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2.先行研究 ↓ ↓ 1.メイエルホリドの革新性 序

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(1)

  序

 

1.メイエルホリドの革新性

  結論から先に述べよう。ロシア・ソヴィエトの演出家フセヴォロド・エミーリエヴィチ・

メイエルホリド(1874−1940 年)の演劇の新しさは、それまで言葉の表象領域(一元的 世界)の中にとらえ込まれてきた演劇を解き放ち、身体や事物から言葉による限定、既存 の観念体系による限定をはずし、身体や事物を仲立ちとして新しい観念や心理を提出する 演劇を確立したことにある。

  それは言葉が全能であり、身体や事物が言葉や既存の観念体系による限定を受けてきた 近代に対する反旗であった。それは同時に制度・道徳(既存の観念体系)に対する闘いで あった。

1920

年代の彼のビオメハニカ(身体力学)の基本は、既存の観念体系に取り込ま れない身体を認識することにあった。これは心によって、言葉によって世界を計量するこ とが可能であるとする心と身体の、言葉と事物の近代的二元論とは別の二元論である(註

1)。

  『ドクトル・ストックマン』の上演(モスクワ芸術座)において、内面から外面に連動 することを確信したスタニスラフスキーは近代的な心身二元論の上に立っていることは明 らかである(第

1

部第

1

18、 19

頁)。自然主義演劇においては本読みを重視し、言葉か ら得られるイメージができあがるまでは稽古に入らなかった(第

5

部第1章

200

頁)。ま た、シンボリズム期(1903−1907 年)のメイエルホリドの場合も、常にシンボリズムの 観念体系が先にあり、そのイメージを詩のリズムから得ていたのであり、また絵画的構図、

不確定性、身体の不動性、マリオネットといったこの当時の演出の特徴はすべて(シンボ リズムの)観念体系にとらえ込まれた結果であった(第

2

部第

1

章)。

[近代演劇]      [ビオメハニカ]

既存の観念体系(主)      事物・身体(主)

↓      ↓

事物・身体(従)      (新しい)観念(従)

  しかしパヴロフの条件反射やジェームズの心理学の影響下に成立したビオメハニカは、

心のベクトルと身体のベクトルは別であり、この二つのベクトルをどのように結び合わせ るかという発想に根ざしていた。ビオメハニカにおいては既存の観念体系ではなく事物や 身体が主であり、これらの 構 成コンストルクツィヤ、事物どうしの衝突(組み合わせコ ム ビ ナ ー ツ ィ ヤ

、モンタージュ、グロ テスク、エキセントリック)によって新たな観念や心理を提出するものであり、また舞台 装置におけるブリコラージュ的手法は、言葉の一元的世界とは異なる多様な地平を示した

(第

5

部第

2

231

頁)。したがって

1920

年代のメイエルホリド演出の成果は、単なる 反リアリズムや機械主義・生産主義といったものではなく、近代西洋の精神構造を覆す、

(2)

新しい心身二元論、心物二元論の誕生であったというのが論者の結論である。

  メイエルホリドの関心の対象が外面(身体、事物、機械主義)のみにとどまったとした ら、その仕事はダンカン、ダルクローズ、ロシア・バレエ団、フォレッゲルなどと同じよ うに、身体表現の復活といった芸術上の革新でしかありえなかったであろう。しかしメイ エルホリドの場合は、心理をも射程に入れていたゆえに彼らとは異なり、近代精神を乗り 越える革新となったのである。また演劇史から見ても、身体を既存の観念体系から切り離 したことは、アルトーやグロトフスキーに繋がる

20

世紀前衛演劇のモデルを提示したと いう点で重要な意味を持っている。

  ここで本論を展開する上での基準モデルを呈示しておきたい。演劇を素材・形式・内容

(模倣の対象)という三つの要素に分解した場合、身体や事物を主とするか(身体や事物 中心の心身二元論)、既存の観念体系を主とするか(近代の心身二元論)に対応して、素材・

形式を主とするか、内容を主とするかに分けることができる。

       

[基準モデル(モデル①)]

図の左側は舞台上で演技する俳優、すなわち素材及び形式であり、右側は内容すなわち 既存の観念体系である。素材や形式を重視した演劇には、前近代演劇(コメディア・デラ ルテ等)が該当し、内容を重視した演劇には、近代演劇(ロマン主義、自然主義、シンボ リズム)が該当する。後者は近代の心身二元論のパラダイムにとらえ込まれた演劇である。

前者の演劇はメイエルホリドに引き継がれ、素材の重視は素材感フ ァ ク ト ゥ ー ラ

へ、形式の重視は素材の 組み合わせコ ム ビ ナ ー ツ ィ ヤ

や 構 成コンストルクツィヤへと向かい、ビオメハニカに結実する。本論ではメイエルホリドの演 出を論じるにあたって、この図で示した三つの要素の関係性がどのように変化していった かを確認することによって、脱近代を測る目安としたい。

なお、1910 年代からメイエルホリドの演劇については「自律したサモストヤーチェリヌイ

演劇」という形容が なされてきたが、この場合の「自律」とは「文学に従属しない自律した芸術」(フェヴラリ スキー、註

2)という意味であり、言葉の一元的世界からの自律のことである。したがっ

て、自律した演劇とは基準モデルの図の左半分を主とする演劇と言えよう。

2.先行研究

俳優

舞台

素材・形式 内容

既存の観念体系

(言葉の一元的世界)

(3)

  まずはじめに先行研究の傾向について述べておきたい。これまでのメイエルホリド研究 はそのほとんどが自然主義−反自然主義の地平に立脚し、機械主義として見なされたビオ メハニカは、反自然主義の最終到達点としてとらえられてきた(次の図)。この地平におい て自然主義に対置された概念は約束事ウスローヴノスチである。リアリズムを希求したモスクワ芸術座は日 常生活を舞台上で再現しようとして、演劇の約束事を無視した。同時に心理的にもリアリ ズムを求めて、俳優に既存の観念体系の再体験ペレジヴァーニエを求めた(心理主義)。それに対して、版 画が黒で表現されるのと同様、演劇における「意識的な約束事」(ブリューソフ)を希求し ようとしたのがメイエルホリドのシンボリズム期以降であり、

1910

年代以降の演出も「約 束事」や「演 劇 性テアトラーリノスチ」という用語で括る傾向がある。しかしこの用語自体、反自然主義の議 論から出てきたものでしかない。

[自然主義−反自然主義の地平における区分〜過去のメイエルホリド研究の視点]

        それ自体誤りではないが、そのためにメイエルホリドの演劇は反心理であるとして、ビ

オメハニカにおける心理の問題があまり論じられてこなかったことも事実である。その結 果、ビオメハニカをサーカスと結びつけてとらえたり、ダンカン、ダルクローズ、フォレ ッゲルと同列に扱ったりする結果をもたらした。

