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  しかしそのなかにも新しい演劇の萌芽が認められる。マイニンゲンや芸術座の群衆表現

は、「個々の人物の動き」であり、「人物間に絵画的、律動的、調和的視点は存在しなかっ た」(第

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部第

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頁)のに対して、「インディヴィジュアルな芸術座の群衆とは異な り、メイエルホリドは『プスコフの女』で常に群衆をひとつに融合したものとして考えて いる。場面に特徴的なひとつの感情を選択することを基礎として、群衆の感情のざわめき は決められる」(註

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  また、プシビシェフスキーの『雪』(1903年)では、すでに絵画的色彩の視点が盛り込 まれている。新ドラマ協会の文芸部長をしていたシンボリズム詩人レーミゾフが、ブリュ ーソフからの要請を受けて「天秤座」誌第

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号に「ヘルソーンからの手紙」と題する記事 を執筆したが、その中に絵画的色彩の視点を確認することができる。

    [...](プシビシェフスキー作『雪』の−引用者)最初の上演は

1903

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日 に行われた。演出では、トーン、色彩、身体性プ ラ ス チ カのなかでドラマの象徴体系をその現実的 主題と組み合わせようとした演出家メイエルホリドの大きな芸術的センスや、俳優たち の役に対する望ましく愛情のこもった態度が現れ、そのすべてが雪と冬小麦の、沈静と 抑えがたい欲求の交響曲を演じ、「憂い」を創り出す者の苦悩する魂や戦慄の大胆な心を 表していた。(註

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1904

年、新ドラマ協会はヘルソーンからチフリス(現トビリシ)へ拠点を移す。ここで の『雪』の上演は大失敗であったが、チフリスの批評家たちがすぐに注意を向けたのは集 団的演技であった(註

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3.スタニスラフスキーの挫折:観念と事物の乖離

 

1905

年の第一次革命に向けて、シンボリズムの芸術観は高まりを見せるようになる。詩 人ブロークが、救世主ソフィアの到来を予期して詩集『美しい婦人の詩』を発表したのは

1904

年。ブリューソフが地上の世界の破滅(終末)を描いた戯曲『大地』を執筆し、ベー ルイが救済の期待を抱きつつ戯曲『来訪者』を執筆したのも同年である。こうした風潮の 中にあって自然主義演劇の牙城であったモスクワ芸術座も例外ではなかった。それまで日 常生活(外的要素)を再現することに努力を払っていたモスクワ芸術座にとって、内的世 界、魂(観念)の世界に向かうことは容易なことではなかった。

  スタニスラフスキーは『芸術におけるわが人生』で、当時、自身が「内面的内容」と外 面的要素との差に苦しんだ様子を次のように回想している。それは、シンボリズムの画家 ヴルーベリの絵画から感じられる啓示を身体で具現化しようと試みた時のことである。

       

    再び探究の時期がやってきた。その間、新しいということ 自体が目的となっていた。

新しいということ のための新しさ。その根源は自分たちの芸術だけでなく、文学・音楽・

絵画といった他の芸術にも求められる。ヴルーベリや当時の他の革新的画家たちの作品 の前に立って、俳優や演出家の習慣から頭の中で自分を絵の枠の中にはめ込み、絵の中 に入り込んで、脇からではなく、ヴルーベリ自身もしくは彼の描いた人物たちの側から その気分にひたり、肉体的にそれに順応しようとしたものであった。しかし絵画に表現

された内面的な内容は不確定で、意識にはとらえられず、啓示の瞬間に感じられるだけ で、感じられたと思うとまた忘れられてしまうのである。このような霊感の超意識的な ひらめきの際には、自分自身を、自分の肉体、筋肉、身振り、ポーズをヴルーベリが通 り抜けるように思われ、それらは絵画の中にある本質的なものを表現し始める。肉体的 に見出されたものを記憶し、それを鏡にまで持ち運び、鏡の助けを借りて自分の目で、

肉体によって体現された輪郭を確かめようと試みるが、驚くべきことにガラスの中に映 し出されるのは俳優らしく気取り、たいていはおなじみの使い古されたオペラ風の紋切 り型を伴ったヴルーベリのカリカチュアにすぎない。そして再び絵の方へ行き、再びそ の前に立って、その内面的な内容を自分なりに伝えられると感じ、今度は全体的な自己 感覚によって自分を確かめ、内面の眼差しで自分を調べてみると、何と言うことか、再 び同じ結果なのだ。せいぜい良い場合で、絵画の内面的な本質を忘れてヴルーベリの輪 郭の外面的な形式を「からかっている」自分をとらえれば良い方である。

(傍点は原文イタリック)(スタニスラフスキー、『芸術におけるわが生涯』、註

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ヴルーベリ、『ナポリの夜』(マモントフ私設オペラ劇場の緞帳用スケッチ、1890年)

 

  ヴルーベリの絵画から感じられる啓示の瞬間、内面的な内容が、身体的に具現化できた と感じても、それは鏡を前にして確かめると、内面的な内容などまったく反映されていな いのである。

    「だめだ」と自分に言う。「課題は手に負えないし、実現不可能だ。というのは、ヴル ーベリのフォルムはあまりにも抽象的で、非物質的であるから。それは輪郭がきっちり と定められていて変更のきかない現代人の、現実の肥満した肉体とはあまりにもかけ離 れている。」実際、絵画と同じように肩を斜めにしようとして、生きた肉体から肩を切り 取ることはできないし、画家が要求しているように、手、足、指を伸ばし、腰を引き抜 くことはできない。(『芸術におけるわが生涯』、註

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  スタニスラフスキーはここで、身体がシンボリズムの観念体系にとらえ込まれないこと を問題にしている。彼はもともと精神が感じていることを自由に何の障害もなく肉体によ

