ブロークによる事物を出発点とする考え方は、ペテルブルクで頭角を現してきた若い詩 人たちにも影響を与えた。彼らは言葉の意味の事物的明確性を強調した上で、そこに観念 体系を繋ごうとしたのである。ちなみに若い詩人たちは演劇界との関係も深く、アフマー トワ、グミリョフ、チュコフスキーは、メイエルホリドも関係した小劇場「コメディアン たちの休息所」の母胎であるペトログラード芸術協会の発起人に選出されている(註
1)。
ところがフレーブニコフの詩にはブリコラージュの概念が現れ、マヤコフスキーの詩で は既存の観念体系にとらえ込まれない言葉(ネオロギズム)を新たな意味として提出する 試みがなされ、また言葉を観念のベクトルではなく呼吸のベクトルとして提出した。この 時期のメイエルホリドも身体のベクトルによって新しい意味を提出しようとしていた。
1.アクメイズム
アクメイズムの詩人マンデリシタームは、マニフェスト的な論文「アクメイズムの朝」
(1912 年)を発表し、「A=Aとはなんとすばらしい詩のテーマであるか。」(Ⅰ−189)
と書き、言葉という事物はそのもの以外の何物でないことを確認し、シンボリストたちの
「言葉の曖昧さ」、つまり不確定性を否定する。彼にとって言葉とは建築物におけるひとつ ひとつの石と同じなのであった。
[...]しかし、「自ら転げ落ちたか、思索する者の手によって落とされたか、山から 転げ落ちて谷に横たわった」チュッチェフの石は言葉である。思いがけず落下してあげ た素材の声は、明瞭に聞き取れる話し言葉のように響く。この呼びかけには建築によっ て応えるしかない。アクメイストたちは神秘的なチュッチェフの石を恭しく掲げ、それ を自らの建物の礎に置く。
石はもうひとつの本質を渇望したかのようだ。石は自ら、潜在的に秘められた動力学 の能力を露わにし、「交差形天井」の中に収まることを、自分に似たものたちの喜びの相 互作用に加えてくださいと乞うているかのようだ。(Ⅰ−188)
同じアクメイズムの詩人ニコライ・グミリョフも論文「象徴主義の遺産とアクメイズム」
(1913年)において、神秘の領域に主な力を振り向けた象徴主義に対して、アクメイズム は「認識されないものは、その言葉の意味からして、認識できない」(註
2)とし、「新進
の恐れを知らぬ建築家のように、Н.グミリョフは詩に『冷淡な素材』だけを用いようと 決心した」(ゴロデツキー、註3)のである。
ゴロデツキーもまた論文「現代ロシア詩におけるいくつかの潮流」(1913年)の中で、
言葉の流動性、言葉の背後と語結合の背後の考えられるすべてのものの流動性に依拠し、
流動性の中にもうひとつの世界を垣間見せていた象徴主義に対して、「音を響かせ、色鮮や かで、形、重さ、時間を有するこの世界のために、私たちの惑星である地球のために」(註
4)アクメイズムは闘うとしている。
「『アクメイズムの朝』で提起されたゴシック建築とポエジーとのアナロジーは、1912 年の次のような詩で特にはっきりしている」(エトキント、註
5)。
Я ненавижу свет Однообразных звезд.
Здравствуй,мой давний бред,−
Башни стрельчатой рост!
Кружевом,камень,будь, И паутиной стань:
Неба пустую грудь Тонкой иглою рань.
[...]
私は憎む、
単調な星の光を。
ようこそ、私の昔の妄想よ、
尖った塔の先よ!
石よ、レースであれ 蜘蛛の巣になれ 天の空虚な胸に 細い針で傷をつけよ。
[...](詩集『石』より、Ⅰ−29)
また、「アクメイズムの朝」で引用されているチュッチェフの石は、事物(素材)として の石の確認と、そこから観念体系に向かう構造である。
マンデリシタームが提起しているのは石について思案することではなく、石を拾い、
重力を動きに、偶然を必然に変え、石をそれが落下した山に据え、石から、自然ほど複 雑ではないにしても、複雑な全体の一部を、ゴシック教会の石を例に作ることである。
(ストルーヴェ、註
6)
それによって地上は天上と繋がる。ここで着目すべき事は、石(事物)とその積み重な
りによってできた教会(天上世界)との対置である。この詩で実践しているように、「人間 の神聖な輪の中に引きずり込まれた事物はいかなるものでも道具に、つまりシンボルにな りうる」(マンデリシターム、註
7)のである。
同じアクメイズムの詩人アンナ・アフマートワのこの時期の詩も、事物に観念体系がつ ながれていることが特徴となっている。次に引用するのはこの頃書かれたとされるアフマ ートワの詩「窓辺の光線に祈る」である。
Молюсь оконному лучу−
Он бледен,тонок,прям. Сегодня я с утра молчу,
А сердце−пополам. На рукомойнике моем Позеленела медь.
Но так играет луч на нем, Что весело глядеть.
Такой невинный и простой В вечерней тишине,
Но в этой храмине пустой Он словно праздник золотой И утешенье мне.
