新島襄研究上の疑問点
著者 井上 勝也
雑誌名 新島研究
号 107
ページ 102‑112
発行年 2016‑02‑29
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000015598
研究ノート
新島襄研究上の疑問点
井 上 勝 也
序
私は1960年代の後半以降、本格的に同志社の創立者新島襄の研究を始め た。既に50年になるが、この間、新島襄研究上の疑問点を幾つか抱えなが ら現在に至っている。今日はその幾つかをご紹介したいと思う。
新島研究には現在という時点から新島の活躍した時代に迫る方法と、19 世紀後半の江戸やアメリカに遡って、その時点から諸々の現象を分析する方 法がある。私はその両方が必要であると考える。現在に生きる我々は、未来 に向って歴史の教訓を生かそうとする時に現在から歴史現象を見る傾向にあ る。今回の私の新島襄に対する疑問はそのような視点からの疑問であること を断っておきたい。
疑問点1:新島はアメリカのNative Americansや黒人問題を認識していた のか? 1867年3月の父民治宛書簡 アメリカは彼の理想とす るデモクラシーの国であったのか?
疑問点2:黄色人種である新島はNew Englandで差別されなかったのか?
A. Hardyの保護? 中浜万次郎の差別体験の例 礒英夫氏の証
言 double standard(二重基準)Manifest Destiny(明白な運 命)
疑問点3:新島は1874(明治7)年帰国後、1890(明治23)年に亡くなる 迄の15年間、ロシア正教の宣教師Nikolaiに会わなかったのは 何故か? cf.『宣教師ニコライの全日記』全9巻(教文館2007 年刊)のうちの第2巻p.165
疑問点 1
去る(2015年)4月30日夜のニュースで、メリーランド州のボルティモ アでおこなわれた野球が無観客試合になったと報じられた。黒人暴動が広が ることを恐れたためである。実はこの数カ月前から黒人が白人警官に路上で 殴り殺されるという事件が起こり、黒人と白人の衝突が再燃したと思われる 事件がアメリカの各地に起こっている。6月17日には南部サウスカロライ ナ州のチャールストンにある全米で最も古い黒人向けの教会の1つで、白人 が銃を乱射して9人の黒人が殺された。新聞報道では hate crime(憎しみの 犯罪)だといわれている。
1936年生まれの私の世代は、1963年8月にワシントンでおこなわれた公 民権法の制定を求める25万人の大行進を覚えている。ワシントンのリンカ ーン記念堂の前に集まった行進の参加者に、Martin Luther King, Jr.(1929−
68)牧師が有名な I have a dream. の大演説を行い、黒人公民権運動の一
応の到達点を示す公民権法が翌年の1964年に成立した。
私の研究対象である新島襄(1843−90)は1865年7月にNew Englandに 到着して、中等、高等教育と神学教育を8年にわたって受けたが、その頃の アメリカには1つにはアメリカン・インディアン即ちNative Americansが 1830年頃から継続してアメリカ大陸の南西部の僻地に強制移住させられて いたという長い歴史的事実がある。その代表的なものとしてチェロキー族は 1838年の厳冬期に先祖伝来の土地であるジョージア、アラバマ等からミシ シッピー川以西の指定保留地へ移住を強いられ、3000キロに及ぶ難路を飢 餓と寒さに耐えながら移動した。その結果15,000人のチェロキー族が途中
4,000人の犠牲者を出し、アメリカ史上では「涙の旅路」(Trail of Tears)と
呼ばれている。これはチェロキー族だけでなく、多くのNative Americansが 同じように強制移住の悲惨な経験をしている。