って表現できるという前提に立っていた。

  スタニスラフスキーが『ドクトル・ストックマン』で完成させた心理から身体への連動

(第

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部第

1

18

頁)は、シンボリズムの観念体系にとらえ込まれない身体を感じたと き、崩壊したのである。その結果スタニスラフスキーは自らの演出でも方向を見失ってし まった。

  その混乱ぶりは

1904

年のメーテルリンクの三つの一幕物の戯曲(『群盲』『闖入者』『内 部』)の上演に反映している。ルドニツキーは次のように指摘している。   

 

  モスクワ芸術座の『群盲』(1904年)、スケッチ

    [...]彼(スタニスラフスキー−引用者)は、認識される「日常の光景の」リアリテ ィーに制限されることなく、舞台が「認識を越えたもの、高尚なもの、人間精神の高貴 なものを伝える」方法を発見し、「世界の悲しみ、本質ブィチエーの神秘の感覚、永遠なものを表現」

できることを望んだ。このことによってヴルーベリ、メーテルリンク、イプセンがスタ ニスラフスキーを惹きつけ、興奮させたのである。[...]

    [...]メーテルリンクのドラマは、行為のない、静的なものに思われた。ある時、彼 はこれらの戯曲を演じるにあたって、「俳優たちがまるで自らの内に耳を傾けているかの ように、身振りも表情もなく、放置された石のように不動のままにすわっている」のが 最良であろうとさえ考えた。つまり、この当時すでにスタニスラフスキーには、後にメ イエルホリドが到達した「不動劇」の理念がぼんやりと現れた。(註

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  しかし退屈になることをおそれたスタニスラフスキーは、メーテルリンクの静と、生き 生きとしたダイナミックな行為とを混在させてしまったのである。

    [...]画家のスレニヤーニェツとの仕事で、彼は(まさに『雪』の上演時と同じよう に)印象深く強い光の効果をことのほか執拗に探究した。「演劇と芸術」誌の記者は初演 後、次のように伝えた。「観客が徐々にメーテルリンクを受け入れるよう『準備』が行わ れる。美しい氷のかけらのような灯りが血の涙に変わりながら静かに消えてゆき、薄暗 がりが訪れる。その後完全な闇。劇場の壁は左右に分かれ、どこか遠くへ去っていくよ うで、観客は思わず静まりかえり、真っ暗な中で耳と目を緊張させる。かすかな光を通 して最後にわかるのは、舞台はずっと前から開いているということである。いかめしい 奥行きのある風景が、ぼんやりと見分けられる。空に向いている怪物のような木々の巨

大な幹、垂れ下がった地層と引き抜かれた巨大な根の見える山の急斜面、色あせた草、

そして深い夜の青白くなりつつある空が見える」。(註

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  『群盲』での月の光は、タリニコフの証言によると、雲が月にかかると消え、月が雲の 間から顔を出すとさし込んだ。その後舞台は木々の間から地面に落ちる太陽の光で照らさ れ朝を告げた。

    光の効果に音の効果が伴った。「遠くからの不安な気分の音楽が聞こえる。とぎれとぎ れのコントラストを成す和音が砕け、互いに乱雑に堆積し、悲しげな呻き声をあげ、ま るで頑固な人に何かを懇願するようであり、幸福と希望の甘い声に変わると突然、恐怖 と絶望の強烈な叫びの不協和音が響き渡る。魂は静まり、不安げに何か不思議な非日常 的なものを予期している...」(註

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  しかし、こうした方法は最初の部分だけであった。

    [...]非日常的な表現の光と音の出だしの後で、だいぶ前に試みられた、[...]「自 然さ」によって驚かせた品揃えの豊かな方法に変わってしまった。「木々の梢が揺れ、葉 がカサカサと鳴り、水のはねる音がし、舞台裏から木製の橋を渡る車輪や蹄の音が聞こ え、人が昇っていく階段の軋る音がし、屋根を雨が打ちつけ、湖からガチョウの鳴き声 が聞こえ、舞台の上に生きた鳥の入ったかごがぶら下がっていて、コオロギの本格的な 鳴き声が聞こえ、窓にはカーテンが揺れている」。(註

21)

  また俳優の演技の方法も統一されていなかった。『群盲』では、モスクヴィンとブルジャ ーロフの日常的方法と声は、サーヴィナの鋭く厳かな声と不協和音を成していたし、『闖入 者』では、ヴヴェジェンスキーによれば、ルシュスキーとレオニードフはリアリズム路線 を取り、カチャーロフは神秘劇路線を取った(註

22)。

  「結果的に演出家は『かさばる日常性ではなく、空気のような軽さ』を要求するメーテ ルリンクの戯曲を『重くしてしまった』。第一に『あまりにもゆっくりしたテンポによって』、

第二に『恐怖を呼び起こすあらゆる外面的効果によって』、『重くしてしまった』」(註

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のである。

  そして上演は失敗、批評は辛辣であった。スタニスラフスキーは「メーテルリンク上演 の失敗の後、最初のうちは非公開での探究を行う必要性があるとスタニスラフスキーは感 じたのである」(註

24)。そして、このような挫折のなかでスタニスラフスキーはメイエル

ホリドに再会したのであった。

    私の疑いと探究のこの時期、私はかつてモスクワ芸術座の俳優であったフセヴォロ ド・エミーリエヴィチ・メイエルホリドに会った。私たちの事業の

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年目に、彼は私た ちの許から地方に去り、そこで劇団を集めて、その劇団とともに、新しい、より現代的 な芸術を探究していた。私たちの間には次のような相違があった。私たちは新しいもの を目指しているだけで、まだそれを実現する方法も手段も知らなかったのに、メイエル