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鈴 木 政 勝

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Academic year: 2022

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(1)

I はじめに

ということ (1)

鈴 木 政 勝

矢野喜夫、矢野のり子著『子どもの自然誌』の中に、 W (4歳6ヶ月)という子どもの次のような エピソードが述べられている。

「七月に入って保育園ではプールが始まった。始まった当初、 W はホースで水をかけられるとき、

頭や顔に水がかかるのをいやがったという。保母さんから母がきいたところでは、プールに入るの を恐がってしがみついたり、水が出ているホースの水道栓を止めてしまったらしい。しかし、家に 帰ってから母親と兄に笑われ、兄といっしょに風呂に入ったとき兄が浴槽で顔つけをやってみせる

と、 W も風呂の中で自分から顔つけの練習を始めた。

W は兄と顔つけの練習をするため、兄と二人で風呂に入るようになり、兄がW に数を数えさせ て、いくつまで顔をつけていられるかをやってみせると、 W も同じようにし始めた。最初はちょっ と顔をつけるだけなのが、三か四数える間、湯につけていられるようになり、さらに七くらい、と きには十くらいの間つけていられるようになった。保母さんの話では、保育園でもプールの端で一 人で顔つけの練習をしていたらしい。 W は顔つけができるようになったことがうれしくて、父や母

と風呂に入ったときもよく、数えてもらってやってみせる。

四歳六ヵ月二二日のときには、保育園から母といっしょに帰る途中、母に『カックン (Wのこと ー引用者注) キョウ プールデ テーツイテ オヨイデン」と得意そうにいった。その翌日は、

母に、『キョーナー、プールナカッテン。ミズアソビダケ。ショーモナイ ショーモナイネン』と いうまでになった。 1)

筆者が『子どもの自然誌』のこの部分を読んだのはもう相当前のことであるが、筆者はこのW の 生き生活する姿にひきつけられた。 W の保育園ではプールが始まった。プールに入る前ホースで水 をかけられる。だがWは、ホースで水をかけられることに耐えることができない。 Wは、この事態 に対して、「顔を水につけることができるようになりたい」「顔を水につけることができる強く大き い子どもになりたい」という願いを形成する。そして、それを自分から実現しようとする。家の風 呂場で、さらには保育園のプールでも、練習をする。そしてとうとうその願いを実現する。 W は、 これらの願いの形成と実現を通して、自ら成長・発達する。

当時筆者は、幼児教育を研究する者として、保育者は子どもにどのように働きかけたらよいの か、ということを日々考えていた。子どもが自分から環境にかかわり、そして自ら「〜したい」「〜

(2)

する自分になりたい」という願いを形成し、自分から実現しようとする、そして自ら成長・発達す る。子どもがこのようになるよう働きかけるには、保育者は、「子どもが生き、自ら願いを形成し 実現しようとする、そして自ら成長・発達する」、このことを捉えて働きかけることが大切ではな いかと考えていた。それゆえ、まずは、この「子どもが生き、自ら願いを形成し実現しようとする、

そして自ら成長・発達する」ということ、このことを捉えなければならない、と考えていた。この W の姿は、この「子どもが生き、自ら願いを形成し実現しようとする、そして自ら成長•発達する」

ということ、このことの一つの姿を、端的に示すものとみえたからである。

そして筆者は、 W のこのエピソードに触れることによって、この「子どもが生き、自ら願いを形 成し実現しようとする、そして自ら成長・発達する」ということ、このことを、さらに深く捉えな

ければならない、と考えるようになった。

「子どもが生き、自ら願いを形成し実現しようとする、そして自ら成長・発達する」こととは、

どのようなことか。このことは、ここでのWの姿を捉えることによって、おおまかにではあるが、

捉えることができる。

Wは一ープールが始まったので一ー「プールで水遊びしたい」と思った。だがプールに入る前、

ホースで水をかけられる。 W は、ホースで水をかけられることに耐えることができない。水が出て いるホースの水道栓をとめてしまう。

Wは、自分を「顔に水がかかることに耐えることができない(顔を水につけることができない)」、

「顔に水がかかることに耐えることができない(顔を水につけることができない)子ども」と認識・

評価するだろう。このように認識・評価し、悲しいと感じるだろう。家に帰ると、母と兄はこのこ とを知っていて、笑う。つまり、「顔を水につけることができない」「顔を水つけることのできない 子ども」と否定的に認識・評価する。 Wはこのように認識・評価され、やはり、悲しいと感じるだ ろう。

だがW は、「顔を水につけることができるようになりたい」「顔を水につけることができる強く大 きい子どもになりたい」と思うようになる。つまり、自分から「顔を水につけることができるよう になりたい」「顔を水につけることができる強く大きい子どもになりたい」という願いを形成する。

そしてこの願いを自分から実現しようとする。兄が顔つけの練習をしてみせる。それを取り入れ、

自分から、家の風呂場でさらには保育園のプールで、何日間にもわたって、顔つけの練習をする。

そしてとうとうWは、その願いを実現する。ときには十ぐらいの間つけていられるようになる。

Wは、「顔を水につけることができるようになった」「顔を水につけることができる強く大きい子ど もになった」と認識・評価する。こう認識・評価すると、非常に嬉しい。

そしてW は、このことを通して、成長・発達する。

このように、このWの姿を捉えることを通して、「子どもが生き、自ら願いを形成し実現しよう とする、そして自ら成長• 発達する」ということはどのようなことか、おおまかにではあるが、捉 えることができる。すなわち、 1)子どもは、願いを形成し実現しようとする。

2 )

