— Reid·on P a s s i o n s ―
石 川 徹
A b s t r a c t
The chief objective of this paper is to examine Reid's theory of "passions''. We use the word
"passions" not~nly in Reid's way, but in common usage in 18th century, because we can best under‑ stand his theory in contrast with his contemporary philosophers, especially David Hume.
First, we observe that Reid's conception of causation, that is, ・agent causation determines his general philosophical scheme and that ̲human action is the most important subject of his inquiry.
Secondly,, we survey three kinds of action principles, ・mechanical principles, animal principles, and rational principles. In effect we find Reid thinks all of the principles are equally important for human existence and happiness. But these factors sometimes will be very violent and destroy the harmony in mind, so must be under control ̲of reason and will.
Finally, ・we evaluate the possibility of Reid's theory, in contrast with Hume's theory. They are very different in their conceptual scheme, but have much in common in weighing the value of our ordinary life. If Reid would pay attention to our particular passions, he .could have developed a very interesting anthropology.
まず、表題の意味について説明しておかねば ならない。「情念」 (passion) という語は哲学者 の体系により異なる範囲の意味内容を持つが、
リ ー ド の 場 合 は 、 彼 が 動 物 的 原 理 (animal principles) と呼ぶものが、精神を激しく揺り動 かし、冷静さや落ち着きといった状態とは反対 の状態に精神をおくものとなった場合に適用さ れる。ヒュームで言えば、激しい情念 (violent passions) と呼ばれているものにほぽ対応する
と考えて良いであろう。従って、「トマス・
リードの情念論」という表題は、文字通りに取 ればかなり狭い対象を取り扱うことになるが、
ここではより広く、理性や判断力と対比される 行動の原理という意味で理解されたい。このこ
とを「トマス・リードの情念論」という表題で 表すことは、リードの用法に照らせば不適切で あるかもしれないが、このような表題をつけた のは、対比されるべき哲学者として、リード自 身が常に意識しているヒュームの存在があるか らである。また、シンポジウムのタイトル「18 世紀における情念の問題」 1からもこのような 用法は正当化されるだろう。それ故、この論文 の中では、情念という語を表題の意味と、リー ド自身の使用する意味での二様に使用する。そ してこの二つの意味での「情念」をそれぞれ理 解するためには、 リードの哲学の基本的枠組み
を概略押さえておく必要がある。
リードの3冊の主著の内、二番目と三番目に
出版された、 Essayson the Intellectual Powerf of Man (1785) とEssays on the Active Powers of Man (1788)の題名から分かるように、リード
は人間の能力を大きく認識に関わるものと、行 為に関わるものの二つに分ける。すなわち「知 性 (Understanding)」と「意志 (Will)」である。
