子供の興味を生かした指導過程の研究 : デューイの児童中心の教育観を基礎にして
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(2) 目 次. はじめに ・……………・・… ………・…・……・………………・・ 1 デューイの児童中心の教育観における子供の興味の考え方 …………. 4. 第1節 デューイの児童中心の教育 ・・…………………………・……・. 4. 第1章. 第2節 教育観の違いにおける教材と子供の興味 ……………・・…・…・・. 1 教材を重要視する「旧教育」 ………………・…………… 2 子供中心の「新教育」 ・……・………・・…・…・…………・ 3 教材と子供の興味についてのデューイの考え …・…・…………. 第3節 実験学校における子供の興味を生かした指導 ………………・…. 1 興味と努カ ……・……・……・…………・・……・・…・… 2 四つの興味 ……・……・……・………・・………・……・・ 3 興味を生かした指導 ………・・………・……・………・…・ 第4節 羽曳野市の小学校における子供の興味を生かした指導 ・…・………. 第2章 第1節 第2節. 第3章. 有田和正の授業における子供の興味を生かした指導 …………・…. 教材についての考え方 ……・…………・・………………… 「バスの運転手」の授業 …・…………・…・…・……………. 14 14 17. 20 24 24 28 33 39 50 50 58. 授業実践 ……………・・…・……・…・・…’…・・………… 68 一小学校4年生「角と角度」の授業一. 第1節 授業構想 ……・・・……・…・…・…e .・……・・…・・………… 68 第2節 学習指導案 …………・・……・…・…………・…・・……… 71 第3節 指導過程と結果 …・・……………・……………・・…・…… 98 第4節 望ましい授業の在り方 …・…・・……・………・………・・… 131. おわりに …………・・……・……………・…・・…………・… 135 参考文献 資料.
(3) はじめに. 平成元年の学習指導要領の総則では、 「児童の興味や関心を生かし、. 自主的、自発的な学習が促されるよう工夫すること」1)が強調されてい る。. 今回の学習指導要領の改訂にあたっては、 「自ら学ぶ意欲と社会の変 化に主体的に対応できる能力の育成を重視すること」2)がねらいのひと. つになっている。その背景には、今までの学校教育が知識の伝達に偏っ ている傾向が見られ、画一化、硬直化していると指摘される現状を転換 しようとの意図がある。教師主導型の授業から子供が自ら学び、自ら考 える学習をめざして教育の質的な改善を図ることを課題としているので ある。子供の興味や関心を生かすことは、子供が自ら:意欲的に学習する. ための留意すべき点として強調されるのである。. ところが、教師主導型の授業を改善するということは、教師ができる だけ直接指導しないことであるとの誤解を生んだり、子供の興味や関心 を生かすということは、子供が単に楽しく生き生きと活動していること だと短絡的に考えたりする風潮を生み出しているように思われる。. 自主的、自発的な学習とはいったい何であるのか。そのような学習を 促すために子供の興味や関心を生かすということはどういうことである のか。はたして、子供の興味や関心を生かすことが、自主的、自発的な 学習に結びつくのであろうか。. 子供の興味や関心を生かすのは、教師の指導によってである。しかし、 子供の興味や関心は複雑で、個人差があるために、教師がそれを生かし て指導することは容易ではない。もし、教師が子供の興味を生かした指 導をするならば、子供は自主的、自発的な学習を行うようになるはずで. 一1一.
(4) ある。. デューイは、指導の問題とは「新しい経験を獲得することに従事する のを望んでいるような本能と衝動のための適切なもろもろの刺激を選択 する」3》こととしている。子供の本能と衝動は、新しい経験を獲得しよ. うとする活動として現れる。そのような活動を教師が理解して、新しい 経験を与えられるように刺激を選択することが指導の問題となるのであ る。教師が子供に一番ふさわしい刺激を選択するには、教育学的、心理 学的知識及び、指導のねらいや内容についての知識が必要となる。 「興 味は児童がまさに活動にはいろうとしているところの段階を予言する」 4)という主張を理解するには、先の知識が教師に備わっていることが前 提となるのである。. 本研究は、 「子供の興味」に焦点を当て、興味とは何か、なぜ、教科. 等の指導に当たって子供の興味を考慮する必要があるのか、真に子供の 興味を生かすとはどういうことかをデュー・・一・イの児童中心の教育観に基づ. いて明らかにし、同時に、日本の教育実践家である有田和正の子供の興 味を生かした指導の事例を参考にして、子供の興味を生かした指導過程 はどうあるべきかを小学校算数科の授業実践を通して考察するものであ る。. 一2一.
(5) 【註】. 1). 文部省「小学校学習指導要領」大蔵省印瑚局 1996年(第11刷) p,3. 2). 文部省「小学校指導書 教育課程一般編1ぎょうせい 1995年(6販刊) p.2. 3) デューイ著「児童とカリキュラム」(1902年)杉浦宏訳『教育における興味と努加明治図書1979年(5版刊) p.82. 4)デューイ著「わたしの教育学的信条」(1899年)杉浦宏訳『今日の教育1明治図書1977年(再版刊)p.29. 一3一一.
(6) 第1章 デューイの児童中心の教育観における子供の興味の考え方. なぜ、教育において子供の興味を考える必要があるのだろうか。子供 の興味とはいったい何であるのか。. この章では、先の問いに対する答えをデューイの児童中心の教育観に 求め、指導上子供の興味を生かすとはどういうことかを考察したい。. 第1節では、デューイの児童中心の教育とは何かを明らかにし、第2 節では、さまざまな教育観において教材や子供の興味がどうとらえられ. たかを検討する。第3節では、デューイの児童中心の教育で興味がどの ように考えられ、指導にどう利用されたかを考察する。第4節では、そ れまでの考察に基づいて、学校現場で子供の興味を生かした指導がどれ だけなされているかを検討してみる。. 第1節 デューイの児童中心の教育 教育上で児童を中心にする考えを、デューイは次のように表現してい る。. 「いまやわれわれの教育に到来しつつある変革は、重力の中心の移動で. ある。それはコペルニクスによって天体の中心が地球から太陽に移され たときと同様の変革であり革命である。このたびは子どもが太陽となり その周囲を教育の諸々のいとなみが回転する。子どもが中心であり、こ の中心のまわりに諸々のいとなみが組織される。」1). 旧教育の考え方を批判することによって、デューイは自らの教育の考 え方をより鮮明に主張するのである。旧教育は「重力の中心が子どもた ち以外にある」2}とデューイは述べている。旧教育では、教師・教科書 が中心であり、子供は集団的に、画一的な教育内容を受動的に教え込ま. 一4一.
(7) れる存在であった。その教育を変革し、「子ども自身の直接の本能と活 動」3}を中心にして教育を組織しようというのである。つまり、学校を. 子どもが生活する場所にすることによって教育を変革しようとするので ある。 「生命のあるところ、そこにはすでに心からの熱烈な活動力があ. る」4)とデューイは述べている。子供の活動力が、自らの成長の原動力. となるのである。子供が中心であるとは、子供自らの成長する力に焦点 をあてて教育を考えるということである。そのために、子供が興味を持 って活動できるように教材は配慮される必要があり、教師は子供が望ま しい方向に成長するように環境を整え、援助することが望まれるのであ る。. 教育のとらえ方 学校は生活の場であるべきだということを理解するには、デューイが 教育をどのように考えたかを知る必要がある。『民主主義と教育』でデ ューイは、教育観の基礎を生物学的な生命の解釈をもとに明らかにして いる。. 「生(life)とは環境へ働きかけることによって自己を更新していく. 過程である。」5》とデューイは述べている。生物は環境から様々な刺激 を受けている。その刺激を生きていくためのエネルギーとして利用する ことによって生物は自己を更新し、成長するのである。一個体には無限 に自己を更新する力はない。生命には限りがあり、どの個体も死んでい くのである。ところが、生物の生命は、他の生命体を生み出すことによ って連続していくのである。種が死滅したとしても、また新しい種が出 現することによって、生命は連続していくのである。デューイは、「生 命の連続とは、環境を生命体(living organisms)の必要に絶えず再適 合させていくということである」6)と述べている。ある種にとって生命. 一5一.
