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雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

子どもの行動の歴史的変容[?] −高度経済成長 期を境とした対応関係への言及−

著者 岡本 定男

雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

巻 41

号 1

ページ 107‑119

発行年 1992‑11‑25

その他のタイトル A Historical Change of Children's Behavior[?

] −With Special Reference to the

Corresponding Relation Observed in the Period before and after Economy's High Growth−

URL http://hdl.handle.net/10105/1751

(2)

子どもの行動の歴史的変容[I]

高度経済成長期を境とした対応関係への言及

岡 本 定 男 (奈良教育大学教育学教室)

(平成4年4月30日受理)

は じ め に

「教育学者は、工業社会からサービス・情報社会へ、巨大な都市社会へ、時代の移行によって 子供たちの置かれた状況がいかに変わり、子供がいかに変容しているか、最大の関心を払ってき

ただろうか。」(り

これは、現代社会や文化の歪み・病理を指摘する「文化精神医学」者の、教育学への批判的問 題提起である。今日の教育学ないし教育史は、こうした疑問に対して、固有の科学的解明、実践 的指針を提起し得る段階にまで、自らの問題意識を深めているとは、到底言えないであろう。

一方、 「子どもはもういない」 (ニ‑ル・ポストマン)、 「子ども時代を失った子どもたち」 (マ リー・ウイン) 「急かされる子供たち」 (デヴィド・エルキンド)といった今日欧米の識者達によ る象徴的子ども把握は、近年急激に変貌しつつある子ども像が、わが国固有のそれではなく、高 度工業社全に達したいわゆる先進資本主義諸国に共通のそれであることを暗示している。

ところで、 90年代初頭期にある今日の時点にたって振り返ってみるとき、子どもと教育をめ ぐる70年代が一層切迫した危機的様相に包まれていたことは、誰もが認めるところであろうO そして、その際注目に値することは、 「校内暴力」 「いじめ」 「登校拒否」 「体罰」 「(高校)中退」

「校則」問題へと世間の耳目を集めて推移した教育問題が、 70年代以降、すぐれて学校教育の問 題として集約されることが余すところなく示されたことであろう。このことは、国家権力の全面 的な教育介入として、 「戦後教育の総決算」を旗棒した「臨時教育審議会」の狙いが、学校教育 における教育の人間化や個性化、さらには学校教育の弾力化や生涯教育体系への漸次的移行を主 眼に企図されたことを思い起こすことによっても明かであろう。

顧みれば、 70年代は、子どもの生活の主たる場面が、家庭や地域から大きく離れ、塾や予備 校を含む広義の学校教育へと、ほぼ完全に転換した時代であった。その結果が、子どもと教育を めぐる70年代以降を他と際立っ時期として印象づけているのだと言えよう。例えば、 80年代後 半部だけをとってみても、横浜の「浮浪者殺人事件」、名古屋の「アベック殺人事件」、東京目黒 の「両親祖母殺し」、同じく東京足立の「女子高校生コンクリート殺人事件」などといった誰も がまだ記憶に新しい陰惨を極めた諸事件は、家庭のみならず広義の学校教育から実質的に排除さ れたと自覚した少年少女達の怨嵯に満ちた「狂気」の犯行だった、と言えるかもしれない。今日 の少なからぬ大人や教師達にとっての子どもの存在価値が、こうした学校化(ないしは学習化) 社会への自発的順応者としてのそれであるとしたなら、子ども達の深層の嘆きや絶望感が、こう

した諸事件を引き起こした少年少女達とわずか半歩の距離にある、といっても過言ではないだろ

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岡 本 ・i'蝣ォ

う。

教育を広義の学校教育としてのみ捉え、大人を学校化社会の成功者としてのみ位置づける今日 我が国の教育観や人間観は、いっからどのように我々のうちに根付いてしまったのか、我々は、

このことを教育に関する第一義的な問として自らに課すことが求められているのではなかろうか。

本論文は、まず[I]においてこうした教育史上の転換が高度経済成長によってもたらされた 問題性と事実を示し、以下においてそれが、わけても子どもの無意識レベルでの行動の画期と なったことを指摘することを課題としている。

第I章 歴史的転換点としての1960年代 1. 「自分のからだを信じられる」豊かなフィールドの消滅

動物学者の小原秀雄は、多年にわたる中・大型晴乳類の研究を背景とし、その‑派生としての ヒトの教育をテーマとした著作の中で、以下のように述べている。

「人間(ヒト)の形成に関わる現代の諸条件が自己ペット化を生じ、個性の画一化を推進して いる。大量生産(品質管理)大量消費を可能にし、庶民生活の物質的豊かさを生み出した現代文 明が、個性の画一化、思考の単純化や人格のもろさなどをつくり出している。 ‑ (略) ‑この状 況は、単に従来の教育を充実する程度では打開できそうもない。幻想は棄てねばならない。 『も の』をつくりだし、人間(ヒト)をそれによって『つくる』しくみは、自己家畜化のしくみその ものである。」(2)

「知的情報を教えることに多くのエネルギーを割いている場代の教育は、 『知』への接近の拒絶 を生み出し、結局は学ぼうとする意欲を衰弱させている面がある。」(3)

「子どもには豊かな『場』が何より大切である。子どもどうしのケンカを含むもみ合い、動物 や植物、あるいはさまざまな自然物を通しての野生との出会い、自然界での偶然とのめぐり合い などが重要である。偶然や具体的な事象を含めた『フィールド』こそ、日常的に大切である。

