――目次――
1,
神話の説明性の問題,松村武雄,Takeo MATSUMURA,pp.1-21.
2,
唯識思想と純密教,神林隆浄,Ryūzyō KANBAYASHI,pp.22-35.
3,
宗教伝播における地理的制約,キリスト教を中心として観たる,稲垣了俊,Ryōshun INAGAKI,pp.36-60.
4,
イスラエル民族のレヸラ婚と其の宗教性,松井了穏,Ryōon MATSUI,pp.61-69.
5,
初期仏伝文献における菩薩の世間観察説話について,平等通昭,Tsūshō BYŌDŌ,pp.70-82.
6,
ヘラクレイトスの人間解釈,土井虎賀寿,Torakazu DOI,pp.83-96.
7,
『使徒パウロの神秘主義』,佐野勝也教授の学位論文を読む,三枝義夫,Yoshio SAEGUSA,pp.97-104.
8,
「上野隆誠氏著宗教心理学」の要綱,田淵正範,Masanori TABUCHI,pp.105-112.
9,
高山寺法鼓台所蔵宋版章疏大観(承前),附,写本及欠本,常盤大定,Daizyō TOKIWA,pp.113-129.
10,
写真,故シルバン レビ博士,p.130.
11,
シルヷン レヴィ博士の死を悼む,高楠順次郎,Zyunjirō TAKAKUSU,pp.131-133.
12,
シルバン レビ氏の追憶,姉崎正治,Masaharu ANEZAKI,pp.134-136.
13,
故シルヷン・レビ教授学績の一端を偲ぶ,山口益,Susumu YAMAGUCHI,pp.137-144.
14,
輓近新約研究の諸傾向,三枝義夫,Yoshio SAEGUSA,pp.145-146.
15,
新刊紹介,pp.148-155.
Posted in 1936
(昭和11)年
神話の説明性の問題
松 村 武 阻
∵
宗教畢・神話畢界で餞りに疎渾に且つイージー・ゴーイングに取扱はれ過ぎてゐる問題の一として、神話の説
明性の問題がある。この間題は主として竺一つの考察封象を含んでゐる。﹃神話に於ける説明性の有無﹄がその
一であり、﹃説明性の意味・性質﹄がその二である。
﹃神話に於ける説明性の有無﹄の問題は、自分にはあ妄り興味がない。なぜならこれは単に何を神話とするかの
見解の喰蓬ひの産物に過ぎないからである。神話は本質的に説明的なものであるとする見方−例へばジー・エ ル・ゴム︵G・L・GOmme︶がその著﹃歴史科撃としての民俗畢﹄︵.2k・−OreaSan HistOrica−筐eロCe︶の中持し、
﹃神話は、或る自然現象、忘れられ若くは知られざる人間的起原の或る事物、又は持綬的影響忙有する或る用
木事の、承認せられた説明である。﹄
となし、︵1︶ジェー・フィスク︵lObnFi浄e︶が、その著﹃神話及び紳話作者﹄︵My旨sa已My苧Mak慧︶に於て、
紳話の説明性の間越 JOOJ神話の説明性の問題 二 ﹃神話は、その起原に於て、非文化的心意にょる或る自然現象の説明である。それは誓喩雷で.もなければ、容 儀的象徴でもない。⋮︰・それは一の詮明である。﹄ となし、︵2︶更にエフ・ピー・ジュグォンズ︵F・B・JeくOnS︶が、氏は茸に神話に於ける説明性をその本質と敬 する鐸々たる畢徒の一人であると云へるが、その著﹃早期宗教に於ける紳の観念﹄︵TheIdeaOfG乱iロEar−y Re−i乳OnS︶に於て、 ﹃神話は、何故に紳がしか属したところを為したかの理由として、共通意識によつて見出され且つ採持された 理由から成り立つてゐる。若くは本原的にさうした理由から成り立ってゐた。この意味に於て神話は推原論 的︵aetiO−○乳ca−︶なものである。﹄ となし、また、 ﹃神話は推原論的である。その目的は、蟹民にとつて説明を要求するやうに思はれるすべてのものに理由を輿 へ起原を説明するところに存してゐる。﹄ となした如き見方も二3︶はた之と封眈的に、神話の本質に閲する限りに於ては詮明性の存在を否定する見方− −例へばジェー・1−・ハリスン女史︵JaneE−−enHa鼠s。n︶ が、その著﹃テミス=希粗末教の社食的起原の 研究﹄︵Themis、ASt已yOfthe許cia−Ori乳nsOfGrrek Re−i腎ロ︶に於て、神話の本質に詮明性の内在す ることを強く拒否して、 ﹃御嵩は推原論駒であることに鵜まるものでも怒く、また磯原簡約であることを必要とするものでもない。耐 JOOβ
ria︶から 神話の説明性の間遁 話の目的は最初に或る理由を輿へることではない。さうした観念は、究明に傾倒し記ruヨCO習OSC巧eCau sasに生きてゐる有閑にしーて執芯な探究者を原始人に見たところのかの古い合理主義者の迷誤の一部であ る。﹄︵4︶ となした如き見方も、神話を或る範噴に限定する限りに於ては正しく、而して同時に該筋噴を超えたときに安首 性を喪失するといふに過ぎない。神話に於ける詮明性の有無に関する見解の封舵性は、畢寛するに神話に於ける ﹃特定範噂﹄と﹃垂範噂﹄との混同の産果に過ぎぬ。かく 自分はこの問題を擦過して、専ら﹃神話に於ける説 明性の意味・本質﹄を考察問題として採り上げる。 〓 神話に於ける説明性の意味・本質の問題は、説明性の有無の問題と異って太だ複雑多義である。が、従来の畢 界は認識不足のために平然として之を各ヒ或る一視角からのみ眺めて、それで満足してゐるのが茸情である。 畢徒の多くは、神話に於ける詮明性を﹃料率的﹄であると見なしてゐる。神話の詮明は想像に基くものである が、その想像は、決して政志なものではない。まさに科挙的想像と呼び得るところのものであるとなしたジュグ ォンズの見方の如きは、その一例である。︵も︶更にエルンスト・グローセ ︵Emst GrO∽紹︶ は、その著﹃垂術 の始原﹄︵DieA已旨駕d巧K亡ヒ玩t︶に於て、これに類同した見解を披涯して、神話に於ける詮明の科挙性を力 説してゐる。氏はブラウ・スミス ︵Bl・〇亡gh・Smyth︶の﹃ヴィクトリアの原任士族﹄︵TheAbOrigins Ofくict? JO〃β
﹃最初ペリカン鳥はすべて黒色をしてゐた。が、或る日一羽のペサカンが女のために欺かれたのを怒って、人 間と決闘しょうと決心した。その準備として饉を白く塗り始めたが、︵オーストラリアの土人は戟岡に出か けるに発つて饅を塗彩する賓修む有する.。︶.塗彩年ばにして、他のペリカン鳥が訪ねて釆た。そし七草白牛 黒の姿を見て怪鳥と思ひ誤り、瞬の一撃でこれを殺してしまつた。今まではすべてのペリカン鳥ほ眞異な色 をしてゐたが、それ以来黒と白との交雑した羽色な有するやうになつた。﹄ といふ説話を奉げて、︵6︶ ﹃これは茸に原始的及動物畢上の説明に他ならぬ。一照準術的説明の特色は、その原因の未だ知られてゐない 或るノ一現象を、その原周の眈に知られてゐる現象や或る種目に組み入れることである。而して七わオー一スー ラリアの説話は精確に此の原理に合致してゐる。﹄︵7︶ となし、更にまたブッシュマン族の一個の星辰神話−ブッシュマン族の組先である一人の女性が、人々をして彼 等の家族を見出すてとの出来るやうな光を作らうと思って、輝いてゐる熱衣を茎中に投げ上げると、その火の粉 が星となつたといふ紳話を塞げて、 ﹃ブッシュマン族が此の子供らしい説話を案出した観想の過程は、その以後の時代に於て極めて重大な諸費見 及び深刻な洞察に人類を誘導したところのものと、原則に於ては同一である。﹄︵$︶ となし、Lれ等の神話を単に客想的と断じ去るのは、高級文化民族が、﹃茎想的﹄なる概念が異なつた民族の間に 於てその意味の廣狭の太だしく異ってゐる革質を忘却tてゐるために過ぎす、この種の説話は寧ろ科挙的である 神託の誼明性の問題 JO∂4
