――目次―― 1,口絵,耶舎女神の彫像 2,宗教学の発生(1900年まで),矢吹慶輝,Keiki YABUKI,pp.1-36. 3,禅の本質に関する序論,鈴木大拙,Daisetsu SUZUKI,pp.37-53. 4,仏教心理論における心作用分類の発達,木村泰賢,Taiken KIMURA,pp.54-72. 5,仏教の道徳的精神と其行為について,斎藤唯信,Yuishin SAITŌ,pp.73-90. 6,仏教寺院の性質,禿氏祐祥,Yūsho TOKUSI,pp.91-105. 7,パウロ罪悪観の変遷について,三枝義夫,Yoshio SAEGUSA,pp.106-114. 8,宗教人類学の提唱,宇野円空,Enkū UNO,pp.115-139. 9,新刊紹介並批評
E.Troeltsch, Der Historismus und seine Ueberwindung. F.W.Schmidt, Gesammelte Aufsätze,佐野勝
也,Katsuya SANO,pp.140-141.
J.G.Frazer, The Belief in Immortality and the Worship of the Dead,小出弌道,Ichidō KOIDE,pp.143-148.
A.B.Keith, Buddhist Philosophy in India and Ceylon,布施浩岳,Hirotake FUSE,pp.148-151.
W.K.Wright, A Student’s Philosophy of Religion,筑田隆蔵,Ryūzo CHIKUDA,pp.151-154.
宇井伯寿氏著『印度哲学研究』,干潟龍祥,Ryūshō HIGATA,pp.155-157.
津田敬武氏著『神代史と宗教思想の発達』,原田敏明,Toshiaki HARADA,pp.158-162.
耶合女神の彫像
サーンチー︵夢nc冨︶はビルサー︵望一i許︶附近にぁつて 多くの悌塔がぁるが、就中有名なるはサーンチー●カーナ ー●ケダーミ耕ぜられろもので、殊に研究上著名光ろほ大 塔又はA塔ご栴ぜられるもの、普通にサ1∴′チーの彿塔ミ いふのは見でぁる。此の鼠はェその束門の支柱が第三梁わ支 へてゐる外側lニぁろ耶舎女紳︵Y算数︼−i︶の彫像て、其の 按の曲線の具合が印度の純子の妻に似てゐる鮎で有名でわ る。︵甲斐質行︶171
﹁ 枕近に於ける宗教の料率的研究大勢
エドワード、カー・ヘソクーは一九・二C年の著述中、例の諷刺的口調で科学者は拒むだらうが、科畢研究にも一種の流行が数々術はれた。拝所塾でも哲塾でも地史塾でも型のきまつた物理化畢の如
きですらそれがあつた。近頃聞けた宗教研究に流行のあつたのも常然である。今より訂五十年前ル
ーツーの帖から宗数は﹁高尚な野建人﹂のものとする極端説が洗行し、それから迷信起源説が起り、
十九世紀の初めには太陽紳謂説が流行し、ギリシャのアポロも印度のクリシナも果てはキリストま
でも太陽神とされ、フランスのデュビイやドイツのノルクやイギリスのテーラーの如きも亦此の見
解を取った。その後になつて一時、珪兼潜曇井によりての説明が浅緑し出して、イギリスのナイト
やトーマス・インマソやドイツのノルクが之に共鳴した。すると又輌は凡べて史的人物の神化に出
たものとするユーヘメリズムが現はれて人気を唆る様になら、更にヌ精霊説や呪術説が注意を惹く
宗教畢の致生宗教学の螢生 ︵一九〇〇年姜︶
慶 輝
矢 吹
宗枚挙の吸盤 二 ︵一︶ やうになったと言って居る。必ずしも此の設迫りではなかったにしても是亦近代に於ける宗致研究 に対する一椰の観察である。 後に詳説する迫り宗放が軸単著や暫単著の串間家の手を経れて、科挙的に事賓を串署として研究 するやうになつたのは前世紀からのことで、正しくは其の後年期からでぁつた。最初は比投票数研 究で、材料蒐集と比按排発とに努力し托。研究方法は勿論同じではなかったが、ヘーゲル以凍の試 みであつた諸宗教に〓昔せる系統・どつけようとした。従って批評的研究と歴史的研究とが言語畢的 研究と並行してその特色となつた。彼の宗教を国民的と世界的とに分類した∵フィデソ大串の紳畢 敢浮クチネソは﹁若し予が研究にして筍くも批評的ならざるものあらとせば、予の研究は何等の僧 侶なしLといつたが、宗教革紐設の■功労者たろ、同じくライデン大学数授であつたチーレは、その H吻を捉へ、﹁予の研究にして布くも歴史的ならぎるものふ丁りとせば予の研究は無を憤するに過ぎ すLと言ったのは、オックスフ†−ド大挙致授としてチーレよhソヰb前に特に苅畢の建設に貢献せるマク でミュラーの言語畢的研究と相列んで初期の研究傾向を語れるものであつた。勿論宗教と哲学との 聞係に深き興味を有った外、後に述ぶるが如く票数の新研究を以てキリスト教護教卒と同謝したも のもあつたが、大勢は材料の蒐集と共に先つ分朔批評と史的研究とに向つた。宗教畢の建設に一大 貫献をなしたマクでミューラーは一九〇〇年に殺し、同じくチーレは︼九〇二年に近いた、督時宗
17J 致畢が屋根も雄具も壁も出凍上らす、基本設計すら仰允まれ化前代から見ると、今口の宗数革は僅 か二十除年の問に殆んど面目を一新する迄に至ったといつてよい。此握には一九〇〇年迄の宗敢 対する科畢的研究の教生由雄を叙するつまりLリであるから、一九〇〇年後の斯畢の現下の大勢を述べ て緒言に代ふることにする。 ︵二︶ ジャストローが一九〇一年に票数研究に閲す一Q褒考番目︵短篇′でも食め︶数百邦を列興したが 宗教史.宗教畢の研究力法範由に閲するものが多数な占め、基地は宗教暫軍、紳話軸、心理畢、史 畢に桝するものであつた。ジョルダンが一九〇五年に宗教畢の補助率科として、人類畢、考古串、 忘ご 心理学神話畢、人椰邸、赴骨畢を奉げ、中に前世紀悶の研究を紹介して居るが、何れの方南も今 日から見れば貧弱なるものでぁつ克。人類単にはタイラーやラングやフレーザーを怒げて居るが、 その成果は寧ろ現世紀ほめる。ジョル〆ンは常時政令単に八人、心理単に八人を款へて居るが、宗 教を副研究とするものが多くてま研究が極めて少なかった。然るに現世鋸になつて上述の各部門よ ゎの研究が骨両日を︼新したが、就中、人類畢的研究と心理畢的研究と更に社食畢的研究とよりし て萄翫を一慶するの盛況を見るに至った。以前の捺に一人で各方而を概宿して所謂宗教撃概論風の 著逓は衷はれなかったが、各方面からの邸間的取扱方に於いて一段の粕彩を加ふるに至った。 今斬らく人椰率考古邸を食めて一般に人類塾的研究が現世紀に入らて長足り進歩を蓬げたことは 宗教学の骨盤
174 軍はれない。特に世界中で敢も開けハ甘いアメリカ印度人、オーストラリア土人、アフリカ土人並に 絢洋土人に脚す一〇研究罪刑が次節に招血し利明さる1やうになり、宗数研究上の新語、例へばフェ チッシ三芳ti㌢呪物︶、クブ ー盲1㌻吻忌︶.マナ︵ソど1︰1︶、トーテムT旨︼一1の如きが、次第に明瞭に説 明さる∼に至った。Ⅲ始的野損人▼り心埋は反って文桝人には容易にわからなかったので、此等の用 語の或者は第十人世紀以凍の研究史ノで有ってゐる。 今日略その意味が碓になつた、フェチプシュの如きもフランス語を迫じ.﹁■ポルチュガル語のアユーチ ッヨから出たのは、もとポルナュガルの水先が柑へたからで、一七六〇年にブロブスC・︵︼つ苧︹勇払が 之に関する著述をなしてから、コントやそヘンプーやの融合埋栗の注意を悲き、タイラーから漸く その意義が明瞭になつて、その後、亦印々な研究・で経てをる。又彼のトーテムがオブジヱー土人の オトテマンなる方言から出て、一七九一年にロングJ・どn閏の著遁によりて初めて英語に入りてか ︵円︶ ら、是も永い問の研究史を右って足る。そしてこは桟かに一例に過ぎない。従って最近になつても まだ不列別の部分が少くない。一九〇一年以凍のオーストラリア土人やアメ巾ノカ土人の倍仰に関す る薄遇だけでも可なりに多い。詳しくはpウィーの近著﹁毘始的宗致﹄附舐の怨考藷■.日並にトーイ ︵翳コ の﹁宗教史概論﹂に誠る。 更に心坤軍的研兜方面ではスクーパックの﹁宗放心理学﹂は一入九九年に出たが、局部的研究に 宗軟隼の教生 四