(略) ‑多くの大・中噛乳類が、わずかの経験で新たな事態に対処する力、つまり可塑的な習得 能力を得ることからわかるように、人間(ヒト)もまた、フィールドによってその能力を高める。

フィールドは雑踏の中にも、あるいは縁の下や廃屋などの隅にもある。もちろん、偶然的で多様 な事象が起こる自然の系はよりいっそうそれに適切であり、都市内の公園での遊びや野山への旅 行などのもつ意義も深い。」(4)

小原は、 「教育の営みは、人間(ヒト)を『もの』を介して構造化する"道具"的な営みでも ある」とし、その点で不可欠ではあるが、それ故の「基本的に社会と種の維持に役立っ、いわば 保守的な営みである」(5)性格を根本的に有している、としている。その上で、環行の学校教育中 心の教育によってではなく、 「家族と地域の人間集団に帰属する教育」(6)、換言すれば、 「家庭と

それを支える地域を中心とし、国際的な拡がりやつながり、ある部分での文明とを加えた『新し い地方』の風土‑郷土」にこそ、 「現代の『知』の新しいフィールドを望見でき」t7)ると、結論 づけている。

改めて例証するまでもなく、動物学者小原のこの指摘は、基本的には、教育の理論や実践の中

でこれまでに強調され、確認されてきた立場と重なる主張であると言って良い。しかし、大切な

点は、人間の教育を動物や晴乳類の紛れもない一員として立ち入って観察・検討し続けたこの人

の現代教育観が、固有な人間教育のあり様をそれ自体として検討し続けている人たち(広義の教

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育実践者)のそれと、根本において一致している、という点にある。これは、別の視点からみる ならば、それほどに、今日の学校教育を主とした教育が、深い危機と混迷の中をさ迷っているこ との証でもある。 「学校の、子どもの基本的人権を認めない非道の収容所と化した現実」(8)を打 破し、 「『教えこむ場』としての学校を解体し、青年たちが、 『学ぶ場』としての学校をっくりだ そう」(9)とする努力や、 「学校は、公私に関係なく、子ども達のためにある」(10)として、 「感じて いることをそのまま表出できる教室空間づくり」を通して、子ども達が「自分のからだを信じら れる体験」(l】)を保証しようとしている教育実践者達の知見や活動は、小原の視点と共通している と思われるからである。

公教育の場で、注目すべき実験的・創造的教育実践を展開している教師鳥山敏子の、教室や学 校を子ども達が自分のからだを信じられる体験の場にしようとする視点。小原の、子どもには、

偶然や具体的事象を含めた日常的なフィールドが必要だ、とする視点。これこそ、学校の内外を 問わず、多難な課題を山積みした今日の教育を原点に立ちかえって蘇生させる有力な立脚点足り 得るのではなかろうか。

従って、問題は、学校といわず、家庭といわず、子どもをして「自分のからだを信じられる」

(鳥山)豊かな場を如何にして創出し得るかにかかっている、と言って良いだろう。換言すれば、

自分のからだを信じられる豊かなフィールドの再生こそ、今日の教育の、そして子どもの文化を めぐる緊急の課題の一つである、と捉えることが出来るのではなかろうか。それは、まさに、再 生という一度失ったものの回復ではあるが、単なる復元や復興ではない。即ち、その形態や方法 は、かつてそうしたフィールドが存在していたと思われるあり方とは、質的に異なるものでしか ないであろう。

2.歴史的存在形態としての「原っぱ」

翻って、かつてこのような場が存在していたとするなら、それは、どのようなフィールドで あったのだろうか?

作家の橋本治は、このことと関わって以下のように語ったことがある。

「俺、ワリと他人に対して譲歩するの平気っていうのは、原っぱをっくっておかなければ一緒 に仲良く出来ない。お互いが仲良くなる為の場所っていうのが絶対に必要で、そこに入っていか なかったら、そのかわり他人の変な中に踏み込んでいっちゃうっていう風になっちゃうから。出 てって‑でて行って、そのでて行ったところで、 『やっぱり君ってこういう人間だよね』って いう形で、それをどうしていくかっていう風に変えてかなくちゃいけないし、世の中っていうの はそういうもんである筈なんだけど、今の世の中っていうのは、そういう風になっていないんだ よね。今の世の中、学校になってるだけで、原っぱに全然なってないと患う。」

「世の中がいくらぎゅっと縮まってっても、原っぱがありさえすれば、そこにいさえすれば、

人間って、なんとかなるようなものっていうのは作れるかもしれないと思うのね。だからその、

みんなで作ってく混沌を平面に存在させる場所っていう、そういう原っぱっていうのがなくっ ちゃ駄目なんだよね。」(18

橋本が「みんなで作ってく混沌を平面に存在させる場所」としてのかつての「原っぱ」こそ、

鳥山や小原の言う「自分のからだを信じられる豊かなフィールド」の歴史的存在形態であったと

いえる。そして、それは、文字どおりの原っぱそのものにとどまらず、かつての子どもの生活や

遊びを成り立たせ得た全ての空間(道、森、山、川、海、神社、田畑etc.)をさしていた。そこ

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岡 本 定 男

には、例えば、遊びの素材や道具との関わりだけからみても、 「子どもたちめいめいの選択があ り、また創造があり、自然との『対話』があり、さらに子ども同志の『伝えあい』があった。」(13) のである。それは、同時に、 「風景や物や他人や自分との関係の回路を見つけてゆく場」(14)でも あった。子どもの遊びや生活が、大人の労働や地域の広義の祭りごとと深く関わりつつ、そこか