と主張してゐる。
紳串の詮明性の性質・意味に関するかうした見方が∵詮鳴性の一部を把捏してゐるといふことは、何人も之を
否定することは出来ないであらう.。 ヘンサイ﹂べッ、ト︵He胃y謬tt︶はその著N亡r琵yRhymesandTa−esの申で﹂自然神話を目して原始人がおのれを繰る自然現象を訟表説明するために働かした幻奇な想像の産物であるとなし、而して這般の見解の基
づけとして、一旗行者tヵフィル族との聞に行はれた問答を鮎出してゐる。カフィル族のセケサといふ男が阿弗 利加の次行者アルブルーセに語って、−1自分は十二年が聞家畜を飼ってゐるが、日暮れに岩の上に坐つて心中に起る様々の疑問を解かうとして未だそれが出来ないでゐる。誰が星を造ったか。何が星を支へてゐるか。︰⋮・ ヽ
誰が雲を逢ったか。⋮:■誰が風を吹かせたり荒れ廻らせたりして自分たちを苦しめるのか。・自分はまだ樹果がど うして出来るかを知らない。昨日まで辛が無かった野原が今日はもう青々としてゐるq誰が大地にものを産む智慧と力とを輿へたのであらうかと云つた。ベットはこの事茸を奉げて、
﹃固よりこの談話は野蟹人としては程度の高い方の観想を代表するもので、未閑人の問では普通に見出されな
い思索的・懐疑的な熊度である。然し敬遠の初期段階に於てかうした探求心があらゆる謎を解くために怪奇
な説明を企てることは明かである。﹄
と主張してゐる。︵9︶吾人は自然民族の心性が高度の神秘性から成や立つこ上を力詮するレゲィ・ブリエールの 見解に賞せすして、︵空この見解を排挺し、自然民族が可な牒の程度にcaトsa吉に瀾心上理解とを有するこ 紳話の説明性の問題 ≡瓦 如ゐ一 六 神話の説明性の問題 とを主張するダブリユー・シュミットの見解に賛同するものである。︵11﹀賓際自然民族の茸生活を注疏するもの は、彼等がcausa−ityに思惟.・行動の基礎を置いてゐるととを誇示する幾多の事例を見出す。ベットが奉げた事 例の如きは、程度の差こそあれ、自l 然民族がよく経験する心理である。だから神話に於ける説明に若干程度の知 力的探求に基づく科挙性を認めることは、決して事茸を裏切るものではない。 然しかうした見方は、或る保件の下にのみ安常であるに過ぎぬ。而してジエグォンズやグロ−セは、その﹃或 る保件﹄の存在を見逃してゐる。そこに吾人の不満があり、同時に問題の未解決的部分が凍る。 問題を或る範噂の神話に局限してもい神話に於ける詮明性は必すしも知力的探求の性質を帝ひた科学的たもの であるとは限らない。自然界・人界の事象は決していつも常態を持繚するものではない。時には異常の形相を呈 する。而してさうした異襲的事象によつて刺衝せられるものは、民衆の知力ではなくて感情である。彼等は這般 の異轡に封しては、落ちつき沸つた心的紫慶で知的にその謎を解かうと試みる傲裕はない。彼等は恐怖し狼狽し、 自ら奈何ともすることが出来ないで、何等の拶助を求めようとする。援助の求められるところは、多くの場合祀 倉集囲の尋常一般の成員以上に力能を有すと信ぜられた巫人でなくてはならぬ。而して巫人はさうした場合神懸 りの状態に入つて、這般の異欒の原因・起原を民衆に俸へる。そこにも亦神話聾生の大きな一因がある。 ジュグォンズはかうした事情を全く見近してゐる。氏は言ふ、もし民衆の注意を据へる事象が、社食集囲の成 員に行動を強ゆるものでなくて、その好奇心を刺衝し思考をそそるものである場合には、その疑問に封して思考 酌科挙約な説明の性質を帯びた答が生れる。それが即ち神話である。之に反して若し属衆の注意を捉へるものが JOOβ
或る災厄であり、救済を要求するものである場合には、武舎集圏は所躊と供犠とを以て紳に近づく。その日的は 葺際的であつて思考的ではない。かくてこの場合には神話は教生しないと。︵響 これは一見聴明な見解のやうに 思はれてゝ賓は低い文化階督に於ける重要な或る集囲心理の饅動を見落してゐる。民衆の注意を捉へる事象が、 何等かの救済を要する底の災厄である場合、民衆が焉すところは、なるほどジェヴオンズが云ふやうに、思考で はなくて行動であらう。神話的思考ではなくて呪術宗教的行馬で挙らう。しかし這般の行焉が何であるかは、氏 の考へたやうに一本路ではない。もしそれが﹃所躊と供犠とを以て紳に近づく﹄といふ一本路であるとするなら ば、這般の異常事は、勿論神話聾生の機縁とはならぬであらう。しかし路は他にも通じてゐる。災厄に愕き恐れ た民衆は塵とその原因を探り出すことにょつて通常の封策を講じょヶと考へる。いな、先づその災厄の由つて来 るところむ見出さなくては、﹃新宿と供犠とを以て紳に近づく﹄ことすら不可能である場合が少くない。彼等は紳 に琴つくに先立って、いかなる和が這般の災厄を降したかを知らなくてはならぬ。かくして彼等は所稽や供犠の 宗教的行焉に出づる前に先づ巫人に趨る必要がある。これは吾人の畢な推測ではない。蜜際に行はれた厳然たる 事茸である。 古代日本民族の如きも、彼等自身の知力で測り得ない具欒が起ると、いつも巫女にもたれかかつた。小商い丘 ク●シ カムダテ に設けられた紳館に坐した巫女に、神秘的力能が潜むと信ぜられた酒が輿へられ、精婁が潜むと考へられた様々 の楽器Ⅰ琴・槽・臼等 − が晋を立て始めると、巫女は神懸りして舞ひ狂ひながら紳の託宣を聾し、而して審 ニハ 刊者がその意を判定して民衆に之を俸へるのであつた。︵讐 _7 紳託の説明性の問題 七 JOO7
八
神話の説明世の問題
アイヌの間に於ても、さうした巫女へのもたれかかりが茸際に行はれてゐた。彼等は天災地欒が起る毎に巫女
ウス の許に趨る。と、巫女が所謂﹃紳降し﹄を行うて、さうした具欒の因つて来るところを告げる。嘗て有珠の焼山
が山焼けして多くの死人を出した時、アイヌ人が惇き慣れて巫人の許に行くと、.巫人は神懸りの状態に入って、
丁・;ル
モロコカムイ 有珠の人々が外海の方の村々から、紳の喜ばぬ歌を俸へて、日夜之を歌ひつづけるため、眠 紳が眠ることが出 一
死す、蕃つて人々を重殺しょうとしたのであると告げた。︵14︶而して巫女のかうしたロ占は疑もなく一の神話である。更に山津浪が起った際、人々が巫女に走ってその理由を知らうと求めた時に、巫女の口にかかつた託宣の
詞書−1﹃我、姉に育てられてあ旦茶々、豊川の上流に、大鮫が国土を壊さんとするより、我赴きて、その大紋を退治し鮭へて、勇猛な足踏雄々しく湖岸を往きつ戻りつ言奉げする勢に、湖水が撼れ動いて、湖岸を溢れ、溢
れた山水が、ひたくと一方は十勝川へ、一方は日高の砂流川へ、堕ちて流れて大山水となつた云ふ﹄の如きも
正しく紛れもない神話でなくてはならぬ。︵讐ところで、かうした神話に於ける説明の性質は、ジュヴォンズやグローセ等が神話に見出した説明の性質に封
して頗るデリケートな鮎で毅然と自己を直別してゐる。考察の便宜上借りに後者を第一種の説明とし、前者を第
二種の説明とするならば、
m第一瞳の説明が、自然界若くは人文界の持繚的現象に封する知力的探求から追出された科挙的説明であるに ノ 反し、第二種の説明は突蟄的・欒態的硯象に封する驚異感情の産物である。
㈲第一径の説明は、意識的であることを特徴としてゐる。或る事象の成立経由を解明することが心的活動の目
JOOβ的であることが、之を試みる者にはつきりと意識せられてゐる。之に反して第二種の説明は、牛意識的若く
は無意識的であることをその本質としてゐる。巫人によりかかる民衆は事象の解明を欲してゐることを自ら