願いを実現で きなかったり、実現できたりする。実現できなかった場合、周りの人・子ども自身が、例えば、「顔 を水につけることができない」「顔を水につけることができない子ども」と認識・評価する。そし てつらい、悲しいと感じる。 3)実現できなかった場合、子どもは、次に、「顔を水につけること ができるようになりたい」「顔を水につけることができる強く大きい子どもになりたい」という願 いを形成し、それを自分から実現しようとする。 4)子どもが、この次の願いを実現することがで きた場合、「顔を水につけることができるようになった」「顔を水につけることができる強く大きい 子どもになった」と認識・評価し、嬉しさを感じる。 5)子どもは、これらの願いの形成と実現を 通して、成長• 発達する。……おおまかにではあるが、このように捉えることができる。

(3)

しかし、より深く捉えようとすれば、どうであろうか。

1 子どもは、「〜したい」「〜する自分になりたい」という願いを形成し、実現しようとする。

周りの人・子ども自身が認識・評価する。嬉しさを感じたり、悲しさを感じたりする。そして、次 の「〜したい」「〜する自分になりたい」という願いを形成していく。もちろん、実現できない場 合もあるし、実現できる場合もある。だが、子どもは、このどちらの場合でも、自分が喜びを感じ られる、すなわち充実感を感じられる「〜したい」「〜する自分になりたい」という願いを形成して いくように思われる。子どもは、実現できなかった場合も実現できた場合も、次に、充実感の感じ られる「〜したい」「〜する自分になりたい」という願いを形成していくのではないだろうか。

2 子どもは、願いを形成し、実現しようとする。周りの人・子ども自身が認識・評価する。嬉 しく感じたり、悲しく感じたりする。子どもは、次の願いを形成していく。ここにおいて、子ども は一一周りの人・子ども自身による認識・評価と関連して一―—二つの種類の願いを形成し実現して いくように思われる。これら二つの種類の願いを形成し実現していくプロセスは、どのようなもの だろうか。

また、これら二つの種類の願いを形成し実現していくプロセスを通して、子どもは、どのような 成長・発達をするのだろうか。

本研究では、以下、「子どもが生き、自ら願いを形成し実現しようとする。そして自ら成長・発 達する」、このことを、より深く捉えることを試みたい。

まず、一つ目の点、すなわち、子どもが願いを形成し実現しようとする。そして実現できなかっ た場合でも実現できた場合でも、次に、充実感の感じられる願いを形成していく、,ということにつ いて考察したい。

次に、二つ目の点、すなわち、子どもは、願いを形成し実現しようとする。周りの人・子ども自 身が認識・評価する。嬉しく感じたり、悲しく感じたりする。子どもは、次の願いを形成していく。

ここにおいて子どもは、二つの種類の願いを形成し実現していくが、これら二つのプロセスはどの ようなものか。またそれぞれのプロセスを通して、子どもは、どのような成長・発達をするのか、

ということについて考察したい。

II  子どもは、充実感が感じられる「〜したい」「〜する子どもになりたい」という願いを形成して いくということ

子どもは、生き、自ら「〜したい」「〜する自分になりたい」という願いを形成し実現しようとす る。実現できない場合もあるし実現できる場合もある。だが、そのどちらの場合であっても、次 に、喜び、すなわち充実感が感じられる「〜したい」「〜する子どもになりたい」という願いを形成 していくように思われる。

例えば一一これは「はじめに」でとりあげた場面と同じ場面であるのだが 子どもは一一 プールが始まったので一「プールで水遊びしたい」と思う。ところが、プールに入る前ホースで 水をかけられるが、ホースで水をかけられることに耐えることができない。子どもは「頻に水がか かることに耐えることができない(顔を水につけることができない)」「顔に水がかかることに耐え ることのできない(顔を水につけることのできない)子どもである」と認識する。子どもは悲しさを 感じる。

こうした時、子どもはどうするであろうか。この時、ほとんどの子どもは、それをすると充実感 を感じることのできる「顔を水につけることのできるようになりたい」「顔を水につけることので きる強く大きい子どもになりたい」という願いを形成しようとするのではないだろうか。

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2 上では子どもが顔を水につけることができないという場合を取り上げたが、これとは逆に、

子どもが顔を水につけることができるようになった、という場合はどうであろうか。子どもが、

「顔を水につけることができるようになりたい」「顔を水につけることができる強く大きい子どもに なりたい」という願いを形成し、顔を水につける練習をした。最初は息ができないため苦しく、顔 をつけることができなかった。だが、とうとう、十数える間は、顔をつけておられるようになっ た。子どもは「十数える間、顔を水につけることができるようになった」、「十数える間、顔を水に つけることのできる強く大きい子どもになった」と認識する。嬉しいと感じる。

この時の子どもは、上で述べた「顔を水につけることができない」「顔を水につけることのでき る強く大きい子どもではない」と認識・評価し、悲しいと感じている時とは正反対である。「顔を 水につけることができるようになった」「顔を水につけることのできる強く大きい子どもになった」

と認識・評価し、嬉びを感じている。ではこの時、子どもはどのような願いを形成するだろうか。

この時子どもは一一既に充実感を感じているのだが一一充実感の感じられる「もっと顔を水につけ ることができるようになりたい」「もっと顔を水につけることができる強く大きい子どもになりた ぃ」という願いを形成していこうとするのではないだろうか。