(8) を連続させるのに障害となった環境からの刺激も、新しい種は生きるた めのエネルギーとして利用し、環境に再適合することによって生命を連 続させるのである。. 人間も同様で、肉体的な存在の更新と共に、生活によって生み出され た経験も社会集団の更新を通して連続していくのである。「教育とは、. その最も広い意味においては、生命をこのように社会的に連続させる手 段である。」7)とデューイは述べている。未成熟な成員は成熟した成員 から社会の慣習や基準を伝達されることによって、その社会は連続する のである。社会の慣習や基準が次世代の成員に伝達されなければ、その 社会の生命は継続することはできないのである。. 伝達は、成熟した成員が未成熟な成員に単に教授するだけでなされる のではない。構成員が共同生活の中で必要なことを経験として得ること が伝達には含まれる。人が社会に生きるためには、共通理解がなければ ならない。共通理解をえるためにはコミュニケーションが必要となる。. それは「同じような情緒的・知的性向一すなわち、期待や要求に対す る同じような反応の仕方一を確実なものにする」8)のである。個々人 がある目的のために働いていたとしても、互いに共通の目的を知らずに いたのでは彼らは共同体を構成していることにはならない。彼らが共通 の目的を知り、その目的に関心を持ち、その目的のために自らの活動を 調整するとき、その集団は共同体を構成することになる。そのために、 コミュニケーションが必要となる。コミュニケーションによって人は、 自らの経験を拡大され、改められるのである。こうして、 「共同生活の. 過程そのものが教育を行うのである」9》とデューイは述べている。すな わち、共同生活は、「想像力を刺激し豊かに」10》し、 「言明や思想を. 正確で鮮明なものにするという責任を生み出す」11)のである。共同生. 一6一.
(9) 活を通して構成員は自らの経験を更新し、そのことが社会の生命を存続 させることになるのである。. 社会の構成員は、共同生活を通して教育を受けている。しかし、それ は偶然的である。子供たちを計画的に教育するための制度としての学校 教育を、デューイはどのように位置づけているのだろうか。. 大人たちの仕事に直接参加することによって学習することのできる社 会では、学ぶためだけの特別の場所をつくる必要はなかった。しかし、. 文明の進歩とともに、子供たちの能力と大人たちの為すことの問の溝が 大きくなると、大人の活動に参加するための訓練が事前に必要となる。. そのために、「意図的な機関一すなわち、学校一そしてきちんと組 織だてられた教材一すなわち、学科一が考案される」12)ことにな る。 「複雑な社会のすべての資産や業績を伝え残す」13)ためには制度. 的な学校教育が必要となるのである。ところが、「進んだ文化において は、学び取られなくてはならない多くのものが記号で貯えられている」 14》ために、それを教材にすることは「生活経験の主題から遊離し、た んに学校の主題にすぎなくなるという危険性」15)を持つことになる。. 結局、知識を習得し、専門的な知的技能を身につけたものの、社会的な. 性向の形成には役立たないという結果が起こりうるのである。日常の生 活経験の意味は深められないまま、 「自己中心的な専門家」16)を生み. 出すことになる。こうして、学校教育は形式的な教授や訓練を行うこと によって、直接の社会生活から得た経験から孤立する危険を持つのであ る。. 学校の3つの役割 デューイは、学校の役割として次の3つをあげている。. 第1は、子供たちに「発達させたいと望まれる性向の諸要素を単純化. 一一一. @7一.
(10) し、秩序あるものとすること」17)である。つまり、学校は、社会のた. めに必要な心的性向の要素を選択し、子供たちの応答が得られるように 「易しいものから難しいものへの順序を立てて、いっそう複雑なものに 対する洞察力を獲得」18)できるようにする任務があるとするのである。. カリキュラムは、その考えに基づいて編成されるべきものである。小. 学校第1学年の算数では、身の回りにある空缶や箱、積み木などをブラ ックボックスのなかから手探りで取り出す活動をさせることがある。角 があるかないか、面が丸いか四角いか等を感覚的に判断し、目的の形を 見つけだすのである。そこでは、材質や大小に関係なく、ものの形を認 めたり、形の特徴をとらえたりする必要がでてくる。図形や空間につい ての理解の基礎となる経験を豊かにし、次第に図形の概念を高めていこ うとするのである。. 第2は、 「現存している環境の中にある価値のない要素を、できるだ け心的習性に対する影響力から排除すること」19)である。つまり、学 校は「よりよい将来の社会に役だつようなもののみを伝達、保存する」 20)ために現行の社会的慣習から「望まレからざるものを一掃すること1 21)が任務であるとするのである。. 小学校第1学年の6月頃、生活科で砂遊びを取り入れることがある。 学校生活にもようやく慣れ、新しい友達が少しずつ増え始める時期であ る。けれども個人差は大きい。ひとりでいても不満な様子はないが、集. 団的な行動にはなかなかなじめない子供がいる。砂遊びは、友達との共 同と協力を容易にさせる。 「山」づくりを数人でやると、少ない労力と 時間で満足のいく高さを実感できる。会話を交わしながら、「川」が、. 「トンネル」が出来上がっていく。自発的に水を汲みにいく者、石を取 りにいく者が出てくる。ひとりでは味わえない、共同作業による満足感. 一8一.
(11) を持たせることがねらいのひとつとなる。他のさまざまな機会を利用し て、自己中心的な行動から脱して社会的な行動がとれるようになること がねらいとなるのである。. 第3の役割は、「社会環境におけるさまざまな要素の均衡を保たせ、 また各個人が自分の生まれた社会集団の限界を脱して、いっそう広い環 境と生きた触れあいのできる機会をもてるようにとり図らうこと」22). である。つまり、「子どもたちがそのままに放っておかれれば、おそら く影響を受けることになるであろうと思われる環境よりも、いっそう幅 の広い、いっそう均衡のよくとれた環境を創り出すこと」23)が学校の. 任務となるのである6 小学校4年生の社会科で、 「水のゆくえ」を追求する活動がある。家 庭や学校で使う水がどこから来、どこへ行くのかを追求する過程で、水 道の水がつくられた水であることや、川の水がなぜ汚れるようになった のかなどを知る。地域の人々にとって必要な水が計画的に確保されてお り、川の水を汚さないためには何が必要かを理解できるようにするので ある。こうした取り組みを通して、子どもたちは広い視野にたって人間 の生活が自然環境と結びついて営まれていることや人々の健康や安全を 守るための活動があることを理解していくのである。. 以上の3つを任務とする学校は、共同生活の形式が求められる。 「教. 育は、社会的過程であるから、学校は児童を人類の継承してきた資源に あずからしめ、かつ彼自身の力を社会目的のために使用させるのにもつ とも効果的であるような、あらゆる作用を集中した共同生活の形式にほ かならない」24)とデューイは述べている。 「ある一定の知識をあたえ、. ある課業を学習させ、またある習慣を形成させる場所としての学校」25 )は「未来の生活のための準備」26)として否定される。教育は生活の過. 一9一.