こ の 区 分 は ヒ ュ ー ム が な し た 「 知 性 」 と 「 情 念」という区分とは著しい対比をなす。このよ うな相違の意味するものをこの場で論じ尽くす ことは不可能であるが、この相違が生じる大き な原因の一つは、両者の間にある「因果性」に 関する対極的な見解にある。ヒュームは「自然 学 的 必 然 性 (PhysicalNecessity)」 と 「 精 神 的 必然性 (moralnecessity)」を区別せず、全ての 因果関係を出来事同士の規則的継起にもとづけ て理解する。つまり精神内で起こる現象も、自 然界で起こる現象も基本的に同じ因果的必然性 の支配下にあり、精神現象も、原理的には自然 現象に対する仕方と同じ仕方で解明可能である
という考えがそこからは生じてくる。
リードは原理的にこれと相反する立場をとる。
リードによれば、真の因果性は、「行為者因果 (Agent Causation) 2」 の み で あ る 。 自 然 現 象 の研究において我々が到達できるのは、出来事 間の規則的連関、すなわち自然法則にとどまる。
しかし、であるからといって、現象の規則的連 関の中で、先行する出来事を原因と呼び後続す る出来事を結果と呼ぶのは、その派生的な意味 でしかない。さらにこれを、人間の意志的な行 動にあてはめ、人間の欲望や情念などを原因と
し、行為を結果とするのは、言葉の誤用でしか ないということになる。自然法則の必然的な連 関は、この世界の創造主である神の意志に基づ くものであり、この神こそが真の原因である30
もちろん、我々は神の行為を直接理解するわけ には行かないが、原因という言葉の意味は我々 自身の行為の中に示されている。というより、
「原因」という語は我々の行為の文脈でしかそ の真の意味を理解し得ないのである。従って、
行為者としての我々の本性を示す基本的なカテ ゴリーは「意志」であるということになるので ある。
従って、 activepowersという語は、因呆作用 の原因となるという意味での能動的な力という 意味と、その因果作用が明らかになるのは人間 の諸行為においてのみであるという理由で、人 間の行為を生み出す力という二重の意味が込め られていることになる。ただ、どちらにせよ、
このような力が明らかになるのは人間の行為に おいてであるので、リードはまず人間の行為に 関係する原理を枚挙することから考察を始める。
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人間の精神や身体の振る舞いの中で、真に行 為の名に値するのは、人間があらかじめ考え、
意志し、決定したもののみである、とリードは 言う。このことは道徳的責任を問う場面ではっ きりする。道徳的な意味での責任が問われるの は、その行為を行うこと、及び行わないことの 双方が、行為者の能力の範囲内のことであり、
しかもその決定が行為者の意志によって決定さ れた場合である。しかし、このような厳密な意 味で考えないときには、必ずしも意識的意図的 になされたことばかりが人間の行為とされるわ けではない。従って、一般的に、行為とされる も の の 中 に は 意 図 的 行 為 (voluntaryaction)、 非 意 図 的 行 為 (involuntaryaction) 及び混合的 行 為 (mixedaction)の 三 つ が 存 在 す る と さ れ る。最後のものは「意志の支配下にあるが、通 常は意志が介在することなく行われるもの」
(543) 4とされる。
このような広い意味における行為に影響を与 えるものを行為の原理と呼ぶ。行為の原理とは
「行為を為すように我々を誘うあらゆるもので ある。」従ってそれは原因とははっきり区別さ れる。原因という語は先に述べたように、最終 的な決定を下す意志を持った行為主体のみに適 用される語である。行為主体は、人間の精神に 影響を与える様々な原理に対して、承認を与え たり、屈服したり、抵抗したりすることによっ て、行為の選択をする。全く何ら行為を誘うも のが存在しないときに意志がそれ自体で行為を 生み出すと言うことは想定されていない。従っ て、人間の行為を理解するためには、そこで意
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志がどのように働いているかを理解すると共に、
そもそも人間の行為がどのような諸原理の影響 下に成立するか、そしてそれらの諸原理の関係 はどのようなものになるかを探求することが不 可欠である。
リードはこのような行為の原理を三種類に分 ける。機械的原理 (mechanicalprinciple)、動物 的原理 (animalprinciple)、理性的原理 (ration‑ al principle)、の三つである (545)。というの
も、人間は精神と身体の双方から成り立ってい るものであり、当然人間の身体は精神を持たな い物質の法則にも従わねばならない。また理性 を持つという点で他の動物と異なっていると共 に、一個の動物であることも確かなので、動物 としての特質も併せ持っている。現実の我々の 行為はこうした要素の影響を受け初めて確定し た形をとるのである。そしてこのような行為の 探求は、当然人間の行為がどのようなものであ るかという事実の理解をまず踏まえると言うこ とに向かわなければならない。