メイエルホリドが身体という素材を「組織化」したのは何のためであったのかというこ とに応えることのできた研究者はニック・ウォーラルだけである。また生産主義の概念で メイエルホリドの演劇をとらえるとしたら、何を生産したのかということまで答える必要 があろう。機械主義としてビオメハニカをとらえることは、メイエルホリド自身テーラー・

システムについて言及していることに影響されているが、機械のように身体を「組織化」

したというだけでは、演劇論としてはあまりにも単純すぎよう。実際、演出家の鈴木忠志 も当惑を隠しきれないでいる。

[...]わたしはかつて、彼の〈ビオメハニカ〉ということばに、奇妙な印象を抱いて いた。〈ビオメハニカ〉というのは〈生体力学機構〉という意味らしいが、〈生体力学機 構〉というのは、生体が力学機構として考えられているのか、力学機構が生命体のよう なものとして考えられているのかあまりはっきりしないからである。(註

3)

  実際ビオメハニカは心理を軽視するものではなかった。この心理とは心理主義の心理(既 存の観念体系)ではない。身体や事物を仲立ちとして提出される新しい心理である。事物・

  自然主義

(モスクワ芸術座)   断

  絶

1903 年

    メイエルホリドの

    シンボリズム期(1903−1907 年)

  メイエルホリドの     1910―1920 年代

約束事を無視  心理主義

   

    意識的な約束事  →    →    →     (約束事の強調)

演劇性→  機械主義、生産主義

(4)

身体と心理のつなぎ方を問題視すべきであって、ここではもうひとつの地平を提起したい。

自然主義やシンボリズムは既存の観念体系(心理、魂)が主であり、これに事物や身体は とらえ込まれているのに対し、ビオメハニカの場合は事物や身体が主であり、これらを仲 立ちとして既存の観念とは異なる新しい観念(心理)を提出する。こうした視点からメイ エルホリドの演出を区分すると次のようになる。

[近代の心身二元論−新しい心身二元論の地平における区分〜本論で呈示する視点]

  こうした地平でメイエルホリドの演出を見直せば、彼が道化やコメディア・デラルテな どの民衆演劇の要素を積極的に取り入れたことは、昔の演劇の復興ではなく、既存の観念 体系へのとらわれから演劇を解放するためであったと説明できるし、ビオメハニカは単な る躍動感を増すための訓練ではなく、精神的な革命であったということが理解できる。

  ではこれまでどうしてここで提起した地平で論じられてこなかったのか。それはこれま でのメイエルホリド研究は、メイエルホリド研究の中に、演劇研究の中に閉じていたから である。少なくとも、グレートコードを探し、メイエルホリドをその中で見つめようとす れば、同時代の他ジャンルのコードとの整合性を確認しないわけにはいかない。文学を見 れば、既存の観念体系にとらえ込まれていたことを否定し、事物を仲立ちとして新しい観 念を提出しようとする変化は、シンボリズム(ブリューソフ、ブローク)から未来派(マ ヤコフスキー)に至る変遷の中ですでに現れている。本論はこうしたパラダイムの変化の 中でメイエルホリドを見つめ直したゆえに、新しい地平を提起することができたのである。

この地平でメイエルホリドの演出全体をとらえなおすことは、英語・露語・日本語圏では 初めての試みである。

  次に過去のメイエルホリド研究を概観しながら、個々の研究の問題点を指摘しておきた い。

メイエルホリド研究の先駆けとなるのはブルクソンの『メイエルホリドの演劇』(1925 年)である。彼は観客の知覚、連想を念頭に置きながら、「『堂々たるコキュ』は、ビオメ ハニカにとってまったく無関係と思われる人間の心理の領域が発揮され得ることを示し た。」(註

4)と述べている。本論のテーマと重なるこの見解は、ビオメハニカが反心理と

見なされる傾向にあった当時としては注目に値する。しかし心理の問題にはこれ以上触れ ていない。「自然主義はリアルさの開示という問題においては無力であった。」(註

5)「俳

優の演技にとってのビオメハニカや、俳優を取り巻く世界の表現にとっての構成主義は、

等しく演劇のリアリズム希求の結果である。」(註

6)という記述に見られるように、リア

  自然主義

(モスクワ芸術座)

メイエルホリドの

シンボリズム期   転   換

 1908 年

    メイエルホリドの 1910―1920 年代

(2 回目の『見世物小屋』以降)

  既存の観念体系に事物や身体は従属する     (近代的心身二元論)

  19世紀までの観念体系中心の芸術観 

  身体や事物が新しい観念(心理)を提出する     (新しい心身二元論)

  20世紀の事物を仲立ちとした芸術観

(5)

リズムの意味の変化にメイエルホリドの演劇の特徴を収斂させている。

続いて日記や演劇論をもとに

1917

年までのメイエルホリドの軌跡をまとめたヴォルコ フの『メイエルホリド』(1929年)、革命後

10

年間のメイエルホリドの演出作品の特徴を 書き記したフェヴラリスキーの『メイエルホリド劇場の

10

年』(1931 年)が現れた。ど ちらもメイエルホリドの発言や記述を根拠にして彼の演劇を文字通り説明(分析ではない)

するという性格のものである。メイエルホリドの演出の特徴として「約束事」「演劇性」と いう用語が頻繁に使われるのは、反自然主義の地平からの見方の現れである。

同時代の演劇人、評論家(グヴォズジェフ、タラブーキンなど)も多くの記録を残して いる。その中でタラブーキンは絵画的構図の視点からメイエルホリドの演出をいくつか分 析した。例えばひとつの絵の中に二つの空間(教会の外部と内部)が描かれているイコン 絵画と『スペードの女王』の舞台装置との類似を指摘し、また『知恵は悲しいゴ ー リ ェ ・ ウ ム ー

』の舞台に おける人物の動きの方向の意味論を、絵画の構図と比較しながら分析している(1935年)。

ただし彼の分析の方法論自体、メイエルホリドの演出にもとづいたものではなく、外部(美 術研究)からの一方的な引用である点に説得力を欠く。

その後メイエルホリドの逮捕、粛正を経てソ連での研究は断絶した。ただエラーギンの みがアメリカで『暗い天才』(1954年)を発表した。この著作はメイエルホリドが政治と の危険を伴う緊張の中でいかに創作をしていたかを良く伝えている。しかしエラーギンは メイエルホリドの活動をすべて自然主義−反自然主義の地平に押し込めてしまっている。

彼はシンボリズム期のメイエルホリドについて、俳優は「テンペラメントを、言葉のリズ ムや動きのリズムである役のフォルムに従属させなければならなかった。」(註

7)と述べ

て、メイエルホリドの演出の全時期にわたる特徴がフォルムであることを示唆している。

確かにシンボリズム期、メイエルホリドは俳優の造形プラスチカを重視した(「フォルムの再体験。心 理的な感情だけを再体験するのではない。」、第

2

部第

1

55

頁)。しかしこの時のフォル ムはビオメハニカのそれとは異なる。「テンペラメント」は身体から生まれたものではなく、

しかもそのフォルム自体、シンボリズムの観念体系に従属しており、結果的に、不動劇、

不確定性、マリオネット、絵画的構図といった、身体のメカニズムとはかけ離れたフォル ムとなってしまった。エラーギンはフォルムという用語に着目するあまり、そのフォルム 自体が既存の観念体系に由来するのか、身体のメカニズムに由来するのか区別していない。