2つめは主に黒人奴隷をめぐる問題に端を発して、1861年から65年まで の4年にわたって南部の州と北部の州が戦いを交えた。北軍36万、南軍26 万、両軍合わせて62万人という膨大な戦死者と50万人近い負傷者を出し、
双方に計り知れない精神的、物質的損失を与えたこの南北戦争(Civil War)
中の1863年に奴隷解放宣言が出され、この戦争が奴隷解放の戦争であるこ とを示している。1865年4月にこの内戦は終了したが、その直後の7月に
新島はNew Englandに着き、彼の生まれた江戸とはまったく異なったデモ
クラティックな生活を始めている。
そこで私の最初の新島研究上の疑問点というのはNative Americansの問題 や黒人問題を新島はどのように考えていたか、ということである。私は寡聞 にして新島がアメリカで起こっているデモクラシーに逆行する出来事に対し て彼の意見を率直に述べている資料に出会わない。
新島は幕藩体制下で呻吟していた1863(文久3)年、ブリッジマンの書い た『聯邦志略』に出会い、「脳髄が頭からとろけ出る程驚いた」1)と述べる程 大きなカルチャーショックを受けた。彼はアメリカという国では物事が話し 合いで決められ、国家の最高指導者が国民によって選ばれるという国家を理 想視し、自分の眼で確かめたいと考えて、国禁を犯して密航を企て、New
England にやってきた。新島が描いていた理想のアメリカを彼はPhillips
Academy在学中で、New Englandでの生活が1年8カ月目の1867年3月、
彼の父親に宛てた手紙で詳しく伝えている2)。全体としてNew Englandの 人々の豊かな生活を描き、江戸でさまざまな桎梏を感じていた彼がのびのび と快適な生活を送っていることがわかる。なかでも彼が父親に一番伝えたか ったことは次の文章である。「人々小子を愛敬し、大学校の頭取、聖学校の 教師に至る迄も小子を親切に取扱、路上に出逢候ハハ手を握り(此の国の礼 なり)今日は如何御座ある哉と丁寧に挨拶いたし呉候。去りながら小子は益 謙遜、益勉強いたし成業の事のみ期し居り候」3)と書いている。幕藩体制下 の江戸で「籠の鳥」4)のような不自由な生活を強いられていた新島が、この 手紙を通して人間平等主義が横溢している New Englandの生活を誇らしげ に父親に語っている。しかし果たして南北戦争後の New Englandはそうだ ったのかと思わざるをえない。
下級武士の新島は、幕藩体制崩壊の兆しが顕著に露呈し始めた1850〜60 年代前半の江戸で青少年期を過ごした。そして彼は自由のない社会に窒息し そうになっていた。だからこそ彼は江戸幕府の統治方法の対極にあると考え
られたアメリカを理想視して、危険をおかしてアメリカに密航したのではな かったか?彼はNew Englandの人々を支配していたデモクラシーやキリス ト教に強い関心があり、彼自身もそれらによって自分の世界観を変えていっ た。
他方新島が1867年から70年まで3年間学んだAmherst Collegeには充実 した図書館があった。図書館の新聞コーナーにはNew York Times のような 全国紙を始め地方紙も、それから数カ月遅れで届けられるイギリスの代表的 な日刊紙The Times や中国の上海で発行されているThe North-China Herald も並べられていた筈である。極東に強い関心のある1850〜60年代のアメリ カやイギリスやフランスはアジアや日本の動向を詳しく把握し、新聞で報じ ている。新島も日本の動向を知るためにこれら有力紙の日本記事に注目し、
貪り読んでいたと考えられる。合せてNew York Times の第1面に載るアメ リカの政治記事が目に留まったであろう。アメリカの歴史の発祥地である
New England で、新島はアメリカのデモクラシーやキリスト教だけでなく、
アメリカの負の部分に気がつかなかったのだろうか?