(12) 程であり、学校も児童の生活経験が深められる場でなければならないの である。. 子供のとらえ方 さて、デューイは将来の社会を担う未成熟な成員・子供をどのように とらえていたのだろうか。. 未成熟とは、「後日現われる力がいま欠けていることを指しているの. ではなく、現に確かに存在しているカーすなわち発達する能カーを 表しているのである」27》とデューイは述べている。成熟していないと いうことを単なる欠如でなく、積極的な受容力と考えるのである。. 未成熟の特徴として、デューイは依存性と可塑性をあげている。人間 の子供は獣類の子と比べて、比較的長い依存期間が必要となる。人間の. 子供は肉体的に弱く、ひとりでは物理的環境にうまく対処することがで きない。物質的世界では無力であるため、他人の保護が必要となる。し. かし、単に無力なだけでは、子供の発達は起こりえない。子供は「社会 的交わりのための非常にすぐれた素養に恵まれている」28)とデューイ は見る。それは、「柔軟で鋭敏な能力」29)であり、 「自分たちの周囲 の人々の態度や行動に共感的に共鳴できる」30》力である。このように、. 依存性とは、他の人を頼ることによって獲得する社会的な反応力といえ るのである。. 人間の子供が社会に順応するためには、「ある経験から、それ以後の 情況がもたらすであろう諸困難に対処するのに役だつものを保持して」 31}いかなければならない。その能力が可塑性である。「これはそれ以. 前に行なった経験の結果に基づいて行動を改変する力、すなわち、性向 を発達させる力を意味する」32)。習慣を身につけるということは、こ. の可塑性によるのである。依存期間が長くなることは、「可塑、すなわ. 一10一.
(13) ち、変化に富んだ新たな制御様式を習得する能力の延長を意味する」 33)ことになる。それは新しい習慣を生み出し、社会の進歩をもたらす ための刺激となるのである。. デューイは、子供を大人との比較ではなく、絶対的にみることによっ て、未成熟を積極的な力、成長する力ととらえている。子供にはすでに 心からの熱烈な活動力があり、その活動力を指導することによって子供 はより望ましい方向に成長することになる。. 児童中心の教育 「児童自身の本能と力は材料を供給し、またすべての教育のための出 発点を与える」34)とデューイは述べている。児童自身の本能は興味と. 置き換えてもよいだろう。その興味が材料を供給するとは、背景として 成長は児童の活動力によってなされるものであるという考え方がある。. そして、その興味をより望ましい方向に進ませるために、教師は成長の ための材料を用意するのである。教材が興味を生かしたものであるなら ば、児童は教師に依存せずに自発的な活動を行なうことになる。そうで ない場合は、 「教育は外部からの抑圧におちいってしまう」35)のであ. る。教材が興味を呼び起こさず、児童の活動と一致しないためにそこに 摩擦が生まれてしまうのである。教育的過程は心理学的な面と社会学的. な面の2つがあり、心理学的な面が基礎となるということは、以上のこ とから理解される。つまり、児童自身の本能と力が教育の出発点となる のである。デューイの教育観が児童中心といわれるのはまさにそのこと から理解されうる。ただ、児童中心という言葉は、社会と切り離して児 童だけに焦点をあてるものではなく、児童の成長と社会の進歩が相即不 離にとらえられていることは言うまでもない。. 一11一.
(14) 【註】. 1). デューイ著宮原誠一訳 「学校と社会」 1995年岩波文庫第51刷 p、45. 2) 同上書 p.45 3) 同上書 p.45 4). デューイ著金丸弘幸訳「民主主義と教育」 1997年玉川大学出版部第4Mp。85. 5) 同上書 p.32 6) 同上書 p.32 7) 同上書 p.33 8) 同上書 p.35 9) 向上書 p.37 10) 同上書 p.37 11) 同上書 p.37 12) 同上書 p.40 13) 同上書 p.40 14) 同上書 p.41. 15) 同上書 p.41 16) 同上書 p.41. 17) 同上書 p.59 18) 同上書 p.56 19) 同上書 p.56 20) 同上書 p.56 21) 同上書 p.56 22). デューイ著 金丸弘幸訳 「民主主義と教育」 1997年 玉川大学出版部 第4刷 p.57. 23) 同上書 p.59 24). デューイ著 「わたしの教育学的信条」(1899年)杉浦宏訳『今日の教育』明治図書1977年(再版刊)p,21. −12一.
(15) 25). 同上書 p.23. 26). 同上書 p.21. 2?). デューイ著 金丸弘幸訳 眠主主義と教育」 1997年 玉lll大学出版部 第4刷 p,83. 28). 同上書 p.86. 29). 同上書 p.86. 30). 同上書 p.86. 31). 同上書 p.87. 32). 同上書 p.87. 33). 同上書 p.89. 34). デューイ著 「わたしの教育学的信条」 (1899年)杉浦宏訳『今日の教育1明治図書1977年(再版刊》p.19. 35). 同上書 p.19. 一13一.
(16) 第2節 教育観の違いにおける教材と子供の興味 教科等の指導に当たっては、子供の興味を生かすことが求められてい る。. 子供の興味は、今までの教育において、どのように考えられてきたの だろうか。この節では、デューイの『経験と教育』、『児童とカリキュ ラム』を中心に、子供の興味が教育観の違いによってどのように考えら れたのかを考察することにする。. 1 教材を重要視する「旧教育」 「旧教育」とは、進歩主義教育と対照される伝統的教育である。. デューイは、伝統的教育における3つの特徴を指摘している。. 1つめの特徴は、学校の仕事は教材を新しい時代に伝達することであ るという考え方である。教材は、「過去に造り出された知識や熟練の集 積」1)から成っており、それは「真理や法則や秩序の客観的世界」2)で. ある。歴史的伝統に保障された知識や熟練を新しい世代に伝達すること が学校の役割だというのである。. 2つめは、道徳的訓練についてである。過去において発達した行為に ついての標準や規則が、行動の習慣を構成する。道徳的訓練とは、それ らの規則や標準に適合するように行動の習慣を身につけることなのであ る。. 3つめは、学校という組織体が他の社会組織とは鋭く区別されるもの となっているということである。たとえば、共同生活が営まれる家族と いう形態とはかけ離れたものとなっているのである。. こうした特徴が、伝統的教育における「教授および訓練の目的と方法 とを決定する」3)のである。「旧教育」の目的は、「知識の組織的な蓄. 一14一.
(17) 積と熟練の調整的な形態一つまり教材として包括されるものであるが 一、それを取得させるという方法で、年少者をば将来の責任に対しま た生活における成功に対して覚悟させるにある」4)ということになるの. である。子供は、過去からの知識や熟練を受動的に伝達され、正しい行 為の標準を従順に受け取らなければならない。伝統的な教育では、子供 は温順、受容、服従の態度が要求されるのである。子供は学びはするカミ. その学習は、「既に書物のなかにまた年長者の頭脳のなかに結合されて いるところのものの取得を意味するのである」5)。. 教師の仕事は、子供の世界の「浅薄な偶然の出来事を安定したよくと とのった真実に正確におきかえること」6》と考えられるのである。その. 真実は「学科や教科のうちにみいだされる」7》のであり、教師は、教材 に子供をいかに有効に結びつけることができるかが大切な任務となるの である。. 教えるべき主題は諸学科に細分され、それぞれの学科は授業に細分さ れる。子供は、分割された主題の一つ一つを習得することによって、最 後に全体の主題を受け入れることになる。教師には、教材を論理的に細 別することと、それを順序立てて教えることが求められるのである。つ まり、「教材は目標を供給し、さらにそれは方法を決定する」8)のであ る。子供の経験を考慮する必要はなかったのである。 「旧教育」においては、「児童はただ成熟すべきであるところの未成. 熟な存在にすぎない」9)のである。発達すべき標準は成人期にあり、子 供は決められた目標に向かって努力し、成熟することが求められるので ある。そのために、成熟するための訓練が、子供の経験とは切り離され てなされることになる。「彼はふかめられていくべき浅薄な存在」10). であって、彼の限られた経験は一定の進路を通って拡大されるべきとと. 一15一.