175 過ぎなかった。此方面の研究では一九〇二年に出たジェームスの﹃小ポ敢緯政の柚々粕﹄が一新時期 を劃したものであつた。票数信仰は偶人の内験として新舶と回心と紳人合一とな宗放生括の内容と したが、あまト督寧的でぁつたのと、泣膿魂象を頚んじ過ぎたのと、機醗的に敢骨的螢現の方南を 看却したのと、要するに組拍的に宗撃心理学ぜ説くまでには至らなかった。併し此の弛=が導火舶と なつて閣凍ブラットの﹃㌫数的信仰の心理﹄.ストラットンの﹁宗教生活の心理学﹂、エームスの﹁宗放 経鹸の心理畢﹂、クークの﹁宗教の基礎﹄、ヒルの﹃宗放と近代心理畢﹄、キングの﹃宗放の螢遵﹄、クエ ー バの﹃宗教の心理寧的血究﹂なぎが所々と出た。以上に拳げた中ではジェームスとブラソトとを除 けば悉く一九一〇年及び北ハ以彼のものでぁる。大林心狸学研究はジェームスに由らて開拓され、回心 などを琵過とせる個人心理的甜究と、ブントによりて一派をなせる民荻心理的研究と、更に滋近の 二ハ︶ 牡骨心理的研究との三沢に分けることが出水るが、大略一九一〇年頃から宗教は融合的侶位意識 或は鰻度として祉倉心魂研究り題目とせらる∼やぅになった。是と同時に乱骨嘩的研究方面でも亦 面目な一新した。例せばデュルケームの如きはトーテムの研究よりして赴館性を説き、之によらて ︵六︶ 認識論的にはゃ∴/トの矛盾を調和し、宗教準約には宗教の避源に新しき光一で投せんとしてゐる。此 他宗教哲学、㌫放虹、空地ハ批評、特に特殊崇敬の研究中に記すべきもの頗る多いが、そは別に他日 を期すること∼して、絃でほ異に現世紀に入わての廿五年聞に丹ポ放準が如何に多忙なりしかの一端 果敢準の費生 五
176 を述べて斯坤撥珪の摂しからざりしを記するに留めて置く。 〓、塾的精励並に桂皮の捷麗 近代科挙の興起以前にぁつた軟洲の撃問は紳堺であつたが、近代は科挙の時代で、嘗て宗教は暫 畢と軍ったが、今や利率と和事はぎる空得ざるに至った。 邸−∼qは如何なる時代にもあつた。原始人拗の間にあらてすら、マジックは彼等の科挙でみり、神 話は彼等の薯邸であつた。併し舌代は且らく叩き、中世時代を維へての近代科軍は全く入関知識の 世界に於ける驚天動地り一大建化であつた。西の他界に於いてキリスト教の徽父以凍馴致した草悶 の風仰は.光づ第一に仰の麓示になれる発苫の誤なき説明か眞の撃問であつたからして、同じく世 界一で研究するにしても、只管紳の粂光を来はすに努め、紳の啓示、盈晋の換言になしと中世一千年 間の時代思潮であつた。徒て第二に敢曾の隼問は精油喪義永世ま義となり、永俺性のない成甘と時 間との世界を研究するよ♭も、理想的精榊的方面の研究に没現し、鞋なる軌察や鱈駿よりも象叡と 督喩とに興味・ざ狩った。然るに事物界辞書−C旦︼ereに於ける地動説と生物界苧旦−3に於ける進 化論とは北づ宗教に対する利率的牒腔の宣職布告で、それから相宿く澄明発見は宗教に対する﹁偶 伍の見直し﹂即ち改造的気分一で鼓吹するに充分であつた。落にムコトの赦骨苧で始めとし・・㌦散骨人 事∽篤ic鼠1ereの方面からも票数を見正す新研究となつた。 宗秋草の教生 六
177 今自の見解よりすれば骨て宗教と科挙との乎ひとして互に絹を刷ったのは、宗教が青嵐の科挙− 偶々発音や解将中た引川された ー の焉に新式の科挙と軍った形ちで、謂はぃ愚策を敢へてしたこ とが分って凍て新たに耕畢と宗放との関係を見出すこと∼なつた。即ち科挙が如何に進んでも宗敢 がなくなることがないといふこと焚けは別になつて充た︵勿論此の場合其の宗致が在凍の宗教其佳 でぁることを意庇しないにしても︶。 イギリスに於けるヘーゲル畢派の一人打了りしケアードは近代の票数研究に重要なる楓本観念は人 類中等の思想と文化費達の思想と是捏了クといつてるが、中等はフランス革命に負ふところ少なから ざるもので、中等思想の姉妹は自由の思想である。科単によらての﹁畢の狗立﹂即ち串間の自由は文 鼓復興以凍の﹁良心の拘立﹂、倫理上の権利としての白樺帥ち﹁意志の自由﹂と併行せる思想である。 自由と中等と進化とは、斜塔的精醐を他方から観察し化ものに過ぎない。近代の宗教研究が野蜃人 も文化人も程度の差に過ぎゃして椰類上の別なしとし.寛容同情の鰻度を以てするに至らしは中等 思想に基因し、又太古蒙昧の時代と現代文化の時代とを聯結し、進化は内存のカの拇頂的進行とな し、進化の各部に連鎖の橋梁を見出せるは賓に進化の思想に因由せるものである。 ︶ ︶ 兎に角一発書に背いても畢問は畢問なりとの撃の猫立、二自然に具へた人智の所動によりての自 ︵ ︵ ︶︶ 然の制御∵ニ骨定のためよりも批判のために使はる∼鞄性、四畢問に階級なしとのデモクラチック ︵ ︵ 寮♯事の群生
178 八 ′■/2′■‘号′− ヽノ ..、︶ な自由、五思耕諭謹よりも観察畢脇所謂﹁諭より静撼﹂の新研究、六不合聖や遊撃で尊ぶよりも因 ′1、 ︵ ︶ 黒枠と解一の法則とによりての思想的訓練、七宇宙は字寧じ自足なりとして超自然的起轡で怪しむ ′−1ヽ 感度、是等悉く科撃と柳川皿を締結して宗教に倍った思想並に運動であつた。 三、ギリシャ時代より近代に至る宗教に対する態度の東遅 配愈は人類の飴厩から在ったが、之・で科挙的に研究するやうになつたのは第十九枇杷の前半から でぁる。宗教も亦その串賓は人新の飴原より存しながらー之一三胴の塑科として其現象と理法とを ヽヽヽ 研究するやうになつたのは、第十九世紀の後輩鋤からで、偶に極めて枕近のことである。わから切 ったものはど欝はわからないといふパラドックスは此の場合には雷て恨まる。 比較宗教塾の起頻発連並に北ハ榊保栄料の調査整聖に約二十年間の努力一ぜ搾げた、ジョルダソは比 較宗教寧を樹立せんとの公園は第十七他紀以前に北ハ痕速だになく、抑も宗教の科挙的研究は、何虔 ︵七ノ も等しく丙鋸千八百年川合然手が着けられなかったと言ってゐる。ジャスLrローは宗数研究史の概 説中﹁或意味では票数の研究は人数思想と同じ舌さであるが、他の意味では宗教研究は諮科挙中の ︵八︶ 最も若いものである﹂と言ってゐる。但しこほ絹腿富なる意味での斜里的研究一箪指したものでぁる。 宗教の研究は暫塾と向じく相承的信仰に射す一〇疑念に船中云。即ち従妹の増設儀式に封し之に獣 征するを欲せざるに起因する。此の意味では㌫敢研究は今遽に始ったものではない。