3  また例えば、子どもが大型積み木で宇宙船を作ろうとする。保育室にある大型積み木をすべ て集め、大きい宇宙船を作りあげた。ところが、同じ保育室で大型積み木を使ってやはり宇宙船を 作っていた他の子どもたちが一一その子どもが積み木をすべて使ってしまったため—~自分の作り たい宇宙船を作ることができなくなった。そこで、他の子どもは、その子どもを「積み木を一人占 めすることは受け入れられない」「積み木を一人占めする受け入れられない子どもだ」と認識・評 価する。そして、そのことを、その子どもに伝える。

子どもは、ここでは、「大きい宇宙船を作ることができた」「大きい宇宙船を作ることのできた強 く大きい子どもになった」と認識し、嬉しさを感じる。しかし、それだけではない。同時に、他の 子どもから「積み木を一人占めすることは受け入れられない」「積み木を一人占めする受け入れら れない子どもである」と認識・評価され、悲しさを感じる。

では、こうした時、子どもはどのような願いを形成していこうとするだろうか。

子どもは、充実感の感じられる「他の子どもに受け入れられたい。そのために積み木を一人占め するのではなく共有したい」「他の子どもに受け入れらる子どもになりたい。そのために積み木を 一人占めするのではなく共有したい」という願いを形成していこうとするのではないだろうか。あ るいは、また、充実感の感じられる「積み木を一人占めするのではなく、他の子どもと共有しなが ら、大きい宇宙船を作りたい」「積み木を一人占めするのではなく、他の子どもと共有しながら、

大きい宇宙船を作る子どもになりたい」という願いを形成していくのではないだろうか。

子どもは、このように、「〜することができなかった」「〜することのできない子どもである」と 認識・評価し、悲しさを感じるという時でも、「〜することができた」「〜することのできる強く大

きい子どもになった」と認識・評価し、嬉しさを感じるという時でも、あるいは「〜することは受 け入れられない」「〜する受け入れられない子どもである」と認識・評価し、悲しさを感じるとい う時においても、充実感の感じられる「〜したい」「〜する子どもになりたい」という願いを形成し ていこうとするのではないだろうか。

そしてさらに、子どもは、充実感の感じられる「〜したい」「〜する子どもになりたい」という願 いを、事羹、形成していこうとするのだ、といえる。

次のような子どもがいる。その子どもM子は、 4歳児クラスの二学期半ばまでは、友達に少し関 わりがもてるという状態だった。しかし、 5歳児クラスになると、自分からある一人の女の子、 K 子に対して積極的に働きかけるようになった。 K子もそれを受け入れ、 2人は友達として遊ぶよう

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になった。 M子の方は、 K子がその気持ちを自分だけに向けてくれることを強く求める。だがK子 の方は、 M子以外にも多くの友達がおり、 M子だけでなくその友達とも遊ぽうとする。そのためM 子の気持ちは満たされない。 10月には、 M子はその不満を爆発させてしまい、 K子と喧嘩してしま

う。保育者が仲裁に入り、 2人は一応仲直りする。 M子とK子とまた一緒に遊ぶようになる。だが k子の方は、どうしても、他の友達とも遊んでしまう。その様子をみて、 M子は、 K子との間で充 実感を感じることはもはやできないと感じとる。

こうしたある日、 M子は一一保育者からの一緒に遊ぽうという誘いを断って一ー一人自分から保 育室を出てでいく、ということをする。向い側の風組と自分の保育室の間を、幾度となく行ったり 来たりする。そして、昨年自分の保育室であった風組の部屋へと入っていく。

風組の部屋に入ると—風組の G 先生が受け入れてくれ—―—たまたまであるが、 M子がピアノを 弾き、風組の子どもたちが楽器で合奏する、ということをしてみる。 M子は、嬉しさを感じる。 M 子は、ここで、探していたこと・自分、つまり、充実できること・自分を見出す。そこでM子は、

充実感を感じることのできる「ピアノを弾き風組の子どもたちと合奏したい」という願いを形成す る。そして、その願いを実現しようとする。風組の部屋でM子は、ピアノを弾き他の子どもたちと 合奏するということを、何度も何度も、続ける2)

M子は、このように、 K子との間でもはや充実感を感じることができないと感じとったある日一 ー保育者からの遊びへの誘いも断って一ー自分から一人保育室から出ていくことをする。風組と自 分の保育室の間を何度も行ったり来たりする。そして風組の部屋へと入っていく。

.  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  . 

M子は、この 時、何かを、つまり、自分の充実できること・自分を求めて出ていったたのだと考えられる。 M子 は、風組の部屋に入って―‑ G保育者が受け入れてくれ―

‑ t ; : . if ; : . i  

--C-ci;~il;, M子がピアノを弾 き他の子どもたちが合奏するということをしてみる。嬉しさを感じる。 M子は、ここで、自分の求 めていたこと・自分を見出すことができたのである。 M子はそれを見出し、充実感を感じることが できる「M子がピアノを弾き風組の子どもたちと合奏したい」という願いを形成していく、という ことをしている。

.  .  .  .  . 

こうしたM子の姿の中に、子どもは、事実として、充実感の感じられる「〜したい」「〜する子 どもになりたい」という願いを形成していくのだ、ということを見ることができる。

このように、子どもは、どのような場合においても、充実感が感じられる「〜したい」「〜する 子どもになりたい」という願いを形成していこうとするのだ、そして、事実として、形成していっ ているのだ、といえるが、では、それはなぜであろうか。筆者は、子どもが、生きるということに

. . . . . . . .  