ら相対的に独立した自由な空間において営まれていたのである。この学校教師を含む大人達から 相対的に自立した自由な空間が、橋本の象徴的に語る「原っぱ」に他ならない。もはや、この空 間は、いわゆる物理的空間ですらなく、人や物や自然との「関係」そのものと言い替えて良いか も知れない。

我々は、これを、改めて、 「原っぱ」と呼ぶことが出来よう。人と物と自然、それらが程良く 入り混じり、子どもの生活と遊びに異質で冒険に満ちたさまざまな出会いの空間をふんだんに用 意している、それが、象徴としての原っぱであった。そこには、常に人と物と自然があり、子ど

もたち固有の遊びや生活技術の伝承を介しての自由で濃密で直接的な「関係」が成立していた。

そのころ、教師や親など大人達の善意の「保護」や「手助け」とは無縁の、自らの自立的で流動 的な関係の維持・発展を何よりも大切にした子ども集団がどこにも存在していた。そこでは、

人・物・自然との好奇と緊張とスリルに満ちたふれあい・交渉・格闘を可能にするルール・知 恵・技が、しっかりと保持されていた。そこには、どんなに魅力的な教材や優れた教師も及ばぬ

自主的かつ効率的な学習活動が縦横に展開されていた。

世界的に著名な動物学者河合雅雄は、彼のこうした子ども時代のあり方を振り返ってこう述べ ている。

「世の中のよからぬこととその解決法を、身をもって教えてくれるのは、学校でも家庭でもな い。子供は子供なりの苦労と悩みを体験し、くぐり抜ける必要がある。これを体験させてくれる 最良の教師は、ガキ大将とガキ集団をおいて他にない、と私は考えている。私どもの子供の頃は、

遊びはガキ大将から習ったものだ。川の水泳だって彼が統率して連れて行く。彼がいる限り水死 なんかなかった。ガキ大将には腕力だけではなれなかった。生活の知恵に精通しているところが 大きな条件であった。危険なことを行うこともそれを巧みに回避することも彼の特技だった。」(15)

ここでは、 「ガキ大将」こそが優れた教師であり、 「ガキ集団」で行う様々な良からぬこと、危 険なことの敢行こそが魅力的な教材に他ならなかった。そこは、全身・全感覚を駆使し、危険と 困難を乗り越えるための見通す知、しなやかな技、鍛え支え合う心が一体となった冒険的体験空 間であった。それは、子どもたちのすぐ傍のどこにでもあり、いっでも体験可能な日常的フィー

ルドであった。

「今から三十年前の、いわばぼくらの子ども時代には、子どもが路上にあふれていた。田んぼ 道を走り回り、山の中に入りこんでチャンバラごっこに熱中していた。メンコ、ベーゴマ、くぎ さし、鬼ごっこなどが日常的に行われ、けんかがあり、必ずだれかが泣かされて帰ったりし た。」(16)

わが国の30年はど前にあって、こうした光景は、余りにもありふれた子どもたちの日常世界 であった。いわゆる「原っぱ」も濃密な外界との直接的な関係も、当時の大人たちにとってはな んら注目に値するほどの値打ちもない、見慣れた風景そのものであった。

雑誌・新聞・テレビを通じて最も息の長い作品生命を保持してきたと恩われる長谷川町子の漫 画『サザエさん』は、こうした30数年前の子どもたちのありふれた光景が、地域に充満してい

たことを現実以上にいきいきと描き出していた。

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「物が少ない分だけ、大人の出会いはかえって濃密であった。子どもたちは、どこにでも遊び の道具を発見し、創造する。近所の空き地に『売地』の看板が立てられると、 『みんなこいよ!』

とカツオくんは底の抜けた捕虫網をかっいで、仲間を従えてやってくる。捕虫網を看板に支えさ せれば、仲間はたちまちにしてバスケットボールチームに早変わり. ‑ (略) ‑彼は、大人以上 に地域のことをよく知っている。近所の犬猫それぞれにとって、どこがお気に入りの場所かと言 うことを。顔見知りの三河屋の小店員が御用聞きの途中、どこで道草を食っているかということ を。いちいち見に行ったり確かめたりしなくとも、カツオくんは自分にかかわりある地域の事情 を十分把握し、ときにはおとながその知恵を借りにくることさえあった。こうして幼くとも、カ ツオくんは地域のなかに自分自身の王国をもつ主人公だったのである。」(ln

野山や川や秘密のアジトといった大人の目の届かないところで、子ども達が遊びや生活の主人 公であったのみならず、地域でも、そして家庭の中でも、彼らは大人達と役割を分けあい、その 役割すらも遊びに変えてしまう生活を日々送っていたのである。その辺の典型的と思われる事情 を、再びカツオくんに見てみよう。

「彼の家事労働のレパートリーのひろさは、かぞえ上げれば一驚に値する。庭掃除、お使い、

犬の散歩などは遊びの延長上にあり、大掃除、お祭りなど町内いっせいの行事には、地域の中の メッセンジャー、ときにはコーディネイタ‑の役割さえ果たしている。子守、雑巾がけ、食事の あと片づけ、お膳立て、女性に人気のテレビ番組がある日は、父や義兄を督励しつつ率先して台 所へ立つ、新聞を耽り込んで雨の日は乾かしてから父の枕もとへ運ぶ‑数え上げれば枚挙にい とまがない。 ‑ (略) ‑彼の家事労働は『労働』を超えて、地域の仕事にまで発展するから、カ ツオくんは立派に地域社会から公認された隣人であり小さな住民であり、その気になって読めば 地域を支える一員としての自信に満ちた風格さえ感じとれるのである。」(18)