179 先.っ舌代ギリシャ∧は軋戊入と共に誅甥卑を大成ゼる二大匪民て 且起¢宥朝・にごル∵ト山川〃一彗朝ク一 淵混血に開設した。且っ生れつき薮術的捏了りしぎリジャ人は両前や宗敦を取扱ふにも遊戯的気分で ぁつたから、早くも相承の宗教一で綻んだ。紳の箪示たる紳話中にも人間の加エのあるに注意し出し、 紳の矛盾と過誤とよりして通俗の信仰に隼的批評曾加ふるものが出で、エソア仮のクセノフ丁ネス ︵紀前第六世紀︶はホメーロスやへシオドスの紳軌が人間界にも恥辱とすべき多くの窓徳を紳に附 加せる矛盾一で粥摘し、通俗の多脚数に反対して汎紳数的紳観を説き、諦紳を作ったものは人間で、 人間は此の紳々の中に自分等の形憩戚傭及び言語を現はすものとなし、コントの﹁今や入神を作る﹂ やフォエルメッハの人の遡るに従って紳も英ると言った意議を夙に舌代に於いて造成したるを始めと し、ソフィストの開始者にして又その代表者たるブロクブラス︵紀前四人五年頃生る︶は人生の短 命なるよらして講紳の存在を疑ひ、エムベトクレス︵紀前五世紀︶は詩碑を宇宙構成の元素︵地水 火凰︶に辺元し、クレアソテス︵紀前三世紀︶はツオイス ︵ゼウス︶を普遍の理性と同一視せしが 如く、或は瞥倹約説明によりて、又或は暫畢的説明によカて、翻話稟致の矛盾を調和し、通俗の信 仰に革的根城を輿へんとした。斯くてギリシャ時代には自由研究の凪が豊かであつた。此他に史家 ヘアドクスは史的研究を宗教に向け、ブルタルク︵第一位紀︶はエジブ\ ぺルジャの小ポ致を研究 ︵九︶ ︵一〇︶ し.同代のルシアンはシリアの女御に槻する著述を残した。ジャスLr廿−は此の最後の二人は﹁宗 宗教嬰の群生
180 一〇 宗秋草の蜃生 ニー︶ 政敵の成育の研究者﹂だといつてゐ一り。併し是等は背軍者の合理的説明か或は史家記銘家の好奇心 か・ら注意したに過ぎなかった。 抑も古代の宗教は偵式と民族の血とが教権でぁつたから、一般に典国典習と解し、人絹や衣服や 言語の典る如く、畢純に問が其れば紳も儀式も違ふものと見て、固より未だ具備の批判が起らなか つ化から、宗教の和々朝に就いては謂は∴華頓着でぁつたか、或は自国の宗教を偏韮して地図のそ れを幾税するに過ぎなかった。プラトーンやアリストブレースすらも典宗教を知りながら批列はし なかつた。此他申的と補することは出水なかつたとしても、舌代に於けるグノス派の訪邸者、又ア レキサンドリアの紳準ポ、就中クレメソト︵l筈可−詑○︶やオブグーヌス︵−00ひー賃料︶等によりて、キ ,スト放と他宗教との相違に純忠が向けられたことも、宗教研究史の一挿話たるを失はぬが、此等 の多くはキリスト教の異宗教たるを説かんとしたものであつた。ハルナブタが紀元後三世紀頃の世 界の三大串琴としてカ・;ヅクと新プラトーンと摩周撃とを翠げてゐる轄此尾月致は件数とキ リスト放とペルシャ、カルデア連の思想とを折来したものであつたから、各宗教の比校研究も思想 家の間には可なトに托意せられたと推測することが出水る。正に光の世界に於いて印度や支那に衣 はれた宗教の批評や比較の諸研究は革ろ西の世非以上のものがある。併し近代の利率的研究までの 史的連鎖を辿るを主眼とする本語では且らく之に梱れぬことにする。
Ⅴ−†人が一度世界を統一すると、各国統治の必要上、諸方の宗教を混合するの必要に迫られ、 ジュビターに捧げし殿堂に典故の紳を合桐して卒然怪しまなかった嘩一両では便宜ま義、他面では 寛容の精細を示した。p−マの宗教が斯く温雅せし間にキリスト教の興起を見、欧州文化は滋にギ ,シYの埋智ドーu−マの法治との両文化の外に、更に新にユダヤの宗教文化を加ふることゝなつセ。 斯くて宗教研究は紳邸中に窒息し、ヌ普日の自由の精神を失ひ、法皇数樺とドグマの成立とは啓示 に基く眞宗教、世界のー公数愈は唯だ一あるのみとして、宗教研究はキリスト致神輿の研究となつた。 法皇敢闘制度は同時に英数の侵入を厳禁し、特に此の不寛容の橋脚はマホメット故に対して甚しか った結果、遂に宗敦職軍の翁めに血騒き隆史をすら残すに至った。此の強制と不寛容ビに射する反 ササードタル 勒は文轟枚輿、宗教改革を通じて、散骨の宗教、何制の宗教に対する敵意と捏アリ、就中第十八世紀 の開明思想、合理思想中にその線度が著しくなった。舌代ギリシャの畢者は無頓着か或は自問偏重 で、p−マは便宜ま議でぁつたが、中世致曾は甚しく不寛容の経度を耽ったが虐めに、近代になつ て宗教に対する敵意を養成したとも云ひ得る。之に由りて同時に一般宗教に封する膿皮の鼻化を看 取することが出水る。そして此の不寛容と敵封との岱度は第十九世紀の初まで点いた。例へば十八 世紀にイギリス、フランスに続行した宗教は仰侶の詭計に出づとの重張は明かにその次示であつた M が、然るに之を逆用してキリスト教のみほ奥の宗放で、他は悉く付侶の詭計打アりとした数倍の膿 度 票数亭¢教生
182 一二 宗牧草の託生 は依然として不寛容のそれであつた。ホップスの批判的ではぁつたが破壊的購昼 ヒュームの奇蹟に 関する有名な論議、ウォルタールの皮肉仁批評の如き.常時代の此の暴圧一で反映したものである。 凡そ近代に於ける人魚l・−心想の水軍舘一で膵大するに興ってカムアりしものは、突敷板典と宗教改革と 科寧の勃興と開明思想とであるが、開明啓蒙期の第十八世紀の前後はその成果・曾次世紀に牧推した 叩帥は上鱒蒋きの時代で、中世スコラ凪の思想から全︿脱却した道徳と宗教とに封する試験の什正し の時代、従って過激思想の起った時代でぁつた。併し十九世紀に比す一心と批判の遺基として科寧の 利用が充分でなかったし、又翫ガが静的で動的ではなかった。二言にせば令理藻琴り時代であつた。 スピノザ、ライブニッツ等のま理振も、又イギリスに於けるベーコン以後の 大陸にてのデカート、 緯陰派も、カントからの批判祈坤も、悉く合理の鋸で知識と信仰との問題を即決し調和せんとした。 蓬には大陸ではタオルフの﹁理性敢Jコントの﹁人道数﹂をすら生するに至った。就中、イギリス に起ったデーズム冒訂mは在雑の宗教観に射し正面より自然的仰向と合理ま義とを振・り翳して最も 克く此の傾向を衣はしたものである。歴史的㌫勉を扁み、所有帥私を斥け、㌫故の自然的教生のみ に注意し、信仰ぉ客臼の撲揮に重し去らんとしたのほ別に介錯琵議を露骨に言ひ朱はせるものであ った。要するに文革棍此ハ以水の人本ま義自然主義を票数た向け、倦永から離れて人間の自然性の中 に宗教ぉ求めんとするにあつた。
四、デーズ ム と歴史背畢
デーズムはハーバート]Fざ︼出er訂︸・什。︻C訂b−1rユー慧串1︼芝00︶に始り、票数は超自然の致鶉に成 るペきものでなく、各宗教にも各人にも共通なる自明の眞理によるべしとなし、至上弟︵紳︶の存在 と、至上者の農藤と、盤藤は敬度と徳とを巽東とすること∼、罪は悔改めを要することゝ、凍世の貰討との五件は誰人でも首肯する宗放の本質だとなし、従て前の仰侶詭計説も源はハーバートにみ
る。ロックが宗教遺徳の問題に関して萬彼の結論に達し難いのは、先決問題として書等が此柚の問
題を扱ふ能力があるか背かの吟酸から出費せねばなら萬として、二八九〇年に﹃悟性諭﹂を著し、其
中で経験に先立つ認識はないとして、宗教上の諸概念例へば紳や霊魂やはデカートのいつ化様な生
︵︼こ︶ 得観念でないとした。又二ハ九五年に﹁キリスト教の合理性﹂を出して飽くまで合理重義で通した。彼の革某の一因ぎすらも神秘と見れば沖髄で、世界の何物も紳粛なら、姑局何物も紳秘でないこ
とになり、キリスト教とても神秘でなければ成立せぬものではないとして、﹁キリスト教は紳磁にあ
︵〓エ︶らす﹄を公にしたトーランドは、此蕃に於いて茶人の宗教以外は悉く何個の貪欲心より出でし詭計
に基くものとして♪−ノートの説を推しめ、更に啓示宗教と自然宗教との問題古妻ーストの興味の中心とした。和性の光トで自然㌫致のみを辿ることになれば、紳の窄ポは或る特定の崎期を柁ぶ必
戯 要がないから、異の宗放は創造以凍の存在で・従ってチンブル︵二ハ五七−一七三三︶の﹁キリス 宗数学の骨盤】84
宗軟攣¢費生
一担
︵−ロ︶ト敢は創造と同じ舌るさ﹄といふことにもなる。自然の櫨の姿で宗教を見ようとした時代思想はと
