch denke という立 場に立って経験の超越論的統一をなさんとする形而上学であると云えましよう。
ところであらゆる悟性認識の完全な統一を目ざすかゝる理性の統制的使用の体系は理念を頂点 とし、それへの絶えざる接近を求めるものとしてあくまで理論的でありつゝ、一種の実践的な性 格を帯びております。それは実践理性の理論の領域における反映であり、本来実践理性の関心の 対象であるものが、同時に理論理性の関心の対象として捉えられているとも考えられます。しか るに古き形而上学者達はさながら鏡に映った対象を鏡の背後に実在するかの如く思惟し、本来実 践的であるべき理念を推論をもって理論的に把握出来るかの如き錯覚に陥っていたのであります。
カントは理性の使用をきびしく統缶拍勺に限ることにより理論理性の鏡に映った理念の世界を単に 悟性認識を統一するための理性のSchemaとして用いるに止り、鏡の背後に理念の実在を求めず、
自らが裏返って、本来理念をめざすべき実践の領域へその批判の巨歩をすゝめたのでありました。
カントは「プロレ∵ゴメナ」の中で、世に行われている学派的形而上学に対するKritikの関係は、丁 度錬金術に対する化学の関係、占星術に対する天文学の関係に等しいと云っています。(Proleg.
S.366)即ちカントはKritikを通して弁証術としての形而上学を否定し、それに代るに学とし ての形而上学を打ち立てんとし、その可能根拠を確定せんとしたことは明かであると思います。
そしてそれが外でもない、理性の構成的使用を制限し、その代りそれの統制的使用による悟性認 識の体系的統一の可能を認めるということであったと考えられます。人間理性の本性からする形 而上的思考の、術より学への転換と基礎づけ、それが弁証論の課題であったと云えましよう。
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然し弁証論では最もすぐれた意味での形而上学的認識、即ち理性の構成的使用にもとづく先天 綜合判断の可能は否定されたのであります。それは理性の理論的使用の及ばぬ所として拒まれた のであります。「信仰に場を与えるために知識をaufheben Lなければならなかった.」(K.d.r.V.
B.XXX)と云うのは厳密には正にこの意味であったと考えられます。従って「如何にして先天 綜合判断は可能であるか」という Kritikの根本問題は第一批判においては制限された消極的解 決はなされたとしても、積極的な充全な解決は遂になされえなかったと云わねばなりません。
しかも形而上学的認識の可能であることは人間理性の求めてやまぬところであります。カント は理性の理論的使用に拒まれた形而上学的認識の可能根拠をそれとは全く性柊の興る理性の実践 的使用の中に求めようとしました。従って問題は理論理性に、ではなく、実践理性に、よる先天 綜合判断可能の問題となったのであり、Kritikの問題は実践理性の領域において「如何にして実 践的先天綜合判断は可能であるか」と問い直されたと一応云えるのではないかと考えます。それ ではかゝる問題は実践理性の領域でどのような形で立てられ、且つどのように答えられたでしょ うか。
カンナは実践理性の体系は独立の体系であると云っております。実践の問題を実践的認識の問 題として捉え、且つ理論的認識の場合と同様人間の理性能力の批判の問題として考察したカン十 は、根抵においてほあくまで理性という共通の原理に立ちつゝ、しかも実践理性の問題とすると ころは理論理性のそれとは全く性格を異にするものと考えていました。即ち理論理性は専ら認識 能力の対象を鰐題にするのに対して、実践理性は直接かゝる対象を隈題とせず、深く自らの内な
る意志の規定原理を問題とします。しかもカンロは後にのべますようにこの実践理性の領域自体 においても、対象との関聯において意志規定の原理を問題にするのではなく意志そのものにおい て意志規定の原理を問題にします。従って実践理性の立場では一切の対象との関係を越えた、絶 対に対象化出来ない、主体の立場に立ち、そこから叡知的世界を積極的に開いてくるのでありま す。そして対象の問題はと云えば、理論理性がそれを必然的にbestimmen Lようとするに止ま るのに対し、実践理性は対象から全く自由な、か上る主体的な意志の立場から、それをwirklich machenするのであります。従って今実践理性による先天綜合判断が問題だと言っても、決して その問題は理論理性よりの連続的推移の上に立てられるのではなく、全く新たな実践理性それ自 体の出発点より発して、問われているのであります。それでは実践の領域に於てカントはどこか
ら出発したのでしようか。
カソ日は過去の道徳哲学を、過去の形而上学と同様、すべて末だ迷いの道を脱していない遺徳 哲学であるとし、かゝる遺徳哲学的認識をKritikの前提に置くことは出来ないと考えました。