また彼は『堂々たるコキュ』を『タンタジールの死』(1905年)以来の結果であるとして いるところからも(註

8)、反自然主義という位相でのビオメハニカの考察であることは明

らかである。エラーギンは事物を仲立ちとして既存の観念体系とは異なる新しい心理を提 出するというビオメハニカの別次元の地平を導き出していない。

「雪解け」後、メイエルホリドのソ連における名誉回復に伴い、最初に発表されたのが ロストツキーの『В.Э.メイエルホリドの演出創造について』(1960年)である。ロスト ツキーは、体験、心理はブルジョア芸術であるという立場から、脱理念、生産をプロレタ リア芸術の根幹としながら、メイエルホリドの『堂々たるコキュ』は完全に心理から解放 されていない(註

9)と述べて、プロレタリア芸術としては不完全なものという論調で語

っている。『堂々たるコキュ』に心理を見出した点は注目できるが、メイエルホリドの新し さである身体や事物を仲立ちとして提出される心理を、近代の心理と同列に扱っている点 が問題である。

(6)

そしてメイエルホリド研究の最大の仕事であるルドニツキーの『演出家メイエルホリド』

(1968年)が出版された。メイエルホリドの個別の演出作品の概要、歴史的背景などを知 る上でこれ以上のものはない(革命前のメイエルホリドに限って言えば、ヴォルコフの『メ イエルホリド』の方がより詳細である。)。

ルドニツキーの問題は、メイエルホリドの演出の表層に現れた特徴の背後にあるコード を明示できていない点にある。例えばグロテスクやエキセントリックは、方法論的には結 合できないものの結合、組み合わせコ ム ビ ナ ー ツ ィ ヤ

(事物どうしの衝突)に立脚しているが(グロテスク については第

4

部第

2

177−180

頁、エキセントリックについては第

5

部第

2

233、

234

頁)、彼はこの二つを別々に語っている。またビオメハニカを確立するに際してメイエ ルホリドが影響を受けたジェームズについて触れられていない。さらに「革命の最初の数 年間、マヤコフスキーとメイエルホリドに共通する探究の意味は、集会演劇、見世物小屋 演劇というイメージの中で、起こりつつあるものの本質を暴き出し、思想や創造によって 革命の現実、革命の激変のダイナミクスを隈無く とらえようとしたことである。(傍点は原 文イタリック)」(註

10)というような評論的記述が散見される。「とらえようとした」で

はなく、演出がどのようなコードの上に作られたかを問題とすべきであった。

1970

年代に入るとマーツキンが『肖像と観察』(1973年)において、帝室劇場の演出家 として最後の演目となった『仮面舞踏会』から、革命政府の演出家としての『曙』上演に いたるまで、すなわち革命前のメイエルホリドの反インテリゲンツィアの姿勢から共産党 入党までの流れを評伝的におさえているが、演出の変遷として見ようとはしていない。ま たレーニン、ルナチャルスキーの発言にメイエルホリド演出の簡潔化ウプロシェーニエという特徴の根拠を 求めている(註

11)ものの、演出そのものの分析につながっていかない。

アルペルスは『演劇概要』(1977年)の中の「社会的仮面」の章において、生産主義的 側面、すなわち美学を拒否した生産的合 目 的 性ツェレソオブラーズノスチ

を唱えつつ(註

12)も、メイエルホリド

の革命後の仮面(社会的仮面)は、登場人物の図式化、すなわちプラカードとしての、概 念としての登場人物であると述べ(註

13)、またビオメハニカについては、体操やアクロ

バットに基づき、俳優の内面的世界が人物像を作ることに参加することを一切除外すると、

外面性を強調している(註

14)。ビオメハニカの、外面から内面(心理)への作用に言及

しないのは生産主義としての側面を強調しすぎたためであろう。またアルペルスはメイエ ルホリドの芸術はいつも仮面芸術であったかのように述べていて、ルドニツキーが「『社会 的仮面』の原則はメイエルホリドにとって普遍的ではなかった。」(註

15)と批判している

ように、実際、メイエルホリドの役柄アムプルアは、固定化したものではなく、事物どうしの微妙な 組み合わせによって様々に変化する(エキセントリック、ザイチコフの例、第

5

部第

2

234

頁)。一元的でないメイエルホリドの芸術を一元的な仮面として語っていることがアル ペルスの問題点である。

  この間、資料としてメイエルホリドの

2

巻著作選集(1968年)、書簡集(1976年)、『メ イエルホリドとの出会い』(1967年)、メイエルホリド劇場の俳優たちの回想録であるイリ インスキーの『自身について』(1961年)、ガーリンの『メイエルホリドとともに』(1974 年)が刊行された。

1970

年代のメイエルホリド研究で異彩を放つのは、フェヴラリスキーの『綜合ジンテーゼへの道』

(1978年)である。メイエルホリドの演出における映画的手法(エピソード分割、字幕や

(7)

映像の使用、モンタージュ)についてこれを凌駕する研究は現在でも現れていない。エイ ゼンシュテインの映画の根底に、メイエルホリドのグロテスクに通じる対置の先鋭化を認 めながら(註

16)、その議論を彼は後に展開しなかったのは残念である(エイゼンシュテ

インとの関係を掘り下げることは今後の研究課題となるべきである)。

同時期に革命直後のプロパガンダ演劇について詳細にまとめたのがゾロトニツキーであ る。彼は『演劇の十月の曙』(1976年)において、メイエルホリドの革命直後の演出の展 開を、革命前のミニアチュール(小劇場)と関連づけながらまとめている。また『演劇の 十月の平日と祝日』(1978年)は、 構 成コンストルクツィヤ、素材感フ ァ ク ト ゥ ー ラ

といった「演劇の十月」の特徴を

1930

年前後までのメイエルホリドの演出に追っていく作業であるが、ゾロトニツキーはメイエ ルホリドにおける心理の問題をほとんど扱っていない。

西側においてはフーバーが『意識的演劇という芸術』(1974年)においてパヴロフ(註

17)やジェームズ(註 18)の影響について触れながらも、身体と心理の結びつき方を問題

にはせず、素材の組織化(註

19)の方向に議論を進めてしまい、その結果、メイエルホリ

ドがデリサルトやダンカンを拒否した理由を「ビオメハニカは『様式化』やバレエで教え られる感情剥き出しのパントマイムを避けた。」(註

20)としているように、反心理主義へ

と帰着させている。

ブローンの『メイエルホリドの演劇』(1979年)はメイエルホリドの演出を広く浅く紹 介しているだけで、反自然主義のコードを除けば、メイエルホリドの演劇がどのようなコ ードの上に成立しているかという問題意識が希薄である。