(18) らえられるのである。. 「旧教育」にとっては、過去に集積された教材こそが重要であり、子 供が現在持っている衝動や興味を考慮する必要はなかったのである。. 【註】. 1). デューイ著 原田実訳 『繊と数育』 春秋社 1956年 p,4. 2). デューイ著「児童とカリキュラム1(1902年)杉浦宏訳「教育における興味と努力』明治図書1979年(5版刊)p,73. 3). デューイ著原田実訳 『緻と教育』 春秋社 1956年p,4. 4). 同上書 p.4,5. 5). 同上書 P.6. 6). デューイ著f児童とカリキュラム」(1902年)杉浦宏訳『教育における興味と努力』明治図書1979年(5版刊)p,73. 7). 同上書 p.73. 8). 同上書 P.74. 9). 同上書 p.74. 10). 同上書 P.74. 一16一.
(19) 2 子供中心の「新教育」. 「新教育」は、ルソー、ペスタロッチ、フレーベルなどの教育観にも とつく浪漫的自然主義の教育である。. ルソーは、人間の本質はその自然性の上に培われなければならないと する。自然性とは、後の習性によって変質させられていない造物主の手 から出たままの人間性を意味している。教育は、人間に内在する自然性 の上に培われねばならないとするのである。. ペスタロッチにおいても人間性がいっさいの根源であって、神性は人 間性に内在するとしている。. フレーベルにとって、神は宇宙を支配する永劫の法則の主体である。 「万物は、神的なものがその中にあって働いていることによってのみ、. 存在する」nのであり、教育は、子供の神性を尊重した形で発展させる ことが目的となるのである。. 新教育においては、「児童は出発点であり、中心であり、目標」2)と いえるのである。「彼の発達、彼の成長は理想的なものである。それだ けが基準を供給する」3)のである。子供の内側に神的なものが働いてい. るからである。教材は子供の成長の要求に役立つときに評価され、目的 を達成するための手段となる。「児童の成長にとって、すべての学科は 追従する」4)のである。. 子供を出発点にする教育にとって、学習は「児童の心が手をのばすこ と」5)であり、「能動的」6}で、子供の「内部からおこる有機的同化作. 用をともなうものである」7)。子供の自発性が、まず何より重要視され るのである。. 教師は、 「児童に同情する必要」8)があり、 「かつ彼の自然的本能の. 理解」9)が求められるのである。「まったくわれわれは児童といっしょ. 一17一一.
(20) にいるのだという立場をとらなければならない。そうでなければ、われ われは児童からはなれてしまう」10)のである。子供の成長を理想的な. ものととらえ、それだけが基準を供給すると考える教育にとっては当然 といえる。. 教材は、外部から子供に注入できるものではない。 「教材は、精神的 食物であるほかは、可能性をもった滋養のある材料」11)と考えられる,. 精神が「到達でき同化できるよう」12)になったとき、教材は子供の骨 となり、筋肉や血になるのである。. アメリカにも浸透していった新教育は、 「それ自身伝統的な教育に対 する不満足にもとつく所産である」13)とデューptイは述べている。伝統 的な教育を批判することで新教育は自己を主張しようとしたのである。 進歩主義学校には次のような原理があることをデューイは指摘する。 「上方からの賦課に対しては、個性の表現と培育とが対立する。また外. 部からの訓練に対しては、自由活動が対立する。文書や教師からの学習 に対しては、経験をとおしての学習が対立する。孤立した熟練や技術の 鍛練によっての取得に対して、端的に心を打つ目的への到達のための手 段としてのそれらの取得が対立する。多少とも遠い将来のための準備に 対して、主として現在の生活における機会を飽くまで利用するというこ とが対立する。静的な目的や材料に対して変化しつつある世界への親表 ということが対立する。」14). 子供を中心に据える「新教育」は、 「旧教育」を批判することで自ら. を主張した。「“興味”は彼らの主張の旗じるしのうえに“児童”を誇 示する人々の合言葉」15》であり、 「新教育」にとっては、子供の興味. を知ることこそが重要なのであるが、経験の理論や教材との関係につい ての建設的な発展につながることがなかったのである。. 一18一.
(21) 【註】. 1). フレーベル著「入間の教育」岩崎次男訳『世界教育学選集9』明治図書1979年(17版)p,10. 2). デューイ著「児童とカリキュラム1(1902年)杉浦宏訳『教育における興味と努力』明治図書1979年(5版刊)p.74. 3). 同上書. p・. 74. 4). 同上書. p.. 74. 5). 同上書. p.. 74. 6). 同上書. p.. 74. 7). 同上書. p.. 8). 同上書. p.. 9). 同上書. p.. 10). 同上書. p.. 11). 同上書. p.. 74. 12). 同上書. p.. 74. 13). デュv…イ著 原田実訳 『繰と教育』 春秋社 1956年 p.5. 14). 同上書. 15). デューイ著「児童とカリキュラム」 (1902年)杉浦宏訳『教育における興味と努加明治図書1979年(5版刊)p,75. p.. 74 75 75 74. 7. 一19一.
(22) 3 教材と子供の興味についてのデューイの考え 「旧教育」と「新教育」における対立的な考えは、 「児童の経験と学. 科課程を組織する教材の異なる形式の間に(程度を異にするような)本 質的に相違があるという偏見をいだかせる」1)ものであった。デューイ. は、その偏見を取り除くために新しい視点に立って、問題を解決しよう とするのである。. すなわち、 「子どものがわにすれば、形式化した学科に入ってくるそ. れらのものとまさにおなじ種類の事実や真実の要素を、彼の経験自体の うちにいままでどのようにとり入れているかを理解する問題」2)と考え るのである。 「さらに、より重要なものは、それがいましめている発達. 段階にたいし発展的かつ組織的教材でもたらしたもろもろの態度、動機 そして興味をそれ自体の範囲内にどのようにとり入れるかという問題」 3}と考えることによって、子どもの経験と教材は「一つの過程にはっき りと示す」4)ことができるのである。学科の側から言うと、「児童の生 活中にはたらく自然な発展の諸力としてそれらを説明する問題であり、. くわえて児童の経験とそれらのより豊富な成熟の間を調停するいろいろ な手段を発見する問題」5)と考えられるのである。そこでは、教材は、 「児童の経験の範囲をこえて、本質的に固定した既成のものとして」6). 考えられていないし、児童の経験も「変更をゆるさないあるものとして 」7)見られてはいないのである。そこでは、「児童の現在の経験を、わ. れわれが学科とよぶ真実の組織化された本体としてあらわされたものに 移動させるところの連続的再構成」8)の問題ととらえ直されることにな るのである。. 教材となる「算術、地理、言語、植物学などのいろいろな学科は、そ れ自体が経験である。それらは、人類の経験である」9》。そして、それ. 一一. Q0一.