大人や異性や異年齢を含み込んでいた「人」、植物や生き物を取り込んでいた「物」、そして、

何よりも遊びの素材や媒介として常に織り込んでいた「自然」。都市生活者の象徴的子どもで あったカツオくんを初め、当時の子ども達は、まさに「自分のからだを信じられる豊かなフィー ルド」の真只中で日々の生活を生きていたのだと言って良いだろう。

3.子どもの生活環境としての「人」 「物」 「自然」の激変

子どもが、自身の生活や遊びの主人公たり得たばかりでなく、家庭や地域の労働や広義の自治 的文化的営みに於いても応分の役割を果たし、 「地域の中に自分自身の王国をもつ主人公」 (樋口 恵子)であり得た時代から僅かに30数年。人・物・自然をめぐる子ども達の生活・文化環境は 根本的に変わってしまった。

「人」との関係を家庭内にみてみるだけでも、核家族化の始まりとともに、両親と1‑2人の 子どもという平均的構成の中で(19)、両者は、保護と広義のしつけや教育の主体・客体という基本 的関係の中に取り込まれてしまうようになった。祖父母や叔父・叔母の同居という、それ以前ま でごく普通にみられた家族構成の中で、子ども達は、それぞれの人達が、それぞれの立場やつな がりによって、自分達に接してくれる態度や働きかけの違いを身をもって味わうことが出来た。

父親が叱れば母親がかばい、両親が多忙で相手をしてくれなければ祖父母が暖かく接することで、

図らずも人生や社会の機微を生き生きと映Lだし、また、大人が誰もかまったり助けたりしてく

れなければ、兄や姉が世話をしてくれ、抑えられ歪みそうになれば弟妹と小さな悪さやいたずら

をしてストレスを解消する。このような、かつてのどの家庭にもあった人との多面的関わりは、

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急速に減少した。

地域にあっての「人」との関わりも、日常の挨拶から祭りごとや行事に於ける協同活動を通し ての大人達からの具体的で刺激的な働きかけが、働き盛りの大人や青年達が町や村から都会へと 流出していく過程で、いっの間にか消えていった。

最後の拠り所としての子ども相互の関わりも、こうした家庭内外の大人達の子どもの視野から の離脱と並行して、そのまま2‑4人の「核集団」へと移行し(a)、結果、異年齢集団が崩壊し、

ガキ大将もいなくなってしまった。このことによって、子ども相互や大人達と味わう好奇とスリ ルに満ちた冒険体験が、物理的にも技術的にも不可能となった。

「物」や「自然」との関わりも根本的に変化した。都市におけるビル化・宅地化、農山漁村に おける工場化・コンビナート化・リゾート化、全国を覆ったモータリゼーション化によって、家 の周辺の道路や空き地や野山という子どもの生活や遊びのフィールドが次々と奪われていった。

基地や隠れ家を含む子どものアジトも、 「開発」や「改造」を信奉する官民双方の大人達によっ て奪われ押し込まれ、動植物をはじめ尽きること無さ種類と量を提供してくれた自然物による遊 びの素材や対象が、見る影も無く貧相で魅力の乏しい存在へと変わってしまった。

「物」との関係で最も象徴的なものは、大人の生活用具の激変であった。

1950年代の半ば、やっと戦時の荒廃や飢えから脱しつつあった庶民にとって、 「三種の神器」

(3C‑カー、クーラー、カラーテレビ)は、 5‑6年の問に一般家庭の必需品となって行った。

これによって、もはや家庭は、膨大な家事や作業を必要とする労働の場ではなくなり、狭いなが らも便利な消費と休息の場へと変化した。勢い、子ども達は、家庭内でも忙しく立ち働く大人の 姿を見かけなくなっていった。

しかし、最も注目すべきことは、この時期に子ども達自身を直接の対象とする社会的働きかけ が現れ、やがて子どもの意識や行動をほぼ完全に支配して行ったことである。

その一つは、 60年代から始まった経済界からのいわゆる「人的能力開発政策」 (マンパワーポ リシー)であり、その現実形態としての70年代のいわゆる「中教審路線」の具体化であったO 後期中等教育の多様化を骨子とした1971年の中教審答申は、いわゆる「差別と選別路線」を教 育界に定着させ、 70年代半ばの「乱塾時代」によって、教育が、受験競争と殆ど同義となって 学校内外を席巻して行った(21)。

もう一つは、同じく60年代から企業のマ‑ケティングに、子どもが固有の顧客として明確な 位置を与えられ、衣・食・住から玩具を含む生活・文化・遊びの中に企業製品が雪崩を打って流 入し始めたことであろう。 「企業一顧客という関係図式で子どもが対象化された」mことで、

「物」と関わる子どもの生活は、 70年代に入って急速に人工物へととって替わられて行ったので ある。こうした表れの結果が、かつて群れの中で育まれてきた子ども達の集団的・創造的文化創 造力の衰退であり、替わっての子どもの生活や遊びへの他律的「学習」や消費的「遊び」の加速 度的侵入・横行であった。 70年代以降の世間一般の教育問題への急速な関心の増大は、こうし

た過程で生じた子どもの生活・遊びの効率化・管理化が生んだ歪みへの批判的関心の高まりに よって支えられるという側面を一方で有しつつ、より現実的な多くの大人達の子どもへの関心は、

大きく受験学力へと傾斜し、さらには、子どもの人格形成を家庭や地域ではなく学校に委ねざる を得なくなったことから生ずる「学校教育」への関心へと収束して行った.

