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: 『広場の王』〜観念体系と事物の相克 はじめに

  ブロークの第二作目の戯曲『広場の王』(1906年)では、事物がシンボリズムの観念体 系にとらえ込まれることを望む人々と、とらえ込まれない見方をする人々がせめぎ合うが、

最後に後者の見方が正しいことがわかる。

1.道化のプロローグ

  あらすじは次のようになっている。救済の船団が到来して、建築家の作った像である老 王が復活し、再び栄光の時を迎えるという噂を、建築家の娘、詩人、群衆は信じ、その時 刻を待望している。船団が到来したという叫び声が上がる。詩人は歓喜しながら娘ととも に老王の像のあるテラスの階段を昇っていくが、突然像は崩壊してしまう。

  こうした内容から、この作品はこれまで終末論に対する皮肉、帝政に対する非難という 思想的、政治的観点のみから論じられてきた(註

1)。しかしブロークの戯曲のシンボリカ

(象徴体系)や手法を検証すると、この作品は事物をシンボリズムの観念体系にとらえ込 まれたものとして見るか、とらえ込まれないものとして見るかの二つの見方のせめぎ合い であることが確認できる。戯曲は次のような道化のプロローグから始まっている。

  Шут

    Еще  и  солнцу  лень  светиться,

    А  я  −  на  берегу

    Светила  могут  не  трудиться,

    А  я  вот  −  не  могу. 

    Но  я  без  них  нашел  дорогу     И  вотприплыл  сюда

    Чтоб  здравостью  своей  немного     Смягчить  васгоспода

  道化

    まだ太陽は輝くのをめんどくさがっているが、

    おいらは海岸におり、

    天体はあくせくしなくてもいいが、

    おいらはそんなことではだめだ。

    しかしおいらは天体がなくても進路を見つけたし、

    現にここに船でやって来たのは、

    自分の理性でちょっぴり

    皆様を穏やかにするためである。[下線は引用者](3−22)

       

  ここでの特徴は、宇宙世界と地上世界との対比である。意味だけでなく押韻からも対比 されている。

  「めんどくさがっている(лень  свеститься)」太陽に対して、「海岸にいる(на  берегу)」

道化、「あくせくしなくてもよい(не  трудиться)」天体に対して、「あくせくせざるをえな い(не  могу)」道化。

  かつてのブロークの詩では宇宙は本質世界であり、以下の詩に見られるように、それと の合一がテーマとなっていた。

 

[...]

  Никто  не  тронет  твой  покой   И  не  нарушит  строгой  тени   И  ты  сольешься  со  звездой   В  пути  к  обители  видений

[...]

  だれも汝の平穏を乱しはしまい。

  だれも汝の端正な影をこわしはしまい。

  そして、汝は星と一体になるだろう、

  幻の僧院への途上で。[下線は引用者](「汝は昇る、厳しい一日...」、1900年、1−90)

[...]

Расцветает  красное  пламя.

Неожиданно  сны  сбылись

Ты  идешь.Над  храмом,над  нами  − Беззакатная  глубь  и  высь.

  [...]

  赤い炎が輝きはじめる。

  不意に夢がかなった。

  汝はゆく。われらのいる寺院の上には、

  終わりのない深淵と空の高みがある。[下線は引用者]

(「階段がぱっと赤く、そして暗くなった...」、1902年、1−260)

  このことを念頭に置くと、「めんどくさがっている」太陽と「海岸にいる」道化との対比、

さらに「天体がなくても航路を見つけた」という台詞は、道化のいる世界は宇宙世界(本 質世界)とは何のかかわりもないことがわかる。プロローグはさらに続く。

  Здесь  −  чистой  публике  дорога     Здесь  для  нее  −  скамья.

    И  только  на  правах  Пролога     На  ней  присел  и  я

    Передо  мной  −  в  оркестре  −  море     Волна  его  темна,

    Но  если  солнце  встанет  вскоре,

    Увижу  всё  до  дна

  ここには純粋な観客のための道があり、

    ここには純粋な観客のためのベンチがある。

    おいらはただプロローグを言うために     そこに腰掛けたのさ。

    おいらの前のオーケストラ・ボックスには海があり、

    波の色は暗いが、

    まもなく太陽が昇れば、

    底まで見えるさ。(3−23)

  ここでは「純粋な観客のため」「オーケストラの海」という台詞によって、舞台上にある のは舞台セット以外の何ものでもないことが確認される。このようにすべてがはっきりと している世界にはシンボリズムの観念体系の入り込む余地はなく、曖昧なイメージや語句 からなる『美しい婦人の詩』の世界とは相容れない。チュコフスキーの言葉を借りれば、

まさに「美しい婦人を殺してしまう」(註

2)世界なのである。

  また道化の前に横たわるオーケストラ・ボックスの海は太陽が昇ると底まで見えること で、ここでもまた深淵の神秘(本質世界)が否定される。道化のプロローグは、本質世界 とはまったく関わりないこと、シンボリズムの観念体系にはまったくとらえ込まれていな いことを強く印象づけることになる。この道化はその後本質世界の到来という噂を信じて いる人々の目を覚まそうとする役割を演じる。

2. 「船」のモチーフ

  この戯曲の内容は、救済の船団がやってくるという「噂を信じる人々」と「噂を信じな い人々」のせめぎ合いである。まず、「噂を信じるグループ」には建築家の娘、詩人、群衆 が属している。建築家の娘は古い復活の伝説を信じ、王の像に精気を吹き込もうとする。

そして「私は自分の夢物語を実現しなければならない。[...]王に心から忠実でありなさ い」と言って、詩人に王への忠誠を促す(第

2

幕)。詩人は彼女を「美しい婦人」と見な し、彼女に従い、群衆を扇動する(第

3

幕)。

『広場の王』 ドミトリエフスキー画(1922年)

  船の到来というモチーフについては、第一次革命以前のブロークの詩では、本質世界の 到来のモチーフとして使われていた。

  [...]