意識してゐるに蓬ひないが、よりかかられた巫人そのものに於ては、説明の意識は膜ろであるに過ぎないか
若くは殆んど快漏してゐる。巫人は受身である。紳の言葉の殆んど器械的な停達者に過ぎぬ。彼等が詮明を
意識してゐ空ことは、かうした神懸りに塵と新鮮計が重大な役割を演する事葺によつても、容易に窺ひ知
られる。巫人の口占はそれ自らに於ては往々にして意味不明であり、審紳者がその口占を解繹することを待
カムゴト って、民衆は始めて巫人の言ふところの何であるかを悟了する。そ七てその時に於て始めてロ占−紳語1 −即ち神話に内在する説明が明かになる。㈲第一種の詮明は、神話を生む者の初めからの意識的な狙ひ所であるが故に、神話の成り立つ瞬間から顧在し
てゐる。之に反して第二種の詮明は、巫人の口から出たままの神話に於ては、一の潜在的説明︵thelatent e眉lanatiOn︶たるに過ぎす、或る者の示詮を通して後に始めて顕在的説明︵tbemanif邑e眉−anatiOn︶即ち詮明としての用をなす誅明となる場合が少くない。
︳ヽヽ
ヽヽ ㈱従って第一種の詮明は、動かぬ説明であり、第二種の詮明は、動く説明若ぐは動き得る可能性を内在させた
説明である。第一隆の詮明は、その説明を試みる者の自意識的進程内のものであるが故に、成り立つ舟神話
カムゴト に於ける説明は、一定の、他にとりやうのない意味だけを持つ。之に反して第二種の説明にあつては、紳語
−神話を口にするものは、l詮明を意識せす、他の解繹者がその神話に或る説明をよみ取ることにょつて詮 訓話の説明性の問題 九 J(フ0ク押詰の詮明性の聞直 一〇 明が成り立つが故に、成り立つべき説明そのものは、解樺のいかんによつて自ら異り得る。 かう考へて来ると、神話の説明性は、決してジュグォンズやグローセ等が思つたやうに、しかく単純なもので はないことが決る。 三 ヽヽヽ 神話の説明性に閲するジェヴォンズやグローセの見解は、今云ったやうに動かぬ詮明のみを認めて、更にその ヽヽ 他に動く説明の存することを見落したところに、大きな認識の不足を露出してゐるが、更に一歩を進めると,さ ヽ︳ うした見解は問題の詮明性に関して、またより重要な性質をも見近してゐる。 これ等の畢徒は、神話の詮明を目してそれ白身が貴経の目的であると観じてゐる。或る事象の起原・成立等が 解樺された時、解繹の常事者は、それですつかhリ、おのれが企てた説明の目的を達成したと考へると観じてゐる しかしかうした見方は、少くとも或る部分の神話に関しては、決して安常ではない。 低級文化民族の思惟に従へば、﹃知ること﹄は単なる.﹃知ること﹄ではなかつた。﹃知ること﹄は﹃知られたる ものを自己の意欲のままにすること﹄であつた。多くの民族の言語はさうした観念信仰の存在を明白に琴不して ゐる。アングロ・サクソン語に於ては、能力を表す語群can︵c召︶と﹃知る﹄を意味する語群cunnanとは、 共に同根から出てゐる。同一の関係は、和蘭語にも見出され︵K∈men−Kan︶、古代猫逸語にも見出され︵K巨・ nan・Kan︶、苗代諾成語にも見出され︵K仁コロa、Kam︶、ゴート語にも見出される。︵K亡呂an、Kann︶︵空近 代礪逸語に於けるKennenとK許nenとの関係も亦これである。17︶ これ等の言語にあつては、いづれも﹃知 JOJO
る﹄を意味する語群は、同時にまた﹃肉髄的若くは心的に或る能力を持つ﹄を意味した。経典語の pO∽汚 にも この雨義が含まれてゐる。更に希臓語の 乱撃01浄αが﹃知る﹄を意味すると共に、﹃制命する、﹄﹃裁定する﹄を 意味するのも、決して偶然ではない。︵讐我が国の古語﹃しらす﹄が﹃統治する、﹄﹃支配する﹄一の義であること は、﹃古事記、﹄﹃月本書紀﹄等に於ける幾多の用例にょつて明白であり、而して﹃しらす﹄は尊貴するに﹃しる﹄ ︵知る︶といふ語群の定言・敬語に他ならぬ。 かうした言語的事茸は、或る過去の文化期に於て、民衆が﹃知ること﹄は﹃力能を獲得すること﹄一であると信 じてゐたことを示唆する。かくて﹃物知り﹄は、蜃モすぐれた力能の所有者や、超自然的霊威と其通する力㌢持 つ者を意味した。日のことを知るものとしての﹃ヒジサ﹄即ち﹃日知り﹄に聖の字が首てられたのも、さうした 観想に基くと思はれるし、また平田篤胤は龍田風神祭祀詞に見ゆる﹃物知人﹄を解して、紳砥の状態を知り明せ る人となしてゐる。︵空琉球では今日でも﹃物知り﹄は巫覿を指表する特定語として留つてゐる。︿如〓 拙稿﹃神話及び俸詑﹄に於て指摘したやうに、低級文化民族が自然界や人文界の事象の解繹詑明を企七る心理 は、高級文化民族のそれでは律し切れない或るものむ含んでゐる。神話の説明性は、低級文化民族に於けるこの ﹃或るもの﹄を考の中に入れなくては、充分に把捉することは出来ぬ。なるほど或る種の神話に於ては、その詮 明は、グローセ其の他の畢徒が考へたやうに、後代の厳正科挙に働いてゐる心理と同じく、原因の未だ知られな い現象の、原因の眈に知られてゐる現象の範噂への組込みであらう。その限りに於ては、グローセの云ふ如く. 神話の説明は科挙的説明であり、或はまたジュヴォンズが云ふ如く、∴神話的想像は科挙的想像であらう。しかし 紳話の説明性の問題 JOJ∫
紳話の証明性の問題 一二 ﹃知ること﹄は﹃力能を獲得すること﹄であると信じた古代人並びに自然民族にとつては、さうした詮明を試み ることは、決して単なる説明に満足するためではなかつた場合が多いこと計1忘れてはならぬ。彼等にとつては、 神話の説明は、多くの場合単に詮明せんがための説明ではなかつた。そこに束がつかなかつたところに亦ジエグ ォンズやグローセの認識不足がある。高級文化民族にとつては、科挙的説明はそれ自身が目的であるが、低級文 化民族は、塵モおのれが解絆し説明するこ.とをその俸に目的としないで、之を或る他の目的への手段とする。切 言すれば、事象の原因・成立起原を解明すること払よつてー一郎ちそれを﹃知る﹄ことによつて、該事象を左右 し支配せんとする欲求を持ってゐる。彼等にとつては、事象を知ることは、その上に制命する一の呪力を接待す ることである。論よ.り澄壕、苗代バビロニア人は、歯痛といふ現象の解繹説明として、 ﹃アヌ紳が天容を造ったとき、天基は大地を造少、.大地は河川を造り、河川は濠を造り、濠は沼地を造り、沼 地は轟を造った。轟は泣きながらエア紳の前に来て、﹁御身はわが飲食物として何を輿へ給ふか﹂と尋ねる と、紳は﹁熟したる無花果と甘き柘相とを輿へん﹂と答へた。と、轟は之−牢拒んで、﹁われを取上げて人間 の歯と顎との問に住ましめ給へ。われ歯の血を吸ひ顎の根を敬はむ﹂と云つた。﹄ といふ神話を生み出してゐる。しかし彼等は単に一個の説明的物語とし七之を生み出したのではない。かくして 息の名菓を知ることによつて之を厭勝する力能を獲得することを欲したのであつた。彼等は歯痛の際この神話を 唱へて、晶の書力を阻止するのであつた。︵21︶更にフィン族は、農作物に封する霜の威力を抑へつけるために、 霜の起原を詮明した神話を歌唱するのを常とした。
過ぎないことむ見出す。 四 押詰の説明性の関越 惑よ、汝が起原をわれは歌はむ、 汝が意の血統をわれは告げむ。 汝が恵性をば、われは熟知す。 氷の岡の割目に、楊柳の間より汝は生れぬ。 荒腰は汝が父、不名替は汝が母ぞ。 毒手もて汝が親は不姫の乳房を汝に含ませ、 北風は汝をゆすりて熟睡に入らしめ、 解けぬ楊柳の沼、意の河遼に汝が稀藍を柘がしっ。. 慈しく生れ慈しく蕃はれたれば、 心も魂もみな恵なるぞ。︵讐 この神話の説明にょつて﹃霜﹄の起原を知ったフィン族は、之にょつて﹃霜﹄を歴伏する力能を桂得したと信 じ、神話の説明するところを﹃茄﹄に聞かせてその威力を抑止する賓修を行うのであつた。 観じてここに到るとき、吾人は、神話の説明性がその意味・性質に於て意外に複雑であることを知了し、従つ ● て同時に、ジュグォンズやグローセを始め従来の諸垂徒の見解の如きは、畢発するにその一部を把捉してゐるに JOJβ