およそ道徳に関しては思弁をこととする哲学者の学的認識よりも一般人の常識的判断の方がより 正確であり確実であると考えたカソ日は、通常の道徳的認識、即ち道徳的経験の事実より出発す るのであります。即ちGrundlegungにおいてカンノ目性かiる出発をなしつi、この事実を可能 ならしめる先天的原理へ分析的に遡ることにより、義務の概念を通して意志の自律の原理を見出
します。それは結局するところ、純粋理性はそれ自身で意志を規定しうる、即ちそれ自身で実践 的でありうる、ということを意味する原理でありますが、この原理が我々有限な人間に現われる には断言命法の形をとるのであります。
ギクレア以来多くの遺徳哲学はまづ善悪の概念を決定し、それを意志の対象として意志をきめ るか否かによって、道徳原理を定めました。そこでは意志は対象の方向から規定されるものだと いう事が、暗黙の中に前提とされています。従って、意志の対象としての善悪の概念から、道徳 原理が引出されたのであります。しかしそこでの善悪は何らかのために善きものであっても、そ れ自体において善きもの、即ち絶対的善ではありません。意志規定の原理が対象の中に求められ ている限り、その原理は相対的となり、手段的性格をもたざるを得ません。これに対してカント が通常の道徳的経験の事実より出発し、それを可能ならしめる先天的制約として見出した意志の
自律というのは、意志の、対象との関係を断ち切り、対象による如何なる制約からも独立に、意 志自身の中に意志規定の原理をもつ如き意志の在り方であって、客観的に必然的な遺徳原理が成
り立つためには、このような意志の自律が可能でなければならないと考えたのであります。
ところでかゝる立場から従来の道徳哲学をかえりみる時、対象の中に意志規定の原理を求める それらの立場は、意志の他律に立つものであり、善なる目的を実現するための手段的行為を命ず
る道徳の立場であると考えられたのであります。意志の自律が自覚された時、この自覚を娯介と して従来の立場が意志の他律として意識されました。カントはかゝる手段的に善なる行為を命ず る遺徳原理を仮言命法とよび、それ自体において善なる行為を命ずる断言命法と区別したことは これ亦周知のところであります。一体絶えずNeigungに触発される可能性のある我々の主観的意 志は、如何なるものにもせよ、理性の立てる客観的原理に常に従うとほ限りません。従って手段 的に善なる行為をなすということも我々有限な人間にとっては、たとえ仮言的にせよ、命令の形 をとらざるを得ないのであります。この仮言命法をカントは実践的分析命題であると考えました。
即ち「仮言命法は目的として意欲されていると前提されるものに対する単なる手段を命ずるもの であるから、目的を意欲する者に対して、手段を意欲することを命ずるこの命法は、分析的であ る。それ故にかiる命法の可能性に関してはまた何の困難もないわけである。」(Grundlegung.
Akademie−Ausgabe.S.419)と云っています。即ち手段的に善なる行為をなすことも有限な我 々には事実仲々困難でありますが、かiる行為を命ずる仮言命法の可能根拠をKritikの立場よ
り明かにすることはさしたる困難はないのであります。
ところですべての理性的存在者に通ずる如き客観的必然的な道徳原理が成り立たんがためには、
純粋理性がそれ自身意志を規定する如き意志の自律が、即ち断言命法が可能でなければなりませ ん。もし今神的意志g6ttlicher Willeというものを考えて見ますと、それは一切のNeigungに 煩わされることなく自ら法則に合致し、およそ法則と矛盾するような格率をもたぬ意志でありま
しよう。かゝる意志は常に法則と無矛盾的に合致していますから、意志と法則とは分析的関係に あると云えるでありましよう。従ってそこでは客観的な法則はあっても、それは命令の形をとる 必要はなく又、そこには義務も強制もありえません。
しかるに常に∴Neigungに触発せられ、客観的理性法則を知ってはいても、必ずしもそれに従 わぬ人間の主観的意志は、もとより純粋理性より分析的に引出される事は出来ません。しかも道 徳が可能であるためには純粋理性は、Neigungからの制約を前提することなく、直接に、しかも 必然的に意志を規定しなければなりません。従って断言命法が可能であるがためには純粋理性と、
かiる主観的意志とが、先天綜合的に結付かなければならないわけであります。カントはGrund・
1egungの中でこう云っております。「断言命法は実践的先天綜合命題である。そしてこの種の 命題の可能性を洞察することは理論的認識においては非常に困難であったから、実践的認識にお いてもそれに劣らず困難があるだろうということは容易に推測されるところである」(ibid.S.420)
と。かくてGrundlegungにおいては「如何にして断言命法は可能であるか」(ibid.S.453)と いう問いが発せられ、それは又「如何にしてかゝる実践的先天綜合命題は可能であるか」(ibid.