シモンズは『メイエルホリドのグロテスク劇場』(1971年)において、「『グロテスクの 芸術は内容と形式の対立に基づいている。』とメイエルホリドが述べる時、彼は事実上、ア ンリ・ベルクソンの喜劇の理念を繰り返している。」(註

21)と指摘するものの、ベルクソ

ンの事物と表象の対立へと議論を進めることはなく、「メイエルホリドにとって演劇は私た ち自身の日常生活を映し出す鏡ではなかった...」(註

22)と述べたり、「デカダンの、無

意味な、心理的リアリズムのとらわれと見なしていたものから演劇を解放する。」(註

23)

と述べて反リアリズムに帰着させてしまい、身体と心理の結びつき方を問題にすることは なかった。

  先行研究の中で、論者と近い視点に立つのはニック・ウォーラルの論文「『堂々たるコキ ュ』におけるメイエルホリドの創造」(1973年)である。『堂々たるコキュ』の演出を分析 したこの論文の要点は次の二つである。まずは立体未来派やフォルマリズムとの同質性(構 成単位、構造、生産主義としての側面)。もうひとつは、事物がいかに心理(意味)を導き 出したか、「子どもの遊技」(本論では、事物を別の地平に再文脈化する「ブリコラージュ」

という用語で統一する)が近代という言葉による一元的世界をいかに打ち破ったかを明ら かにしたということである。後者の点が、事物を仲立ちとして別の地平(新しい観念や心 理)を生み出すという本論の視点と重なり合う。

  ニック・ウォーラルの欠けている点は、後者の視点からメイエルホリドの演出全体を考 察しなかったことである。また『堂々たるコキュ』がビオメハニカを使った初めての演出 でありながら、ビオメハニカのエチュードについては言及されていない。「ブリコラージュ」

(反近代)としての側面は、1910、20年代の演出で用いられた「事物との演技」(第

4

部 第

2

171

頁、第

5

部第

2

236

頁)に直結するものであるが、ニック・ウォーラルは

(8)

この問題をこの論文においてもその後の論文においても展開しなかった。本論では近代を 打ち破った「ブリコラージュ」の問題を、ニック・ウォーラルの論文を引き継ぐ形で、

1910

年代以降のメイエルホリドの演出に見ていくことになる。

リーチは『フセヴォロド・メイエルホリド』(1989年)で観客の役割、民衆演劇、音楽 性、構図のソース探究といった個別のテーマについて論じているが、古今東西の文化史的 事象との比較で終わってしまい、その比較をメイエルホリドの演出に照射してどのような 意味を持つのかというレヴェルへと議論を深めてはいない。歌舞伎と比較するなら、「能や 歌舞伎は身体が精神をひっぱるということを理解しています。」(鈴木忠志、註

24)という

身体感覚の類似を問題にすべきである。

そしてソ連、ロシアでは『В.Э.メイエルホリドの創造遺産』(1978年)、グラトコフ の『メイエルホリド』(1990年)、

2

巻本の『メイエルホリド文集』(1992年)等の論文集、

回想録が刊行された。ペレストロイカ以降、ルドニツキーが『1898−1907 年のロシア演 出芸術』(1989年)の中で、メイエルホリドよりも前にスタニスラフスキーがシンボリズ ム演劇の端緒を切り開いたと述べていることは新しい見解である(第

2

部第

1

45

頁)。

1990

年代に入ると「演劇」誌でメイエルホリド特集が組まれると同時に、ようやくメイエ ルホリド演出の現場の声が届けられるようになった。2 巻本の『メイエルホリドのリハー サル』(1993年)、上演台本等を収録した『スペードの女王』(1994年)、『善行一覧表』の 上演台本等を収録したグートコワの『ユーリー・オレーシャとフセヴォロド・メイエルホ リド』(2002年)である。

さらに

21

世紀に入ってから現在に至るまで、未完資料の刊行、シンポジウム等が続い ている。

2004

年、バフルーシン演劇博物館で「メイエルホリドとドイツ」展が開催される など国家の枠を超えた研究が始まりつつあるが、パンフレットに掲載されたコリャーズィ ンの論文を見る限り、評伝的研究の範疇にとどまっている。ここではメイエルホリドはワ ーグナー、アッピア、フックスに関心を持ち、ピスカートルと交流したことが言及され、

またメイエルホリド劇場の新しい建築プランと、ワルター・グロピウスのトータル劇場と の類似が指摘されているものの(註

25)、それぞれがどのようなコードの上に成立してい

るかといった分析は一切なく、今後の研究課題となろう。

わが国のメイエルホリド研究は、戦前の米川正夫等による『メイエルホリド研究』(1928 年)から始まるが、内容的には紹介研究である。本格的な研究は山内重美の「ぶらんこと 仮面」(1974−75年)を待たねばならなかった。これはメイエルホリド復権によって活字 化されたメイエルホリド資料(1970年代まで)の成果を踏まえた研究であり、本邦におい ては今日に至るまで最もまとまったメイエルホリド研究である。山内も次のようにビオメ ハニカが身体を仲立ちとして心理を提出することに触れている。

そうしてメイエルホリドは、どんな心理状態も、ある一定の生理過程によって説明が 可能であって、自分の身体状態に適確な解答を与えることができたとき、俳優は観客に 感染し、観客を自分の演技に引き込み(掴奪ザフバート)(本論では「奪 取ザフヴァート」と訳す−引用者)、

それによって演技の核である「感じ易い興奮感性」の状態に達すると強調する。それま での疑いのない原理とは逆に、身体の位置と状態の無数の連続から「感じ易い興奮感性」

の境地が生まれ、むしろこれにあれこれのニュアンスをつけるのが感情であるというの

(9)

が、メイエルホリドのビオメハニカの前提的論理であった。(註26)

 

しかし心理の問題にそれ以上立ち入ることはしなかった。さらにこうした要素とコメデ ィア・デラルテ等の反近代劇の要素がどのように結びつくのか、近代を乗り越えるために コメディア・デラルテ等の要素がなぜ必要であったのか示されていない。「近代劇が失った