(23) らは、 「ある組織されかつ系統だてられた方法つまり思慮ぶかく形式化 したものとして」10)示されている。人類の経験を、現在の児童の経験 と遠く離れたものと見るときには、二つの経験に何らの関わりもない。 「われわれが現在の直接の動きを明確にするものとしてそれをとりあげ た瞬間に、ひじょうに重要なものとなる」11)。つまり、「成人の心の. 系統化したまた明白にされた経験は、別言すると、児童の生活はそれが 直接的にあらわれるものとして解釈するうちで、またガイダンスや指導 にすすむうちで、われわれには価値があるのである」12)。成熟した経. 験は、現在の児童の経験を指導する方法として扱われたときに教育的に 価値をもつのである。. 児童の興味を重視した新教育は、 「形式的な中味のない方向に発展の. 考え方を概してとりがちになる危険がある」13)とデューイは述べてい る。新教育においては、子供の内側に神的なものを見るのであり、その 内側より生み出された興味はそれ自体が尊重されるものである。だが、. 興味を尊重するだけで、対象や観念に結びつけることがなければ興味は 発展することはないのである。児童には興味のある「あれやこれやの事 実か真実を“発展させる”ことが期待される」14》。ところが、「思考. を始動させかつみちびくための必要物である彼をかこんでいる諸条件 のいかなるものをもみたすことなくおこなわれる」15)ために彼自身か. ら発展させるものはなにもないのである。彼に興味をはたらかせるため の材料が用意されたならば、彼はその興味を発展させることができるの である。新教育は、興味をより大きな成長過程に照らして解釈すること. がなかったために、「確かな成長の傾向にかんするちょうど記号か指針 のようなもの」16)として興味の意味を読み取ることができなかったと いえる。 「発展は経験についての発展であり、経験のうちでの発展であ. 一21一一.
(24) り、それは実際に望まれているものである」1?》。発展は、成熟した経. 験あるいは教材が興味や能力に力を与えるために供給されたときにはじ めて可能になるのである。高次の水準に向かう推進力である興味や能力 は、 「役にたたなくてはならないし、さらにそれらをどんな方法で役だ. たせるかは、それらをかこんでいる刺激とそれら自体がはたらくうえで の材料いかんでほとんどまったくきまる」18)のである。. 指導の問題は、「新しい経験を獲得することに従事するのを望んでい るような本能と衝動のための適切なもろもろの刺激を選択する」19)こ. とである。その刺激は、指導者に「目的とする発達についてのある理解 があるとき」20)に選択できるのである。つまり、成人の豊富な知識が. 子供にとって可能な発展の道を示すのに役立てられたとき、衝動や興味 の刺激となるのである。別言すると、「教師がわれわれがカリキュラム とよんでいるものにもりこまれている人類の表現形式を賢明にかつ十分 に知るときのほかは、教師は児童の現在の能力、才能、あるいは態度が どんなものであるのか、さらにそれはいかに主張され、はたらかされ、 また実現されるべきであるかを知るわけにはいかない」21)ということ になるのである。. 一22一.
(25) 【註】. 1). デュー・イ著「児童とカリキュラム」(1902年》杉浦宏訳『教育における興味と努力』明治図書1979年(5版刊)p.76. 2). 同上書 p.76. 3). 同上書 p.76. 4). 同上書 p.76. 5). 同上書 p.76. 6). 同上書 p.76. 7). 同上書 p.76. 8). 同上書 p.76. 9). 同上書 p.76. 10). 同上書 p。76. 11). 同上書 p.77. 12). 同上書 p.77. 13). 同上書 p.82. 14). 同上書 p.82. 15). 同上書 p.82. 16). 同上書 p.78. 17). 同上書 p.82. 18). 同上書 p.82. 19). 同上書 p.83. 2e). 同上書 p.83. 21). 同上書 p.93. 一23一一.
(26) 第3節 実験学校における子供の興味を生かした指導 1896年、デューイの指導のもとに、実験学校は開始された。rデュー一 一イ実験学校』の著者であるメイヨーとエドワーーズは、そのまえがきで . 「生活それ自体、とくに、人間の主な欲求をみたす仕事と人間関係は、. 子どもの教育にとって基礎的な経験を与える」ことが実験の主な仮説で あることを述べている。デューイの教育についての仮説は実験学校にお いて確かめられようとしたのである。. この節では、興味と努力の関係、子供の四つの興味を考察し、実験学 校での実践に子供の興味がどう生かされたかを取り上げ、論述する。 【註】. 1). メイヨー/エドワーズ共著 櫨悟/石原静子共訳1デューイ実験学校』瞬治図書1978年(初版刊)p,21. 1 興味と努力 デューイは、 『教育における興味と努力』において、当時対立的にと. らえられていた興味と努力は考え方の基礎に共通の仮定があることを指 摘し、デューイ自身の教育の考えに基づいて興味と努力を理論づけよう としている。. 対立的にとらえられていた興味と努力の理論に共通する仮定とは、・. 「対象、観念あるいは目的一自制的であるべきところの一にかんす る形式主義」1)であるとデューイは述べている。子供の現在の能力、経 験を刺激するとき、学習する対象、観念あるいは目的は真に意味のある ものとなる。ところが、対象、観念あるいは目的が子供の外側にあるた めに、学習は子供にとって意味のない形式的なものとなってしまうので ある。能力とかけ離れた教材は、そのままでは興味を起こすことはない といえる。だから、興味を起こさせるためには、「不自然な刺激や注意. 一24一.
(27) への虚偽の誘因で囲まねばならない」2}のである。同様に、子供にとっ. て興味のない教材は、心に訴えるものがないため、子供に形式の努力を 強いることになるのである。. デューイは、 「真の興味とは、ある対象や観念と自己を、行為を通じ. て提携させることをともなうものである」3)と述べている。興味は、あ る対象や観念を自己と結びつけようとする力と考えられる。新しい対象 や観念を獲得することによって、行為者は自らの経験を増すことができ る。つまり、興味は、行為者の成長の方向にあり、行為者が自分らしく なっていく力となるのである。言いかえれば、行為者の成長の方向に学 ぶ対象や観念があるとき、真の興味は伴うことになるのである。 興味という言葉は、語源的には、間にある(between)ものを意味する。 つまり、 「そのままでは離れている二つのものを結合するもの」4)とい. う意味を含むのである。教育においては、間とは成長のための時間的隔 たりと考えることができる。成長の最初の段階が子供の現在の能力であ り、教師の目的が完成期といえる。この二つの間には、「果たすべき行 為、克服すべき困難、使用すべき器具がある」5)ことになる。子供は、. 活動の中で器具を使用し、困難を乗り越えて目的を達成しようとする。. 興味は、目的を達成するための間にあるものといえる。つまり、果たす べき行為に興味があり、克服すべき困難に興味をもち、使用すべき器具 に興味が生じるのである。このように考えると、教材に興味をもつとい うことは、子供の成長の方向に教材が子供の能力を刺激することである といえる。. さて、努力は、興味と同じく、「ある行為の進行とむすびついてのみ 意義がある」6)とデューイは述べている。形式的な活動と形式的な成果 に求められる努力は、「精力の浪費による緊張」7}を増すだけである。. 一25一一.