疑問点の1は、新島はNew England にあってアメリカの実態を見ていた のかということである。
疑問点 2
2つめは黄色人種である新島はNew England滞在中人種差別を受けなかっ たか?という問題である。彼が生活し始めた1860年代後半のアメリカでは 大陸横断鉄道の建設が本格化し、安い労働力として中国から大量の労働者が 導入されたが、彼らは人種差別を受け、厳しい労働条件のもとで働いてい た。
新島はPhillips AcademyやAmherst Collegeで表面上人種差別を受けた気 配はない。その理由は、彼の保護者である Alpheus Hardy(1815−87)とい う大物が彼を保護(guard)していたからか? Hardyはボストンでは有名 人で、1861年の南北戦争勃発時にマサチューセッツ州の上院議員を務め、
その後共和党からボストン市長の候補に推薦されたが辞退している。又彼は
最盛期に17隻の貿易船を世界の海に走らせる貿易会社の社長であり、北米 最初の超教派的な外国伝道団体であるAmerican Boardの運営委員会の議長 を務めていた。又彼はPhillips AcademyやAmherst CollegeやAndover神学 校の理事をやり、慈善家としても知られ、新島のHardyに対する追悼説教
(明治20年11月、於同志社チャペル)ではHardyはアメリカ人の好きな立 志伝中の人物で、ジェントルマンの模範5)として紹介されている。このよう なHardyがPhillips AcademyのTaylor校長とも親しく、Amherst Collegeで は新島の指 導 教 授 と も い え る Seelye 教 授 を 始 め 、 新 島 時 代 の Amherst
Collegeの総長であったStearns教授等、多くの友人をもっていた。
Hardyの大きな存在にプラスして、極東の日本からやって来た新島はNew
Englandの人たちが信仰していたと同じ宗派のキリスト教(Congregational
church)を熱心に信仰し、アメリカの近代国家建設の秘密を学びとろうとす る意欲が旺盛であった。又彼は数学の能力ではアメリカの学生より優れ、行 儀作法においてはPhillips Academy時代のホームステイ先のMiss Hiddenや
Flint 夫妻やMcKeen姉妹からも高く評価され、周囲の人々に良い印象を与
えていたために、差別されなかったのか?
ちなみに、新島のPhillips Academy 在学中、Academyに黒人の入学希望 者があり、Taylor校長がその旨生徒たちに伝えると、彼らは強い反対の意思 を示している6)。それまでAcademyには1人も黒人の入学者がいなかった が、南北戦争ではAcademyの卒業生たちも北軍に志願し、リンカーン大統 領が「1863年1月1日以降奴隷は自由になる」という奴隷解放宣言を発し た時、彼らは感動の意思表示をしたであろう。また1865年4月の戦争の終 結を祝福した筈である。しかし彼らの後輩である生徒たちの反応は黒人の入 学に反対の意思表示をしたというのである。
新島が人種差別を受けたかを考えるにあたって、我々がよく知っている日 本人に対する差別として中浜万次郎の例がある。万次郎は1843年、アメリ カの捕鯨船John Howland号のWhitfield船長の故郷であるNew Englandの Fairhavenに連れて行かれたが、船長が属するCongregational churchは黄色 人種である万次郎が船長の家族席に座ることを拒んだ。その結果船長は万次 郎を受け入れてくれる Unitarian churchに転会したといわれている7)。万次
郎の例は新島がNew Englandに着いて生活を始める20年以上も前である が、新島がAndoverのOld South Churchに行って温かく受け入れられたの
はMiss Hiddenの力量と彼女の背後にいるHardyの存在が大きかったので
はと思われる。