紳話の改明性の尚越・ 一円. 神話の詮明性に蹄する従釆の見方は、これを一の自己充足的な存在となすに留つた。説明が向けられるところ の事象・の蟄生若くは存在が解梓し塞されると、詮明の職能がそこに終結するといふのが、従来の見方にょる﹃軸 話の説明﹄の性質で、ある。 ● かうした見方は、少くとも低暦文化民族の封神話的態度の重要な一条而に全く気がつかぬことを示してゐ、る。 ヽヽ 已然民族は神話の閲すろ限りに於ては、這般の見解の抱持者が思料した以上にょり著しい費用主義者であり功利 主義者で−ぁる。彼等にとつては、神話の説明は二重の職分を有してゐ■る。 mそれを核心とし.て神話が生れるところの自然界若くは人文界の事象に封する詮明。 倒さうした神話の生誕以後の杜合集囲が経験し若くは所有するさまざまのc旨ura=raits に封する説明。 がこれである旬即ち自然民族は、神話に於て﹃前向きの誼呪﹄む説明と認めると共に、また﹃後向きの説明﹄を も説明と認めてゐるのである。然るに従来の学徒は、神話の説明性に於けるかうした二面的性質の存在に束がつ かす∵阻に﹃前向きの説明﹄のみむ認めて、之を以て神話の説明性の全的内容を包楽し塞してゐるとなしてゐる。 そこに亦吾人の大きな不満がある。 幸にして近頃になつて﹃後向きの説明﹄が、﹂二の畢徒の認識にのぼつて来た。ピー・マリノウスキー︵Br? nis−aw富a−inOWSg町如きは、その最も有力な一人である。氏はその著﹃原始的心理に於ける神話﹄.︵Myth inPri計iti完PsycbO−○喝︶に於て、神話を目して一の文化力︵c已tura−pOWer︶ となし、従来車界が気ぁつか なかつた新しい職能を神話に見出してゐる。氏は祝しく自らfei−dwOrkを試みたニューギアナの東北に横ろト JOJ4
ロ・プリアンド諸島の土民たちが、説話の三つの範疇についてそれぞれ異なる心的態度を示す事葦 − 即ち該士族 聞で、お伽噺が倉合の際に興味を添へるために語られる二種のactOfsOCiabi−ityとせられ、侍誰が民衆にょつ て経験せられた異常な事象として成員たちのsOCia−aヨbitiOnを満足せしめるために語られるに封し、神話が祀
・倉的律法・道徳律・祭儀等の正常さを琴不するために語られる事賓を根撮として、面詰が文化力であり、そして
その文化力の性質が詳示性に顕現してゐることを力説した。氏に従へば、神話は決して閑散的興味の道具ではな
い。はた墾術的なimagery でもなければ、知力的説明でもない。それは社食袋囲の文化生活上のさまざまの事 象の保謬であり.Ch㌢erである。それは祀合薬園が古くから有してゐるところの祀合制度・道徳的規定・風習儀鰻などが、その正常さの是認を要求されるとき、その
合宜性を薬害することに
マリノウキキーと殆んど同一の見解をとつてゐる我が国の蓼徒として金田〓鱒助博士がある。氏の云ふところ
に役へば、アイヌの神話である﹃紳のユーカラ﹄は、
﹃宗教的信仰の此ハ披、祭紳の由来、行事起原、災秋の桐囚などに係る説明説話であり:⋮・また口蝕・洪水・噴火・地震・海哺・暴風雨・悪疫・惚饉・不意の災嗣等に関する説明、その他、熊を山の紳と崇める謂はれで
.あるとか、老狐を獲物として食む謂はれとか、風邪の時に、風邪の原因を成す障りの紳を明かにしてその障碍を排する所詞の述べ方とか、沖で難破しかかつた時に船室に云ふべき所稽の起原とその準へ方とか、一々
その生活の指針を輿へる数々の神話を構成し.てゐるもので、アイヌは此に準療して日々の生活を迭かもし、 紳話の説明性の関越 ヱOJ占神話の説明性の問題 一六 叉疑義を質しもし、争議の裁きも非違の戒鋏も、みな此の説話を先例とし、出典とし、縄墨とする針のであ る。﹄ めであつた。︷別︶ だから ﹃うつかり部落の隅習を改めしめト弓などと閲渉がましいことを云ふ客が、あべこべに、神々のユーカラの一 章などを歌って抗荏されることが蜃モあつた。﹄︵讐 ・のである。古き世の日本民族も、やはりかうした誇示力を神話に認めてゐた。拙稿﹃神話及び倖詮﹄に於て撃不 したやうに、︵讐伊勢大神宮の簡約使が、天平賓字以来小田氏の猫専すかところとなつたのを憤慨した忌部氏が 大同元年に中臣氏と評論を起して朝廷に訴へ出た時、朝廷は﹃日本書紀﹄神代巻の神話を紳砥令と共に裁断の掠 りどころとした。更にまた内膳司奉膵に預る家門としての高橋氏及び安曇氏が、奉陪の前後を謡うセ時にも、そ の何れを正しいとするかの裁決の重要資料となつたものは、﹃日大書紀﹄六雁の神話であつた。︵27︶ かくして神話は、その草生を刺衝する題材の起原・成立等を示詮する﹃前向きの説明﹄であるばかりでたく、 更にまたおのれの誕生以後永い時代に五つて存在し若くは生起するさまざまの事象の合宜性の有無を判定するた めに、﹃後向きの説明﹄をなす役割を背負はされてゐる。切言すれば、紳話は、その生誕そのものが、或る特定の 自然的若くは人文的事象に関する説明者としての運命を以てなされるだけでなく、生誕後もまたおのれの後生因 となつた以外のさまざまの事象に閲する説明者である運命に置かれてゐる。神託の説明性はかくして先天的であ ると共にまた後天的でもある。 JOJβ
然らば、神話が生誕以後に持つ説明力は、都連にその濾泉を有するであらうか。一見したところでは、神話の
詮明性は神話の成立と共に完了するやうに思へる。aなる事象が資産し、而して其事象に注意を牽かれた民衆が いかにしてaが草生し成立したかを一の民疲的説話の形式に於て解樺したとき、神話は説明者としての役目を完了したやうに息はれる。それが葦際にはさうでなくて、神話の説明力がいつまでもあとをひき、生きつづけると
信ぜられるためには、そこに何等か我々高級文化人にとつて思料の外に置かれてゐる特殊の考方が、低級文化民
族の心に存してゐなくてはならぬ。この疑問に答へた畢徒として、マリノウスキーやレゲィ・ブリエール等があ
る0マリノウスキーの見るところに従へば、自然氏族の心には、自己が現に生活しつつある茸際社食の涯頑として
一の太初的な賓在世界の春鹿が堅く信ぜられてゐる。而して此の太初的賓在世界は、明現在の祀倉の生活・活動
運命を追⋮し供給したものであり、㈲その世界を知ることが、現在の祀合に於ける諸々の祀食文化的行動のモー
チフを輿へ、また這般の行動をいかに行ふべきかの指園を輿へると信ぜられてゐる。﹃神話﹄なるものは、少く
とも自然民族にとつては、茸にかうした意味に於ける太初的茸在世界に関する記述であり、しかもそれは、単な
る・記述ではなくて、即ち単なる物語︵naヨti議︶ではなくて生きた茸在−太初に生起してその後堰績的に世界と人類との運命に作用してゐると信ぜられる生きた茸在である。かくて現在社食に存在する祀倉制度・道徳律
慣習・祭儀等は、紳諸に記述された太初的世界の諸々の事象の、それぞれの後期的産果であり、﹃神話は、これ
等の文化的諸現象を生起せしめた其の原因であるピ と信ぜられた。︵讐もし神話にしてかうした性質のもので 神託の詑明性の問題 JOJ7画商の説明性の関越
一入
ぁるとするならば・、その説明性が神話の成立と共に完了終結しないで、いつまでも一つの功とtて生きつづけ.る のは、まことに月然でなくてはなちぬ。.