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機械的原理としてリードが挙げるのは本能 (instinct) と習慣 (custom)の二つである。こ れらが機械的と呼ばれるのは、こうした原理が 働くのに、精神の意図的な働きが何ら必要とさ れないからである。すなわち行為者自身がこれ をどういう目的で行い、また今何をしようとし ているかについて意識しなくても行われるから である。
特に生まれつき備わっているような行動、新 生児が呼吸しミルクを飲むような行動の原理を 本能という。さらに、意識的行動ができるまで に成長した後にも、以下の三種類の本能が働く という。すなわち、第一に生存に必要な多くの こと。これらには我々が意図的に行う場合でさ え、その仕組みがどうなっているか分からない ようなもの、たとえば飲食物の照下などが挙げ られる。我々の有意的な身体行動も、全てある 程度はこのような仕組みに支えられている。第 ニにきわめて頻繁に行われるので、通常はその ことに思考を向けないで行われるもの、たとえ
ば呼吸や瞬きなど。第三に瞬時に行動すること が必要で考える間がない様な場合の行動、たと えば、とっさの危険に対する回避行動のような 場合である。さらに興味深いのは、模倣の傾向 (proneness to imitation) を挙げていることで ある。これは少なくとも部分的には本能に根ざ しているとされる (548)。そして、人間が言葉 や手振り、社会性や人間性なども社会的影響を 本能的に受け入れるこの傾向に依拠していると する。さらには、子どもが教えられる他人の信 念を自分の信念として取り込む傾向や同種の出 来事が類似の状況で再び繰り返されるという信 念も本能に含めている。リードはこの叙述にお いて、ヒュームに言及し、この信念が理性や経 験から得られるものではないということをヒュー ムが論証している旨を述べている (549)。
習慣と呼ぶのは、本能が自然本性的であるの に対して、習得的すなわち後天的に身につけた 行動である。上記の言葉や身振りも具体的に獲 得した場合には、少なくとも部分的にはこの習 慣と言うことになるであろう。ただ、一般に習 慣と言うよりはやや限定的に、それが行われな い場合にある種の不安を感じさせ、それが行為 へと向かわせる原理となるような場合にこの語 が使用されている。おそらくはリードが最も問 題としたいのが、行動の諸原理の影響を受けつ つ、人間がいかに自由に意志決定をするかとい う問題であるので、このような選択の場面で何 らかの影響力を持つ原理を主として思い描いて いるからであろうと推測される。
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次に動物的原理についてであるが、これはそ の言葉通りに動物と人間に共通の原理、言い換 えれば、動物としての人間を動かす原理である。
従って、理性や判断力を必ずしも前提としない で働くが、先の機械的原理と異なり。少なくと もそれが働くときにはその意識は必ず伴うよう なものである。リードはこうした原理の種類と して、欲望 (appetites)欲求 (desires)感情 (af‑ fection)情念 (passion)を挙げる。以下簡単に
これらについて説明する。
欲望は飢えや渇きや性欲のように、人間の個 体や種の保存のために自然が人間に与えたもの である。これらの特徴はそれぞれが、行為への 欲求とそれに伴う不快な感覚という二つの要素 からなるということ、周期的に人間に訪れると いうことの二つである (551)。また疲労と休息 への欲求、活動しないでいることと活動への欲 求なども、これに類似のものであるとされる。
人間の身体の生理的な構造に基盤を持つものと 考えても間違いないであろう。これらはそれ自 体としては善でも悪でもないが、より上位の原 理との関係において悪になったり善になったり する。
欲求という語は、リードにおいては二様に使 われている。広義には何であれ、人間を何らか の対象に対して向かわせるような心的状態を意 味し、(そして最広義には、これと反対方向の 傾向、すなわちある対象から遠ざかろうとする 傾向すなわち嫌悪 (aversion) も含む)そして、
狭義には個々の動物的原理として挙げられてい るものがある。この意味での欲求は先ほどの欲 望と異なり、それ自体としてはそれに固有で常 に伴うような不快が存在しない。そして、周期 的に起こるというものではなく、恒常的に存在 するものであるということである。
リードが主な欲求としてあげるのは、力の欲'