おいて、充実して生きたい、からであると考える。

子どもが、深い喜びを感じる時、どうであろうか。まず、喜びを感じる。その喜びが身体全体に 浸透する。喜びが身体全体に浸透するとなんともいえない充実感に満たされる。それまで自分の存 在に、また自分の生きることに虚しさを感じていたとしても、その虚しさは跡かたもなくなる。自 分が存在していること、自分が生きていることが充実しているという感覚に満たされる。充実感を 感じると同時にエネルギーが湧き上がってくる。このエネルギーは、身体の深い所からほとばしっ てでてくるものである。 2、3歳の子どもだと、このエネルギーから、両足でピョンピョンと何度 何度も飛び跳ねるということを行う。子どもは、こうした時、自分の命が輝いているのを感じる。

一度これを感じると、もうそれを忘れることができない。

そこで、子どもがある願いを形成し実現した。そして喜びを感じた。あるいは実現できず(ある いは実現したが、受け入れられず)悲しさを感じた。そして、次の「〜したい」「〜する子どもにな りたい」という願いを形成していく時、その願いを実現したら喜びが感じられる、充実感の感じら れる「〜したい」「〜する子どもになりたい」という願いを形成していこうとするのではないだろう

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か。子どもがある願いを形成し実現した、そして喜びを感じたという時は、もちろんのことであ る。だが、子どもがある願いを形成しそれを実現できなかった。あるいは実現したが受け入れられ なかった。そこで、悲しさ、苦しさを感じる時には、悲しければ悲しいほど、苦しければ苦しいほ ど、虚しければ虚しいほど、やはり、充実して生きたいと思う。そこで、それを実現したら充実感 の感じられる「〜したい」「〜する子どもになりたい」という願いを形成していこうとするように なるのではないだろうか。

皿 子どもが願いを形成し実現しようとする、周りの人・子ども自身が認識・評価する、喜しいと 感じたり、悲しいと感じたりする、次の願いを形成し実現していく二つのプロセス、およびそこ

における成長•発達

子どもは、生き、生活することにおいて、いろいろな願いを形成し実現しようとする。例えば 子どもは、幼稚園で油粘土に初めて出会った。子どもは、それがどんなものか知りたい。「触った り、においをかいだりして調べたい」という願いを形成し、実現しようとする。子どもは、幼稚園 で誰か他の子どもが空き箱で作ったロボットに出会った。子どもは、「空き箱でロボットを作りた い」という願いを形成し実現しようとする。また例えば、友達がロボットを作ろうとするができず に困っている、それをみて「助けたい」という願いを形成し実現しようとする。

子どもは、このように、いろいろな願いを形成し実現しようとする。そして、周りの人・子ども 自身が認識・評価する。嬉しさを感じる。悲しさを感じる。次の願いを形成していく。ここにおい て子どもは、二つのプロセスを辿るように思われる。

一つは、子どもが願いを形成し実現しようとする、そのことを周りの人・子ども自身が個々の行 動に関して認識・評価する。そして嬉しさを感じる。悲しさを感じる。そして、次に充実感の感じ られる「〜したい」という願いを形成し実現していく、というプロセスである。もう一つは、子ど

.  .  .  .  .  . 

もが願いを形成し実現しようとする。そのことを周りの人・子ども自身が全体に関して認識・評価 する。嬉しさを感じる。悲しさを感じる。そして次に充実感の感じられる「〜する子どもになりた い」という願いを形成し実現していく、というプロセスである。

本稿では、前者のプロセスを「個々の行動に関する認識・評価にかかわるプロセス」、後者のプ ロセスを「全体に関する認識・評価にかかわるプロセス」と呼びたい。

そして、後者のプロセスには、さらに、二つのプロセスがある。

一つは、子どもが願いを形成し実現していくことを、周りの人・子ども自身が全体に関して「無 条件的に大切な子どもである」と認識・評価する。あるいは「無条件的に大切な子どもでない」と認 識・評価する。嬉しさを感じる。悲しさを感じる。そして次に充実感の感じられる「無条件的に大 切な子どもでありたい」という願いを形成し実現していく、というプロセスである。もう一つは、

子どもが願いを形成し実現していくことを周りの人・子ども自身が、全体に関して「〜する強く大 きい子どもになった」と認識・評価する。あるいは「〜する強く大きい子どもにならなかった」と認 識・評価する。嬉しさを感じる。悲しさを感じる。そして次に、充実感の感じられる「〜する強く 大きい子どもになりたい」という願いを形成し実現していく、というプロセスである。

今、ここで、述べたことを改めて図に示すと、図1のようになる。

では、子どもが生き、生活することにおける、この個々の行動に関するプロセスと全体に関する プロセスは、より具体的には、どのようなプロセスなのだろうか。

そして、子どもは、それぞれのプロセスにおいて、どのような成長・発達をするのだろうか。

本稿では、次のような手順で考察していきたい。

まず、図1でAとして示した部分、すなわち、子どもが願いを形成し実現しようとする→周りの

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子どもはいろいろな願いを形成し実現しようとする。

A  B 

周りの人・子ども自身が、 周りの人・子ども自身が、

個 々 の 行 動 に 関 し て 認 識 ・ 評 1全 体 に 関 し て 「 無 条 件 的 に 全 体 に 関 し て 「 強 く 大 き い 価する。 大切な子どもである(ない)」 子 ど も に な っ た ( な ら な か と認識・評価する った)」と認識・評価する。

↓ 

I I

↓ O ↓ 

嬉しさを感じたり、悲しさ を感じたりする。

↓ 

次 に 、 嬉 し さ ( 充 実 感 ) を

嬉 し さ を 感 じ た り 、 悲 し さを感じたりする。

↓ 

次に、嬉しさ(充実感)