実は去る8月9日(2015年)の一日研究会で、私は映像演出家の礒英夫 氏に新島がNew England滞在中に人種差別を受けなかったか?という質問 をした。氏は後日e-mail で次の文章を送って下さった。M. A. Allenという 女性が書いたAround a Village Green ─Sketches of Life in Amherst という書 名でマサチューセッツ州の NorthamptonのKraushar Press で1939年に出版 された本であるが、さわりの部分を引用すると ‘His classmates took Neesima to swim there, and he nearly drowned in one of the deep holes. When the students pulled him out, he said, Me no afraid to die, but me ashamed to drown in a river like him.’8)
この文章から新島が差別を受けたと断定することはできないが、Amherst College時代彼のクラスメイトたちがfreshmanの通過儀礼(initiation)に新 島を泳がせようとして川につれて行き、深みで溺れそうになった彼を引き揚 げた時、新島は「死ぬのは怖くないが、川で溺れるのは恥ずかしい」といっ たという。New England に来て既に3年学校生活をしている彼が ‘Me no afraid to die, but me ashamed to drown in a river like him.’という下手な英語を 使ったとは思えない。著者のAllenはAmherst Collegeのキャンパスで生ま れ育ち、1886年にSmith Collegeを卒業したインテリである。「死ぬのは怖 くないが、川で溺れるのは恥ずかしい」というのは武士である新島の言葉と して興味がある。ちなみに礒氏は ‘Me no afraid to die.’について、「Amherst の一般の人々がアジアから来た新島をその程度の教養しかない人間とみてい た(誤解していた、差別していた)とも言えます。」9)と私宛のe-mailで述べ られている。新島がHardyの絶大な保護を受け、数学が優秀で、行儀がよ くても、Amherstの全ての住民がそれらを知っている訳ではないので、アジ ア人である新島ならprimitiveな英語しか話せないのではという先入観があ ったと思われる。
アメリカにはdouble standard(二重規準)という考え方がある。例えば1776
年の「独立宣言」の文言は人類の基本的人権を謳い上げ、人間の生まれなが らの平等、生命、自由、幸福追求の権利を主張し、それを実現するために政 府がつくられる。そして政府がこれらの目的の実現に逆行するような場合 は、政府を変えることができるという革命権まで明確に定義されている。こ れは母国イギリスからの独立を正当化するためのものであると共に、彼らの 強い願望を明文化し、未来に向かってそれらの実現に努力することを宣言し た内容である。double standardはこのようなアメリカ人の理想主義を掲げる 一方で、現実にはNative Americansの先祖伝来の土地を奪い、僻地の指定保 留地に追いやり、同化を強制している。このような合衆国政府の方針に対し て、東部の人道主義者たちはNative Americansの境遇改善運動をおこなって いた。アメリカには抜き難い差別の意識とともに、それを払拭しようとする 主張が共存している10)といえるのではないか?
19世紀のアメリカ史にはManifest Destiny(明白な運命)という領土拡張 を正当化し、必然性を表現するイデオロギーがある。アメリカ合衆国はイギ リス、フランス、スペイン、ロシアから土地を買い取り、アメリカの領土拡 張政策の典型であるメキシコ戦争(1846−48年)でメキシコの領土を合衆国 に編入する場合に、神によって割り当てられたものとしてこのManifest
Destinyが使われる。1898年にハワイを併合して軍港を建設し、1899年にフ
ィリピン群島をアメリカ領としたときもこのManifest Destinyが使われたの だろうか?
さて、Uncle Tom’s Cabin を書いて、1852年に単行本として刊行し、爆発 的な人気を博し、1年間に30万部も売れたといわれるこの本の著者はH. E.