求 (desires of power)、評価の欲求 (desires of esteem)、知識の欲求 (desiresof knowledge)の 三つである (554)。これらの欲求は上記の欲望 が動物的原理であるということが明白であるよ うには動物的とは言えない。欲望は明らかに生 物としての人間という他の動物と共通する基盤 から発生するものであるのに対して、これらの 欲求はむしろ人間の社会ないし他者との関係を 前提として発現するものとして考えられるから である。力の欲求には、人間の集まりの中で何
らかの意味で、他に優越することへの欲求が含 められているし、評価の欲求はもちろん他者の 存在を前提としてのことである。知識の欲求に は、高尚な学問ばかりでなく、隣人をのぞき見 たいというような卑俗な好奇心も含まれている。
これらの欲求は、いわば人間を人間らしく振る
舞うことをさせる、人間固有のものとまでは言 わないまでも、きわめて人間的な内容を持つも のである。ではリードはこれを何故動物的原理 の中に含めるのか。それは、これらが人間の原 初的な基本構成 (constitution)に含まれている、
いわば人間にとって自然な欲求だからであると いうことになるであろう。以上のような欲求が 実際に人間社会の具体的条件の下にどのような 形をとるかは、簡単には予測できない。リード は金銭欲や称号に対する欲求など、必ずしも良 きものとは見なされないものを後天的に獲得さ れたものと見なして、自然な欲求と区別しよう としている。自然的な欲求は社会的動物として の人間の性において、人間の社会化に寄与する ものであり、その意味で徳に対して親和的であ ると考え文いる。しかるに、後天的に獲得され たものはそうではないという。おそらくは金や 称号というような人間社会の生み出した人為的 なものを、自然的な欲求を満たすための道具と
してではなく、それ自身として追求し始めるよ うになる、いわば手段が自己目的化することを こう区別しているのだろうと思われる。しかし。
このように個別には問題を引き起こす場合があ るということは認めつつも、全体としてこれら の欲求に対するリードの評価は好意的であり、
社会生活を営んでいく上で重要なものと言うの がリードの考えである。このことは、リードの
「情念論」を考える上で、さらにはリードの哲 学全体を考える上で重要なポイントとなるであ
ろう図
ここまで、欲望、欲求としてリードが挙げて きたのは、その対象として、人間ならざるもの を持っていた。それに対して、人間を直接の対 象として持っているものがあり、これを一般に 感情 (affection) と呼んでいる。この語は一般 的には他者に対して良い感情を持つ場合に使用 されるのが普通であり、否定的な感情に対して は使われない (558)。しかし、ここでは一般名 とし、良き感情に対しては慈愛的感情 (benevo‑ lent affection)否 定 的 な 感 情 に 対 し て は 悪 意 の 感 情 (malevolentaffection) という語が使用さ れる。
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まず前者についてであるが、これはその本性 上心地よさをその所有者に与えるものであり、
また対象となる人間の幸福ないし幸福の欲求と いうこの二つの事柄を全ての種類において含ん でいる。従って、このような感情が人間相互の 間で行使されることが人間にとっての大きな喜 びとなり、幸福の主たる部分を為すことになる。
具体的な例としてリードが挙げているのは、親 子や近親者間の愛情、恩人に対する感謝 (gra‑ titude to benefactors) , 不幸な人に対する哀れみ
(pity and compassion towards the distressed)、 賢者と善人に対する尊敬 (esteemof the wise and the good)、友情、両性間の愛情 (love between the sexes)、公徳心すなわち自分の共同体に対 する愛情 (publicspirit that is an affection to any community to which we belong)等である。この
.枚挙が十分なものであるかどうか、逆にこのよ うな自然的な感情というものの中にこれらのも のを含めて良いか等の問題が生じてくるが、こ のような個別的な課題について詳細に検討でき るほどリードは多くを語ってはいない。それ故、
ここでは一般的にヒュームの論と比較して気が ついた点を述べておきたい。
第一にリードは、これらの感情を一義的には 欲求ととらえているのに対し、ヒュームはむし ろ間接情念の本体を純粋に感受的なものとして いる点である。ヒュームは誇りや卑下を、欲求 を伴わない純粋な情動とし、さらには愛に一般 に伴う愛の対象の幸福に対する欲求を(そして 憎しみに伴う相手の不幸に対する欲求も)少な くとも論理的には別個で分離可能なものとする6