その結果はどうなったか?今や「学校教育は経済発展の手段と化し、 『社会有用の人物』とい

うより『社会有用の人材』の供給手段」¢3)としての比重を益々強めていることは、大方の‑致す

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るところであろう。

こうして、子ども達は、 70年代以降、それまでの大人や異年齢集団と関わる多様な「人」の 中で、動植物を含む多種の「物」や「自然」を媒介としつつ、ゆっくりとめぐる時間の流れに身 を委ね、全身全感覚で躍動していた子ども時代を失い、企業や大人達の利益や都合に合わされ、

学校や学級の同学力の似たもの同志の数人の仲間の中で、テレビを初めとする人工物に囲まれ、

受験戦争を常に意識しっつ、細切れの時間の間を、表層的で剃那的な刺激に神経を麻痔させるこ とで、一層ストレスを蓄積していく子ども時代へと突入して行くことになるのである。

「都市化と呼ばれる現象は、子ども達から空き地を奪い、道路を危険な自動車で満たし、高層 住宅は子どもの屋外生活時間の短縮をもたらしました。管理社会は子どもの世界にも及んで、い

まや子どもの世界は、親や学校の先生という育児の専門家の管理下におかれています.」

「遊びの環境を奪われた子どもたちにとって、逃げ場は、家庭でのテレビとマンガとファミ リーコンピュータです。母親は管理しやすい家の中あるいは、おけいこごと、塾に行かせます。

子どもと遊べない父と遊ばせない母のもとで、やがては受験戦争へと駆り立てられてゆくのです。

もう、ほとんどの子どもにとって自由はありません.」(24)

学校内外で70年代に顕在化したこの変化は、それまで陰影と神秘と起伏に富んだ子どもに とっての風景や社会を、一気にただ明るいだけの異様に平坦で味気ないものへと変化させた。

「世間もまるで公明正大、子どもから見ればのっべらぼうに均されている感じだろう。草野球 より少年野球の方がよく見える。気ままな道草より通学路の方がよく見えるO」(bJ

しかし、これは誠に皮肉な結果となって、 90年代の今、あちこちで悲喜劇とでも呼べる出来 事を生んでいる。

都市化と効率化の過程で起こった近隣の大人達の人間関係の希薄化の中で、野山の代わりの児 童公園さえ、当の子どもたちが遊ばない、遊べない場‑と変化してしまった事例がある。大都市 の若い母親の以下の事情と嘆きは、野山から疎外され、大人がよかれとあっらえた遊び場からさ えも閉め出され、行き場を失った子ども達の姿を端的に映し出していると言えよう。

「わが家は、マンションの五階で、ベランダもなく、マンション専用の庭もありません。一歳 半になる、動きの活発な息子をもっていると、雨の日以外は外に出かけて思いっきり遊ばせたい と恩っています。それには安全で事故の起こる可能性がなるべく少なく、安心して楽しく遊べる 場所が第一条件だと思っています。今朝も、日ごろ親しくしている友人のいる大きな団地の中に ある公園に遊びに行きました。夕方は、自転車を乗り回す子どもたちがいるので、朝方なら少な いだろうと思い息子を歩かせながら公園に行くと、案の定だれもいませんでした。しかし、少し 遊んでいるうちに管理人がきて『ここの住人じゃない人は、ここで遊んでもらっては困る。出て いってくれ』と言われ、いやがる息子を連れて、少し遠い公園に行きました。 ‑ (略) ‑ほとん ど誰でも入れる解放的な団地なのだから、子どもの散歩をさせに悪気もなく自由に出入りしてい ました。昔、私達が子どものころの町は、人の家の庭も門らしいものがなく、ごめんねと言えば 気軽に通してくれる気安さがありました。しかし、あんなに大きな団地の公園に入るのさえ拒絶 されるのかと恩うと、何だか人間不信になってしまいそうです。とにかく私が今望んでいるのは、

子どもが安心して自由に遊び回れる場所なのです。いまの世の中はそれを望むこと自体、無理な のでしょうか。」(26)

子どもの将来の人並の生活保障のために、あるいは子どもの安全や健康のためのささやかで切

実な大人達のねがいが、結果として子どもの自由な遊び場や野趣に富んだ遊び場を奪ってしまっ

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た。そして、今や、その人工的な遊び場さえも、バラバラにされた大人達の即物的利益や「安 全」や「無事故」優先の名のもとで、新鮮な出会いと創造を生む子ども集団を分断し、閉鎖的な 管理下での遊び空間へとおとしめられてしまっているのである。

今や、子ども達は行き場を失い、大人達は子どもを生き生きと躍動させる方途やつながりを兄 いだせないまま、マスコミやミニコミの情報過多の中で、子育てや教育への悩み・関心ばかりが 異常に増幅されている。

「新聞も、 TVも、ラジオも、教育相談。いんさんな話題ばかりだ。学校病相談。あるいはム ラもイ工も崩壊した社会における、対症療法のけんとうもつかぬ、コドモ症候群、思春期症候群 だ。 『あまり心配しないのがいいですよ。親がウロウロするのがいちばんえいきょうするんだ』