レゲィ・ブサエールの見解は、マリノウスキーのそれに比して、更に濃厚に紳秘的な色調を帯びてゐる。氏が
その著﹃原始神話﹄︵LaMythO−Ogie守imiti完︶ に於て主張するところに従へば、低耕文化民族は、野蟹な野草着で也なく、はた物理畢着でも博物学着でもない。従って事象の尋常普通の経過堰起に勤しては心的反射む示
さない。異常の現象に連接して始めてさうした反射を示すのみである。そして這般の異常な現象に接したとき﹂
彼等は或る超自黙約力能︵une pui欝nCeS弓nature−−e︶が活動してゐると考へる。かくて亡nCOmp−e諾ぎ0− 官ロne−が直ちに彼等の心計占め、︻いcat紆。rie affecti謡dusumat亡邑が働き始める。だから低級文化民族にあつては、いはゆる﹃詮明するこよは、知力的探究心の満足ではない。それは不可見でしかも厳存すろ、﹃超
自然的なもの﹄が経験の常道に介入し干渉することを、一種紳秘的な方法で感知し認識すろことに他たらぬ。わ
れわれ高和文化人の見方では、因果的説明はintranat亡ramになされぬばならぬのに反して、原始的心性は 讐宅コ﹂コどr賀.に因果関係を求めようとする。低級文化民族は、異常な現象に於て超自然的世界わ力能の存在及び活動を感得し、直ちに二者む関係づける心的状態に入↓てかくして和語に於ける説明は、知的好奇心に基く
科挙的詮明ではない。それは神話的複需の神話的原型に封する関係、若くは木原的なものに封すろ絹表現い関係
▲▼
む示詮す一じことである。三‖にして悉すなら、それはlの imi−a−iOロ・p呈icipa−iOnに呼びかけることに他なら ぬ。﹂29.自然民族の信するところでは、彼等が賛際に経験するところのすべての存在及び物象は、神話期に於て ね蕗垂生しもしくは存在したそれ等の・reprOきcti2S である。従って神話的世界に於て生起したものは、永遠に亙、 って軍資の世界の.それにcO亘月e80ndする事象を決定してゐる。︵訓︶かうした概念信仰藍円定するならば、神 話が後代の出来事に封して持つとされる動かし難い説明力・琴不力は、白から埋骨されるとしがくてはならぬ。 レゲィ∴ブリエールの見解は、この場合に於ても、原始心性に関する氏の猫異の誼−1﹃前論理性﹄、崩秘的 .感應共享﹄などに飽満してゐる。而して自分は、かうした詮1−高級文化民一般の心性から低級文化民一般のそ れを贋的に峻別する誼を、次の理由で、即ち、 働賛際の事茸に徹すると、氏が開明し得たと考へてゐる是等二系列の民族の心性の封立的紺係は、氏が信じた るやうに、高級文化民一般の心性と低級文化民一般の心性とに賓際に見頂される封立的関係ではなくて、 ㈲葺は、高級文化民中の知識人の心性と低級文化民一般の心性とむ比較したとき見出される封立的関係の誇張 であるに過ぎない。 といふ理由で、その客観的安常性に疑を抱く着であり の﹃神話の説明﹄に於ける神秘的力能性詮に疑を挟むものである。氏の見方は、イー・エス・ハートランドのい はゆる。t01hinkb−ack; の行き方を可なり歪ん東方向に適用し過ぎてゐるの感がある。︵聖 これに比べると ヽヽ マリノウスキーわ見解は、自然民族あ心理の賓際にょり近いやチに思はれる。しかし自分としてはこれに封して む無傑件の賛同を赦して難い束がする。 固より自分聖神話の稔明竺.種の力の蕗在を認めたい。後代の事象に封する神話の琴不性を、畢に前以て取 ● ト∴研話の誼弧性の開国 JOJク
神話の説明性の問題 ニ○ って置いた詑文がものを云ふのであるとばかりは解したくない。また単に民衆の歴史査重心から来てゐるとも考 へたくない。神話が、のちのちまで社命生活上の様々の事象の合宜性の有無に封するchar︵erになり得るのは、 そこに何等かの力の観念信仰がまつはつてゐろからであると考へる一人であるが、しかしその力がどんなもので あるかに関しては、現在の自分には何等明確な考も纏ってゐないことを昔日せざるを得ない。 熊︵1︶ G・L・GOmヨe︼FO︼k−Ore aSan誓stOrica−Science−PJNp
︵2︶ 1.Fiske−Myths and Myth・Makers︸P.N−.
︵6︶ 甲Ough・Smyth−The AbOriginsOf・VictOria、く○−.ごP.焉∞.
︵7︶︵8︶ E・GrOSSe,崇e Anf鉄nge dmr只unst、Kap.こ舛.
︵9︶ H●B迂、Nursery Rhymes and Ta−es︸P.−↓.
︵10︶ このことに就いては、Lかくy・Brub−,LesFOnCtiOnSmen邑esdans−esSOCi小誌s已買e亡reS︰LaM爪n邑itかPriヨi ti諾を見られたし。 ︵11︶ このことに就いては、W・Sc’midt﹀Die守山prungderG。tteSidee、邑.Ⅰ及びTheOriginandGrOまhOfRe− igiOn︵H・1.ROSe課︶P.−N↓.−N¢,−∽A.N00∽参照 ( ( ′■−ヽ 5 4 3 ) ) ) ( ′■ヽ ( ( ( ( 171615141312 \J ) \J ) \J ) le言nS.〇p.CitこP.∽︼. 拙稿﹃民族文拳﹄第四文︵改造祉﹃日本文華講座﹄ 金田一京助氏﹃巫女の和語から叙事文挙の誕生へ﹄ 金田一京助氏﹃アイヌの民族的故事詩﹄第二入京
New Eng−ish DictiOロary、こnan。の條参照。
F.K−uge−Das etymO−Ogiscbe W腎terbucb der leくOnS、Op.CitこP.∽〇. l・E・HarriUJOn−Themis一A StudyOf the SOCia−OriginsOf Greek Re−igiOn.P.∽NP F・B・le召nS−Th2Hdea Of GOd in Eaユy Re−igiOnS一P︰∽?