(28) 自ら始めた行為を目的まで到達させるためには、活動の持続性、連続性 が求められる。つまり、努力が必要とされるのである。それは、「さま ざまの障害にたちむかい、さまざまな妨害をとおりぬける忍耐力」8》な. のである。目的を達成しようとする活動は、それまで関心のなかったこ とにまで興味をもつようにするものである。活動が単純なものから複雑 なものに拡大するにつれて、興味も発展していくのである。その結果、. 活動に長い時間が必要となり、目的を達成するための延期が必然的に伴 うことになる。活動の開始から完了までに時間を要する場合、そこには 多くの障害があり、その困難を乗り切るために努力が必要となる。目的 を達成するための根気強い努力が求められるのである。. 活動がある障害に妨げられたときには、精神的な緊張が生まれる。目 的に向かって進もうとする欲求とそれを障害によって妨げられたときに 生じる特別の感情である。努力は、前に進もうとする欲求と妨げられた 嫌悪感を結合させるようにはたらく。そこでは、思考が必要となる。あ る障害は、手段の反省を促す。目的の再考をもたらす。あるいは、目的 に達するための他の道筋を考えさせる。新しい手段の探求に導く。たと え、努力の結果が徒労に終わろうとも、努力は目的を達成させるための 思考を伴うのである。. 努力は、活動の完成に時間がかかるほど必要とされる。目的達成のた めには多くの障害にであうからである。抵抗を受けることは、推進力を 弱めることにつながる。しかし、困難を克服しようとする力は、思考を 生み、 「一つの目的にかんするある人間の認識をます」9}ことになるの. である。つまり、障害は、「彼の行為の筋道の目的を意識するようにさ せる」10)のである。彼の活動は明確なものとなり、活気に満ちた興味 を伴うことになるのである。. 一26一一.
(29) 興味は、目的に向かう推進力として把握することができる。一一一一方、努. 力は、目的達成までの活動を持続させる力といえる。興味と努力は、目 的に向かって進む活動の中で、一体として理解することができるのであ る。. 【註】. 1). デュー・イ著 杉浦宏訳『教育における興味と努力』明治図書1979年(5版刊)p,14. 2). 同上書p.14. 3). 同上書p.18. 4) 5) 6). デューイ著 金丸弘幸訳『民主主義と教育』玉川大学出版部1997年(第4刷)p,191. 同上書p.191 デューイ著杉浦宏訳『教育における興味と努力』明治図書1979年(5版刊)p,36. 7). 同上書p.36. 8). 同上書p.36. 9). 同上書p.38. 10). 同上書p.38. 一27一.
(30) 2 四つの興味 デューーイは『学校と社会』の中で、学校で利用できる子供の衝動を四. 種類に分類して考察している。デューイは衝動や本能、興味をほぼ同義 に使用していると思われる。. 第1は、社会的本能または興味である。これは、 「談話や個人的な [直接の体験的な]交際やいろいろのコミュニケイションにしめされて いる」1》とする。つまり、他の人と関わりを持とうする本能といえる。. ある時期の赤ちゃんは、近所の人が相手をしてくれるのに対して、ちゃ. んと自分も手を振り、笑顔で応えることがある。保護してくれる人の表 情、しぐさ、発せられる言葉などからその意味を理解し、反応できるよ うになる。そして、その反応は周囲の人にも広がるのである。そのこと は、人と関わりを持ちたいという本能のあらわれと見ることができる。. 赤ちゃんが手を振り、笑顔で相手に応えるということは、それまでの 経験によるものである。自分の欲求が周りの人に伝わり、また周りの人 の刺激が自分の反応となって表現されるのである。その経験の積み重ね が成長となる。「幼い子どもの主我的な局限された興味はこのような仕 方で無限に拡大する可能性をもっている」2)ということは、他からの刺 激が経験となって新しい反応を起こすことを意味するといえる。 言語は「子どもの社会的表現の最も単純な形式」3)であり、 「あらゆ. る教育的手段のなかで重要なもの、おそらくは最も重要なものであろう 」4)とデューイは述べている。子どもは、自分の片言に対してなされる. 反応を通してその片言の意味を知る。そして、片言は徐々に言語に変形 される。言語には、その社会で使われる観念と情緒が要約されている。. それゆえ、社会との関わりを深めるためには言語は重要な役割を持つこ とになるのである。. 一一. Q8一.
(31) 第2は、製作の本能、構成的衝動である。これは、何かやってみよう、. 物を作ってみようという衝動である。「子どもの物事を為す衝動は、ま ず最初に、遊戯に、運動に、身振りに、真似ごとに現われ、さらに明確 さの度を増してきて、いろいろな材料をなにか触知できる形状や、あと まで残る具体的な品物にかたちづくることに捌け口をみいだす」5)こと. になるのである。単なる手や腕の運動で線をかいていた子どもが、次第 に曲線や閉じた形がかけるようになると、その形に意味を持たせ、母親 の顔、自分自身、石ころなどとかくことに興味を持つようになる。砂遊 びも同様で、単に砂の感触を楽しむだけでなく、砂を掘ったり、山にし たりしてそれに意味を持たせるようになる。子どもは、興味のあるもの をいろいろの材料で構成することを楽しむのである。. 第3は、探究の本能である。探究の本能とは「事物を発見する興味」. 6》といえる。『論理学一探究の理論』で、デューイは探究を次のよう に定義づけている。 「探究とは、一つの未決定な状況から一つの決定的. に統一された状況への、方向づけられた、もしくは統制された変換であ る」7)。. 具体的な例で、探究とはなにかを考えてみることにする。. 大きい子が鉄棒で逆上がりをしているのを見て、ある子どもが自分も やってみたいと思ったとする。挑戦したが、できなかった。なぜだろう と考える。逆上がりができる友達にやってみせてもらう。自分もやって みるが、できない。体育の授業でも鉄棒で逆上がりが取り扱われたとす る。逆上がりをしている様子をビデオに撮ってもらって、上手な例と比 較する機会がある。そこで、できるようになるポイントがわかったとす る。ポイントをふまえ、補助具を使い、また、友達に見てもらいながら 練習を続けるうちに、逆上がりができるようになった。. 一29一.
(32) 上記の例で未決定な状況とは、逆上がりができるようになりたいのだ が、どうずればできるようになるのかがわからない状況と考えられる。. そして、決定的に統一された状況とは、逆上がりができるようになって 満足している状況といえる。逆上がりができるようになるまでの努力が 変換までの方向や統制をささえる。. 「探究の本能は構成的衝動と談話的衝動との結合から生ずるもののよ うに思われる」8)とデューイは述べている。先程の例でいうと、構成的. 衝動とは逆上がりという運動を行ないたいという衝動であり、談話的衝 動とは逆上がりができるようになるまでの知的な活動と考えられる。. 「探究の本能は、これをそのおもむくがままに放任しておくことはい ともやすいが、またこれを価値ある結果をもたらすように利用すること もできれば、指導することもできるのである」9》とデューーイは述べてい. る。逆上がりができた子供を指導することによって、鉄棒の違った技に 興味を持たせることも可能となるだろう。価値ある結果をもたらすよう に利用することができる背景にあるのは、自らの努力によって得られた 自信と満足であり、次ぎなる新しい欲求と考えられるのである。. 第4は、表現的衝動、言い換えれば芸術的表現の興味である。それは より美しく価値あるものを表現しようとする本能である。. 表現的衝動も、「コミュニケイションの本能と構成的本能とから生ず る」10)とデューイは述べている。構成を適切で洗練したものにし、そ. れを人に告げようという社会的な動機をもったとき、そこに芸術作品が 現われるのである。. デューイは、表現的衝動を子供たちの織物の作業を例に挙げて説明し ている。. 子供たちはまず原始的な織機を製作する。織機をつくると、子供たち. 一一一. R0一.