〈演劇的なるもの〉を求めて」(註

27)という説明だけではその必然性を示したことには

ならない。

  また「メイエルホリドにおける演劇創造の論理は、こうしたダンカン、ダルクローズの 身体文化の探究をそのなかにしっかりと踏まえているのである。」(註

28)と述べているが、

メイエルホリドの発言の中にダンカンへの批判が幾度か現れる(註

29)こと、ダルクロー

ズの身体論は霊魂の内に持っている韻律を引き出すことであり、身体の内に持っている韻 律を引き出すことではなかった(註

30)こと、そして山内本人が認識しているようにメイ

エルホリドが身体状態からの心理を想定していたことを考慮すれば「しっかりと踏まえて いる」はずはないのである。

佐藤恭子の『メイエルホリド』(1976年)は、シンボリズム期以降の「 制 約 劇ウスローヴヌイ・テアトル

」(本 論ではウスローヴヌイ・テアトルを「(意識的な)約束事に基づいた演劇」と訳す)と

1910

年代の演劇の「伝統主義トラディツィオナリズム

」といった従来からの視点を繰り返しただけであり、取り立てて 新しい視点を提示しているわけではない。

「約束事」「反心理」「演劇性」の標語の中に押し込められ、反自然主義にとらえ込まれ たメイエルホリド研究を今こそ解き放たなくてはならないのである。

1.近代の「デカルトが定式化したと言われる心身二元論とは、人間は心と物質の合成物という考え方で あった。近代においては、物質のみならず心にも計量可能な因果系列の秩序をあてはめようとしたが、

そのような発想のもとでは心と体は相互浸透するとか、心と身体は合一しているといった説明しか示し えなかった」(竹田青嗣  『現象学入門』  日本放送出版協会  1989年  125、126頁)

デカルト的方法の特徴は、一言でいえば、「意識から存在へ」ということにあった。つまり、自己 の意識の内部に見出される観念から出発して対象的存在を導き出すという仕方にあったのである。か れ自身、「私の内部にある観念から出発するのでなければ、私の外にあるものに関して、いかなる認 識もえられない」(1642119日、ジビューフあての手紙)と述べている。

(伊藤勝彦  『デカルト』  清水書院1967年  172頁)

もちろんここでは心(既存の観念体系)が主であり、物質や身体は従である。そして相互浸透を担っ たのが言葉である。その結果、言葉によって何でも表すことができるという近代的世界観、近代的個 成立したことは言うまでもない。

2.Февральский  А.Десять  лет  театра  Мейерхольда.М.:Федерация,1931.С.7.

3.鈴木忠志  「〈ビオメハニカ〉について思うこと」  ロシア・アヴァンギャルド月報①  19884月  国書刊行会。

(10)

4Бруксон  ЯТеатр  МейерхольдаЛМКнига1925С123 5.Там  же.С.53.

6.Там  же.С.97.

7Елагин  ЮВсеволод  МейерхольдТемный  генийМБАГРИУС1998.С.81 8.Там  же.С.209,212.

9Ростоцкий  БО  режиссерском  творчестве  ВЭМейерхольдаМВТО1960 С.38.

10.Рудницкий  К.Режиссер  Мейерхольд.М.:Наука,1969(以下 Рудницкий と略す).С.

251

11.Мацкин  А.П.Портреты  и  наблюдения.М.:Искусство,1973.С.311.

12Алперс  БТеатральные  очерки  в  2  томахт1МИскусство1977.С.60 13.Там  же.С.105.

14.Там  же.С.108.

15РудницкийС325

16.Февральский  A.В.Путь  к  синтезу.М.:Искусство,1978(以下Февральскийと略す) С.191

17.Marjorie L.Hoover,Meyerhold:The Art of Conscious Theater(Amherst :Univ.of Massachusetts Press,1974),p.101.

18Ibidp75101 19.Ibid.,p.101,102.

20Ibidp105

21.J.Symons,Meyerhold's Theatre of the Grotesque(Florida:Univ.of Miami Press,1971),

p.67.

22Ibidp67 23.Ibid..p.71.

24.鈴木忠志  『演劇とは何か』  岩波新書  1988年  92頁。

25.Мейерхольд  и  Германия(брошюра).М.:Гилея,2004.С.70.

26.山内重美「ぶらんこと仮面」連載9  「新劇」  19755月  91頁。

27.山内重美「ぶらんこと仮面」連載2  「新劇」  19748月  101頁。

28.山内重美「ぶらんこと仮面」連載8  「新劇」  19754月  89頁。

29.第5部第1226頁の註63を参照のこと。同様にサーカスと演劇の境界をなくすべきと主張するフ ォレッゲルにもメイエルホリドは反論している(第5部第1223、224頁註40)。

30.第5部第1224、225頁の註47を参照のこと。

(11)

第1部:自然主義からシンボリズムへ

第1章:スタニスラフスキーの矛盾とシンボリズム

〜両立しないものの希求をめぐって はじめに

  この論文はメイエルホリドが身体から心理を生み出すという新しい心身二元論をどのよ うに獲得するに至ったか、そのプロセスを追っていく作業である。メイエルホリドの当初 の演出においては、身体は既存の(シンボリズムの)観念体系にとらえ込まれていたが、

そのことについては第

2

部以降で触れることにして、ここではまず、彼が演出活動を始め た頃の演劇界について触れておきたい。

メイエルホリドが演出を始める契機となったのはモスクワ芸術座への批判である。スタ ニスラフスキーは既存の観念体系(魂)と事物・身体の両方を重んじ、前者に後者が連動 する(とらえ込まれる)ことを願ったが、それは幻想にすぎなかった。

1. 「直観と感情の路線」と「風俗の路線」

 

20

世紀初頭、モスクワ芸術座には日常や歴史上の風俗を再現する劇場というレッテルが 貼られていた。事実、この当時のモスクワ芸術座は博物館的な再現を目指していた。芸術 座にこのような契機を与えたのは、クロネック率いるドイツのマイニンゲン劇団による

2

回のロシア公演である(1885年と

1890

年)。モスクワ芸術座の風俗再現主義に影響を与 えたマイニンゲン劇団では、完全に日常生活と同じようにするため、コスチュームやメー キャップを日常生活の正確なコピーにするため、ヴェネチア、ストックホルム、パリなど へ使節を送った。

[...]当地で彼らは画家たちとともに模写をした。「私たちのところでは、実際すべ てのコスチュームが

16

世紀のままに示されている」と言うことが彼らの誇りであった。

[...]結果的に劇場なのか博物館なのか区別がつかなかった。(メイエルホリド、註

1)

  マイニンゲン劇団『ウィリアム・テル』の舞台模型   つまりリアリズムの効果を高めるためにディテールの正確さ、正確な再現にこだわった

(12)

のである。しかし同時にこれまでの主役俳優中心の演劇に代わって、舞台全体(すべての 要素)を統制するという演出の観念をもたらしたのもマイニンゲンである。マイニンゲン の演出の特徴をメイエルホリドは次のようにまとめている。

[...]第一に彼らはできるだけ鋭く人物の性格を描き分けることを目指した。第二に アンサンブルが整然とすること、つまり登場人物たちが自分たちの演技をある統一性に 帰すること、彼らが演出家の基本的理念への進路を保つことを目指した。第三に彼らは 絵画性を目指した。第四に、芝居の要は群衆シーンである。選ばれたのは登場人物が主 人公であるような私的な戯曲ではなく、ドラマが群衆から出てくる戯曲である。(註

2)