民族文華捨所載︶
︵﹃民俗索術﹄第二巻解三躯所載︺
︵﹃文孝﹄第三巻第十一紙併載︶
deutschen Sprache∴.Kennen。の條参照。
( ( ( ( ( ′■ヽ ′■ヽ ( / ̄ヽ ( ( ( ( ′■ヽ
3130292827262524232221201918 ) ) \J \_ノ ヽJ ) ) \J \ノ ) ) \J \_ノ )
神話の説明性の関越 E・S・ 亡どy・Br邑已,Op.Cit.一pp.−雪L已. rか童1Bl.uきMytFO︼OgiePrimitiくe.P.ごぶー一声 Ma︼inO宅Sk叫︸Op.Citこpp.N−㍍戸 顛粟国史、本朝月令所引高橋氏文。 拙稿﹃神話及び停誼﹄第一六貢︵岩放論座﹃世界文拳﹄所載︶ 金田一氏向上策五、大貫。 金田一氏﹃アイヌの民族的叙事詩﹄第五貢。 B・Ma−首OWSki−My−hinPrim⋮ti完Psy旨○−Ogy一pp●N∽一∽い● E・L許nrOt︸LOitsurunOja申の一呪歓。 S・H.HOOke.Myth and Ritua−、P.票. 伊波普献氏﹃おもろさうし邁樺﹄第四七貢。 平田篤胤﹃玉醸﹄。 TheC−ass︰cGreekロictiOnaコ√。gign訝kα。の條参照。
Ha昌a阜RitualandB2−⋮ef中のLearningtO。Think望ack.。参照。
神 林 隆 浄
秘矯俳教の中で、謂ゆる綿密教と稀せられる部分は、婆羅門致・印度致並に原始彿教の各要素をも取り入れて 居るが、中に於て最も特色付けられて居る所は、大乗教の思想を糠取して居る鮎である。今は主として唯識思想 が、綿密敦に於て如何やうに硯はれて居るか、而して如何なる役目を果して居るかに就て、観察を下して見やう と思ふ。 大乗沸教の晦色は般若経の容観と華厳経の唯心思想とである。客観が緯と成少、唯心思想が経と成って縛り出 された錦織が、即ち大乗敦の絢爛の美を見せて居るのである。 壷観と唯心思想とは、大乗敦の一方の旗暇を表はし、両者相封立して居るのではなく、唯心思想の裏面に重税 があ少、峯観の弛の年面に於て唯心思想が件在して居る。この両者を組合せた所に、大乗教の眞相が潜んで居る のである。 雑務教が大乗教の一部である研から客観と唯心思想とを、その教理の中に巧に混化し綜合して居ることは.金 俄雨部の大経を一諌する者の易く観取し得る所である。今は客観の側を取り除いて、専ら唯心の方面だけに注意 を向けることとする。唯心思想は華厳経から聾して居るか、今は無著・世親の教系に直接間接に関係ある経論に唯識思想と純密秋
唯 識 思 想 と 純 密 教
JOgg
と云ふ一句に逢着する。殊に注意す可きは、﹁薙の阿根耶﹂と云ふ字句に就てであるが、之れに関しては﹁五菰 と阿扱耶誠﹂と云ふ題にて、先年本誌に︵第九巻第四耽︶於て、愚見の一端を述べた積りであるから、本問題は 其れに譲ることとする。この一論文の要旨は、五縫中の識薙が即ち阿頬耶識で有って、頼耶縁起詮は、五経説か ら牽達して釆たのであると論断した積りである。筆者をして此の鮎に着眼せしめたものは、質に今の﹁礁の阿兢 耶﹂の一句であつたことを、故に自白する。 〓、四智説と五智説 大乗彿教に於ては、凡夫の位にありて、精神作用を為すものは、八識であり、俳陀の位にありて、精神作用を 焉すものは、周智であると見て居る。謂ゆる四智とは大間鏡智﹂平等性智、妙間察智、成所作智を指すのである が、此の四智の名稀は、無著菩薩の棒大粟諭に瑞む聾して居る。その理由は、棒大粟論三諾の中で、玄非諸に至 って、始て四智の名群が峯ひられたことが解るからである。即ち 彿陀易多澤の巻下には、 硯はれるた唯識思想の側を主として探求することとする。 −、蘇の阿頼耶 大日経任心品に於て 観ご琴窺阿根耶ぺ 如鏡、鶴見、作事情持智、白衣事、梓ゴ廻隷陰一故。 唯識思想と純密教 ︵正戒、三一、一一〇、b︶ 二三 ︵正戒、一入、三、b︶ ヱOgβ
、由二間鏡・平等・観察・成所智↓自在由レ持二瓢菰依一故。
と記してあるから、前南澤も、此の諸に照して、始て四智を明してあることが解る。
この四智は、大乗教に於て、重要なる意義を持って居るのであるが、純碑教に於て殊に重要性が著しく成つて
ある。この四智の名稀は、今の引文では完全でないが、唐の披薙頗蜜多羅繹の大乗荘厳論第三︵戒正、三、六〇 六︶、並に玄非詩の棒大乗諭繹第九巻︵正癖、三、三七二、a︶。に於て、今日一般に通用されて居る四智の名稲が硯はれてある。
モの四智は、十地の中の初地の菩薩に至って、その一部分が獲得せられ、併発の位に至つて、始て四智を具備
する。古来から﹁妙観・平等、初地分得、閲鏡、成事、唯俳光起﹂と言はれて居る。即ち十地の菩薩は初地に於て、
妙観察智と平等性智との一部分を樟待し、第二地・第三地と地々上昇するに随って、濃度を加へ、俳果を待んと
するに至って、この二智の全分を饅得すると同時に、大凧鏡智と平等性智とを、頓に獲得すると言はれて居る。
此等の四智は如何にして餞得せられるのであるかと言へば、凡夫心の作用は、識即ち分別の方面が勝れて居り、
聖者たる悌陀は、智即ち決断簡樺の働が優れて居ると見倣され、成唯識論連記第十末には、
虞許諾巻下には ︵同、三一〇、C︶ 期了・平等・廻翫・作事智、自在由レ特二識陰依一故。 とあるが、これ等雨文では、四智を意味するか否や、殆んど了解に苦しむ程である。然るに玄非諾の巻下には 識是分別、有漏位強、智革決断↓無漏付膠。 唯識思想と純密談 ︵正寂、四三、五九九、b︶ ︵同、一四九、a︶ JOg4と説かれてあ.る。煩悩罪障む断除して、凡夫が俳陀と成るときには、識の作用は止つて、智の作用が盛んに成 ウて来る。之を轄識得智と稀する。即ち識を轄給して智を特待する意である。 輯識得智は、初地以上の菩薩にして、始て属し能ふ所であつて、第八阿頼耶織女結婚して、大園鏡智を特待 し、第七末郵識を轄給して、平等性智を輔得し、第六意識を樽給して、妙観察智を特待し、前五識を挿絵して、 成所作智を特待すと言はれて居る。︵大乗許巌諭第三、正薪、≡、六〇六、C︶。この四智詮は、大乗教の通説で有 つて、別に取り立てて説く必要も無い程のものではあるが、純常数では、此等四智の外に、法界慣性智の一智を 加へて、五智詮を立つることに成ってある。この五智誰は、一般の大乗数では説かないのであるが、而も純密教 の五智詮は、その瑞む僻地脛に聾して居る。かの経に 有二五種準〓攣大覚地可何等薦レ五、所レ謂清浄法界、大園鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智、妙生、常レ ′−−− 知、南浮港界者、撃如二虚空錐レ遁二諸色種々相中可而不レ可レ詮、有二種々相↓照唯一昧。︵正毅、一六、七三、a︶ 今の文中の﹁清浮法界﹂は大風鏡智等と相並べて五経として数へられてあるから、四智と同種のものと目され て居ることは明かである。而も通俳教に於ては、﹁清浄法界﹂をば、智慣の名稀と見倣して居る場合が、諸経論 中には見常らない。観光菩薩は僻地群論第三巻に詮明して、 清浄法界者、謂離三切煩悩・桝知、客襲障垢、一切有馬無償等準無倒茸性、一切竪琴生長依因、一切如来、 眞賓自牌、無始時禾、自性清掃、具出足種々過十方界、微塵敵性相功徳叫無生無滅、猶如二虚竺遁二一切準一切 有情、平等共有、輿二一切準不レ一不レ異、非レ有非レ無、離二一切相、一切分別、一切名言骨不レ能レ得、唯是清浮、 唯誠忠想と純密致 ● JOg∫