︵−托︶ ユームの﹃宗教の自然的−的雇嵩との遇にも衣はれてゐる。此の自然㌫敦の考は一方シヤフツベリlやモ ︵−㌧ハ︶ ルガンによりて倫理問題に代ったが、コリンスは冒リスト致の根城と理由﹄ぉ箸して像言や啓示の批評を試み、イギリスでの撃典批評の新研究に注意した最初の人となつた。
下の中自らデーズム論者と呼ばる∼ことを好まなかつた人もあらうが、ヒュームにもロックにもク †ルテールにもルJ−にもライマルスにもデーズム風の傾向があつた。イギリスでは1イギリスの タオルテールLと綿名されたがーリングブロークで一と先イデーストの運動は終ったが、その結果 懐疑的となつたと同時に宗教のn由研究、自然的研究、心理的研究、教典批評等の新来姓を作ったことは軍はれない。要するに宗教の自然的研究はデーストに最も好く現はれて居た。然るにデース
トは純粋宗教は唯一で何時も慶すかないとしたからそこに進化の歴史を辿るべき萌芽を有たない。
此の進化発展の歴史税は重くドイツの歴史宮邸に負ふ研が多い。彼の同〓不敬の進歩発展の階段に
差等ある一ピ認め、ユダヤ教はその頂鮎たるキリスト教に通すろ必然の階段捏アりとした、スピノザの
︵一ヒ︶ 湘軍政治論集︵一七六〇年︶は聖典批評と共に宗敢進化の㍊想に射し・極めて示唆に富めるものと ︵一入︶ されてゐるが、正しくはヘルデル.レッシソ〆、ヘーゲルからである。宗教は人間の本性に典はる宗敢枇念の自然的螢表として、﹁文化の連鎖﹂を辿りて宗教の人文的進
186 をなしたことも碓に少からざる街勒となつた。 宗散華の費生 化の研究に指を染めたヘルデル︵S忠1㌫Ou︶の﹁人類史﹄はl七人四年に出た。ジャスト甘−は彼 ︵一九︶ を﹁宗教の史的研究の建設者﹂といつ化。ヘルデルと類似の思想を有った同代のレッシソグ︵︼語学− −謡上の著述も出、次いでヘーゲル︵−ヨ○−・−00讐︶はヘルデル、レッシソグの歴史観を更に完成するに
穿砂、一入二毒より三一年皇でに講じた﹁宗致暫望は完三二年に出ペルシャ、エジプト
ヘブライ、ギリシャ、p−?の諸宗放と共にキリスト教を房究し、此等悉く史的必然の階段を踏め るものとした。勿論脛史暫串派の考では人類思想開螢の根底は暫撃的原理に苑き、人類歴史は畢覚 例へばヘーゲルの宗教史はヘーゲ その原理の ル哲準の説明に過ぎないが、各宗教にそれ和常の意義を認めて、常時知られた野欒人の宗敦迄でを 研究観察の戒野に入れ ︵ヘーゲルは偶数とマホメット敦とには観れす︶、且つ奥の宗教が上代に在っ たとするデーズムの一派に反射した。宗教重なる名稀はヘーゲルよら出花もので、ヘーゲルが脚単 に射し一般に宗教を研究する意簸で此語を使ったがーヘーゲルの宗欲単はヘーゲルの論理哲単に適 合するのみで科邸的でなく、又ヘーゲルの取扱った宗致はその範園が狭かつたが、諸宗教の事賓を 一系統内に包容し、開展の連鎖に由りて、結合的研究をなせるは宗教研究上記念すべき串菜であつ ハニ一︶ た。併し他面にバックルの﹁イギリス文明史﹂が第十九世紀の中東に出で文朋史的観察に一大可戯18(; 宗教撃り教生 〓ハ 人茹の層妃は超〓然的琉理の下に預定され、骨てあ丁クしが如く緯過せし以外に、他ほ途なかりし ものとの信念を祓疫し、一般雁史は勿論宗放の出黒も亦人文館展直通縄に過ぎすと見倣すやうにな って、初めて願出をn然的に教生的に見るやうになら梧埋の橡想を脱却せること∼、又弟十八他紀 頃から次第に碓認さるゝやうになつた、史的螢連の思想と、更に亦自然法の舛一、即ち過去の姉仲 を現在の革質によりて訣肌すること∼の三要件は史的研究の銀紙である。節十末世紀以後、ブ丁ラ やエラスムスを始めとして此の精細・で開拓し助長し、最初は人迫詫鴻者によりて串ら文塾に腰用さ れしが、次に教骨の賓戯に、和次いで聖者に向けらる∼と∼なり、蕾約も新約も轡ホの共典として ではなく、自然に費展した人間の履史として研究さる∼に至り、抜に前後軟汀年に亙る光背批評の 重大なる一幕を潰すると∼なつた。是が又票数畢的研究に幾多の資料を供したがそは琵には略する。 五、第十七世紀より前世紀までの宗教研究 前に﹁宗敢の比較研究に於ける殺初の計丑﹂と耕せられし第十三世紀のp−ジヤ、ベーコン︵一 ニー四 −一二九何︶と、﹁軍者として歴史家としての狗立の精紳で非キリスト致を研究せし敢初の ︵二二︶ 人﹂とせられし節十五世紀のニコラミ クザーヌス︵一円〇.一−一望ハ巴とを畢げしが、ベ ー コンは科挙を紳奥の補助としたに過ぎないから、固より中僅紀の霊庖哀宥臆することは出水なかっ たし、第十韮世紀文整復輿期のレオナルド、グ、ギソチすらも神学よ♭閏立なろ位寧で対韓ほ奥ふ
187 る迄には進んでゐなかった。縦令、今日から見れば誤り多きものであつたにしてもp−ジヤ、ベー コンが常時如何にしてあれまでに償汎なる脊料一旦蒐処したかに就いては、夙に東方の宗放粥偶に就 いての職場を受けたとの伯課がめる。 一二重二年にフランスたルイ九他の使命・で奉じてタータリーに使したフランシスカソの一冊WT −−山Pmde出ビbrupuisの報告によれば、常時タータリーのカラコルムに就いてヨ巴︼gl−︵一二〇〇 − 一二五九︶によりて一糀の宗数骨誠が開催され、サラセン︵マホメット教徒︶もキリスト教徒︵点 数︶も彿教徒も一慶に脅して諭誠したと侍へられ、廿−ジャー、ベーコンは夙に此の時に派遣され ︵二三︶ し僻導師よhソの朝砦一で耳にしたといふことであるが判然しない。 第十八世紀にラ一′ソ謂のク.ごーシャツト︵クーブネタット︶が軟州に倍へられ、その結果ショーベ ンハクエルの暫坤も生れたが、此のラテン謂の毘となつた改新評のクバニシャツトは一六正一年に 印度モーガル閲王アクメルAkb弓〓五四二1二ハ〇五︶の太子〆ラ、シュゴーⅠ︶≒声茅1一≡1︵−︼−が 邸若をデールヒの朝妊ほ悠めて翻謂せしめたもので、アクメル王は此常時眈にユダヤ教.キリスト 教、マポメット致、政経門数、ブロアスク一致︵件数に観れす︶の研究の翁に埋此ハ御謂の大業を企て し非凡の王であつた。マクス、、、、エラーは此王を﹁恐らく世界誠︷小数の比較研究を敢てせしr.M初の ︵二田︶ 人﹂として居るが、今日の宗数畢の興起に正接の関係はなかった。ヨーpリ.ハの舞蛋で、撞命ネ充分 崇敬串の骨盤
188 ながらも正しく此方而に話手したのは第十七世紀以凍であつた。 ケンブリヅデ大串コルブそ クリスチ、コレゾヂのジョーソ、スペンサー〓六三〇−∴六九三︶は へ‖.もl一 ヘブライ以外のセム族の信仰儀式とヘブライの宗教との比較研究を公にした。本書は一六八六年に へーグにて新版されし以凍各地で刊行された。セム票数研究の泰斗であるロバートソン、そ、、スは ︵二六︶ 此聾は﹁比較宗教隼の基礎を集いた﹂ものだといつてゐる。 ワッス ︵一五九〇 −一六瓦四︶は十五裁から熱心な紳輩の研究ポであつたが. アレキサン〆−、 ︵二七︶ 第十七世紀の中頃に諸宗致に関する侍訟を蒐集して一撃で作った。勿論著者はキリスト教のみ一ぜ奥 の宗教とする立脚地から之を番いたものであつたから純なる比較宗教研究とはいはれないが、ジョ ︵こ八︶ ルダソは﹁比較宗教隼の建設者﹂だといつてゐる。 一七〇〇年にトーマス、♪イドの﹁披斯宗歓﹂出で、宗致は虎は純粋なものであつたが、時と共 に堕落するものとした。 十八世紀上半期にビカードとベルナードとの共著でキリスト教諸喝ユダヤ教、支那アルメェヤ ︵一ニ0﹂ の宗教迄を包捕して﹃耽界諦観比の偵式墾慣﹄の名で不完全ながら二柑の宗教百科酢典が出た。 デュビュ イ︵一七囲l一−一入〇九︶は一七九五年に﹁宗教儀式の起源﹄を著はし、常時知られた 諸宗教を悉く研究中に網羅して、是等諦㌫故に封し同情みる態度を以て、従来曾て見ざる贋き深き 宗教畢の教生