周りの人・子ども自身が、

嬉 し さ を 感 じ た り 、 悲 し さを感じたりする。

↓ 

次に、嬉しさ(充実感)

感 じ る 「 〜 し た い 」 と い う 願 を 感 じ る 「 無 条 件 的 に 大 切 を 感 じ る 「 〜 す る 強 く 大 き いを形成する。 1な 子 ど も で あ り た い 」 と い

I

い 子 ど も に な り た い 」 と い

う願いを形成する。 う願いを形成する。

図 1

人・子ども自身が個々の行動に関して認識・評価する→嬉しさ、悲しさを感じる……というプロセ スと、子どもが願いを形成し実現しようとする→周り人・子ども自身が全体に関して「無条件的に 大切な子どもである(ない)」と認識し・評価する→嬉しさ、悲しさを感じる……というプロセスと を取り上げ考察したい。

そして次に、図1で Bとして示した部分、すなわち、子どもが願いを形成し実現しようとする→

周りの人・子ども自身が個々の行動に関して認識・評価する→嬉しさ、悲しさを感じる……という プロセスと、子どもが願いを形成し実現しようとする→周りの人・子ども自身が全体に関して「〜

する強く大きい子どもになった(ならなかった)」と認識・評価する→嬉しさ、悲しさを感じる……

というプロセスとを取り上げ考察したい。

ただ、これらA、Bのうち、 Aにおいては、個々の行動に関する認識・評価のプロセスと、全 体に関する「無条件的に大切な子どもである」と認識・評価するプロセスとは、関連性をもたない。

子どもが「ロボットを作りたい」という願いを形成し実現しようとするという場面を例にとって考 えてみよう。ここにおける、個々の行動に関するプロセスは、子どもがロボットを作ること、この ことを周りの人・子ども自身が、個々の行動に関して、例えば「ロボットを作ることができた(で きなかった)」と認識・評価する→嬉しさ、悲しさを感じる……というプロセスになる。全体に関 するプロセスは、子どもがロボットを作ること、このことを周りの人・子ども自身が全体に関し て「無条件的に大切な子どもである(ない)」と認識・評価する→嬉しさ、悲しさを感じる……とい うプロセスになる。この場合、この後者の、全体に関する「無条件的に大切な子どもである」とい う認識・評価は、個々の行動に関して「ロボットを作ることができた」と認識・評価する場合でも、

あるいは「できなかった」と認識・評価する場合でも、そういう、できた、できなかったというこ とと全く無関係に、「無条件的に大切な子どもである(ない)」と認識・評価するものである。した がって、この後者の「無条件的に大切な子どもである(ない)」という認識・評価は、前者の「ロボッ

トを作ることができた(できない)」という認識・評価とは関連しない。

これに対して、 Bにおいては、個々の行動に関する認識・評価のプロセスと、全体に関する「強

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く大きい子どもになった」という認識・評価のプロセスは、関連性をもつ。個々の行動に関するプ ロセスは、子どもがロボットを作ること、このことを周りの人・子ども自身が例えば「ロボットを 作ることができた(できなかった)」と認識・評価する→喜びを感じ、悲しさを感じる……というプ ロセスになる。全体に関するプロセスは、周りの人・子ども自身が全体に関して「〜する強く大き い子どもになった(ならなかった)」と認識・評価する→喜びを感じ、悲しさを感じる……というプ ロセスになる。この全体に関する認識・評価は、個々の行動に関して「ロボットを作ることができ た」と認識・評価する場合には「ロボットを作ることができた強く大きい子どもになった」と認識・

評価するというように、また「ロボットを作ることができなかった」と認識・評価する場合には「ロ ボットを作ることができなかった、強く大きい子どもにならなかった」と認識・評価するというよ うに一一個々の行動に関する認識・評価と関連してなされる。

このように、 Aにおいては、全体に関する「無条件的に大切な子どもである」という認識・評価 は、個々の行動に関する認識・評価とは、無関係になされる。それゆえ、 Aにおいては、個々の行 動に関する認識・評価のプロセスを取り上げ、次にそれと関連させながら全体に関する認識・評価 のプロセスを取り上げていくということはせず、ただ全体に関する「無条件的に大切な子どもであ る」と認識・評価するプロセスのみを取り上げ考察することにしたい。

次に、 Bに関してはであるが、 Bにおいては、上に述べたように、全体に関する「〜する強く大 きい子どもになった(ならなかった)」という認識・評価は、個々の行動に関する認識・評価と関連 してなされる。それゆえ、 Bにおいては、個々の行動に関する認識・評価のプロセスを取り上げ、

次にそれと関連させながら、全体に関する「〜する強く大きい子どもになった(ならなかった)」と 認識・評価するプロセスを、述べていくことにしたい。ただ、これらの点を述べるためには、その 前に、全体に関する「〜する強く大きい子どもになった(ならなかった)」と認識・評価するプロセ スそれ自体を、おおまかに、述べておくことが必要であると考える。この全体に関するプロセスそ れ自体を前もって述べることによって、二つのプロセスについての読者の理解が容易になるからで ある。

したがって、 Bにおいては、 1)まず、全体に関するプロセスそれ自体をおおまかに述べ、次に それを踏まえて、 2)個々の行動に関する認識・評価のプロセスと一次にそれと関連させながら 一体に関する「〜する強く大きい子どもになった(ならなかった)」と認識・評価するプロセスを、