  メイエルホリドによる説明で詳しく見ておこう。

「マイニンゲンにおいて登場人物たちには強烈なアクセントがつけられた」(註

3)。そ

してすべてのディテールを再現する努力をした。「誰もが一級の俳優のようにメーキャップ をほどこされ、衣裳を着せられた」(註

4)。これらは上記の第 1

項目に相当する。

  「舞台はチェスの盤面のように格子状に分けられた。それぞれの場所には番号がつけら れた。俳優たちはある決まった場所から別の場所へと走らなければならなかった」(註

5)。

「(例えば走っている)人物を群衆の中で見失わないために、彼らは決まったルートを走ら せ、それゆえ番号をふられたチェスの盤面のように舞台を区画に分けなければならなかっ た。[...]ここには観客がひとりひとりの人物を見るという無意味な前提があった」(註

6)。

これらは上記の第

2

項目に相当する。

「マイニンゲンの人々は円形ホリゾントを初めて考案した」(註

7)。第四の壁(舞台と

観客席の間に四つ目の壁があることを想定して、観客が鍵穴からのぞき込むような効果を ねらった。)を表すために、「家具を時折観客に背を向けて置いた」(註

8)。これは上記の

3

項目に相当する。ただし、この場合の絵画性とは、絵画的リズムのことではなく、写 実的模倣という意味である。

  主役・脇役の区別はなくなり、一流の俳優も群衆の一要素でしかなく、「群衆シーンにお ける流れ自体、個々の人々の動きとして理解された。こうしたことについて全体の絵画的、

律動的、調和的視点は存在しなかった。個々の要素はやはり個々のディテールを個別化し ようとして、自分のすべきことをしなければならなかったからである」(註

9)。

「マイニン ゲンの人々は二義的などの役でさえもジュリアス・シーザーの役と同じように見なした」

(註

10)。これは上記の第 4

項目に相当する。

  こうしたマイニンゲンの特徴は、モスクワ芸術座創設時のスタニスラフスキーとネミロ ーヴィチ=ダンチェンコによるマニフェストにも反映されている。

 

1.小さい役はない。あるのは小さい俳優だけだ。

2.今日はハムレット、明日は台詞のない役、しかし台詞がなくても俳優でなければな

らない。

3.作家、俳優、舞台装置家、衣裳、裏方のすべてはただひとつの目的に仕えている。

すなわち、その戯曲に描かれた作家の理念を表現するという目的である。

 

4.演劇の創造は、荷物預かり所からもう始まっている。

(13)

 

5.劇場の創造生活はどのような破壊も罪悪である。

6.遅刻、怠惰、わがまま、ヒステリー、役についての無知、ひとつのことを二度繰り

返さねばならないことは、どれも創造にとって有害であり、根絶されなければならない。

(高山図南雄訳、註

11)

       

  モスクワ芸術座の創設者で演出家、俳優のスタニスラフスキーは、もともと風俗(外面)

より魂(内面)を優先的に考えていた。モスクワ芸術座が世界的に知られるきっかけをつ くったチェーホフ作『かもめ』の演出(1898年)について彼は次のように語っている。

     

    [...]それら(チェーホフの戯曲−引用者)の魅力は、それが言葉で伝えられるので はなく、言葉の背後に、もしくは間のうちに、もしくは俳優たちの眼差しのなかに、彼 らの内面的な感情放出の中にある。この場合、舞台上の生命のない物体も、音も、舞台 装置も、俳優たちによって創造される形象も、戯曲や芝居全体の気分それ自体も生命を 取り戻す。ここで重要なのは、創造的直観と俳優的感情である。[下線は引用者]

(『芸術におけるわが生涯』、註

12)

    チェーホフを汲み尽くすことはできない。なぜなら、彼がいつも描いているのは低俗 な日常であるように思われるのに、その基本的なライトモチーフにおいて彼が語ってい  るのは、偶然的なものについてでも、個人的なことについてでもなく、まさしく人間に ついてであるからである。[下線は引用者](『芸術におけるわが生涯』、註

13)

    これらすべての、しばしば言葉では伝えられない気分、予感、暗示、芳香、そして感  情の陰影は、私たちの魂の奥底から発しており[...][下線は引用者]

(『芸術におけるわが生涯』、註

14)

  モスクワ芸術座の『かもめ』第4幕(1898年)

 

  また、『かもめ』のトレープレフを演じたモスクワ芸術座の俳優であり、後に演出家とし て独り立ちすることになるメイエルホリドは、こうした演劇を気分の演劇テアトル・ナストロエーニヤ

と呼んでいる。

    [...]芸術座の第二の顔であるチェーホフの演劇は、舞台に気分 というものの力強さ を示し、マイニンゲン主義者たちの劇場が破滅しないために必要なものを作り出した。

(14)

[...]気分の演劇の秘密はチェーホフの創作によって示唆された。[...]

チェーホフの気分の秘密は彼の言葉のリズム に隠れている。

(傍点は原文イタリック)(メイエルホリド、「演劇の歴史と技術に寄せて」、註

15)

  そして、このような演劇では台詞を黙読し、心の中に響いてから大きな声を出して読む、

すなわち台詞が心に響くのを待つことが役作りの第一歩であった。この内面重視の方向を スタニスラフスキーは、「直観と感情の路線」と呼んだ。この路線に分類される彼の演出は チェーホフの全戯曲、ハウプトマンのあるもの、部分的には『知恵の悲しみ』、トゥルゲー ネフの戯曲、ドストエフスキーの脚色その他である。

  ところが内面的リアリズムを得るための補助的手段にすぎなかった外面的リアリズムが ひとり歩きしはじめる。スタニスラフスキーは語る。

    『皇帝フョードル』と『雷帝の死』の演出の折に、私たちは真っ先に古いロシア劇の  大貴族の紋切り型の演技から離れようと考えていた。[...]いずれにせよ古い手法に取 って代わるような古い貴族劇の新しい 演技手法を見出す必要があった。それはしばし  ば芸術の基本である内面的本質を犠牲にして達成された。創造活動の最も重要な初歩的 段階である感情の発生を抜かし、直接、創作活動の外面的な成果へと私たちは革命的熱 意のなかで向かっていた。言い換えるなら形作るべき精神的内容を再体験しないままに、

具象化からはじめたのだ。(傍点は原文イタリック)(『芸術におけるわが生涯』、註

16)

  そしてこうした外面的リアリズムのひとり歩きを後年、次のように自戒することになる。

    外面的な、物質的な真実は最初に目に飛び込んでくる。それはすぐに見てとらえるこ とができ、真の芸術の成果、幸運な発見、古いものに対する新しいものの勝利であると 思ってしまう。外面的リアリズムに行き当たって、私たちはいちばん無難な方向へ進ん だのであった。

    正しい言い方をするなら、わたしたちの当時のすべての誤りのなかには、きっと私た  ち自身意識していなかったとはいえ、とても重要な創造の本質が、あらゆる芸術の基礎  が、すなわち本物の芸術的真実 への志向がかくされていたのである。この芸術的真実は 当時の私たちにあってはかなり外面的なものであった。(傍点は原文イタリック)