189 ︵三−︶ 耕究むなした。且っ凡ての宗致は自然曇邦から始まるものとして凡て紳とは臼然の代へ言葉に過ぎ ないとした。ジャストローは彼を許して串欝以上に推論を追うしたとしても﹁宗教の歴史的の研究 ︵l二一︰︶ の開創新たる名碁を憤する﹂といつてゐる。 コンスタソ ︵一七六七!一入三〇︶は宗教の費建とその形式とに閲する研究を故にし、比按㌫ ニューユノ 数の職域に歩一歩接近をホして凍た。チーレは此沓に於いて﹁初めて宗敢の本貿と形式との伍別が ︵三内︶ 立てられた﹂といつてゐる。 マイネルス︵一七四七1一入一〇︶は一七人五年に﹁諸宗教綱要﹄を、一入〇六年に﹁宗敬一股 ︵︼エ札︶ 批評史Lを出して票数を放いた民族のないことを説いた。 ︵三六︶ カール、ミュラー︵一七九七!一入四〇︶の﹁科挙的押詰畢概論﹄の如きも今8から見れば欠鮎 ほ多いが、此期に於ける研究史上の一項とすべきものである。 放行家にして又翠偶に宗教を研究したアソクエチル、チエベロソAbra訂m填で︵計t訂A⋮−1−宣もu・ ア.エスク井にその謬本を公刊し、又ゾワァスクーの樽記を故に紹 鷲rrっn は一七七一年にゼソド、 介し、更に又一七七五年に披期評のクパ;ヤプドに韮いてフランス謂とラテン繹と一で作り、ラー㌢ン 繹の方は一入〇一年に公刊せられ.それがショーベンハゥ云ルの詔軍組織に発し、ウパニシャッド の研究は予が生前井に死後の快発と稿蛮せしむるに至ったものである。 宗秋草¢‡生
宗教学の菅生 二〇 湖 ドイツの暫埋に共鳴して描くデーズム風の考方に反対したカーライルT訂臼諾C弓lyleは、一入 四一年に﹁英雄盟邦諭﹂を讃はし同番の第二蛮た﹁司費としての英雄﹂としてマホメットを伸へた。 マホメットは致命からも㌫数改非老︵ルーブル︶からも﹁窓魔の化身﹂とされてゐたが、千二百年 間、幾前端の霊魂を導ける人の頚髄が如何にして﹁偏り者﹂たるを得ペき、惰からは錬成の一片す らも出水ぬ、況してや宗教一でやとしてその異教の熱情ヤ賞讃した。か︿て他宗教に対する同憫と史 的研究との曙光は随所に見えて雄花。 ツーセーは以上に列寒せる芽北日中、マイネルス、コソスタソの外に、十九壮紀小葉、一八六二年 迄に公にされたド・エットコ︹・弓つ言クットケW重訂ブソゼソC.C.J.召n︼ぎlろ︼lトロソテJ.P. ゴ。tt。tの著述を華げて﹁今迄に宗教研究の手引として推耕するに足るものが殆んどない﹂と言っ てる様に、此等は多く埠宗教史研究の顛考究料とすべきものであるが、大略窮十九世紀以前には未 だ畢的研究とは言はれない状岱にあつた。要するに宗敢はキリスト教だけでないことC如何なる宗 教にもそれぞれの債構一で認むろ撲になつたこと。諸宗敢り問に獅似と差異との存す乙ことを知るや ぅになつたこと。宗教史研究め気運を作ったことはあつても、全盟として研究範陶が局小であつた こと、輯賓以上の推論想像が多かったこと。又全く苗凍の偏見を脱却し得なかつたこと。宗教史料 が乏しかったので史的研究が不正確であつたこと。三︰にして並せば利率的ではなかった。
ユ91 六、利率的研究の費生、材料の蒐集 チーレは世界崇敬骨誠に於て宗教の科畢的研究は隠密なる意味では第十九世紀の初め迄は存在し ︵三七︶ なかった。正しくは第十九世紀山稜中細から起ったものであると云ひ、ツーセーは一八八七年に宗 教邸が一新科学としての狗立の存在一旦碓にしたのは最近数十年のこと∼いつてる。蓋自由研究の気 分は各所に動いたが仰未だ資料の不足と研究方法とが不正確であつ陀。ソーセーは宗教撃興起の由 雄に就にて三つの脱因■箪翠げた。第一には背挙が宗教をその研究対象としたこと。就中、カントと シュライエルマッハーとが宗教哲学の基礎を据えたが、諦宗教を包宿すべき研究法がヘーゲルから始 ったこと。窮二に歴史背畢が人類の生活を金醗として観察するやうになつたこと。第三には文明史 ︵三八︶ が新材料を提供するに至らしことを数へて層る。 此中文明史的材料小には地理上の新教見よりして、従妹全く知られざもし諸宗教又従ってそれ等 諸宗教の習慣や聖典の僚見に作って新甜究が起る様になつたこと哲始めとして数多S素凶がある。 先づ言語の比較研究によ鼻て永い関知られなかつ化各図比間の系同約閻係がわから、人類の新たな る臨界が出水るやうになつたこと。その結果前壮紀以雄アールヤと耕する新術語すら新に生れ、同 系の宗教として印度、汲斯、ギリシャ、p−マ、チュートン等が一系統とせらる∼やうになつたこ と。従って各宗敦の青空此ハ謝罪が企劃され、各宗数がそれん\その宗教の言菓で研究さる∼やうに 呆軟夢の†生
192 宗教革め菅生 二二 なつたこと。古代宗教文化の遺鐘の認抑はナイルの河遽にもメソポクミヤの故地にも、謎に障れた 青史を起らしたこと。﹁掘れ掘れ地下に眠れる脛史を醒ませ﹂の叫び現は世界の各地に起って、p− セックストーソや阿育王の碑文ぢどが邸者の彷カによりて文化史上に光を投することゝなつたこと。 同時に各地の風習や迷信や俗話やが各方面から僻へられ従妹の政治史が夢にも知らなかった未閑人 の宗教や倍設などが数多蒐集されたこと。是等悉く㌫敢の新研究王洗血・∽鶉料を伏せしものであつ た。顧みるに雁針盤は第十四世紀からゼノアの水夫が使ったが、一般に航毎に佗用せらるゝ抜にな ったのが第十五世紀の初めからで、ポルチュガル人もで︵、イン人もオランダ人も是によりて油滴営 利の凋めに諸タで廻ったが、それ琴の人々によりて伯へられた新料は、何泊帥 ∽裡常と共に偶々単 著の托意′で惹くことゝぢつたのは奇なる国縫と謂はぎるを痕近い。 ジュグォンスは宗教は大冊過去に耽に存在して今存在せざるもの、例へばエジプト、パピワニヤ アプシリア、ギリシャ、ローマ、チュートンの古代宗教り如きと.古くから存在し且つ今相生ける信 仰たるもの、例へば支那宗教、ユダヤ数、波兼門数、印度教、マホメット数、鵬数、キリスト教の如 きとの二椰に分かたれ、是等悉く傑史的記餓を有せる㌫放で、此他に上繕史的記駄ノで快け一エポ教、例 へばアフリカ、アメリカ、オーストラリア、而洋、豪富などの脱胎的㌫敦たとしてぉる。=は固よ り宗教の畢約分動と兄僻すことは出水ないが、今似りに此匪分に従ふと、此分獅中でり大部分.し
193 かも基中には現に幾億茶人の活ける信仰たる偶数の如きもめれば、中には歴史的記僚を放ける無銘 の碑文の如き宗敢もめることを知るに空つた。就叶︰ アールヤ宗教の典型とも見らるべき且つ極め て豊富なる印度宗教文化が、堺者の研究心をそ∼り、斯くて革新の‖心想上には世界宗教の一大展鹿 骨が開催さる∼こと∼なつた。あまり膠多の偶数辟典が支那に翻課さる∼と絆典日銀の銅製が必要 となつて妓に数列諭を生み出した様に、此等雑多の宗教材料を調査し分類する必要に迫られ、或は 言語挙止よら或は弘布の拓域より或は紳の教よりヌ或は道徳思想の有無よらして械々の分類を試み るものが出奔溺 七、新研究に対する名群、比梗宗教 斯くて材料は可なりに偏って以前よりも充質せる研究が出水るやうになつたが、此種の研究を何 と名つくべきかに就いて神々な薪名祁を提供するものが出水た。 最初はその名祁すら不定であつて、一時は徒雑の紳畢を啓示翻撃とし、之に射して自然紳畢とい ふ名榊が流行した。戎者は信仰︵ギリシャ語句訂i∽︶を取扱ふ畢問だから信仰畢巧打bl濾y とすべ ︵円0︶ しとの提澄を出したものもめつた。是に似た名榊ではロバートソソの著書の過日に衣はれたでリ ジャ語の紳滝口ier安から作られた紳並畢Hier。l薫Yなる畢ルヤb衣はれた。此の没後の名榊はチーレ を始め、二三の賛成強がぁら、或る部分のスタソ〆−ド僻典にすら加へられで、﹁訴宗教の利準的耕 乗数事の響生