(33) はそれでなにかを作ることに興味を持つようになる。その織機はインデ ィアンの織機を型に取ったものであったので、子供たちはインディアン が織った毛布を見る機会を得ることになる。そこから、ある毛布のデザ インと似たものを子供たちは考案し、自分たちの手で毛布を作り上げる のである。この作業過程で、子供たちは「歴史的なものと、技術的設計 の基本との、両方についての訓練と知識」1nを習得しただけでなく、 「ひとつのアイディアを適切に現わす芸術の精神につうじるもの」12). も身につけたのである。毛布に見られる子供たちの創造による色彩と模 様は彼らの経験をふまえて、より洗練・純化したものに変わりうるので ある。このように、洗練された作品を生み出す衝動が芸術的表現の興味 である。. デューイにとって教育は、社会の進歩と改良のための手段であった。 そのために、学校で利用できる子供の興味を考察し、その興味を生かし た活動がカリキュラムづくりの基本となったのである。. 一31一.
(34) 【註】. 1). デューイ著 宮原誠一訳 「学校と社会」 岩波文庫 1995年(第51刷) p,54. 2). 同上書p.54. 3). 同上書p.54. 4). 同上書p.54. 5). 同上書p.54. 6). 同上書p.56. 7). 谷口忠顕著 「デューイの個性教育論1 成文堂 1992年初版第2瑚 p,60. 8). デューイ著 宮原誠一訳 「学校と社会」 岩波文庫 1995年(第51刷) p,55. 9). 同上書p.55. lO). 同上書p.55. 11). 同上書p.56. 12). 同上書p.56. 一32一.
(35) 3 興味を生かした指導 子供の興味を生かした指導をするためには、子供の発達段階に応じて どのような教材が子供の興味を呼び起こし、成長に寄与するかが考慮さ れなければならない。デューイの実験学校では、子供の発達段階をその 特徴によって3つに区分し、各段階に応じた教材が選択された。. 第1段階は4歳から8歳頃までで、「社会的ならびに個人的な興味の 直接性を、そしてまた、印象・観念および行動のあいだの関係の直接性 ならびに迅速性を、特徴としている」1)。父親が大工仕事を始めたとす. ると、子供は使っている道具に興味を持ち、自分もやってみたいと思う のである。そして、実際にその道具を使ったり、使い方を真似たりする ことによって、その道具を使うことの意味を知ることになる。子供の興 味は直接で身近な活動に注がれるのである。そのために教材は、「子ど も自身の社会的環境に入ってくる生活の諸相から選ばれる」2)ことにな. る。教材の対象は、子ども自身に最も身近な家庭生活や近隣の事物から 「社会的な諸種の仕事」3)に進み、さらに「人間が衣食住の資料を獲得. する典型的な仕事ならびにそれらの仕事と結合しているところの社会生 活様式の歴史的進化」4)へと広がるのである。そして、これらの教材は 「子ども自身の活動をとおして、子ども自身の経験にとりいれられる」 5)ことになるのである。. 具体的にどのような活動が行なわれたかを7歳児の「原始生活学習」 を例に見てみることにする。この活動は、子供たちの原始生活への興味 を利用して、「人類の進歩を理解するひとつの手段」6)となることがね らいとなったのである。. 活動は、子供たちを囲んでいる現在のいろいろな条件がなくなり、自 然と直接に接触しているところを子供たちが想像することから始まる。. 一33一一.
(36) 狩猟時代の人間が洞窟や木の上に住み、狩猟や漁携によって不安な生存 を営んでいたであろうことを子供たちは想像した。そこでの生活に適応 するための自然的・物質的条件を考えてみる。想像は狩猟時代から半農 耕時代へ、また遊牧時代から定着農耕時代へと進む。その過程で、 「知 識の獲得をもたらす探究のための機会」7》が豊かに与えられることにな. るのである。たとえば、原始時代の武器について、材料となる石の脆弱 度・形状・組成などについて吟味する機会が与えられる。子供たちはど のような石がその目的に最も適合するかを見いだすために石を調べたの で、それが鉱物学の学習となった。鉄器時代の話し合いから、溶鉱炉を 造る要求が起こる。子供たちは粘土と石で溶鉱炉を造るのであるが、最 初は通風がうまくできなかった。炉の口の大きさや位置が通風口と釣り 合っていなかったのである。そこで、燃焼の原理、通風、燃料の性質に ついての知識が必要となり、子供たちは実験的にそれらを獲得していく のである。このようにして得られた知識や観念は、 「たんなる外部的事. 実として学ばれたのではなく、人間の生活と進歩とにかんする社会的概 念と融合・連結されている」8)のであり、子供たちにとって生きて働く 力となっていくと考えることができる。. 第2段階は、8歳から11、12歳に至る時期である。この時期の子供に は、 「いっそう永続的な、客観的な結果に達しうるという自覚の増大、. および、そうした結果に達するために必要な技術上の諸々の手段を駆使 することが必要であるという自覚の増大」9)が見られるようになる。子 供は明確で持続的な目標を認識し、それに注意を引き付けられるように なる。目標を解決するための手段を得ることに価値を見いだし、自らの. 行動を統制して永続的結果を手に入れようとするのである。もはや、単 に活動するだけでは満足できないのである。こうした変化を教師は受け. 一34一.
(37) とめ、それに反応した指導をしなければならないのである。そのために 教材は、 「人間がその最高の目的を実現するために思想および行動の諸. 々の特殊な手段方法を自由に駆使することが人間にとっていかに重要な ことであるかを明瞭に例示するような」10)ものを選択する必要がある とデューイは述べている。. 実験学校では、社会的な教材としてアメリカの歴史が取り扱われた。 この材料は生き生きした人間的なものを扱っていたため、子供の表現的 ・構成的な興味を生かし、知的同一化を促すものとなった。.つまり、子. 供は自らを直面しなければならないような問題状況に置いて、それに対 応するための方法を再発見していったのである。科学では、「人間にと って価値がある諸々の典型的な結果を生ずる過程」11)が学習された。. たとえば、漂白、染色、石鹸・蝋燭の製造、サイダー・酢の製造などで ある。物理学も応用的見地から、糸紡ぎ車や織機におけるエネルギーの. 使用および転移についての研究やベルや電信等のような電気に関する研 究が行なわれた。数量の記号を含む言語という記号については、子供が その必要を感じ取る形で習得がすすめられた。そこでは、子供が社会的、. 自然的現実と生き生きと接触することが大切であり、日常の経験の中で 問題や動機や興味を持ち、その解決のために言語という伝統的、社会的 な道具を使う必要感を持つように配慮されるのである。. 具体的な指導をフェニキア人についての学習(8歳児)で見てみるこ とにする。. フェニキア人の居住地は、前面が海、後面に山が迫った狭小な所で、 農業や牧畜に不向きであった。生計の糧を得るために彼らはどうしたの. だろうかという課題が子供たちに与えられた。それまでの古代人に関す る学習の経験から、海で捕れる魚や、山で得られる木材や金属を他の部. 一35一.