窓辺の光線に祈る
それは青白く、か細く、まっすぐ。
今日わたしは朝から無言。
だが心は半分に分かれている。
わたしの洗面器の
・・・事物
銅が緑色になった。
でもそこでの光線の戯れは ・・・事物
見るのが陽気になるほど。
夜の静けさの中では
それほど無垢で単純。
でもこの空虚な建物の中で ・・・観念体系
それはまるで黄金の祝日であり ・・・観念体系
わたしへの慰めである。[下線は引用者](註
8)
この詩の特徴は、ストルーヴェが述べるように、「外面的なものと内面的なものの相互浸 透であり、部屋は建物になり、洗面器は宝座になり、苦悩は陽気さに変わる」(註
9)。こ
こでの「私」の心は、事物(洗面器での光線の戯れ)と観念体系(祝日の祭壇)の両方に 分かれているのである。2.フレーブニコフ
心が半分に分かれているのは、未来派の詩人たちにおいても同じであった。しかしアク
メイズムのように穏やかに分かれているのではなかった。
主体は事物に対するヘゲモニーを失い、事物たちは主体の支配を離れて、自由に動き出 す。「全世界は私の内にある」という伝統的な抒情的主体は解体される。こうした感覚を詩
「鶴」(1909年)によって示したのがフレーブニコフである。
[...]都会にあるさまざまな「事物」が「鶴」の部分を形成する瞬間をイメージ化す ることでこの叙事詩は構成されているが、もうひとつ、特徴的なことは、この作品の中 心的イメージが同音異義語による語呂合わせの技法によって形成されていることである。
この作品の題名ともなっている「鶴=ジュラーヴリ」は[...]「起重機=ジュラーヴ リ」の意味をもち、巨大な鶴=起重機による都会の破壊とそこに生きる人々の悲劇を象 徴する。また、「煙突=トゥルバ」は「屍体=トゥルプ」と音響上の類似を示しつつ、黙 示録の「ラッパ=トゥルバ」に変わる。(水野忠夫、註
10)
詩の中では主体に対して事物が優勢になっていき、人間を圧倒し始め、「煙突たちが人類 に破滅を宣言する」(Ⅱ−189)。
本来、事物は人間みずからの手によって、みずからの利益のために創造されていたに もかかわらず、事物と人間との関係が逆転し、事物そのものによって人間の存在がおび やかされる状況にいたり、いわば文明の発達にともなって文明による人間の非人間化が 進行する過程で、追いこめられた主体が言語表現に賭けようとするところに二十世紀の 詩意識は発生したのである。フレーブニコフが主体を事物に埋没させるかのようにして 叙事的世界を構築し、マヤコフスキイが事物に対置すべく主体を肥大化させつつ抒情的 世界に突入していったように見えるとしても、二人とも、主体の崩壊の危機を鋭く自覚 していたことに変わりはなかった。
事物と人間との調和的な関係を信頼し、事物を表現する手段としての言語を確信でき る時代は過ぎていたのである。(水野忠夫、註
11)
政変が起こった。生命は権力を譲った 屍と物の同盟に。(Ⅱ−191)
人間は、「いったいどうして私たちは事物を甘やかすのか」(Ⅱ−190)と疑問を感じな がらも、事物に魂を込めることが、事物を主体に連動させることが可能であるという自ら の認識を批判されるしかないのである。
おお、人間よ! どれほど狡猾な魂が 口うるさい人殺しがお前に囁いたのか
「生命の魂を事物の中に注ぎ込め!」と。(Ⅱ−191)
「ジュラーヴリ」のように同じ言葉に事物としての意味と観念体系の両方を共存させる のは、ブロークの戯曲『見世物小屋』(1906 年)におけるカサー(коса)と同じである。
カサーには、(少女の)お下げと(死神の)大鎌の両方の意味がある。ここでは事物として の意味がお下げであり、観念体系としては死神を暗示する大鎌であった。こうした二重性 は、事物と観念体系とが完全に分離しない状態である。フレーブニコフの古代インドのミ ニアチュールをテーマにした詩「私は運ばれていく、象の輿で...」(1913年)ではこの未 分化の状態を視覚的に確認することができる。
乙女たちによって運ばれるヴィシュヌ神を描写した
古代インドのミニアチュール。乙女たちの体はもつれ合って象を形作っている。
Меня проносят <на> <слоно>вых Носилках−слон девицедымный.
Меня все любят−Вишну новый,
Сплетя носилок призрак зимний.
Вы,мышцы слона, не затем ли Повиснули в сказочных ловах,
Чтобы ласково лилась на земли,
Та падала,ласковый хобот.
Вы,белые призраки с черным, Белее,белее вишенья,
Трепещ<е>те станом упорным,
Гибки,как ночные растения.
А я,Бодисатва на белом слоне, Как раньше,задумчив и гибок.
Увидев то,дева ответ<ила> мне Огнем благодарных улыбок.
Узнайте,что быть <тяжелым> слоном Нигде,никогда не бесчестно.
И вы,зачарован<ы> сном,
Сплетайтесь носилками тесно.
Волну клыка как трудно повторить, Как трудно стать ногой широкой.
Песен с венками,свирелей завет,
Он с нами,на нас,синеокий.
私は運ばれていく、象の輿で、
それは、乙女たちから成るおぼろげな象。
新しいヴィシュヌ神の私を皆は愛する、
輿という冬の幻を編み上げて。
象の筋肉となっているお前たちが おとぎの猟でぶら下がるのは、
愛らしき鼻を作るあの乙女が 愛らしく地面に流れるためか、
黒混じりの白い幻のお前たちは、
桜よりもますます白く、
頑丈な体を揺らせ、
夜の植物のようにしなやかだ。
白い象に乗った菩薩の私は、
あいかわらず物思いにふけり、しなやかだ。
それを見て、乙女は感謝の微笑の炎で 私にこたえた。
よいか、重き象であることは
いついかなる場所でも不名誉にあらず。
お前たちは夢に見せられて、
密接に絡み合って輿となれ。
牙の波を繰り返すのはいかに難しいか、
太い足になるのはいかに難しいか。
花輪で飾られた歌、詩の遺訓、
彼は私たちとともに、私たちに乗って、青い目をしている。(Ⅱ−87,88)