『じっくりはんきで耳をかたむけてやってください。でも、いかにも、さあ、おまえのいうこと を聴いてやろうという態度はみせないように』 ‑なにを言っているんだ!学校に収容させら れ、とじこめられて、子ども期・恩春期を奪われ、愛の対象も愛の行為も禁圧れている子どもた

ちの、心身の坂乱のような症候だ。」(2乃

数十年間、変わり行く高校教育現場を目の当たりにみてきた教師のやり場のないようなこの怒 りに、今日の教育問題が学校教育の問題へと遍在してしまった事態とそうであるが故の病弊の絶 望的なまでの深さが、端的に映し出されていると言えよう。

第Ⅱ章「魔のトンネル」としての高度経済成長 1. 80年代の子どものからだ・遊びの地滑り的変化

1980年、 NHKの「放送世論研究所」は、多年にわたる子ども達の生活追跡調査を通して、以 下のような危快を表明していた。

「能動的、集団的遊びの中でこそ、 『知的能力』や『巧敵性・運動・能力・体力』の発達も可能 なのであり、 『遊び』から、集団的、能動的要素がなくなるとすると、子どもの発達にゆがみが 出てくる恐れがある。そうした点からすると、中学生はもちろん、小学生のうちから『テレビを 見る』 (女子四位、男子六位)、 『本・雑誌を読む』 (男子八位、女子十位)などにみられる『遊 び』の"受動的''ないし"個人的"な傾向は気がかりなことと言える。」(28)

前章でとらえた70年代以降の子どもの遊びや生活の変化は、主として子どもの環境をめぐる それであった。 80年代に入っての世間の耳目は、アスコミを通して、 「校内暴力」 「いじめ」 「体 罰」 「登校拒否」 「中退」 「校則」へと推移してきたが、これらは、同時に、 70年代以降にあって の子どもの生活・文化環境の激変が、子どもの心や体を含む子ども自身の変貌となって現れ始め たことの間接的反映でもあった。子ども自身の変貌とはなにか? 「放送世論研究所」の上記の 危慎表明の5年後、全国規模の調査を行った別のグループは、このことと関わるその決定的とも 言える変貌の主たる部分について、以下のように報告していた。

「1)友だちと遊んだ子は15.5%。調査日の前日、友だちと遊んだ子は15.5%で残りの 85.5%は遊ばなかったという。そうした傾向は、 ① 学年が上がるにつれ、 ② 勉強がで

きるようになるにつれ、そして、 ③ 山村になるほど著しい。

2)何をして遊んだか: 1)の通り、遊んだ子は15.5%にすぎないが、遊んだ内容は、 ①

テレビゲーム、 ② ポール遊び、 ③ プラモデルで、中でもテレビゲームをしている子が

多い。

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3)友だちとの行き来:友だちと行き来した子はほぼ7%で、中でも学年が上がるにつれ て、友とふれ合う子の割合はへる。

4)遊びの学年差:小4から6になるにつれて、勉強時間が30分から1時間へと倍増して いる。それを受けた形で、友との行き来が半減し、遊んだ子の割合も減少していく。

5)テレビの視聴時間:子どもたちは平均して、 2時間35分テレビを視聴している。友だ ちと遊ばなかった子は、家の中に龍もり、勉強する他は、テレビを見ながら、放課後の時 を過ごしている。

6)よくしている遊び:おしゃべりをするかテレビやマンガを見るのが、よくする遊びの 一位、 2位を占める.

7)古典的な遊び:石けりやおはじき、あやとりなど、昔なじみの遊びを『ぜんぜんした ことがない子』が6‑7割に達する。

8)遊び体験: 『暗くなるまで遊んで叱られた』、 『草の上をころころころがって遊んだ』

『蛙や虫をつかまえた』などを『一度もしたことがない』子が半数を越える。

9)遊んでいる場:子どもたちは全体として遊んでいないが、そうした中で、遊んでいる のは、自分の家か友だちの家かに限られている。

10)遊び場がないのか: 『歩いて5分位』のところに『野原や原っぱ』のある子は4割に達 しているし、 『ちょっと遊べる道路』のある子も69.3%に達する。したがって、遊ぶ場が ないから遊べないということはないように思われる。

11)近所に欲しいもの: ‑ンバーガーショップ、次いで芝生のしきつめた庭、広いグラン ドの順で、そうした意味では人工的な環境を子どもたちは求め、めだかのとれる小川やお たまじゃくしのとれる田などを望む子は少ない。

12)、 13)略

14)手伝い:子どもたちが手伝っているのは、 『食器を流しへ運ぶ』 (50.6%)か、 『茶わん を並べる』 (41.2%)位で、その他のことは親まかせの生活を送っている。」伽)

全国の大都市、地方都市、山村の30カ所、計7600名余の小学生の校外生活の実態を調査した この報告から、私達は、 80年代に入ってからの子ども達の「人」 「物」 「自然」との関係の地滑 り的変容の様を見てとることが出来るだろう。もはや、子どもたちは、かつてその生活の中心で あり、子どもらしさの社会的発現の主たる形態であった「人」や「自然」と密着した遊びそのも のから、ほぼ完全に離脱しつつあると言って良いだろう。子どもの生活は、確かに存在してはい るが、学校とその延長である校外でのいわゆる「勉強」と、屋内でのテレビやゲームによる「気 晴らし」の狭間で、 「人」や「自然」とストレートかつダイナミックに関わる遊びそのものは、