述べていくことにしたい。

Bにおいては、また、上の 2)の点を述べていくさい、次のようにしたい。子どもの願いを形成 し実現していくことは一一子どもが「袖粘土を触ったり、においをかいだりして調べたい」という 願いを形成する場合とか、「空き箱でロボットを作りたい」という願いを形成する場合とか、「困っ ている子どもを助けたい」という願いを形成する場合とか、それこそ無数にある。だが、そのすべ ての場合の願いの形成と実現について、個々の行動に関する認識・評価のプロセスと全体に関する 認識・評価のプロセスを考察するというわけにはいかない。そこで、子どもが願いを形成し実現す るということの中から、質的に異なると考えられる次の二つの場合、すなわち、 1)子どもがある ものを作るという場合、 2)子どもが他の子どものしようとすることを助ける、という場合を選び ー一そして、その場合を示す具体的な例(場面)を用いながら、周りの人・子ども自身が個々の行 動に関して認識・評価する→嬉しさ、悲しさを感じる……というプロセス、そして全体に関して「〜

する強く大きい子どもになった」と認識・評価する→嬉しさ、悲しさを感じる……というプロセス を述べていく、ということにしたい。

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1  Aにおける、全体に関する「無条件的に大切な子どもである(ない)」と認識・評価するプロセ ス

まず、 Aにおける、全体に関する「無条件的に大切な子どもである(ない)」と認識・評価するプ ロセスについて、考察する。

子どもが願いを形成し実現しようとする。周りの人ー一例えば、父親や母毅そして他の子どもな ど一が、その全体に関して「無条件的に大切な子どもである」と認識・評価する。あるいは「無条 件的に大切な子どもでない」と認識・評価する。子どもは、「無条件的に大切な子どもである」と認 識・評価されると、嬉しい。一方、「無条件的に大切な子どもでない」と認識・評価されると、悲

しい。

ここでいう「無条件的に大切な子どもである(ない)」という認識・評価は、「無条件的」、つまり 条件をつけないで、「その子どもを大切な子どもである(ない)」と認識・評価するそれである。普通、

周りの人が、子どもを「大切な子どもである(ない)」と認識・評価する時、「その子どもが美しい、

そこでその子どもを大切な子どもである」と認識・評価する、「その子どもが美しくない(醜い)、

そこでその子どもを大切な子どもではない」と認識・評価する、というように行う。つまり、その 子どもが価値を持っている(あるい価値において優れている)場合に、「大切な子どもである」と認 識・評価する。価値をもっていない(あるいは価値において優れていない)場合に、「大切な子ども でない」と認識・評価する。言い換えれば、価値をもっているか否か(あるいは価値において優れ ているか否か)ということを条件として、大切な子どもであるか、ないか、認識・評価するのであ る。だが、ここでいう、「無条件的に大切な子どもである(ない)」という認識・評価は、そういう 認識・評価ではない。子どもが、価値をもっていようがいまいが、それとはかかわりなく、子ども が、この世に存在すること、この世に生きていること、それ自体を「大切な子どもである(ない)」

と認識・評価するそれである。

子どもが周りの人から「無条件的に大切な子どもである(ない)」と認識・評価されると、子ども は—周りの人のこうした認識・評価を受けて—今度は、自分自身により自分を、「無条件的に 大切な子どもである(ない)」と認識・評価するようになる。また同時に、自分を認識・評価する周 りの人を、「『自分を無条件的に大切な子どもである(ない)』と認識・評価する、それゆえ、自分を 肯定している人(否定している人)」と認識・評価するようになる。

子どもが一一周りの人からの認識・評価を受けて一ー自分を「無条件的に大切な子どもでない」

と認識・評価する時には、悲しい。自分を「無条件的に大切な子どもである」と認識・評価する時 には、嬉しい。

子どもが、例えば、親から「おまえは望まれて生まれてきた子どもではない。妊娠してしまった ので生んだのだ。大切な子どもではない。むしろ、生まれてこなかった方がよい子どもだ」と認識・

評価されたとする。子どもは一親のこうした認識・評価を受けて—自分を「無条件的に大切な 子どもではない」と認識・評価していくだろう。子どもはまた、そのように認識・評価する親を、「自 分を大切な子どもではないと認識・評価している、それゆえ自分の生きていること、存在している ことを否定している親である」と認識・評価するだろう。子どもが自分を「無条件的に大切な子ど もではない」と認識・評価する時には、子どもは自分がこの世に生まれてきたこと、そして今生き ていることそれ自体が否定されたと感じる。このように感じると、心の深い所から、悲しさ、哀し さが湧き上がってくる。そして多くの場合、そのように自分を大切にしない親に対する攻撃性が生 じてくる。子どもは、親に対してその攻撃性を向け、破壊的、否定的にかかわろうとする。また、

そのように大切であると認められない自分に対しても、やはり、攻撃性が生じてくる。子どもは、

自分に対しても、その攻撃性を向け、破壊的、否定的に関わろうとする。

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一方子どもが、例えば親から、「おまえは無条件的に大切な子どもだ。障害をもって生まれてき たため、他の子どもが普通にできることがおまえにはできない。だが、できるできないに関係な く、おまえは大切な子どもだ」と認識・評価されたとする。子どもは、親からのこうした認識・評 価を受けて、今度は、自分自身を、「無条件的に大切な子どもである」と認識・評価するだろう。

子どもはまた、そのように認識・評価する親を「自分を大切な子どもだと認識・評価している、自 分の存在そのものを受け入れ肯定している親である」と認識・評価するだろう。子どもが自分を、