ヒュームがこのような態度をとる理由の一つは、
おそらくは道徳的評価の基礎を情念におき、さ らにはその因果的モデルの原型を間接情念にお くということに起因していると思われる。リー ドは道徳的判断の基礎を感情に求めないので、
このような方策を採る必要はない。しかしこの ように対比してみると、ヒュームにおいて重視 されている感情の評価的な機能がリードにおい てはどのように考えられているのか、一考の余 地のある問題だと考えられる70
第二にリードにはヒュームのような情念の発
生に関するメカニズムの説明はない。ヒューム が感清に関する現象論的な事実観察と、自らの 提唱する因果的発生のメカニズムとの間の調整 に力を注いでいるのに対して、リードはその様 な労苦を負わずに済んでいる。しかし、このこ とは逆に、リードがさらに突っ込んだ情念の分 析を行おうとする場合には、障害となるであろ う。情念という現象の事実をそれ以上に分析す る道具を持たないことになるからである。もち ろんリードにはその様な関心は初めからなかっ たのかもしれない。しかし、またリードの哲学 にはリードが実際に展開していた以上の可能性 が存在していたのかもしれない。この点につい ては後で触れることにする。
次に悪意の感情として、リードが挙げるのが 対 抗 心 (emulation) と憤り (resentment)であ る。但し悪意という名前がついているからと いって、それ自体が直ちに悪いというわけでは 必ずしもない。基本的にはその感情の対象に とって不利になるようにすることを望むという 欲求ではあるが、それが悪いことと考えられる のは、動物的原理の場合と同様に上位の原理に 矛盾するようになる場合である。
対抗心は先に挙げた評価の欲求と密接に関係 している。これが競争相手に対する関心を基本 的に含んでいる場合は対抗心ということになる。
優越することに失敗すれば、不快な感じが伴う。
当然この感情は人間の向上心を奮い立たせる大 きな原因となり、従って、理性と徳によって、
コントロールされている限りにおいて人間の社 会に取って有用であり、良きものである。また このような感情は当然物事の評価という理性の 働きが大きく関係することになる。
憤りは要するに何らかの被害を受けたときに 報復しようとする欲求である。現実の我々の感 情は、とにかく受けた被害に対して盲目的に起 こる衝動としての怒りと、単なる被害ではなく、
何らかの不正に発する不当な危害に対するもの とに原理的には区分できるはずである。後者の 場合は、当然そこに何が不当であるかという判 断が入り、正義の観念と道徳的判断という機能 が含まれている故に、当然これは動物的原理と
いう区分に収まるものではない。このような感 情は原初的には生物の自己防御としての機能を 持っている。そしてそれぞれがこのような怒り を持つことが、相互に認識されていれば、この ような怒りが過度になることを抑制し、社会的 に有用なものとなる。
対人格的な感情は、このように共に社会的動 物としての人間にとって必要で欠くべからざる ものであるが、慈愛的感情はそれ自体喜ばしい ものであるのに対して、悪意の感情は不快であ る。共に自然的な本性の中に起源を持つとはい え、できる限り前者を多くし、後者を少なくす ることが個人の幸福につながると言うことにな るであろうとリードは言う (570)。
先に述べたように情念という語はこのような 動物的原理のどれか特定のものを意味するので はない。また全体を統括する名前でもない。
リードにおける情念という語の基本的な意味は、
このような動物的原理が精神において取りうる 一つの様態である。すなわち、動物的原理が過 度に精神を揺り動かし、精神に必要な自己統御 に対立的になった場合これを情念と呼ぶ。従っ て、ヒュームの言うような「穏やかな情念」
(calm passions)等は形容矛盾でしかない。
「理性ば清念の奴隷であり、またそうあるべき である」 8という語句も、言葉の誤用に基づく ものであるにすぎない。我々の自然な欲求と感 情ば情念と呼ばれるほどに激しいものにならな ければ、穏やかでそれについて反省的に判断す ることが可能であり、そのことにおいて自己統 御が成り立つ。しかし、そうできない場合があ り、それを情念と呼ぶのである。従って、理性 と情念の闘争という主題はまさに情念という語 の語義に含まれた内容なのである。もちろん激 しい情念が激しいと言うだけで、上位の原理が 示すところのものに必ず対立するとは限らない。
何か社会的に有用なことを成し遂げるのに激し い情念が必要な場合もある。ただこのような激 しさが成立しているところでは、その分冷静な 反省が場所を譲るということになる。情念が理 性と対立するというのは、確かに情念は理性の 教えるところに対立する傾向を持ちゃずいとい