二六 唯感想と純密教 敦智所琴二重無我、研頼長如、撃共自性↓諸聖分詳、諸俳風謬、如レ是、名望韓揮淡界叫 ︵正成、二六、三〇 二、。︶と誼て店られるが、之れに依れば、二基無我を符悟する時に、顕現して来る虞如を指して居ることに成 る。虞如は桝許の理で有って、能謬の智ではない。所琵の眞如と能詑の智とを仰せて五種として本控に於て取扱 って居るとは思はれない。恨りに虞如の理を、四智の所位牌と見撤すとしても、能依の四智と、桝依の眞如とむ、 同一に取扱って五種とすることは、出来ないやうに思はれるから、本綬に於て眈に五種法として呼んである以上 は、南緯法界は、清掃法界智として解す可きである。然るに聾者は観光菩磋の俳地経論に魅せられて、清渾法界 ・むば、眞如の理と見倣して、之を法界智とは解さなかつたのである。本経のままに正直に解した軋らば、清渾法 界とは、法界智、即ち純密教で言ふ研の法界慣性智と栴す可きものである。此の如く考ふる時は、法界智は俳地 饉に於て眈に誇示せられて居るものと見るのが、寧ろ至常であらうと思はれる。之れに依って考ふるは、五智説 軋、純矯教の特別の詮で、除数に於て骨ては.、誇示されて無い詮であるが如くに見ゆるけれども、その衰、眈に 彿地控に於て五智詮が唱へられてゐることが明かであるから、純矯数の五智思想は、唯識の思想系統中に故に茄 芽を賛して盾たことが解る。 三、四智と偶身との関係 . 図鏡と平等と妙観と成桝との閃智中で・は、大同鏡智が基本的のものと考へられ、平等以下の三智は同鏡智を囚 L隠し、桝依碓として、其の上に現はれる差別智であると見倣されて居る。大乗荘厳論第三に 詮二是大智赦一 ・餞身及飴智 鏡智諸智囚 ︵正赦、二二、六〇七、a︶ 像硯従け此起。 70g♂
釆に同論忙は、一切諸俳に三種の身ありとして、自性身︵Sくabhplくa・k首a︶と、食身︵Sa召bhOga・k.︶と、化 身 ︵Nir爪音aキ︶ との稀が奉げてある。食身とは、具には法食身と云ひ、一般には受用身と稀せられて居る。
而して同諭の繹に、
︰此観智郎是食身⋮:・此作事智、郎是化身。 ︵同、六〇七、b︶ と詮てある。之れに依れば、食身如ち受.用身には、妙観察智の用が勝れて居り、化身には、作事智即ち成所作智の︰働が勝れて居ると云ふ意味が見えて居る。 女に成唯識論第十には
止四心晶、雄三皆遍能縁二一切準両用有レ異、謂鏡智品、硯二自受用身、将士相↓持二無漏種↓平等智品、硯二他
受用身、浄土相↓成事智品、能硯二攣化身、・及土相↓観察智品、観ゴ察自他功能過失↓雨二大法雨↓破二諸疑網↓利出
︵正戒、三二五六、C︶楽有情叫
とあい、之れに依れば、大風鏡智からは、自受用身が硯はれ、平等性智からは、他受用身が硯はれ、成所作智
からは、建化身が硯はれる意が、示されて居るが、妙観察智からは、如何なる彿身が硯はれて来るが明示されて
無い。然るに、大井厳論第三には、﹁此観智郎食身﹂と詮てあるから、成唯識論と大井巌論との誼は異なりが無
いとすれば、妙親密智からは、受
能過失ツ雨二大法雨去きとあるから、受用身中の自受用身と他受用身とに常ることは想像するに難くない。
とは、即ち此の意を示したものである。 唯識思想と純密欽 J〃g7となる。之れに依れば自性身・食身・化身の中で、四智に関係する彿身は、食身と化身とに限られて、自性身は 全然四智には紺係が無いことに成つてある。然るに自性身は此の食身と化身との所依止と見られて居る。即ち大 赦厳論第三は自性身夢衰身・化身依止叫 ︵正薪、≡、六〇六、b︶ とあるは、即ち此の意味を示したものであ る。随つて自性身が、若しも或る智から出現す可きものとすれば、其は法界智から硯はる可きであると云ふは、 蓋し常然わ踪結である。 又大荘厳諭第三に﹁鏡智諸智因﹂︵正薪、三、六〇七、a︶と誼てある。即ち、平等・妙観・成所の三智は、園 鏡智を因として、其折から草生したものであると見撤して居るのであるから、此の見地からすれば、左の如き固 を引くことが出来る。 第一園 唯識思想と純密教 上記の詮を要約すれ甘、 兼 困−大同鏡智 成所作智
⋮捌⋮閻⋮⋮∨食身
′ →ヽ ヽ 成妙手 折鶴等 作祭性 智智智 ←化身 JOj好右の岡に於て現はれて居るが如くに、大同鏡智闇下の四智が食身︵受用身︶と化身とに限られるとすれば、自 性身の所有する智は、果して何んで有らう。苛も自性身と食身と化身との三身の別あることを明示して居る以上 は、他の二身には其れ忙相應する智は有るが、自性身には、其れに相應する智が無いとは言はれまい。叉同一の 食身の中に困と果との二面に亘るものがある具合に成って、甚だ面白くないことになる。故に唯識教系の不備の 鮎が暴露されて居る。此の不備を補ふて港界饅性智の一智を加へて、自己の教義の根揚としたのが、純席数の徴 ・義を組織した組師の態度で有った。之を固に表はせば この唯識思想から、耗矯教の五智五俳の思想にまでの移り行きには、そこに伺幾多思想の欒連が有ったものと 息はれるが、兎に角、純席数の五智五俳の思想が、唯識系統の其れから、基本的の資料を得て居ることだけは、 香定し得ぎる事茸である。 金剛頂変位脛に 風塵遷都俳、於二内心二軍得自受用四賀大l瑚鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智、外令二†十地満足菩薩他↓ ︵正戒、一入、二八八、b︶ 重用上故、従二四智中↓流コ侶四彿珂 四俳とは不動如来、賛生如来、観自在王如来、不基成就如来である。此等四俳が大日如来の周智から流川すと 第三国 唯識思想と純密教 折伏−人法界饉性智︶−自性身 ′ 1 「 成妙手大 所親等圃 作察性鏡 智 − 化 身
脚W食身
JOg∂・あるから、大罪厳論の謂ゆる四智から、食身と化身とが出生したとの誼に暗合する。智は本来俳身に具有されて 居る可きものである。然るに今は其の反封に、智から彿身が流出して居ると説かれてあるが、その謂ゆる四種身 は、.大日如来の四智から流現して来・るのであつて、この桝に純密教の特色が硯はれて居る。而して其の特色が大 乗荘厳論に於て、眈に硯はれて屠ることは、殊に注意す可き鮎である。紺席数では、三世の諸俳諸菩優等は、皆 悉く大日如来の加持身にして、大日如来を本質身とすれば、飴の諸今は悉く其の影像に外ならないことに成る。 嘘つて十方三世の諸彿諸尊は、大日如来の一身は蹄入し、叉大日如来ゐ一身から流過すと見られて居る。而して 此の傾向が唯識思想巾に、眈に其の筋芽の存して居ることは、純密教の淵源の深きを示すものである。 四、五智と唯識思想 八識を前捷として、故に四智が成立して居る。然るに純概数に於ては四智よりも、更に 一歩を進めて五智を建 立することに成ってある。五智を樹つる馬には、九誠を前提としなければならない。即ち八識の外に何一識の存 在む認めなければ、第五柾の智を設定することが山木ない。然るに此の節五智は港身大口如来そのものであらね ばならないから、純密教としては、必要放く可らざるものである。而してその第五智をば、港界智即ち法界照性 智と純矯教では呼んで居るのである。大間鏡智には、第八阿顆耶誠がその原型と成つてあるが如くに、法界慣性 智の原型と見倣す可き誠が無くてはならない。この誠を純矯教では、第八識其の他の誠に封して、第九識と呼ぶ ととに成ってある。而して九識の存在を認めて居るものは、元魂の草根留支諜の入稗伽粁第九である。かの文に 八九種々識、如二水中諸波↓依レ垂㌻種子法↓常堅固縛レ身。 唯誠忠想と純密数 ︵正薪、一六、五六五、b︶ JOβ∂