「無条件的に大切な子どもである」と認識・評価する時には、子どもは、自分がこの世に生まれて きたこと、そして今生きていることが受け入れられ肯定されていると感じる。このように感じる と、やはり、心の底から喜びが湧き上がってくる。そして、生きる意欲というか、生きるエネル ギーが湧き上がってくる。子どもが自分を「無条件的に大切な子どもでない」と認識・評価した時 には、周りの人と自分自身への攻撃性が湧き起こってきた。だが、それとは対照的に、生きる意欲 というか、生きるエネルギーが湧き上がってくる。子どもは、周りの人、そして自分自身を受けい れ、生産的にかかわっていく。

このように、子どもは、周りの人の「無条件的に大切な子どもでない」という認識・評価を受けて、

自分を「無条件的に大切な子どもでない」と認識・評価する、悲しみを感じる。あるいは、周りの 人の「無条件的に大切な子どもである」という認識・評価を受けて、自分を「無条件的に大切な子ど もである」と認識・評価する、嬉しさを感じる。そこで、子どもは、「無条件的に大切な子どもで ありたい」と思うようになる。すなわち、「無条件的に大切な子どもでありたい」という願いを形成

し実現していくようになる叫

以上、 Aにおける、全体に関する「無条件的に大切な子どもである」と認識・評価するプロセス について述べてきた。次に、 Bにおける一一二つの場面を選んでの一個々の行動に関するプロセ スと全体に関するプロセスについて考察することへと入っていきたい。

ただ、先述したように、 Bにおけるこれらのプロセスについての読者の理解を容易にするために は、 Bにおける全体に関するプロセスそれ自体を、前もって、考察しておくことが必要である。そ れゆえ、ここではまず、 Bにおける全体に関するプロセスそれ自体を、考察することを試みたい。

2  Bにおける、全体に関する「〜する強く大きい子どもになった(ならなかった)」と認識・評価 するプロセス

子どもが、身長が伸び、体重も増え、大きくなった。身体のいろいろな力も強くなり、また一 人で服を着るなど自分の力でいろいろなことができるようになった。周りの人が、「

00

は大きく なった、強くなった」、あるいは一ーもう小さい子どもではなく大きい子どもなのだという意味で 一 「

00

はお兄ちゃんになった」と認識・評価する。子どもが、 3歳(あるいは

4

歳)の誕生日を 迎えた。周りの人が、その子どもが3歳になったこと (4歳になったこと)、そして3歳になった (4歳になった)ので身体において大きく強くなったこと、また自分でいろいろなことができるよ うになったことを、「

00

は大きくなった、強くなった」あるいは「

00

はお兄ちゃんになった」と 認識・評価する。

子どもは、周りの人から、このように「

00

は強く大きくなった」「

00

はお兄ちゃんになった」

と認識・評価されると嬉しい。そこで、子どもは一―—周りの人からのこの認識・評価を受けて―

自分を「強く、大きい子どもになった」「お兄ちゃんである子どもになった」と認識・評価(自覚)す るようになる。

このことは、例えば、次のような子どもの姿に見ることができる。ある子どもが その子ども

(11)

は、母や祖母からそれまでにしばしば「大きくなったね」と言われてきていたが 「二歳九ヶ月ご ろから、食事の時食べ終えると、食器棚のガラスに映る自分をみて『オーキクナッタ』というよう になった。二歳十ヶ月十九日のときには、朝食を少し食べただけで食卓の椅子の上にあがり、例に よって食器棚のガラスに自分の姿を映して母に『ゴハンタベヘン(食べない)カッタカラ、コンナン、

チーシャ(小さい)カッタ。ゴハンタベタカラ、コンナン、オーキクナッタ』といいながら、初めは かがんでうずくまり、あとで大きくなったという時立ち上がって両手をあげてみせた門

周りの人のこのような「強く、大きくなった」「お兄ちゃんになった」という認識・評価を受けて、

子どもが自分自身を「強く大きい子どもになった」「お兄ちゃんである子どもになった」と認識・評 価すると、子どもは嬉しさを感じる。子どもが嬉しさを感じ、その嬉しさが身体全体に広がると、

心の底からエネルギーが湧き上がってくる。力がみなぎってくる。ある子どもがもうじき 3歳にな る、そこで強く大きい子どもになる、と自分を認識・評価する時の様子を描いたものがある。「ニ 歳も終わろうとしていたある朝(二歳十一ヶ月二三日)、 W は十一ヶ月の妹が抱き上げられて高椅 子にすわらせてもらっているのをみたあと、自分で高椅子によじ登った。母が『カックン (Wのこ と 引用者註)すごいねえ、エーシュ(ウルトラマンエースのこと)になったの?』とほめると、

『オショウガツイタラ(来たら)ミッチュニナルネンデー、イイヤロー」といいながら、人さし指と 薬指と小指を伸ばして三つを作ってみせた。母がさらに『カックンいいねえ、三つになるの?』と いうと、『チカラ デテキタ』。三つになると自覚するだけで体に力がみなぎってくるのだろう。5)

ここに見ることができるように、もうじき 3歳になり強く大きい自分になる(あるいはもう 3歳 になった、そこで強く大きい子どもになった)と、自分を認識・評価(自覚)すると、嬉しさを感じ るが、嬉しさを感じると体の中から力がみなぎってくるのである。

そして子どもは、自分を「強く大きい自分になった」と認識・評価し、そして自分が「強く大きい 子どもになった」ということに喜びを感じると、子どもは、そこになんらの疑いを入れることなし に、自分は「強く大きい子どもになった、今自分は強く大きい子どもなのだ」と思いこむように思 われる6)

子どもは、自分を「強く大きい子どもになった」「今はもう強く大きい子どもあるのだ」と認識・

評価すると嬉しい、そして自分がそうだと思いこむと嬉しい。子どもは、そこで、「強く大きい子 どもになりたい」と思うようになる。つまり、「強く大きい子どもになりたい」という願いを形成す るようになる。 7)