B. Stowe(1811−96)夫人である。彼女はコネティカット州で生まれ、教育
を受けたNew Englander(ニューイングランド地方の人)で、神学者である
夫は1852年から63年まで、新島が後年神学教育を受けるAndover神学校 の教授を勤め、夫人と共に神学校のキャンパスに住んでいた。新島が、この 南北戦争のきっかけをつくったといわれるUncle Tom’s Cabin の著者である
Stowe夫人の名前や、彼女の作品名はもとよりストーリーも知っていたであ
ろう。黒人が比較的少ないとはいえ、New Englandにも黒人はいた。アメリ カのデモクラシーに驚嘆して遥々 New Englandにやってきた新島は、アメ
リカのよき面にのみ目を向けていたのであろうか?これが私の疑問点であ る。ちなみに新島よりも1年遅れて薩摩藩の留学生14人と共にイギリスに 密航し、1865年5月サザンプトン港に着いた森有礼(当時18歳)は2年前
の1863(文久3)年の薩英戦争で薩摩藩がイギリスのアームストロング砲に
苦戦し、軍事力に格段の差のあることを従軍した兄から聞かされ、イギリス に強い関心を持っていた。彼はイギリス最初の市民大学として1828年に開 学したロンドン大学で薩摩藩から与えられた「海軍測量術」を研究すること になっていた。「世界の工場」を自負するイギリスは産業革命後貧富の格差 が拡大し、イースト・ロンドンにはスラム街が広がっていた。イギリスにも 負の部分があることを知った森は早くも4カ月後の1865年9月に兄横山安 武に宛てて次のような手紙を書き送っている。「…何れ人間一度は宇宙を遊 観せすんば十分の大業遂げ難しと愚存仕居申候。私にも了簡未だ頓と据え不 申候得共、此度渡海以来魂魄大いに変化して自分ながら驚く位に御座候。私 に於て第一学問する所人物を研究するにありと考ひ付始終心を用ひ汚魂を洗 濯仕居申候」11)と書いている。森はそれまで日本で描いていた近代国家イギ リスに対する見方を大きく修正して、最尖端の軍事技術であるアームストロ ング砲の造り方や海軍測量術を研究するよりも、アームストロング砲を造り 出した科学者や人物の研究が必要であることに気付いたのである。これは森 の慧眼である。
疑問点の2は新島が人種差別を受けたかという問題と合せて、彼はアメリ カの二重構造に気がつかなかったのかという疑問である。
疑問点 3
3番目の疑問点は、新島が1864(元治元)年6月(旧暦)箱館から密航を 企てる直前の5月5日から6月14日までの40日間、ロシア領事館で生活を 共にしたロシア正教の宣教師Nikolai(1836−1912)−新島は彼の日本語、日 本文化の家庭教師を引き受けた−は来日して既に4年目になり、新島と共に
『古事記』を読む程日本語、日本文化に精通していた。28歳のNikolaiと21 歳の新島はお互いに知識欲が旺盛であった。新島はさかんにNikolaiから色
んなことを聞き出している。例えば彼からクリミヤ戦争(1853−56年)につ いて詳しく聞いてメモしていることが彼の残した「函館紀行」でわかる。新 島がロシアの南下政策の一環であるクリミヤ戦争に関心があった証拠であ る。また彼はロシア病院で医師のザレスケーに眼の治療を受けているが、彼 のこの病院に対する関心の高さも驚く程である。彼はロシアの日本侵略の可 能性を危惧している。要するに新島とNikolaiはたった40日ではあったが、
民族の壁を越えて親しくしていたので、新島は思い切って Nikolaiと思われ る人物に密航の幇助を求めた12)が断られた。新島の原文は相談した相手の名 前を伏せて傍線になっているが、Nikolaiだと推察される。
さて、新島は1874(明治7)年11月に、10年ぶりに帰国したが、ロシア 正教の宣教師であるNikolai とAmerican Board の宣教師である新島は、彼
が1890(明治23)年に亡くなるまでの15年間一度も会っていないようであ
る。新島はしばしば宣教や大学設立運動などで上京したが、二人が東京で会 ったという記録はない。新島の方が敢えてNikolaiを避けていたように思わ れる。
現代に生きる我々は、たとえ宗派を異にしても、40日間も同じ屋根の下 に住み、世界情勢を語り合った仲であるので、「や、や!」といって握手を し、10年ぶりの再会を喜こび合うのが自然だと考えるが、如何なものか?
新島は1888(明治21)年の教会合同問題で自分の主義主張を一歩も譲ら
ない姿勢を示した。19世紀の後半、彼がNew Englandでキリスト教を学ん でいた頃、ニューイングランド神学を堅持する Congregational church(会衆 派教会)と、イエス・キリストの神性を否定し、信仰における理性の働きを 重んずるUnitarianの間に摩擦が生じ、新島の属するCongregational church はますます彼らの教義を厳守する姿勢を示した。新島は平民主義の会衆派教 会と、中央集権的で貴族主義的な一致教会の合同が実現すると、自治、自 由、平等主義を主張する立場から、会衆派教会の自立が保てなくなると考え たからだと思われる。それにしても新島がNikolaiに会うことは世間に誤解 を招くと考えたのであろうか?