S.444)という形でも問ほれているのであります。かゝる問いにKritik の立場から答えるもの が第二批判で云われる、純粋理性の唯一の事実 das einzige Faktum der reinen Vernunft
(K.d.p.V.Akademie−Ausgabe S.31)であり、更には自由の演繹であります。即ち「純粋理性 はそれ自身において実践的であり、人間にたいしていわゆる道徳律という普遍的法則を与える」
(ibid.S.31)と云われ、かゝる実践的な先天綜合命題を可能ならしめる第三者、即ちMediumの 役割をなすものが、Freiheitであると語られるのであります。我々は遺徳法則の下に立つ時自己 の自由を認識し、自由は自律として、純粋理性の事実として、道徳法則の存在することを証しま す。我々は自己の意志の格率が同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為する時、一 面あくまで感性界の一員でありつゝ、同時に自らが叡知界の一員である事を自覚します。我々は 実践的自由を媒介として自らが叡知界の一員であることを自覚するのであります。理論的認識に おいてはきびしく拒まれた叡知的対象の認識は、少くとも自由なる理念に関しては実践的に認識 することが可能であり、かくて自由は客観的実在性をもつことが証明せられたのであります。カ ンナはこゝに理論理性の場合とは異った実践理性による先天綜合命題の可能を明らかにしたわけ であります。しかもこの場合の自由が単なる超越論的自由ではなく実践的自由であり、単にdenk−
barであるという以上のRealit云tをもつ自由の理念でありますから、この場合の実践理性は単に 統制的にではなく構成的に用いられていると云わねばなりません。理論理性においては解決され ないま上で残されていた純粋理性の構成的使用における先天綜合判断可能の問題は、かくて自由 を媒介とする実践的認識において解決がなされたのであります。従って我々は実践的自由の客観 的実在性の中に、或は純粋理性の唯一のFaktumの中に、いわば新たな実践の形而上学とも云う べきものの可能根拠を見出しうるのではないかと考えます。カソ日はもし我々にintellektuelle Anschauungが可能であったならば、自由の事実を前提とし、そこから道徳法則を分析的に引出 すことが出来るであろうと云っています。(ibid.S.31)しかし有限な我々人間には叡知的直観 はありえず、従って意志の自由を前提しえないが故に、遺徳法則は困難な演繹を要する先天綜合 命題であったわけであります。従って道徳法則の事実が証明せられた今、この事を裏返して考え るならば人間はその有限性の故に自由をintellektuellには直観しえないがPraktischには認識 しうるという事を意味すると解されます。実践の形而上学の可能根拠をここに見出しうるとする ことは、必ずしも不当ではないのではないかと考えるのであります。
実践的自由とは自由による因果性であり、又理性意志の因果性であります。それは自然必然性 を意味する自然の因果性と全く異るものであり、自然の因果性に対する無制約者としての超越論 的自由とも異るものであります。自然必然性Naturnotwendigkeitによっても、又それを可能な
らしめるため推論的に仮定されたtranszendentale Freiheitをもってしても必然的には到達しえ なかった形而上学的理念は、実践的必然性praktische Notwendigkeitにより、自由の実践的認 識と、それにもとづく不死と神の実践的要請とにより我々入間との必然的な関係の中に入ってき、
それらの理念はpraktische Realitatをもつに至ったのであります。それは云う迄もなく、ge−
gebeneとしてではなく、あくまでAufgabeとして、Praktische Notwendigkeitにもとずく不 断の道徳的実践において、瞬間瞬間に断言命法に従わんとし、しかもこの事において自己自身を 自覚する、本来的自己の実践的な在り方において、一つの形而上学的認識が許されるのでありま す。それはDu sollstであると同時にIchwi11であり、更にはIch glaube と云う信仰へ導く
所の実践的な形而上学的認識の立場であります。
最後に、カントは断言命法や道徳法則をGrundlegung及び第二批判の数ヶ所において実践的 先天綜合命題であるとは申していますが、実践的先天綜合判断であるとは云っていないのであり ます。SatzとUrteilは直ちに同一視することは許されず、両者は混同されてはならないのであ