窒息による完全麻痔状態に陥っていると言えよう。

翻って、注目すべき点は、子どもの行動の主たる表現としての遊びの急変が、より直接的な子 どもの心や体の歪みやくずれと因果をなしている事実であり、この点も80年代に入って、人々 の実感するところとなった。

「実際に子どもたち一人ひとりの体を観察し、触れてみて、率直にいって、本当に健全その ものと思える子どもが一割も見つからないことに驚かされている。」帥

まともなと思える体の子どもが、わずか一割も見つからない。 ‑この観察は、先に引用した同

時期の子どもたちの全国規模の調査結果「友だちと遊んだ子は15.5%」 「友だちと行き来した子

(11)

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ははぼ7%」という異様とも思われる数字と見事に呼応していることが察知されよう。

80年代半ばのこうした危機の様相は、すでにそれ以前から以下のように専門家によって指摘 されていたことであった。

「子どもたちの体力がおちてきたのではないかとか、どうもからだが変化しはじめたのでは ないかと実感されはじめたのは、 ‑ (略)一一九六〇年から一九六五年ごろにかけてのこと であった」

「子どものからだのおかしさがかなり進行し、その気になってみればかなりのおかしさが目 につくようになった一九七五年以降。」(31)

しかし、こうした状況の衝撃的進行を広く世に伝える少なからぬ契機となったのは、 1978年 のNHK特集番組『警告!子どものからだは蝕まれている』であった、と言って良いだろう。こ の報道にも中心的に関わり、子どもたちの変容を、主としてからだの歪みから調査研究してきた 正木健雄は、 70年代末の時点で以下のような判断を表明していた。

「年々ふえてきているものと、以前からあったものとをあわせてみると、現代っ子に見られ るからだのおかしさのワースト5は次のようなものとなる。

小学校

(彰朝からあくび ②背中ぐにゃ ③アレルギー ④腹でっぼり ⑤朝礼でバタン 中学校

①アレルギー ②朝からあくび ③朝礼でバタン ④貧血 ⑤腰痛 高校

①貧血 ②腰痛(診高血圧 ④心臓病(9朝礼でバタン」

このように見てくると、現在進行している子どものからだのおかしさは、まず大脳の活動水準 の低下にあらわれ、ついで背筋の弓引ヒが進行し、次第に下肢筋の弱化に進み、やがて症候群の出 現となるという順序で進むものであるということが、浮きあがってくる。」(32)

70年代以降指摘されはじめた子どものからだの変化は、その後、「靴のひもが結べない」「ナイフで 鉛筆が削れない」「りんごやじゃがいもの皮がむけない」といった手指の不器用さから、「スキップ ができない」「腕立て伏せができない」と言った運動能力の低下の指摘へと広がっていった。さらに 80年代には、「高血圧」「肩こり」「神経性胃炎」などの、従来は、大人固有の症状であったものの発現 をみ、80年代の後半には、まさに文明病そのものとしての「自立神経失調症」や「心身症」の頻発へと 一気に広がってきたことも、周知の事実であろう。

「家族の問題が解決すれば友人の問題、友人の問題が解決すれば学業の問題‑と、次から 次へと問題が起こってくる。治療はどんどん長引く。子どもはがんじがらめになっているわ けである。しかし意外なことに、最近ではそんな状況を解決していくことに、子どもの方が 抵抗を示すケースが増えてきた。症状を出している間は、あれこれの重荷から逃れられるが、

症状がなくなって元気になれば、現状に立ち向かって行かなければならない。 ‑そんな恐 れが、子どもの気持ちに潜むことになってきたのである。病気はつらいが治りたくはないと、

子どもは内心恩ってしまう。元気になることに勇気がいる時代になっているのである。 『病 気の方がまだましだ。入院していたい。』と駄々をこねる子を、どう説得すればよいのだろ

うか。」

「二十年前、子どもたちのアドバイザ‑となることは、楽しいことであった。しかし現在で

は、極度のストレスで危機に瀕して通院する子どもを治療しながら、やり場のない怒りをお

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さえることができない。なぜこの子たちが、治療を受けなければならないのだろうか。治療 が必要な対象は、もっと別の存在ではないか。そんな自問が続く。対象の後には対象があり、

その後はぼやけて拡散する。社会は幻影に近い。しかしその幻影が、今日も確かに子どもを 外来へと送り届けてくる。」脚

長年、小児診療外来にあって、こうした子ども達と接してきた医師のこのような深い戸惑いと 嘆きは、体と心を病んだ子ども達の出現が、もはや今日の大人や社会そのものの底深い病みの表 われに過ぎないことを暗示しているのではなかろうか?

このようにみてくるとき、現代教育史の一部を構成する現代子ども史にあっての1960年代は、

一大転換点に位置していたのだと言って良いであろう。それは、既にみてきたような子どもの フィールド(原っぱ)の消滅という生活環境の激変とそれに伴う子どものからだ・遊びの質的変 化への転換点であったとともに、 [Ⅱ]にみるような、より深層かつ無意識レベルにあっての子 どもの行動の大転換を用意したという意味で、まさに歴史的に未曽有の出来事であったと言って 良いだろう。

[Ⅱ]へ続く。

m

(1)野田正彰『漂白される子供たち』情報センター、 1988年、 P.194.

(2)小原秀雄『教育は人間をっくれるか』農山漁村文化協会、 1989年、 PP.208‑209.

(3)同上、 P.207.

(4)同、 PP.210‑211.

(5)同、 P.217.