194 宗教夢の履生 〓四 究井に比較﹂ご注せられたことすらあつた。併し此語は各自ではエジプト舌代文字の研究にのみ使 用せらる∼丁こと㍍つた。基閥にめむて比較宗教の名は初め澱も頗く共鳴者を待たもので、此語は英 米の外ドイツでもフランスでもイタワーでもオランダでも使はれたが、最も靡く使はれたのはイギ プスとアメけノカとでぁつた。併し比較宗放といふ名柿に就いても比較御準 g2竃r邑Ye ゴ1乙C顎 としたり、﹁比坪㌫数﹂9−ピl弓邑ノ・e︼Eigi011に﹁率﹂一で加へて﹁比韓㌫敷革﹂p巨p罵已iYe賢二l諸島 苧︼質きとしたり、又或は宗教比較研究9n一︼≡・註′・つSt乙ヽニ﹁]己直≡広とした♭、温々でめった。 従って現世紀に入りて滋初の十年頃まではその研究の方法も範囲も確定しなかった。好んで﹁比 較㌫致﹂の語一で常用したジョルダンも一九〇四年に、﹁比較宗教の研究につきては是迄数多の串者に へ再一︶ 由りて諭せられたが、未だその範園につきては確定せす﹂と言って居ろ。されば比較宗教の研究セ ︵ロ二︶ 第十九世紀後年に於ける大成功の一として人荊革の方面より研究の歩を進めたフ丁−ネルの如きは ヽヽ 比較宗教は自然宗教や呪物岩井の如き劣等なる宗放と院別さるべきヨリ進歩した歴史的宗教の比較 ︵h︼こノ 研究だとした。又斯邸に関する数多の芽遽を有するジェグーンスJe吉家は宗教輿望ーe評ien籍0︻謬− 茸iOnと比較宗教Cenェさr旨くe哲−山giOnとの両語を隅別し、前者を宗教史と同親し棟者を特にその 應用として應用宗教学 A葛−i乙警告籍。r冒︼igぎと名け、應用宗敦革は鮮なる料率としての革質 を研究してその一理法を記述するものでなく、キリスト敢が最も克く宗教の根本柿訓一ざ茨はしたるも
196 のなることを説くに在bとした。此の外にも比校宗教畢はキリスト教を以て宗教最高の形式とする 研究だどした畢ポがあつた。例へば マックロック己≒⊆。︵・︼一の如きも比較宗敢はキリスト教以外の他 の宗教は誤りとして来ることなく、常宗教螢連の階段にあ一心ものたるを知らしめ、由って以て宗教 の普遍性の信仰を確め、結局キリスト教が垂向階段にあるを知らしむるものとした。ブルドソ・ク ヽヽヽヽヽヽ ラーク 哲−deロC㌻rk も亦同法の鰻度でキリスト敢が宗教そのものT−−e謬−igiOnなるを知らしめ、 へ円田︶ 眞の宗教は自然に教生せしものでなく、超自然的のものなるニー、しな知らしむるに在らとした。併し ︵円五︶ 丁ポータエナックス そはキリスト教の誰敷革と混同したものであつた。ジュグォンスの﹃比較宗教研究序論﹄は一九〇七年 ゴンネチカットのハートフ†−ド神輿故に於ける、世界宗教に就いての講座としての、ラムソソ講義 で、試みたるもの一で後に著述としたもので、常時ジェグォンスは此の御輿校は世界中で應用宗教導を 記いた最初だといつてゐム。本書中、ジュグォンスは霊魂不喝 呪術、呪物輿邦、新船、供犠、造徳 性、キリスト教の順序で、宗教の一外形は様々に追ってゐても、等しく紳を求め赫とのコムミュ一−オ ンを最後の目的とするものだと説いた。言ふまでもなくそは護敷革であつて宗教畢ではない。 ∧、宗教学、宗教卑前世紀に於ける各柿餅究 宗教単なる名押はへーグ〝l二始まつたが、ヘーゲルのはヘーゲル㍍故事邸の忠義でぁつて、今日 の利率としての宗教璧仏る名祁及び意義の定まつたのは十九枇杷后隼拗の七十年代頃からである。 宗牧草¢響生
ユ96 宗教畢の教生 二六 ソーセーが﹁㌫敦隼の成立を叙する新が、詑人でも基開拓者として二軍語摩よりせるマクてミー ラーと歴史的研究よりせるチーレと一ぜ除′、︰−が出水ない﹂と言った此の二人から述べる主にする。 マタでミュラー︵一人二三 −一九CO︶が一人〇七年にローヤル、インスナチュートで閃阿、 宗教学に榊する講粥をへ㌧し、宗教隼が科撃として成立する所以につきて各方面より非誰を試み、そ 二門六︶ れを綿めて一人七三年に﹃宗教草序論﹄を出した。皆時宗忽如といふ畢名は何人にも梵英であつた。 本書小で﹁〓塑科撃﹂が﹁如何へ言意味で弟の科撃的研究たり得る﹂かは最早や、﹁畢に時の問題 ︵円ヒ︶ に過ぎない﹂といつたのは一種の辣言であつた。勿論マクス、ミュラーのけポ歓寧は産として言語準 的研究であつて、言語の研究は賓に思想の衣はれを見るに最ら稚かぢ方法で、又人件は宗故に於い て澱も溌筆サ。部分空ポせるものとし、言語と㌫放との不純の除−係により、m箭心や言語の起淑を結 びつくる糸は神話宗教の起源に求むべしとした。 ギリシャの賢一溝口ーマのJ=−一ぎr印度のせeノ1Pイランの亡≡′・pの悶に方程式が成・り立ったのは、 第十九世紀の一大発見だともいつた。今H宗放塾に普通の絹語となつたサンスクリットのアール ヤから出た﹁アー〝ヤ︵アリヤン、アリシJ㌫故﹂の語は一入円五年に出版したクーン.ト.︰芦=ぎ 二門八︶ の﹁印度ダルマニシユ㌫敢の最古の麒虹﹄と共に賓にマクそミュラーの釧耶よ♭出たものである。 之と同時にマクス・ミュラーの研究は多方面lニ亙り、一八七∩年から一九〇〇年よでに言語畢、紳
ユ97 話草、人類牢、心理準の各方面から着手して各その研究成畢で数次し、就中充力宗教の由拓者とし て梨仇吠陀讃歌り出版、特に多数埋永山チビ借りて一八七九年より着手され、殺鎮一九〇四年に一 と先づ完結された、﹁東方艶普L四十九谷は宗敢甜究に多大の材料を供給した。その研究結果特に宗 教超握に閲する自然説の如き、宗教の言語的分数の如き、固より今日から見れば幾多不充分の鮎は あつたにしても、常幡典端として数倍の一部から誹灘のみつた中で、大腰にその所信を殴哀した功 ︵円九︶ 境は没すべからざるものでぁる。 ︵玉0し されば後になつでチーレ︵一入三〇1一九〇二︶の﹁宗数畢綱要﹂を書いた嘩﹁今から廿五年前に マクス.ミュラーが推者や識者に揺如香しなければならなかつ柁が、今や此研究︵宗数畢︶は諦科畢中 に永絨的地位を待、廿五年問の研究成鵜によりて利率的研究を螢来するを得た﹂と言ってゐる。チ ーレの本音は一八九七年に輩いた序分中に述べてる迫り、曾て七年前にエデンでフ大串のギブフ†− ド、レクチェアーで講義したものを纏めたもので、ギッフォードがスコットランドの四大率に宗教新研 究の講座を寄附せる時、﹁自然紳畢﹂の研究のためどいふにあつた。チーレはその講座の諦鶉として ﹁宗教畢﹂といふ名で講義した。序分に此番は﹁宗致率序論﹂の粘りで古いたものだともいって居 ︵載こ る。マクでミュラーと同じく、チーレも亦常時の紳準着から反射され、一入七三年にロンドンのク エストミンクー・アべーで講演に招待された時の如きはその著しいものでぁつた。然しオランダは近 宗枚挙¢殺生
198 衆散華のt生
二八
代に於ける自由m心想の別天地で、デカートもスピノザもビエル・ベールも此地で思索の自由を享受した。絞って此別の四大邸は一八七六年に夙に卒先して票数畢の講座を置いた程であつたので、チー
レの研究も各方面に互bて票数塾の建設に不朽の功積を残した。一入六四年の﹁ヅ丁ラトシュトラの 宗教﹂を始めとしてその晩年まで、エジブト、一ハビロ︰−ヤ、アッシリヤ丼に自然民族に閲する著作を 公にした。多くはオランダ語でかゝitたが、上述め﹁㌫数学鋼業﹂と﹁宗教史概論﹂とは特に著名 で今村畢者の依憑とされてゐろ。就小後者は一入七三年−一入七六年にオランダ語の原本が出水 ると、その翌年には英繹、一八八〇年には燭謬が完成され、偽謬がモーリで.ヱルネ芦㌣ゴコlま によりて試みられた。チーレlま屈虹的研究がその特色であつたが、各方面に於てマタでミュラーに比して、より多く組織的となつて凍た。票数研究に形岱諭と木燈諭との二部を分かち、本概論には