(『芸術におけるわが生涯』、註

17)

  そういうわけでゴーリキーの『どん底』では、風俗を徹底的に取材する方向に向かって いった。

    ゴーリキーの短編小説にあおられて、私たちは落ちぶれた人々の生活の真っただなか  を見てみたくなった。このために遠征隊が編成され、そこにこの戯曲で演じた多数の劇  団の俳優たち、ネミローヴィチ=ダンチェンコ、画家シーモフ、私などが参加した。浮  浪者たちの生活を研究していた作家ギリャロフスキーの先導のもと、泥棒市場ヒートロフ・ルイノク巡りが行 われた。(『芸術におけるわが生涯』、註

18)

(15)

  モスクワ芸術座の『どん底』

       

  またトルストイの『闇の力』では、「これほど真実そのままの農村を舞台で見たことはけ っしてなかったと断言できる。」(『芸術におけるわが生涯』、註

19)とスタニスラフスキー

が言うほど写実的な演出ができあがった。

私たちは、田舎の日常生活を研究するために戯曲の舞台となっているトゥーラ県境に 行って来た。そこでまる

2

週間滞在し、近隣の村々を訪問した。画家のシーモフと衣裳 主任で女優のグリゴーリエヴァが同行した。農家、中庭、納屋がスケッチされ、風習、

結婚やその他の儀式、日々の生活様式や、こまごまとした生活用品のすべてが研究され、

農村からあらゆる衣服、シャツ、短外套、食器、家庭の日用品が運ばれてきた。さらに

「見本」として老婆、老農夫、中年男女が運ばれてきた。

(『芸術におけるわが生涯』、註

20)

 

  モスクワ芸術座の『闇の力』

 

  しかしその結果は、当初の意図(「直観と感情の路線」)からは大きくはずれてしまった。

    残念なことに、『闇の力』の外面的な舞台装置のリアリズムは、俳優たち自身によって、

内面から十分に正当化されないものとなり、舞台を支配していたのは事物、品物、外面 的な日常生活 であった。私たちは直観と感情の路線からすべり落ち、日常生活とそのデ ィテールの路線にいた。それらは戯曲と役の内面的な本質を押し潰してしまったのであ る。(傍点は原文イタリック)[下線は引用者](『芸術におけるわが生涯』、註

21)

  こうした態度は、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』のような歴史劇でも同じ

(16)

であった。

    [...]ネミローヴィチ=ダンチェンコと画家のシーモフは、資料蒐集のためローマへ 出発した。モスクワの劇場では準備活動の事務局が設けられた。[...]

    動員された者のうち職務で動けない者を除いて、博物館、図書館、古代文化の専門学  者、個人蒐集家、骨董商のもとへ派遣された。劇団が代理人を通して依頼した機関や個  人はすべて、私たちの依頼に応え、高価な出版物、博物館の品や武器などを送ってくれ  た。[...]

さらにいっそう豊富な資料がネミローヴィチ=ダンチェンコによってローマから搬  送された。[...]

    私たちは衣裳、その型紙、衣裳や武器を身につけたときの物腰、古代の身のこなしを  研究した。理論的に知るだけでなく、実践的にも知る必要があった。このためにリハー サル用の衣裳の試作品があつらえられた。私たちは着慣れるため、劇場内で一日中それ を着ていた。同様の方法を以前、チェーホフの『三人姉妹』の上演の際にも、私たちは 用いた。(『芸術におけるわが生涯』、註

22)

  モスクワ芸術座の『ジュリアス・シーザー』

  スタニスラフスキーによれば、もともと彼の「出発点は、戯曲に対する演出家としての 仕事も、俳優としての仕事も、さらに役作りも直観 と感情 の路線に沿っていたが、戯曲、

役作りや演出は別の方向、もっと広範な、社会的・政治的意味や色彩を帯びてしまった」

(傍点は原文イタリック)(『芸術におけるわが生涯』、註

23)。

 

    スタニスラフスキーがこうした外的なほんものらしさを必要としたのは《粗雑なお芝  居的な嘘っぱち》だらけの枠のなかでは、舞台で真実であったり真実な感情や体験をも  ったりできないと考えたからだった。[...]この時期のスタニスラフスキーの創作は、 

外的現象の表現と内的現象とのあいだの絶え間ない格闘を反映している。

      (リューリッケ、千田是也訳、註

24)

  日常生活を再現するという自然主義演劇は、ズノスコ=ボロフスキーによれば、科学研 究を芸術作品の基本にした当時の美学に対応している(註

25)。具体的に言うとディテー

ルが正確に、科学的に再現されているかということを問題にしたのであった。外界の現実 をありのままに写し取ろうとする近代的認識論の発想である。

(17)

これはスタニスラフスキーたちが認識した「リアリズム」(本当らしさ)という観念体系 にとらえ込まれた演劇の姿である。バルトの言う「現実効果」である。それゆえ、「直観と 感情の路線」も「風俗の路線」も観念体系を出発点としている点でスタニスラフスキーに とっては矛盾しない。

    歴史的・風俗的路線は大成功を博した。私たちのことが新聞、世間で話題に上がるよ  うになった。この時私たちは、決定的に、風俗の劇団、自然主義的、博物館的なディテ  ールの劇団、外面的演出の劇団であると宣言されてしまった。この誤解は深く根を張り、

私たちがこの四半世紀のあいだに、もっとも多様で、互いに矛盾した芸術発展の諸段階 を長々と通り過ぎ、いくつもの進化と革新を経験してきたにもかかわらず、今日までも 世間に生き残っている。[下線は引用者](『芸術におけるわが生涯』、註

26)

  この誤解は後述するように、ブリューソフやメイエルホリドのモスクワ芸術座批判を呼 び起こした。

2.内面から外面への連動

  スタニスラフスキーが両方の路線を追求した背景には、彼が内面と外面の両方を満たす こと、内面(魂)のリアリズムが外面のリアリズム(身体・事物)と一致することを望ん でいたという背景がある。

    彼(チェーホフ−引用者)の戯曲はきわめて行動的であるが、それは外面的ではなく て、その内面的な発展においてである。彼によって創造される人々の無行動そのものの なかに、複雑な内面的行動が秘められている。チェーホフは、舞台の行動を内面的意味 で理解すべきであること、一切の似非舞台的なものから清められたその内面的意味の上 にのみ劇場におけるドラマ作品がつくられ、基礎づけられることを誰よりもうまく立証 した。舞台上の外面的行動が楽しませ、気晴らしさせ、あるいは神経を興奮させると同 時に、内面的な行動は私たちの魂に感染し、しっかりと捉えて支配する。もちろん、も し両者が、つまり外面的および内面的行動が、緊密に融合して存在するならさらによい。