うことは含意しているであろうが、それ以上に 情念の働きが理性の働きを阻害するという意味 で対立的なのである。しかし、逆に情念が全く 不随意になってしまった場合、すなわち、我々 がそれを理性によって抑制することがそもそも できないような情念は悪ではない。人間本性の 事実を見れば、それらはむしろ人間にとって必 須の役割を担っているものであろうとリードは 言う (574)。また、それ以外のものも適切な範 囲内では人間全体に命や生気をあたえるもので あるという。
この意味でも情念は理性に対してそれ自体と して対立的というわけではない。むしろ理性と 情念の対立ということが問題となる場面は、か
なり限局されたものとなり、むしろ相互の調和 が壊れたときなのであるということがわかる。
理性か情念かという問題ではなく、情念の適切 性、ないし精神の調和的なあり方が問題なので ある。このことは、リードが行為の第三種の原 理としてあげている理性的原理を見れば明らか である。
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もはや詳しくは説明できないが、リードが理 性的原理としてあげていることは二つある。一 つは我々の行動を、その時々の最も強い衝動を 与えるものが選択されるというのではなく、そ のもたらす結果を冷静に判断し、総体としての 最善のもの (Goodon the Whole)を選ぶという ことであり、もう一つは義務の感覚 (Senseof Duty)である。後者はリードの道徳論を考える 上できわめて重要なものであるが、ここでの主 題とは異なるので、この感覚がリードの述べて いる感覚知覚論と類比的9であり、従って、一 種の価値実在論に導くと言うことだけ述べて、
詳しくは触れないでおく。
さて前者であるが、リードによれば、総体と しての善を望み、悪を避けるということには、
当然総体としての善悪を判断するという理性の 作用が含まれている。それ故に、このように振 る舞うというのは、理性的被造物としての人間 の 本 性 に 基 づ い た 理 性 的 原 理 な の で あ る 。
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ヒュームも当然行為の選択肢の結果の考察に理 すのは理性か情念かという問いではなく、動物 性が関与することは当然認めるであろう。しか 的原理とは異なった仕方で理性が働くかどうか、
しだからといって、そのこと故に、これを理性 言い換えれば、人間の中に事物が自然必然性に の原理と認めることはないであろう。何故なら、 従っているのとは異なる仕方で行為に影響を及
「自分の指にひっかき傷を作ることと」「世界 ぽすことができるものがあるかどうかと言う問 の絶滅」を比較し前者を忌避し後者を選択した いなのである。
としても、それは端的に不合理なのではないと ビュームは主張するからである心目的となる もの、あるいは結果として生じるもの同士の優 劣を何の基準も定めずに決定することは理性の 仕事ではないというであろう。そして、おそら くこの目的同士の優劣ということに関しては、
リードの側からは、最終的には倫理学的考察の 全体を持って答えることになるであろうと思わ れる。しかし一つだけ次のような点でリードの 擁護が可能ではないかと思われるので、ここで 簡単に触れておこう。
リードにとって総体としての善が理性的原理 であるのは、総体としての善が何である9かを知 るためには関連する諸事実を十分に知り、さら にその条件下で選択可能な行為がどのような帰 結をもたらすかを判断しなければならないので
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以上で、リードの行為の原理に対する大雑把 な紹介を終え、幾つかの点を指摘することで本 論のまとめとしたい。第一に、先に述べたよう
に、ヒュームが間接情念を欲求とは意図的に区 別しているのに対して、リードはそれらがある 種の欲求であるという形で分類しているという ことである。従ってリードは情念の持つこのよ うな感受的要素を顧慮していない。もちろん リードの関心が人間の能動的力にあることから、
このような情念の側面を取り扱わないことには それなりの理由がある。しかし、リードもまた ヒューム同様に自らの人間学をうち立てようと したと考えるのであれば、情念のこうした側面 やあるいは個別の情念のあり方により注意が払 あるが、このようなことを明らかにしうるのは われていたらと残念に思う。特に人間の様々な 当然人間の理性だからである。ヒュームならば、 良きあり方に対して貢献するものとして動物的 むしろこのような事態こそが「理性が情念の奴 原理が語られていることを考えれば、より具体 隷」であることを端的に示すと言いそうである、 的に人間のあり方を考える方向に、リードは向