Он  молитву  ей  возносит   Если  Дева  смягчена,

  То  корабль  к  земле  приносит   Ей  послушная  волна

  [...]

  彼は彼女に祈りをあげる。

  乙女 の顔が穏やかならば、

  彼女に聞こえる波が

  船を陸地に運び...(傍点は原文イタリック)[下線は引用者]

(「黒い乙女」、1899年、1−78)

  Стоит  полукруг  зари.

  Скоро  солнце  совсем  уйдет   −  Смотри,папа,смотри,

  Какой  к  нам  корабль  плывет

  [.  

  Но  дочка  плачет  навзрыд,

  Глубь  морская  ее  манит   И  хочет  пуститься  вплавь,

  Чтобы  сон  обратился  в  явь.

半分沈んだ夕焼けの太陽。

  まもなく完全に没する。

  パパ、見て見て。

  私たちのほうに向かって船がやって来るぞ!

  [...]

  しかし娘は泣きじゃくり、

  海の深みが彼女を手招く   泳いで降りていきたい、

  夢が現実になるように。[下線は引用者](「海辺で」、1905年、1−358)

  しかし、この戯曲で船の到来が最終的に終末の救済、本質世界の到来とはならないのと 同じ様に、ブロークの詩の変遷でも、終末への期待がくじかれた

1905

年の第一次革命の 失敗以降、船の到来の希望は諦めの気持ちに変わる。

 

−[.Ему  хочется  за  море Где  живет  Прекрасная  Дама.

−  А  эта  Дама  −  добрая?

−  Да

−  Так  зачем  же  она  не  приходит?

−  Она  не  придет  никогда Она  не  ездит  на  пароходе.

Подошла  ночка

Кончился  разговор  папы  с  дочкой.

  −[...]彼は海の彼方の

  美しい婦人の住むところに行きたがっている。

  −  その女のひとはいい人なの?

  −  そうだよ。

  −  それじゃあ、何のために来るの?

  −  彼女はけっして来ることはない。

  船に乗って来ないんだよ。

 

  夜が近づいた。

  パパと娘のおしゃべりは終わった。[下線は引用者](「詩人」、1905年、1−360)

       

  そして「噂を信じないグループ」には道化の他に建築家が属している。王の像を作った 建築家は詩人に向かって「おまえは病気だ。もっと単純に生きな」(3−33)と叫ぶが聞き 入れられない。そして王の像が崩壊し建築家は次のように語る。

    [...]おまえたちは私の手が作り出したこの古式の巻き毛の美しさに毎日魅せられて いた。おまえたちは私の作品を壊し、おまえたちの家は空のまま残っている。しかし明 日の世界は以前のように緑色であろうし、海は同じように穏やかであろう。

      (第

3

幕、3−54)

  建築家もまた、天体との合一を否定し、王の像が自分の作品であることを認識している という点で、道化と同じくシンボリズムの観念体系にはとらえ込まれていない。

3.同じ対象をめぐって分かれる意識

  噂を信じるグループ(シンボリズムの観念体系にとらえ込まれたグループ)と、噂を信 じないグループ(観念体系にとらえ込まれないグループ)とは同じ対象に対する意識が異 なる。特にそれは、王の像、赤い噂、朝から夜への推移に対する認識によく現れている。

  王の像   赤い噂   朝から夜へ 噂を信じるグループ

(シンボリズムの観念体系にとらえこまれている)

終末に復活して 救済をもたらす

救済の噂 終末へ向かう 時間の推移 噂を信じないグループ

(観念体系にとらえ込まれていない)

建築家による像 俳優 三一致の法則

  噂を信じるグループにとって、王は終末に復活して救済者とならなければならない。し かし、噂を信じないグループにとっては、それは建築家によって作られた像にすぎない。

  また赤い噂の第

2

幕での登場はト書きでは次のように描かれている。

    [...]もくもくとのぼる埃から小さな赤い噂が飛び出すのが見える。こいつらは飛び 跳ねながら四方に散る。こいつらに笑いが溢れる時、風が吹きすさぶ音が感じられる。

この時徘徊中の群衆のあいだに不安の声が広まる。(3−35)

  これも前者のグループにとっては終末の不安をあおるものであるが、後者のグループに とっては俳優によって演じられたものにすぎない。

  さらに朝から夜へ向かう時間の推移も、前者のグループにとっては終末の夜に向かうこ とを意味しているが、後者のグループにとっては、三一致の法則にすぎない。

  ところが劇の進行と同時に、前者のグループにとっての救済のモチーフが舞台に増える につれて、後者のグループは前者のグループを押しとどめることができなくなる。

  「良識」「心の医者」を自称する道化は、前者のグループの目を覚まそうとするが失敗し てかえって怒らせてしまう。人々を覚醒させようという試みに失敗した道化は、腹をくく って二つの選択肢(鳥に似た金色服の男と黒服の男)を持ってくる。ブロークの詩で金色 は「美しい婦人」の現れる教会の「朽ちた金箔」の色であり、終末的救済への期待である

(第

3

部第

1

87

頁)。黒は「明け方近くに、街の灯りを消して回る」黒い男(第

3

部第