宗教哲雄を配し、形膿諭では宗教螢通の階段と方向との二田より軌察し、前者に於ては自然数よb 倫理敦への発展を論じ、後者に於いて納入故︵納入同格数︶と紳政教︵紳人懸隔致︶とを随分せるが如きそれである。そして此の・自然数、倫理数の粗方は可ならに影壁を典へた。
ル示教寧なる名捕や方法ほ略此の二人によトて韮石は抑えられたが、前世紀中に此糀の研究を概挿
する公認の名が定まらなかつ化。
以上に列難しヤ∵も削り∼外、試みにジ†ストp−のり宗教研究﹄ジョルダソの﹁比較宗教Lツーセー199
の﹁宗教畢概論﹄申め盛考書目中から﹁宗致準﹂と﹁比較宗教﹂との名が使用されてゐる普通若く
は論題を盤げると、大約一入七〇年から一九〇一年までに各十除部を数へることが出水る。原名を
列摩するのは萬しいから著者を排列すると下の如くである∩沸教研究で有名なビュルヌフ Eug3−e 厨弓ロnO乾︵箪二版一入九四、英繹一入八八︶ダインJ・ぎロdenG訂yn︵一八八六︶レトレ甲Rbサ ぎ臥︵一入九四︶は﹁諸宗教塾﹂ Fpm瓦e口語de∽Religi。巳 をその書名とし、又彼の有名なリンチノ ベルゼ声巳e茅nbergerの餅此ハは Pcyc−。p註ied窃Seien崖Religie一岳︵一入七六1八三、十二審︶ と超し、タープJ挙声名邑ュ一入入九︶は﹁宗教畢﹂といひ、チッシャクゼルC.ゴ∽Cba寓り︵一入 九一︶は﹁宗教史序論としての宗教畢︵謬︼山gi。記弓訂nsch註︶鋼軍﹄と過し、シャノンP・9鼓叉l 八九人︶は﹁宗教畢﹂訂Scien籍de︼pRe−igi。nと名け、レグヰユR晋i︼−e︵一入人丸︶は﹁宗教畢﹂ と言ってゐる。然るに同じく一入七〇年から︼九〇一年までにケプログ■叩∴R●芽−10g︵一入九九︶や でネル∽−1eご︵芦芦︶やは﹁比較宗致﹂9mp冨tiくeR註giOnをその番目とし、♪ルデイ︰甲i計rdy ︵一八八七︶は﹁一般比較宗教畢﹂ せieA亡gemeineゴrg︼eie−−ende詳−ig⋮○記弓i語n等訂辞 をその題放 とし、ツーセーSP扇a嵩︵一入九人は︶﹁比較宗教研究﹂せieゴrgleie訂nde詳l山gぎ珊穿孔昌ngを名としてゐる。此両名が任意に使用されたことが明かである。
さればマクス、ミュラーの﹁宗教準綱要﹂が一入七四年に掲謂された時、特に更に﹃比棟宗教隼綱
宗秋草の‡生200 三〇 来秋準の菅生 ︵電こ︶ 要﹄と改められた。抑も宗教埋と言っても研究内容は宗教史であつたので、ソーセーの英評言ポ敢 畢概論﹄の頂讃はヨポ敦史概論﹄であつた。 今自でもイギリスやアノリカでは比較宗教の語がまた流行してゐて、最近に昭た著述でも桐此名 を冠するものがあり、依然としてマクでミュラーが一入九人年に桐﹁㌫教典如ち比較抑準﹂といつ た時代のことセ回想さするものがめる。然し比較宗致は古代︵最古でなく︶の㌫敦一ギ弐とし、史的 関係のみを韮親して、異特異桝に於ける包措的なる研究ではなかった。人相草、人相寧、考古学 心理草、政令準、敗軍の各方面からの研究成果を綜合する撃語としては或る局限せる国史を作ふ比 較奈政よりも宗教稗を選ぶペきでぁる。此の両語が殆んど同時に行はれて北ハに宗教史と小小数常畢と を資料としてむるので、両者の陸別空軍密に規定し難き事情にあつたが、大橋ハポ教学は宗教研究の 各般を地帯する場合に位川され、比較㌫敢は瑳ばれたる一部一り研究に名けらる、ジョル〆ンは比較 ︵‡lエ︶ 宗教は㌫敢華中の一部で﹁一都草小の一利畢﹂だとも言ってる。併しこは︷パ敢やが今尚建設小にあ ♭て落成せぎる一望鱒映するものである。ドイツに於いて宗教隼に貰献せるプライデラーは︰八八九 年に﹁樽追撃井に㌫数準灘証﹂で﹁宗教軍に於ける進化説の擢利﹂の論説一で出したり、﹁㌫政孝とは 何ぞや﹂が可なりに論議された帖代であつたからして、ソー七−が十九世紀末に﹁宗教学は最近に 掲流せる︼新科畢で未だ充分一い費通を蓬げ亨、今川その輝い椛利い承認で草ってぉる﹂と言ってゐ
201
るのが箪抒であつた。
宗致準は諸科挙の祁助を根号て人斯精細山蕗物−−入関の努力によりて人類の歴史に衷はし待た る文化現象−1・liとして宗教的餅欝を科準的に研究寸るものでやんから、各小ポ教の輩賓を蒐生し之を分析し批判し、各椰表現い根粒に拭は皇英和帥ち事賓を理解し組純統一ある研究をなさんとするも
のである。然るに凡ての斜隼的研究は三期を経過すべきもので、第一期は資料菟集時代、琴一期は資
料調究時代、節三期は原則推定の時代是である。そして此の三期は縦に次第さるべきものであるご
同時に杭に並術すべきものである。されば最初は人類歴史上の革質と見て宗教史的研究に向つた。
オランダのチーレもツーセーもまとして犀史的研究でぁつたし、チーレがライブン大串で斯畢の
フランスで宗教ぬの致授とな♭、フ
教授となつた一入七七年から三年後、フランスのコレジ、ド、
ランスに於ける宗教拳の開拓者であつたレグヰユも一入六〇年よh二八八三年までのその著述の大部分は票数由に㈲するものであつた。ペルジックの宗教申開拓着たるブリュッセル大卒の〆γギーラ
も亦﹁一般㌫放免序論﹄を始めとして史的新究であつた。スヰスのオレリ、ドイツのブラ11ブラ㌧アメリカのクラークやトーイなども常史的研究がま眼であったので、多方面なる研究と共に上越諸
氏申め代来者の発雷中には概ね宗教史概説類の著述があつた。従って比較融究が兼崩され比較宗教
が宗教の科草的研究の公部でぁるかの如き考すら起って凍た。叉脛史的研究は常然、考古鍵的研究
宗教嬰の哲也20三: ︵注目ノ へ長江 を起し.同時に叉雁史以前の考#草た乙人顧草的研究上進むべきは必然∵ムつた∴兄に又遺徳と宗 の密接なる閻係より倫理的研究が重宝なる邦分■で占め、従って十九世紀末までにドイツでもフラン ハ下六︶ スでもイギリスでも此方面に閲する数多の著述が出てゐる。又東軍椛系中には何れも皆崇疲上の根 本問題が合まれてゐるので祈準的研究を除外することが出水なかった。杏奈敗軍の如き特殊の料理 が全然暫軸と伎交渉にて成文するものでないから、此庭でも十九世紀彼竿だけで可なりな著述が衣 ︵菟ヒ︶ はれてゐる。又紳話なしにも㌫数は出水るが、一両では所謂は宗教と異惜扁身と見侶すべき粍塘接 なる関係があ一心桝から訓話搾との相聞ノで見出すに努力し、従つでイキリスのラングにもマクス●ミ⊥ ラーにもフランスのルアェーブルにもレブヰユにもオランダのソーセ一にもチーレに1h紳訪の研究が ︵丘ヘノ ︵丘九︶ 必ず随伴してゐた。之と北ハに又人種準的研究、俗話研究を起した。併し㌫敦は要するに人間の精神 ︵六〇一 現象とすると心理的研究■で批くわけには稚かぢい。更に宗歓は必す乱曾的圃結′ピ作るもの故、基㈲丑 ︵六一︶ 活と宗教との閤係一で諭す一山必要があら此塵には政令堺的研究■で必婁とするに至った。併し釣十九世 紀末迄は主として新車的、思耕的研究が混在してゐ・心から、比梗的純な一り斜隼的著述が少かった。 一八八三年にその節一同をシカゴに聞いた世界宗教大骨.同じく前世紀後草期中に出水た、ヒブ イー㌧ ギブ7I−ド、バソロース等の講義、各大埋に於ける期草の講雌を帝として記すべきものは多 々あるが、就小、前放屁末迄のノ斯解析究の磐考薔を詳述することが洪水なかったから、そは常時氏 ルポ批埋′り賢覧