(6)同、 P.215.

(7)同、 P.218.

(8)斉藤茂男「大人も子どもも壊されていく」 『教育』国土社、 1989年1月号、 P.14.

(9)竹内敏暗『からだ・演劇・教育』岩波書店、 1989年、 P.77.

(10)烏山敏子「ことば・声・からだ」斉藤・高橋・波多野編『同時代子ども研究 3巻 しゃべる・つきあ う』新曜社、 1988年、 P.92.

(ll)ともに、同上、 P.72.

(12)ともに、橋本治『ぼくたちの近代史』主婦の友社、 1988年、 PP.208‑209、 P.208.

(13)一番ケ瀬康子他『子どもの生活圏』日本放送出版協会、 1969年、 P.20.

(14)高橋幸子『みみずのこども』思想の科学社、 1988年、 P.157.

(15)河合雅雄『学問の冒険』佼正出版会、 1989年、 P.38.

(16)野本三吉『戦後児童生活史』協同出版、 1981年、 P.235.

(17)樋口恵子「『サザエさん』三〇年にみる世相と子ども」 『教育』国土社、 1987年1月号、 P.103.

(18)同上、 P.104.

(19)総務庁統計局『国勢調査報告』によれば、 1955年以前までの一世帯当たりの平均人員は、大正中期以降 5人前後であったが、 1960年代半ばで早くも4人台を割り、 1970年代では3.2人へと急減していった。

(日本総合愛育研究所編、 『日本子ども資料年鑑』中央出版、 1988年、 P.55より再引)

(20)日本テレビ・ネットワーク協議会が、 1981年に行った全国調査によれば、ふだん子ども達が一緒に遊ぶ

人数は、 2人くらい‑18%、 3人‑27%、 4人‑16%の計61%が4人以下の「核集団」であることを示

し、 6人以上は、わずかに16%にすぎなかったことを報告している。 (同協議全編、 『子どもの生態系

が変わった』日本テレビ、 1985年、 PP.70‑71.)

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(21) 「東京新聞」が1978年に実施した調査によると、お稽古ごとを含むいわゆる塾にいっている子どもが、

東京で88%、名古屋で79%であったという。さらに、学習塾に限定した変化をみると、 1967年の11 年前と比べ、特に「平日の中学生男子は塾が二・一倍、おけいこごとが一・九倍増えたのに対し、遊び は四割、テレビは三割、手伝いは二割減っている。ところが、勉強時間は一・五倍と増えている.また、

女子の学習塾は、十一年前は男子と比べて少なかったせいか、なんと三・六倍となった」という。 (稲 村・小川編『生活リズム』共立出版、 1982年、 PP.39‑42.より再引)

(22)西島健男『子どもをとらえ直す』国土社、 1987年、再版. P.72.

¢3)樋口・渥美・加藤・木村『日本男性論』三省堂、 1986年、 P.33.

(24)ともに、待井・川原編『子どもと地域社会』中央法規出版、 1985年、 PP.115‑116、及びP.114.

位5)高橋幸子「遊び塾で遊ぶ」斉藤・高橋・波多野編『遊ぶ・たのしむ』新曜杜、 1988年、 P.75.

(26)主婦(大阪市) 「団地公園追い出された」 『朝日新聞』 1989年、 8月18日、 「声」欄.

(27)関 広延『現代学校まんだら』海風杜、 1988年、 P.99.

NHK放送世論研究所編『日本の子ども達』日本放送出版協会、 1980年、 P.57.

(29)子どもの校外生活に関する研究会(代表 深谷昌志) 『放課後の子どもたち』昭和61年度伊藤忠記念財 団委託研究、 1987年、 PP. 1‑2.但し、引用文中、図表ナンバーや%を一部省略した。

(30)武田 忠『教育における子どもの復権』相樹社、 1984年、 p.f

(31)ともに、正木健雄『子どもの体力』大月書店、 1979年、 P.13.及びP.47.

(32)ともに、同上、 PP.72‑73.及びPP.74‑75.

(33)ともに、生野照子『子どもの叫び』大阪書籍、 1988年、 P.239.及びP.242.

(14)

A Historical Change of Children's Behavior [ I ] With Special Reference to the Corresponding Relation Observed

in the Period before and after Economy's High Growth

Sadao Okamoto

{Department of Pedagogy, Nara University of Education, Nara 630 ,励on)

(Received April 30, 1992)

It is well‑known that the education of our country has been placed in a remarkably

crucial situation sinse 1970's. We should pay attention to the matter that problem of

school education, for example, so‑called "violence in school", "ljime , "refusing to go to school and so on, has brought the problem of education into focus since 1970's. The main place of children's life distinctly separated from the home or the community in 1970s, and before long the school education including the "jyuku" and preparatory school in a broad sence has grown noticeably.

When and how did the view which is tended to grasp the education only as the

school education in broad sense spread its deep root in our society today? I think that we are given this problem as a first question about today s education.

I intend to clarify in this thesis for two times that such our tendency concerning education was brought as the result of economys high growth in 1960s. This serious problem isn't sufficiently known generally by the delay of the pedagogical research.

People notice vaguely till now that the play, life, behavior and so on of children have remarkably changed. In addition to this observation, it is slso awared that the dody, physical strength, ability and so on of children seem to have weakened since these twenty years.

On this paper, I am going to point it out especially in the obvious change of children's unconscious conditioned reflex response. I hope that this indication is helpful to clarify the advanced research about children s life, culture and education.

(to be continued)

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