ります。ところでこの命題は云うまでもなく実践的認識の命題でありますが、一体「認識」という ものは−それは勿論正しい認識、必然的認識が意味されているはずでありますが−カントの 場合「先天綜合判断」という意味をもってをります。従ってさきの実践的先天綜合命題を第一批 判の場合にならって実践的先天綜合判断と云いかえることも許されるのではないかと考えられる のでありますが、私の見る限り、カントは遂に実践的先天綜合判断ということばを用いて居らず、
その必要のある時は常に注意深く、実践的な先天綜合命題ということばを使っています。この事 実をどう解釈したらよいのか一寸問題だと思うのですが、私はこのように解釈してみてはと思っ てをります。
カントは理論の問題も実践の問題も共に理性による認識という形で捉えているのであり、断言 命法もたしかにカンナの云うように実践的認識における一種の先天綜合命題でありますが、それ は何か与えられているもの、現にあるもの、に関する命題ではなく、あるべきこと、起るべきこ と、に関する命題でありますから、常に命令という形をとる命題であります。ところでGebotと いうのはSatzではありえますが、Urteilとは一寸云えないのではないか、命令の形式は判断の 形式をとりえないのではないかと思います。この先天綜合命題が判断の形ではなく命令の形をと っているということが、実践的認識の実践的認識たる所以ではないでしょうか。カントが一面理 論と実践の問題を共通に理性認識の問題としてとらえつゝ、理論認識を判断の形で現わし、実践 的認識を命令の形で捉えたということは、この二つが共通の原理に立ちつゝ単純なハラレリスム スでは考えられないということを示しているものではないかと考えるのであります。
以上私は「如何にして先天綜合判断は可能であるか」という KritikのGrundfrageが果して 第一批判で完全に解決されたであろうか、という問いを発して考察をすゝめて来たのであります が、第一批判の感性論と分析論において、悟性による先天綜合判断は純粋直観を媒介として可能 なる所以が演繹され、経験一般の可能性が明かにされると共に、純粋数学、純粋自然科学の可能 根拠も証明されたのであります。次に弁証論においては純粋理性を理論的認識の立場に立ちなが ら、叡知的対象に対して構成的に用いる如き先天綜合判断は必然的に仮象に陥るとして、その越 権が戒められ、限界が示されると共に、反面純粋理性の統制的使用はみとめられ、それにより経 験的悟性認識に体系的統一が与えられ、Maximumを理性の図式とすることによって統制的使用 による先天綜合判断の可能が明かにされ、そこに新たな学としての形而上学の可能根拠が明かに されました。しかし理論認識の場で未解決のまゝで残された純粋理性の構成的使用にもとづく先 天綜合判断可能の問題は、理性使用の全く別筒の領域である、実践理性の領域で「断言命法は如 何にして可能か」という形で問題とされ、自由の演繹を通し実践的自由を媒介とする事により、
それの可能が証明され、こゝに純粋理性の唯一の事実にもとづいて全く新たな実践の形而上学の 可能が考えられうるに至ったのではないか。但しそこでは最早それは先天綜合判断ではありえず、
無条件的な命法として先天的綜合命題であったわけであります。
かくて学としての形而上学はIch denkeの中に、実践の形而上学はIch glaubeの中にそれ ぞれの可能根拠をもつのではなかろうか。新しい形而上学の再建を意図しつつ、それのPropa・
deutikとしての「純粋理性批判」を書いたカソtが、「信仰に場をあけるために知識を制限せざる をえなかった」というのは正にこの意味ではなかろうか。そして同じ理性でありながら、理論理 性は統制的に用いる事のみが許され、これに対して実践理性は構成的にも用いる事が許され、し かもこの両理性の転換の軸をなすのが自由の概念であることは、カントが「自由の概念は純粋理 性の、理論理性さえの全体系のSchlusssteinである」(ibid.S.3)と語っていることが示してい
ると考えられます。
ともあれ、「如何にして先天綜合判断は可能であるか」というKritikのGrundfrageはこのよ うな形で理性の能力を批判しつ⊥、解決が与えられたのではないかと考えるのであります。(了)
〔昭和三十三年十月三十日受理〕
(腫禁盟結盟磐肺学会において発表されたものと同 ̄趣旨のものであ)