(38) 族の物産と交易すれば、小麦や羊毛が得られるのではないかと子供たち は考えた。そして、自分がフェニキアの商人で、他の部族と交易する場 面が想定され、交易の光景を想像することによって、貿易関係が確立し ていく過程を学習していくのである。交易をうまく行なうには、長さ、. 重さの尺度が必要であり、取引のために文字を考えださねばならないこ とに子供たちは気づく。そして、文字や数、長さ・重さの尺度を作り出 していく過程を追体験することで、長さの単位としての指の長さや両手 の幅、歩幅といった体の一部が利用され、重さの単位としては、水が好 都合だと子供たちは理解していくのである。そして、交易に際して今日 一般に使用されている度量衡の単位と測定機器に子供たちの関心は向け られ、自ら物差しや計りを製作するのである。また、数のシステムと並 んで、アルファベットが作られた必然性を知らされたこともあり、読み ・書きが重視され、それとの関連で物語や劇化も取り入れられたのであ る。子供たちはこのように問題を解決していきながら、作業や探究の仕 方を自らのものとして駆使できる力を養っていったのである。興味を生 かした学習は次第に子供たちを「自力で前進して使用することができる ところの力或は、技能をもっていることを自覚」12)させるようになっ ていくといえるのである。. 第3の段階は、11、12歳から13、14歳にかけての時期である。この時 期は、 「子どもが現実の種々なる様相、活動の諸々の様式についてほん とうに直接的な知識をじゅうぶんに獲得したときに始まる」13)とデュ. ーイは述べている。子供が思考、探究、活動の手段を十分に習得し、知 的な目的のために教科や技術を専門的に分化させても、そこから利益を 得られるようになる時期といえるのである。. ここでは、13歳児の「クラブ・ハウスの建築」を例に挙げてみる。. 一36一.
(39) 自分たちが自由に使える専用の部屋がほしいという弁論クラブのメン バーの要望がきっかけになって、クラブ・ハウス建築のプロジェクトが 展開していった。教師に家の構造について教えてもらったり、助言を求 めるうちに、自分たちだけでクラブ・ハウスが実現できると自信を持つ ことになる。教師の指導のもとに建設場所が決定された。その際、.土質. の検査をし、排水・日当たり・通風などの条件を調べた。場所の選択は シカゴ地方の特性研究へ発展した。シカゴの地形を調べ、専門の教師の 指導で実地調査をし、記録をとってクラスで討論をした。クラブ・ハウ スの建築様式をどうするかが次の課題となり、家の形態に関する検討が なされた。ギリシャ、エジプト、ローーマ、ゴチック、サラセン等の建築. 様式を調べたり、博物館を見学したりしたが、結局子供たちは植民地風 の丸太小屋様式を選んだ。階段・ドア・窓の飾り・内装の設計図を作り 終えると、女子は階段づくりを受け持ち、男子はフロントドアに責任を もつというように共同作業を進めていった。この作業を通して、目標実 現に向かっての協調精神が子供たちの間に芽生えた。クラブ・ハウスは 弁論クラブ専用の建物ではなく、写真クラブ、植物クラブも共用するも のとなり、運営のための委員会も組織された。クラブ・ハウスの建設は その性質からさまざまな作業を提供するものであり、各人が自分の能力 にあった分野で、家の完成という共通の目標に寄与する喜びを持つこと ができた。また、家の構造の研究は力学の知識を豊かにし、土質や気象 条件と家の構造との関係に注目させ、家の形態、室内装飾は美術の学習 を促し、木工・金工道具の使用に子供たちを熟練させることになったの である1. 以上に見てきた興味を生かした指導は、「子どもたちにものごとを徹 底的にやりとげる性格、精神的訓練、或はまた学習の技術的道具の習得. 一37一.
(40) などをぎせいにさせることなく、生活の積極的な拡大と、生活にたいす るいっそうひろい、いっそう自由な、そしていっそう開放された展望を もたせ」14}ることになるのである。. 【註】. 1). デューイ著 宮原誠一訳 f学校と社会j 岩波文庫 1995年(第51M) p.110. 2). 同上書p.110. 3). 同上書p.110. 4). 同上書p.110. 5). 同上書p.110. 6). 同上書p.58. 7). 同上書p.59. 8). 同上書p.60. 9). 同上書p.111. 10). 同上書p.111. 11). 同上書p.113. 12). 同上書p.119. 13). 同上書p.119. 14). 同上書p.120. 一38一.
(41) 第4節 羽曳野市の小学校における子供の興味を生かした指導. 本節は、羽曳野市の各小学校における教育目標・教育方針ならびに教 科等の目標、留意事項について調査し、その結果をもとに、子供の興味 を生かした指導が各小学校でどれだけ配慮されているかを考察したもの である。. 教育目標においては、各小学校ともどのような子供を育てるかが表現 の主眼となっている。その中で、心の豊かさやたくましさ、創造性、豊 かな人間性、調和のとれた人間を目標に掲げた小学校は14校中10校であ った。1). A.心身ともにたくましく、人間性豊かな子どもの育成 C.知、徳、体の調和のとれた人間性豊かな子どもの育成. D.人間性豊かな心を持つ児童の育成 E.心豊かで、たくましい児童の育成 F.豊かな心をもった、たくましい児童の育成 1.自ら考え、正しく判断できる、心豊かでたくましい子どもを育 てる。. J.調和のとれた創造性豊かな児童を育成する。. L.知・徳・体の調和のとれた人間形成 M.たくましく、心豊かに、創造的に生きぬく子どもの育成 N.豊かな人間性と創造力のある子どもを育成する。. 小学校学習指導要領の総則に「児童の人間として調和のとれた育成を. 目指し」2)という表現がある。この人間としての調和は、C校やL校に. 一39一一.
(42) おける知・徳・体の調和と考えられる。また、心身のたくましさや創造 性、判断力を持った人間性豊かな子どもはすなわち、人間として調和の とれた子どもと言い換えることができよう。そして、子どもにたくまし さや生きぬくことを求める背景には、人間としての自立が目的としてあ ることが考えられる。. 人間は、社会と関わりを持つことによって成長し、調和のとれた人間 となるといえる。そして、成熟した人間は社会を維持し、発展させる役 割を担うのである。その社会的な役割を教育目標として取り入れている のは、次の2校である。3). J.. ・ 主. ムのz. として、調和のとれた創造二刀. かな児童を育成する。. K.民主国家・社会に貢献し得る人間の育成を期する。. 教育基本法第1条に、 「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家 及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、. 勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成 を期して行われなければならない」4)ことが掲げられている。J校とK 校の目標は、 「平和的な国家及び社会の形成者として」の国民の育成と. いう目標と一致している。つまり、J校とK校の教育目標は、教育基本 法の精神を生かしたものと考えることができる。また、調和のとれた人 間の育成は、社会に貢献し得る人間の育成が前提となっていると考える ことができる。つまり、調和のとれた人間を育成する目的は、「平和的 ・民主的な社会の形成者」をつくることにあるといえるのである。. GとHの2校は、次のような教育目標であった。5). 一40一一一.
(43) G.思いやりのある子 よく考える子 たくましい子. H.仲間をだいじにする子 感性豊かな子 よく考える子1. 明るく元気な子. これは、学校がめざす子供像といえる。より具体的な目標を達成する ことで、全体としては知・徳・体の調和のとれた人間の育成をねらって いると考えられる。そして、前提として平和的な社会の形成者としての 役割が期待されていると思われる。他のすべての小学校においても、教 育目標の次に、より具体的にめざす子供像が示されている。. その他に、人権尊重の精神を培うことやそれに類似した表現を目標に 取り入れている学校が3校あった。6). J.人権篁重QIEe19!1919&1.、平和的・民主的な社会の形成者として. 調和のとれた創造性豊かな児童を育成する。. K.個ムQ.豊厳蚤じ、真理と平和を希求し、民主国家・社会に 貢献し得る人間の育成を期する。. N. 日. の. に し、児童一人一人の個性を伸ばすことを教. 育の基盤として、自ら学び、自ら励み、自ら考え、判断し行動しよ うとする意欲と、友達を大切にし、お互いに高めあい、共に生きる 喜びを身につけた豊かな人間性と創造力のある子どもを育成する。. 一41一.
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