203 ︵カニ︶ に数宵邦に通してゐたことだけを附託して置く。︵近代に於ける宗教研究上の一大革新、 駄 (六) (五)(三)(一) 宗教串¢敦生 Hら乳e︵いぎbert R・︶−ヮiヨi−⋮TのReぷ富n一−¢望・pp・∽誓−U山り・ 弓Oy︵CrP毛才一d声︶−㌻trO︻どct⋮On t〇t訂冒山sどrtく OrR巴填0︼ぶ︼巴U・︵邦謂−宇野則空、赤松智蛾両氏北ハ謂、宗教史概論上怨︶ StPrt己C打︵Ed司ぎ∴P︶−The汐呈どlOg︸0へ如e︼igi呂∼−00苫・︵邦諸−小倉捕三郎氏謂、票数心理畢︶ Jpm皮つ言l㌻日︶、ノ、ar訂t⋮空つり冒l慈呂SE増erieロ昆﹂警ド ︵邦詔1佐久間鼎、佐藤繁彦両氏共謂、宗教的政経の種 々相。比帰城安定氏謂−琉歌的経験の諸相J ワatt︵J巴ぢ訝=印︶−T訂芽︸多つ㌻gヽCrR2︼igiO民出dieト一望↓● ︵邦諸−加藤玄智氏等諸、宗教信仰の心理︶ mtr蔓21︵G・ソご︸ヮり︹一−ヘー一こ顎︵−つH訂l⋮g㌻e巳声︼2−−旨d乱・︸g︼匹 弓undt︵一ゴー訂︼ヨ︶一ノ、乞訂rp人り・︹ぎ︼〇g訂●︼父呂丁−−︵七地中の第二部、紳詣ミ宗政︶ヨem昌t巾d史∴く堅ke竜埼eFO︼Ogi已¢−岬 ︵邦謂−桑田方城氏詫、民鹿心和学嬰論︶ せロrk訂⋮臼︵E・︶一Le∽廿OrH︼重苦meコ邑為de︼pT訂re︼宣0亡Sp︼巴柏●Eコg.tr一↓F巾H︼e2邑a一句㌘r己○、詳︼噴uus巳話 ︵b句Ⅰ●ノ一.●Ⅵ司Piコ︶.−讐P. ヽ、ノ JOrd§ハr男りPリJ竃賢e家igぎ︰Ⅰ−芸2口数邑昏蔓=冨・本譜ほ比較宗軟隼虹の参考巷上るべき ヽノ もので菅粛にほ此他に等Lく比較宗教と趨ぜる他り背逃がぁろ。 口 苧ヨp弓已iTの㌘−igiOヨHts試芝どd巴乙哲○写 ︵ ヽノ ︼害∽・ ハ 91壱aratiTe寧リー宜昌ニt∽A丘GnC訂雪dA︼︼i巾♪︼巴㌢ 本書の第一郡にに人相畢、人相学、紋付鴎、考 ︵ #撃、榊摘草、音譜撃、心理隼、宗教史、宗秋型の棚助畢科に閲すろ各方面の巷考尭流石廠介L.準一部にli耕畢的方 法り進歩、キ川′スト軟の消散畢的層逓、聖他面諸、畢打、那典−親電等み紹介L.墾二部には比較宗教桝の朝方諭忘戒 CPrpgte↓︵Edヨrd︶︸謬gaコ§ユCごr訂㌻コ︹r佗乳Ⅵ・づ訂ir Or啓一1宣エソ一つヨ3.射・−汚P pp・−1ム■ ヽノ ヽlノヽノ のり 澗 冒is己sヨa。dTつーeヨis巨山二訂誓gエロ一。・邑、p邑㌻ウ、翌igi。。巴乙Eth訂 (二) (イ)下 )
20・1 (責〕(嘉)(云)〔圭)(三)(責)(完)(二占)(六)〔宕.)(=)「三)ぐ岩)(八) ㌫軟畢の器正 rO料e︵Jこ≡︶一・・′1ニ・㌢−リ⊥.ニ≒§−in明l訂︼どー=ドコt.1乙eフlE乙iコ甲ご誓.デ︰竺−已︶㌻;ヰこrCニr㌢i︰≡⋮す;声 ヽ−ノ 一四 J一ぎl阜ニー㌻一㌢−ご︶∴r︰−ご︰忘〓イ︰二㌻r TO︼呂︷−︵し〇ぎり二.1−r㌃ェP一一ご.く㌢︶tソ丁・Sl雪いCl−佑.︼冨︻い一 ︵ ︼−ヨ完︵L汀㌻㌻︶一㌢巨−・L〓㌻u−J、〇、︸訂音㌻nこ訂り● Cしご︸己︸亡㌢妄−・キ2:−︰咋㌻こ≡乙:きl︼㌃望≡Sつこ訂︵︺l−rいエi︰≡−E各ニ〓﹂リヒ. ヽノヽノ 完 八 ︼︸.︼ン・ ぞ㌻〇さ一ゴ﹂ヒ三人ゴきシ奉告⊥−こ〓l㌻〓予︼票G ︵ ′.\ \、ノ H作乙雫こ﹂㍗舌ロ︶〓竺︸望r〓1i訂Cp㌻:訂二t・己−㌻ご︰l彗ソl壬享〓・C㌢︼誉迄 八 ︼﹀・㍍・ ′−\ 巨富㌢暫ソ望㌻コ計rノノ.什i準 ヒ蒜.亨N㌃rH毒しー訂ヒel−巴−§択?㌻軒︼11y ご正常√イニrl廷−コ竃=−㌃巧ニ㌻︼−−−こ〇三︼︼l︰竺訂r−gig㌻コ・−㌍琵・P乙〓乳・㌫さ 団Ge打︼e︶:ii致つ1・守っ﹁C⋮T〓ぎー㌻二=︼㌢g15−︼﹂簑S・ \ノヽノ ]冒Oe才1㌻ 一一八 宇㌢ ′、、 ︵ \ノ
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′し 00咋より二九〇九隼よての参考許な紹介・してゐろ。第二牡lこti一九一〇隼から二九一∬隼までの参考耶な朋介†ろ︰ とlこ七つてゐ㍗が、公刊されrかポかわ知ら互い。此他背痛lェ一九〇九咋lニローマ人顆の ︼.︰こ巨−3 との北ハ詔て ぺ訂 S旨lγ 〇りH£質Cl二=一㌻︼l︰L㌢−︰已コi音数t訂 の′著わろ外、以前から仰二三の斯菅の一株骨な机、してゐt。 ヽノ 九 ︸s訂呂d?“r㌃ J邑r¢毛つr01riこ一丁訂才lニ.↓ニ〓定言富P︼箋r ︵.ニPマー∴マ︼. ︵ ソFHソどe宕1こ旨・︵=l詫tど:eこト什才㌻コ︹e〇こ訂︼直言.App雪致H10Ch“や︼こ︼・票︵邦謂1清水友次郎氏謂、宗秋畢湘軍い㌧ Jhご″・隼︵﹂﹁ユ≡︶りご︹㌃m芦u肌〓爪rr幕〇二︼−ニュELニ毒. 肌旨いth︵ト∑車l警−︶一ヨ勺Rを町i三−㌔⊥ご∴√⋮訂ふこJ︹㌻︹仁,て=﹁ 宗教研究漸第一聡耶一献.∴九 − 三〇、ソ㌻Hソ︻uel訂r︸ロー㌻er已︼E⋮gil芦︼岩JマUl・ ︶ 〓 ご︰5−Lハこ︺=警−つー蔓草㌻・ごe∴芋r〓J㍉ンこ.. ︵ ヽlノ \ノ \ノ 圭一・翌のイ p・︼崇 ′lヽ ︵ ′し
コ〔5 (豊)(針〔ご;1こ−誓)憎)(克)(天)(宗)(孟)(孟)ほ)(望) ほ)(孟)(云) Q仁り㍗︵G〇ごel︶︸H無言iOnP已巳0計りn艮i已号ノ†寛iつn㍗㌢已琶メサ邑∵⊥ J乎0戻︵呵2n打出勺OnリーAn訂trOdllユい〇U t〇↓訂S岩音〇﹃COヨつぃヨtγe山荘i叫いOU∴笠肋・ 中吊枇里の距症 寧廷︵Aオ邑el︺.ぎ・e言㌢︶:ノ・i軍U:ご空ir㌻.か心のりp.襲 ︵︵′−\ H且e︵ThヨJ”月︶.つ古刀e音㌻コつご訂︸︶e且︰⋮S∴りき 吋iβr紅︵謬コl︰与Cド已訂ヨ弓i︵・ナ冨ココ・eニーT訂︵〆き5ni丘S︰2ニ冒言㌻ll肌ロき≡Sつごhゆノ、−Jrぎsソ︰こぎー︰J=ざ 折口○司Pノゴ︶ユd︶−りい︰” 、,ノヽノ 彗 八 マ声 Hすp已s︵○さユ袋﹃1羊Ci㌦︶、Or釘≡.e計tCGこe山︹乙le∵己︼・㌫0ミ㌻︼u−賢e誌l︰e. ′し′■\ 9邑Plユ︵HIeDri官且ド︰︼︼⋮ユ一↓e︼い=eJig⋮0Ilこ・三を㌫︰針︵㌻n肌さヨlr︹e−蛋㌢ヨ義仲1壱㌫諸㌻prゐヨ3才 厨弓rO雲、T訂ノブ→弓机七Pナ㌻ご︸苫t〇﹁ロl茸㌻n′−空こ∴rひ∴い一 ソ訂訂ÅChTiぎp︼︸︶りGコ弓㌻㌃︷灯︵小e汚㌫賢e≡≒︼工正i〇記事∴㍉誓.Aご習じ軋記㌘い乙嵐−丘︵訂L−己1t2Ler㌘li明iOnぎ
写i乱打︵i㌻ユ○ェ‡e山︶ニー︼・こ︺丘■直っ琵JP Nこeい話−; ノノ∴毒完︼克こ㌻﹁eJ ソrュ㌢︼〇且e︵訂tヨ計c告nlつPSe軒ti詳S宣eヨ
ヽlノヽノ ﹁じ︰・料i マひ声 eへリー王ど㌻gユ. 一し︵ SP冒だe︵P・n︵ピ㌻妄づ両つ計㌻︶一−.e一一r言︵・ざ計∴京#㌻羞e三︷・ご竺七一山リー︶こハ=い一=二㌻コuLユ〓訂ぎe焉仲○︻H無・ g−01−・︼芸︼・ヨー∴︼−ん. \ノ. J乎C−浣︵F・声︶りCこご竜ド巨㌢仲︼邑igi01ニ誓叫.八 琴芝⊥㍑に∴九〇〇隼よでり分場わ銀塊L批評亡てゐろ。仰ト ′し 今=でし一般ド承認さろゝ分瓶ほ未だ出光い。潜、周菅射鬼集中l︰わろ斯畢め現涙でlェ止むな相克いことでわろ。 F雪−1邑︵F買粁2c訂rd︶−巧打苧○ぎi害〇r訂﹂i号芦.ご.ぎ︷ざっ瑠︼○甘藍Ⅵニーキ・軍↑ 、 こ巨竜−邑IL琵urけ○ご訂ノご∑ルL竺誓e i︰−㌘ゴー邑買︼﹁⊃ごJ竃rPl許冒︼i号nこ害P カ〇Le■・︷壬=︵J︻一どソ︻.︶︼ 才官一GFl・⋮君︰要覧いe∴〓 ︵.こ≡叫︼巨岩⋮ノ・什︼︻訂乙︵︶巧∴壱︰㌣ ヽlノヽノヽノ ⋮“七りエp・−−、−・ ■し ︹ ︵ ︶ ︶ 二川 崇 ′し ︵ 三五