このことによって作品は初めて、完全さと舞台性において成功を収めるのである。しか しそれでもやはり、始めに内面的行動がこなくてはならない。

(『芸術におけるわが生涯』、註

27)

  スタニスラフスキーが外面よりも内面を優先的に見ていたのは明らかである。彼にとっ て外面とは、その奥に内面的なもの、魂を開示するものであった。このことを彼は次のよ うに述べている。

    チェーホフは舞台において、外面的な真実も、内面的な真実も同じようにコントロー ルする。自分の戯曲の外面の中で、彼は誰もやったことのないほど、生命のないボール 紙の、小道具、舞台装置、光の効果を利用し、それらに生命を与えることができる。彼

(18)

は日常においてと同様舞台においても人間の魂に大きな影響を及ぼす舞台上の事物、音 や光の営みに対する私たちの認識を鋭敏にさせ、深化させた。たそがれ、日没、日の出、

雷雨、雨、一番鶏の鳴き声、橋を渡る馬の蹄の音と遠ざかっていく馬車の音、時計の音、

こおろぎの声、警鐘は、チェーホフにとって、外面的な舞台効果のためではなく、人間 の魂を私たちに開示するために必要なのである。どうして私たちや、私たちのうちに作 られるすべてのものを、私たちが住み、人間の心理が強く依存している光と音と物の世 界から、分けることができるだろうか。(『芸術におけるわが生涯』、註

28)   

これは内面が外面に現れる、内面から外面へ連動することを意味する。つまり、スタニ スラフスキーは内面的なリアリズムが外面的なリアリズムへ幸福に連動する状態を理想と していたのである。台詞が心(内面)に響いてからはじめて大きく声(外面)を出して読 むのと同じ構造である。

  幸運な連動は、スタニスラフスキーによればイプセンの『ドクトル・ストックマン』(原 題『民衆の敵』)でもたらされた。カメルゲルスキー横町の新しい劇場への移転後の

1902

9

月に上演されたこの芝居でタイトル・ロールを演じたスタニスラフスキーは次のよう に回想する。         

 

    [...]この時、私と役との完全な融合が起きたのだ。1幕ごとに、徐々に、ストック マンがますます孤独になっていくのをはっきりと理解した。そして芝居の終わり近く、

彼がまったく孤独になってしまったとき、戯曲を締めくくるフレーズ「この世界で最も 強い人間とは、孤独にとどまる者だ!」が、ひとりでに出てきたのである。

    ストックマンのあらゆる特徴、ディテール、人間の欠陥に対して彼が内面的に盲目で  あることを視覚的に語る近視という特徴をともないながら、私は直観から、ひとりでに、

本能的に、彼の内面的形象へ達した。[...]私は外面的形象にも直観から到達した。そ れは内面的なものから自然に流れ出てきた。ストックマンとスタニスラフスキーの心と 身体は互いに有機的に溶け合った。私がドクトル・ストックマンの考えや心配事をちょ っと考えてみると、彼の近視の特徴、前屈みの身体つき、あわただしい歩き方がひとり でに現れた。目は、ストックマンが舞台でいっしょに話したり、付き合っている相手の 心へ、信じきったように向けられた。(『芸術におけるわが生涯』、註

29)

  そしてスタニスラフスキーは内面から無意識的に外面に連動することを確信するように なる。

    すでに私たちの芸術には、唯一正しい、直観と感情の路線が存在しているのではない  のか。すでにそこから無意識のうちに外面的および内面的な形象や、その形式、理念、 

感情、政治的傾向、そして役の技術そのものが育っているではないのか。すでに直観と  感情の路線は、戯曲と役のもっとも精神的な本質を、外面的な本質をとらえつつ、他の  すべての路線を呑み込み、自らのうちに編み込んでいるのではないのか。[下線は引用者]

(『芸術におけるわが生涯』、註

30)

     

(19)

[スタニスラフスキーの自然主義のモデル(モデル②)]

  スタニスラフスキーのドクトル・ストックマン、スジビーニン作ブロンズ像

  スタニスラフスキーは直観と感情の路線で、内面に外面が連動することを目指した。そ

れは彼が、観念体系にすべてを従わせることができるという認識を示している。

  しかしスタニスラフスキーが内面から外面への連動を実感したと主張してもそれは幻想 にすぎない。内面(観念体系)と外面(事物)はけっして一致することはないからである。

この不一致をスタニスラフスキーは数年後、シンボリズムの形而上的観念を前にして実感 することになる(第

2

部第

1

44

頁)。

3.物質的側面とシンボリズムの観念体系の乖離

  当時、事物が既存の観念体系にとらえ込まれないことを強く突きつけたのはシンボリス トたちであった。彼らの扱うのは、日常的観念ではなく、形而上的観念である。

  「世紀末」という全世界的現象に、ロシアも無縁ではなく、「1880年代、1890年代の世 代が深く認識していたのは、自分たちは一時的なカオスの時代に生きている、瀕死の世界 に属しているが同時に新しい世界の入り口に立っているという事実であった」(ドンチン、

31)。シンボリストたちは、閉塞状況の中で破滅する運命にありながらも、現象世界を

越えて真理(本質世界)がやって来ると希望を抱き予感しつづけた。こうした中で「死」

と「希望」というモチーフの結びつきが生まれる。

俳優

舞台

素材・形式 内容

魂(直観と感情の路線)

リアリズムという観念

(風俗の路線)

連動

(20)

  心に希望を抱いて

  死んでいくとき、私たちが憂うのは   つくられたことのない世界のこと。

  わたしたちは未知のものを感じる。

  [...](メレシコフスキー、「夜の子供たち」、註

32)

  しかし希望をもって感じられる未知のもの(真理、本質世界)を彼らは表現できない。

それを認識してはいても(現象世界の)言葉では表せない。本質世界(観念体系)を表現 するための言葉が見つからない。近代においては何でも表すことのできた言葉は、シンボ リズムの観念体系を前にして限界(臨界)を迎えたのである。こうした思いが前期シンボ リズムの特徴となっていく。

  Мне  кажется,что  истину  я  знаю   И  только  для  нея  не  знаю  слов

  私には感じられる、私が真理を認識していると、

  ただそのための言葉がわからない...(ギッピウス、註

33)

  Милый  другиль  ты  не  видишь   Что  все  видимое  нами−

  Только  отблесктолько  тени   От  незримого  очами?

  Милый  другиль  ты  не  слышишь   Что  житейский  шум  трескучий−

  Только  отклик  искаженный   Торжествующих  созвучий?

Милый  другиль  ты  не  чуешь   Что  одно  на  целом  свете−

  Только  точто  сердце  к  сердцу   Говорит  в  немом  привете?

       

  親愛なる友よ、お前には見えないのか?

  我々が見る一切のものが   目に見えないものの

  照り返しや影にすぎないということを。

  親愛なる友よ、お前には聞こえないのか?

  はじけるような生活の喧噪が

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