とあり、厨の許叉難陀諾わ大乗入枕伽粁第六には ︵同、六二五、a︶ 由二虚妄分別”是別布二識生可八九識種々、如二海衆波浪ペ とあるから、梯伽紅に於て、九識の布衣む認めて居ったことが解る。而も同檻には、其の第九識が、如何なる名 稀のものであるかは明指して店ない。然るに何れの時代に何人が最初に言ひ出したのか明かでないが、此の第九 汲を阿摩薙︵ama−a︶識、即ち無垢放であると云ふことに成った。末代の賛臣蓬の注大乗入楊伽控第九には、 ︵正毅、三九、四九八、。︶ 文言二九識一着、即密厳経、以二第九識”笹森浮詠一也。 と誼てあるが、唐代の地婆詞羅並に不客の南澤の密巌経の中には、﹁以二第九識∵琴南浮琴也﹂との文句も義 も見懲らない。恐らく注梼伽経の作者の暗記の失ではあるまいか。 この阿摩薙識釦ち無垢諏の名栴は、筆者の気付いて居る所では、眞諦三蔵の頃から見えて居るやうに思はれる。 現に同三蔵繹の十八宗論には、
阿摩羅識、是自性清浄心。
と言はれてある。又決定賂論巻上に、
諸世俗法、阿薙耶瓢、悉軍政本↓出世間者、阿摩薙識、悉箪薩本可
と詮てある。これ等の例に徴して、阿摩認識は、その名稀の示すが如くに、清浄無垢の放であることが明かであ る。併し共れは識の中に於ては、無垢清浄心で有っても、智に封する時には、幾分の遜色があるものと見て店ら れたのに相違ない。楊伽控の謂ゆる第九識が、果して無垢識五指して居るか否や、経の本文の上だけでは固よぉ 唯誠忠想と純密教 ︵正毅、三〇、一〇二二、a︶ ︵正叔、三一、八六三、b︶ JOJJ明かで無いが、誇大粟粒論の通念から推量する時に、その謂ゆる第九散は、此の無垢識であらねばたらないこと
に成る。然るに同経では此の第九識即ち無垢識をば虚妄分別の相であると見撤して居る。眈に無垢識が虚安分別
の相であるとすれば、彿果に至る馬には、その識を特給して、或る智を鱒得しなければならたい。純密教に於て
は・此の第九無垢識を轄給して、港界牌性智を得ることに成って居る。而も其の第九放とか無垢識とか、清浄法
泉豆か云ふ概念は、殆んど皆な唯織教系の経論から、提供されて居ることを想ふ時に、純解散が此の教系の資榛
に伐て成長したものであることが解る。但し無垢識を輯給すとは、楊伽控並に純布教だけの特別の考であつて、
唯識教系の一般的の思想でないことは、次の例許に照して明である。
成唯放論の作者は第八識の異名として、種々の名を列記して居る。即ちその第三巻に、
或名レ心、由二種々彗重㌻習稜子↓閉二積習一故、或名二阿陀那↓執ゴ韓種子及諸色棍べ令レ不レ壊故、或名二桝知伐↓
能輿二染渾研知諸襲撃依止一故、戒名二種子撃能適任誌世刑世間諸種子一故、此等諸名、通二一切位可
或名二阿械耶”撃殺一切難染品彗令レ不レ失故、我見愛等執赦、以レ撃自内我一故、此名唯字典生有畢可
︵正毅、三一、一三、C︶ とありて、心と阿陀邪︵註ぎa︶と、所知伐と種子放との名は、凡聖何れの者にも通用し得るものである意を述 べ、次に凡夫にだけ通用して聖人には適用づれない名として阿根耶︵苧ya︶の稀が奉げてある、次に異生即ち凡夫と啓甲繚覚の二乗の人と、請書薩とにだげ通用して、如来には通用されない名として、異熟識の稀を奉げ、
女に如来にだけ専用される稀として、無垢識む挙げてある。即ち、
唯講思想と純密数 JOβg戒名二無垢識”最極清浄、諸無漏淡、桝休止故、此名賓如来地有”菩薩・二乗・及異生位、持二有漏種↓可レ受二 重警未レ得二幸浮第八識可 ︵同、一三、C︶ とあり、錬垢織をば、羊蹄第八識と呼んで居ることが推定せられる。之れに伐て耽るに、第八識に雑染品の法 を挿赦して居る場合を阿頼耶と呼び、善浮薮保持して居る場合を、無垢識と呼ぶことに成つて居ることが解る。 且つ此の無垢識は大園鏡智に相應すろ意を述べて、 ︵同、一三、C︶ 是浮無漏界 如来無垢識、 風鏡智相應。 解二晩一切障一 と云ひ、且つ糞煩悩の結晶である異熟織を拾離することはあるが、無垢識む拾離することは㊦絶封に無いこと を説て、 阿椒耶名、過失重故、最初拾故、此中偏詮、異熟識饉、菩薩将レ得二菩撃時給、聾聞・猫覚、入二無飴依浬撃 ︵同、一三、C︶ 時冷、無垢識嘘、無レ有二輪時↓利︰﹂柴有情↓無二泰時一故。 とあり、阿頼耶は自の内我としての稀である。随て着我の妄執が無ぐなると同時に、阿輯耶の摘も無/、なるの であるが、過去の貴国の異熱誠牒は、着我の妄執が無くなつても、荷稲摸して唇㌔菩薩は菩提の特依㌃待する 時に、此の異熟談牒を拾離し、拳闘と練覚Lの二乗の人は解脱道に於て、無詮依達衰に入る時に、その異熱識健 を拾離するのである。然るに如来の大慈悲心は、贋大深遠にして、有情を利柴せんとする念願が、常に盛大であ るから、如来ゐ生命は無量詩である。而して其の錬量諒訪韓摸する精神力が、即ち此の無垢識である。この無垢 識は、即ち如来の心識であるか㌢永劫捨離する時はないことに成る。 唯誠忠想と純密欽 JOβぎ
天親書醸造で、後魂の般若流支繹の唯識論に、 心有二二種↓何等篤レ二、一着相應心、二者不相應心、相應心者、所レ謂一切煩悩・結使・受想行等、諸心相應、 ︵正戒、二二、六凹、b︶ 不相應心者、所レ謂第一義諦、常任不要、自性清浄心故。 と詮かれてある。此の﹁心﹂をば第八誠と仮定すれば、この第八識に煩悩等と相應する所の相膣心と、煩悩等 と相應しない研の不應心との二位あることが、今の諭に明して届る。而してその不相應心とは、即ち自性清浄心 であると明かれてある。この唯識論の謂はゆる自性清浄心は﹂ て自性清浄心は、園成資性の虞如港界に外ならないのである。 成唯識論第三に、 然第八識、線有二二位↓一有漏位、無記性樺、唯輿二偶等五準相應、但練二前詮執受虔境↓ 二無漏位、唯菩性 棟。 ︵正薪、三二一四、a︶ とある中の第八識の無漏位の稀が、即ち無垢識で有つて、天親菩薩の謂ゆる.不相應心に常て屠る。第八識の有 漏位を阿頼耶識と稀し、この第八識が無漏位に進んだ時に、無垢識と呼ばれるので有つた、二識に別の牌がある のではなく、その止任する位に依って、名稀を異にして居るだ万のことで、本と別の心髄を名指して居るのでな いと云ふのが、唯識教系の一般思想である。 純密教が此の唯識敦系の思想を取れ入れて居ることは、一鮎の疑ふ可き詮地は無いのであるが、扁も其れに封 する見方が精モ異つて居ることは、菩無畏二森澤の俳頂告勝心破地獄儀軌に、 唯識思想と純密教 ヱ0β4
阿摩羅識、鰭、阿梨耶訊、用。 ハ正毅、一入、九一三、C︶ と詮てある所に徹して明かである。即ち浮心の無垢識を髄と為し、内我の迷安心である所の阿枝耶を用と見撤し て居る所は、大日如来の下特踊化門の立場に在って・、詮を属して居ることが想像される。魯叉左の文に偲り、九 識餞別の見地に立って居ることも想像される。 、.. 一波陀郊︵pad呂pご郎六識、二阿陀郵︵監訂忘︶識、郎七識、三阿梨耶︵巴aya︶識、郎八識也、今第四、加二 と詮てある。而して此の八菓九尊は、五智周明の饅と見られて居る。その謂ゆる五智は四智の外に.、港界優性む