1)矢野喜夫、矢野のり子著 『子どもの自然誌』 ミネルヴァ書房 1986 240~241 頁

2)村田陽子、友定啓子著 『子どもの心を支える』 勁草書房 1994年 123~141 頁

3)子どもは、「無条件的に大切な子どもでありたい」という願いを形成するようになると、それとともに、「周 りの人から無条件的に大切な子どもであると認識・評価されたい」という願いを形成するようになる。

子どもは「無条件的に大切な子どもでありたい」という願いを形成したら、それを実現しようとする。この ことは、周りの人が子どもを「無条件に大切な子どもである」と認識・評価することによって可能である。周 りの人が「無条件に大切な子どもである」と認識・評価することによってはじめて、子どもは「(自分は無条件 的に大切な子どもでありたいと思っているのだが)、やはり、その通りの、無条件的に大切な子どもである」

と思うこと(自分を認識・評価すること)ができるようになるからである。そこで子どもは、「無条件的に大 切な子どもでありたい」という願いを形成するようになると、周りの人が自分を無条件的に大切な子どもで あると認識・ 評価することを求めるようになる。つまり、「周りの人から無条件的に大切な子どもであると認 識・評価されたい」という願いを形成するようになる。

(12)

4)矢野喜夫、矢野のり子著 『子どもの自然誌』 ミネルヴァ書房 1986年 164 5)同上 172~174頁

6) 『三オから六オヘ』の中で、瀬地山澪子氏は、この時 3オ10ヶ月の昌和という子どもの姿を、次のように描 いている。この昌和の姿のなかに、この時期の子どもがいかに自分は強く大きい子どもであると思いこんで いるのか、見ることができる。

「九月に、昌和ちゃんが、絵をかいたことがあった。画用紙の真中にひとつ大きな顔をかき、そのまわりに

. . .  

三人の小さな人物が胴体つきでかいてある。おかあさんが横からその一番大きいド真中の顔を指さして、『こ れだれ?』と聞くと『ぼく!』と目を輝かせて答える。まわりの人物は、父・母•

.  .  . 

姉であった。『ぼくだけ、ど うしてこんなに大きいの?』『ちから、あるもン!』『ヘーえ、ぽくとおかあちゃんとどっちが強いの?』『そら、

ボクホがつよい!』と腕を出して力こぶのあたりをさすってみせる。『ぼく忍者やったろか』とさっそく絵を かいていた茶ぶ台からとび降りて、『おかあちゃんなんか、いっぱつやで』と全身で走ってきておかあさんに 体当りする。急な勢いに、倒されかけたおかあさんが、『ああ、強い、強い。なんでそんなに力あるのン?』

と聞けば、上着をまくりあげてオヘソを出し、「ここに力入ってンねン』と大得意で裸のお腹をたたいている。

.  .  . 

世界中で一番つよいぼく、そう思っていられる三才児。ボカンとやれば、おかあちゃんだってまいってし

.......... 

まう—まいってくれてるなんてつゆしらず一つよいつよいぽくであることを、家の中でも友達だちの世 界でも、いつもたしかめつづけてきたのである。」(瀬地山澪子著 『三オから六オヘ』 京大幼児教育研究会 発 行 135~137頁)

子どもは、徐々に、この思いこみから、抜け出していく。子どもは次のこと、すなわち、他の子どもとか けっこをしたり、ロボットを作ったりして遊び、その中で「作ることでは自分が一番で0 0は二番である」、

「だがかけっこでは、 00が一番で自分は二番である」というように、他の子どもと比較しての自分の力をリ アルに認識していくようになる。そして、このことから「かけっこにおいては、自分は00に比べて強く大 きい子どもではない」と認識していくようになる。このようにして、子どもは、「自分は強く大きい子どもで ある」という思いこみから、徐々に抜け出していく。だがそれまでは、「自分は強く大きい子どもである」と 思いこんでいるのである。

7)子どもは、この「強く大きい子どもになりたい」という願いを形成すると、それとともに、「周りの人から、

強く大きい自分になったと認識・評価されたい」という願いを形成するようになる。

子どもは、「強く大きい子どもになりたい」という願いを形成すると、それを実現しようとする。その結果 を、周りの人が「強く大きい子どもになった」と認識・評価する。そのことによって、子どもは、自分のなり たかった「強く大きい子どもになった」と自分を認識・評価することができ、嬉しさを感じることができるか

らである。

たしかに、子どもの「強く大きい子どもになりたい」という願いの形成と実現の結果を、周りの人ではなく、

当の子ども自身が「強く大きい子どもになった」と認識・評価する。そのことによっても、子どもは自分のな りたかった「強く大きい子どもになった」と自分を認識・評価することができ、嬉しさを感じることもできる。

ただ、子ども自身により、「強く大きい自分になった」と認識・評価しても、周りの人がそのように認識・評 価しないということも多い。それゆえ子どもは、自分自身により「強く大きい子どもになった」と認識・評価 しても、自分のなりたかった「強く大きい子どもになったのだ」と確信することはできない。周りの人が「強 く大きい子どもになった」と認識・評価することによってはじめて、子どもは、自分がなりたかった「強く大 きい子どもになったのだ」と確信することができる。それゆえ子どもは、周りの人が自分を「強く大きい子ど もになった」と認識・評価することを求めるようになる。つまり、「周りの人から、強く大きい子どもになっ たと認識・評価してほしい」という願いを形成するようになる。

参照

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