『宣教師ニコライの全日記』全9巻が教文館から2007年に刊行された。新 島生前の時代を Nikolai の日記に照合すると、『全日記』の第2巻の1882
(明治15)年6月の頃にNikolaiが京都にやって来て、市内を隈無く見学し ていることがわかる、そして同志社英学校にも、新島邸にも来ている。
Nikolaiの日記を引用すると、「組合教会派(訳者は会衆派と訳さずに組合教
会派と訳している)の学校を見学に立ち寄ったが、新島に会えなかった。学 校は洋風の造りの五つの大きな建物と、その裏手のさまざまな建物(日本 風)からなっている。学生は100人以上はいるにちがいない。寮もある。ど の建物からもたくさんの若者が覗いていた。ここでは英語のほかいろいろな 科目を教えている。しかしもちろん学校の主目的はキリスト教の伝道者を養 成することだ。とくに二人のアメリカ人が教えている。お雇い教師としてこ こに住んでいるのだ。その後新島の家を訪ねたが、ここでも会えなかっ た。」13)と書いている。Nikolaiが同志社に来たと思われる日(日記には日ま で厳密に書かれていない)を『新島襄全集』8の年譜編で照合すると14)、1882
(明治15)年6月14日から17日にかけて新島は彦根に行っている。もし
Nikolai が新島に会いたいのであれば、前以て手紙を送ってアポイントメン
トをとることができた筈である。ちなみにNikolaiの日記には何個所か組合 教会の動向が書かれ、彼が新島の伝道活動に強い関心をもっていることがわ かる。
Nikolaiの今回の京都訪問について、当時外国人が突然キャンパスに入っ
てきて、新島に会いたいとの意思表示をし、彼は新島邸にも行って新島を訪 ねているので、DavisやLearnedが、或いは新島邸では八重が応対したか、
いずれにしても新島にNikolaiの来訪を伝えた筈であるが、新島側に何の記 録も残っていないのは何故か?不可解である。
以上疑問点の3点目として、新島は帰国後亡くなるまでの15年間、なぜ
Nikolai に会わなかったのか? これらの疑問点は新島を総合的に評価する
上で重要であると考えている。
出典
1)A. S. Hardy(ed.),Life and Letters of Joseph Hardy Neesima, Boston, 1891, pp.3−4
(以下Life & Lettersと略す)
2)新島民治宛 慶応3(1867)年3月29日付『新島襄全集』3 書簡編1 同朋舎
出版 1987年 pp.31−38.(以下『全集』と略す)
3)同上 p.35 4)Life & Letters,p.7
5)「ハーディー氏ノ生涯ト人物」『全集』2 pp.411−412
6)C. M. Fuess,An Old New England School : A History of Phillips Academy, Andover, Boston, 1917, p.295
7)川澄哲夫編 増補改訂版『中浜万次郎集成』小学館 2001年 p.175
8)M. A. Allen,Around a Village Green ─Sketches of Life in Amherst, Kraushar Press, 1939, pp.32−33
9)礒英夫氏の私宛e-mail(2015年8月20日付)
10)田中彰著『明治維新と西洋文明−岩倉使節団は何を見たか−』岩波新書 2003 年 p.113
11)横山安武宛(1865年9月)大久保利謙編『森有礼全集』第2巻 宣文堂書店 1972 年 p.50
12)[航海日記]『全集』5 日記・紀行編 p.36
13)長縄光男、髙橋建一郎訳『宣教師ニコライの全日記』2(1881〜1891年8月)教 文館 2007年 p.165
14)『全集』8 年譜編 p.238