が、たとえそうであっても、この場合理性が人 間の欲求に影響を与えることは認めねばならな い。その意味で、全体としての善という目的は それが行為に影響を与えるという意味で行為の 理性的な原理であることは承認せざるを得ない ということになる。もちろん理性だけでは行為 を生み出すことはできないのに対して、理性的 な判断なしに人間は行為を行うことができる。
従って、行為の原理は理性ではなく情念である という反論は為されるであろう。しかし、リー ドの立場からすれば、それはむしろ当然のこと である。人間が人間であるのは理性によるばか
りでなく、身体や情念によってでもある。この ような複合体としての人間の人間たる行為は、
当然全ての要素を併せ持つのはむしろ自然なこ とである。従って、リードの問いは人間を動か
かい得たと思われる。
そして第二に強調しておきたいことは、人間 の理性及び自由意志の強調と言うことにも関わ らず、動物的原理と呼ばれるものについての論 述に垣間見えるのは、人間本性に対する信頼で ある。動物的原理は理性との全面的闘争・対決 により抑制されねばならないようなものとして 考えられているのではない。人間の生存にとっ て不可欠であり、社会を構成するのに有用であ り、さらには人間の幸福の主要な部分でもある。
理性はいわばこのような諸原理間の調整と逸脱 の抑制が主たる役目であるようにみえる。もち ろん形而上学的には創造主としての神との関係 もあり、なお議論を要するところではあるが、
リードの提示する人間観は、現実に生きている 人間のあり方を基本的に肯定するものである。
それ故にその理論を支える原理的な考察(それ も十分に興味深いものであるが)ばかりでなく、
具体的な情念のあり方の考察も含めた人間論の 可能性を考え得るし、実際そうなっていれば、
さらに彼の哲学は興味深いものになっていたで あろう。
注
1 この論文は2003年3月法政大学において行われ た第25回イギリス哲学会研究大会において行わ れ た シ ン ポ ジ ウ ム 「18世 紀 に お け る 情 念 の 問 題」に提題者として発表したものに若干の加筆 修正を加えたものである。
2 もちろん「行為者因果」という用語をリードが 使っているわけではない。
3 このような考えは、その形而上学において大き な相違があるにも関わらず、バークリの考えに 接近する。
4 括弧内の数字は全て ReidWorksのページを示す。
5 詳述する余裕はないが、理論構成において対極 的であるにも関わらず、たとえばヒュームの提 示する人間像そしてそれを基本的には肯定的に とらえようとす9る点において、両者はかなり似 ており、ここから両者の生きた時代の特質を考 えることができるだろう。
6 Cf. David・Hume, A Treatise of Human nature, Book II, part 2, sect. 6 "ochof Benevolence and anger"
7 後述するように、道徳的価値に関しては直接的 な感受機構を考えているが、全ての価値評価的 感受が道徳的であるわけではない。
8 A Treatise of Human Nature, p. 415
9 リードの感覚知覚論については石川徹「トマス
‘• リードの心の哲学 (1)一知覚論ー」を見よ。
10 Op.,. cit, p. 416
Press 1978)
Keith Lehrer, Thomas Reid (Routledge 1989)
William Lowe, Thonzas Reid on. Freedom and Morality (Cornell University Press 1991)
William Alston (ed.), Thonzas Reid and his Contempo‑ raries (the Monist 70 1987)
Melvin Dalgano & Eric Matthews (eds.) The Philoso‑ phy of Thon辺sReid (Kluwer 1989)
John Haldane (ed.) The Philosophy of Thomas Reid, (The Philosophical Quarterly no. 209 2002) 石川徹「トマス・リードの心の哲学 (1)
一知覚論ー」香川大学教育学部研究報告第一部 第95号1995
石川徹「トマス・リードの心の哲学 (2)
ーカの概念ー」香川大学教育学部研究報告第一 部第121号2004
文献表
The Works of Thomas Reid, ed by William Hamilton 6 th edition (Edinburgh 1863 reprinted Thoems Press 1994)
David Hume, A Treatise of Human. Nature, ed. by Selby‑Bigge & . P.H. Nidditch .(Oxford University
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