1.2 生存基盤の崩壊と再構築 ―― 「土俗志向」作家である深沢七郎
2.2.2 風物自然と都市風景 ―― 荒れた都市空間
深沢七郎の小説には「時代不明」の作品が少なくないが、全体的に見れば「近代的都 市物」と「前近代的土俗物」と大分できる。『東京のプリンスたち』と『千秋楽』などの 小説には自然に関する描写がほとんどなく、登場人物たちが都市空間で冷たく寂しい生 活を送っている。自然風景の不在は、都市・近代生活の荒涼さと対応していると考えら
153 1960 年に発表された『風流夢譚』は、天皇制に深く関わった作品であり、深沢の初・中期創作にお いて特別な位置づけを持っているため、第四章で単独に取り扱う。
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れる。次に、「都市風景」と「風物自然」の両面から、深沢が描いた「土俗」と「都市」
の様相をまとめた上で、作家が注目した人間と自然の関係を試論したい。
「都市」というと、いつも自然と離れた存在をイメージする。しかし、広義的に見れ ば、都市も大自然に属し、近代的な風貌を呈した「自然」である。樋口忠彦と内田芳明 は、都市と自然の関係についてそれぞれの意見を述べた。
人類は生誕以来、自然の中での生活を懐かしむ「生物学的特質からくる根源的欲求」
を持つが、他方では環境や生活様式を大きく変化させ、都市という人工的環境を生み出 してきた。それ故に、「都市の中に庭園や並木や水の流れや公園という人工の自然をつく りだそうとする試みは」、変化しない生物学的特質と、変化した人間の環境とのずれを「補 正」したいという「本性的欲求」に基づくことであると樋口忠彦154は述べた。樋口の主 張に対して、「都市という人為的集落が作られるとき、それは一面でどうしても自然に対 する暴力を意味せざるを得ない。だから人が都市を作るとき、自然というものがどのよ うに人々に意識されているのか、が間題となる」と内田芳明155は言った。仮に自然への 要求が「本性的欲求」に根ざしたものであるとしても、それがなぜ意識され、意識され たものがどのように表現されているかに目を向けることを促すべきだと内田は主張した。
彼によると、自然の一部を切片として取り出し、それを風景とするのは都市的心性の所 産である。風景とは、都市という社会関係が自然を主題として押し出した一つの表れで あると内田は論じた。
樋口と内田の論説には相違とずれがあるが、二人とも都市風景の「サブ自然」の属性 を認め、都市風景の自然的要素を通して人間の内実を覗う可能性を指摘した。「自然」と は、多くの植物で囲まれた野生生物の空間だけを指す概念ではなく、人間の生存空間自 体も自然の一部である。
『東京のプリンスたち』や『千秋楽』などの近代舞台の作品では、作中人物の行動は、
それぞれカフェ、劇場、クラブなどの狭い空間に限定されている。このような場所設定 を通して、深沢は窮屈な「近代的な匂い」を端的に作り出した。本論において、これら の近代的都市空間を「都市風景」と呼びたい。それに対して、土俗的作品において、自 然はただの物語背景ではなく、人々の生活を規定する「規則」として重要な役割を果た している。人間と自然との関係を大事にしている深沢にとって、人間自体も人生という ものも自然の一環なのである。主人公たちの生活は、始終自然の理・掟によって規定さ れ、自然に身につけた庶民の「生存の智慧」に基づいたものである。本論は、このよう な土俗的物語世界における自然を「風物自然」と命名したい。広い天地間で展開した「風 物自然」と比べると、異常に狭い空間設定が、深沢の描いた「都市風景」の一番目の特 徴であると言えよう。
次に、近代物の登場人物と「都市風景」との関わりを解明してみたい。
「流行物」が『東京のプリンスたち』の都市風景の肝心な要素である。マンボ、シン フォニー、ロカビリー、シャンソン、プレスリーの唄などの音楽、カフェ、茶廊、デパ
154 樋口忠彦 『日本の景観 ふるさとの原型』 春秋社 1981 年
155 内田芳明 『風景と都市の美学』 朝日新聞社 1987 年
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ートなどの場所、それにタバコの煙、「愛」などの実体不明の近代的雰囲気。このような 環境に囲まれた「プリンス」たちは、自分の存在を実感しようとした。その中に一番多 く繰り返されたのは、高校生たちの大好きなエルヴィス・プレスリーの唄である。大ま かに数えて見ると、彼の唄が二十回前後言及された。ロックの自由とエネルギーは現実 から独立した世界を構築している。しかし、この小説の登場人物が呈したのは、自由へ の憧れより、むしろ困惑と迷いである。セックスにせよ、友達にせよ、学生たちはいつ も無表情・無感情で行動している。ロックなどの音楽に陥る時間こそ、自分のもってい ない活力とエネルギーを一時的に体験することができる。この「プリンスたち」は、現 実の冷たさと音楽世界の自由な雰囲気の隙間に生きていたのである。彼らの目に映った 都市風景は、困惑と滑稽な大人の社会及び「自由的」音楽によって構築されたのである。
『東京のプリンスたち』と比べて、『千秋楽』の都市風景は、一層単純である。ドンチ ョーは、1 月 31 日から 3 月 31 日まである劇場で熊、伯爵などの雑役を演じていた。彼 の活躍した環境は、東京駅から劇場までの道及び劇場内部の空間だけである。もっと精 確に言えば、この小説中の主人公の行動は、90%以上が劇場で行っていたのである。二ヶ 月余りの間、ドンチョーはこの狭い劇場で働きながら色々な人を観察していた。
前節で言及したように、『千秋楽』は、深沢七郎が自分の日劇ミュージックホールに出 演した経歴を踏まえて作った作品である。この作品に登場したのは、「臙脂の派手なジャ ンパー」を着た高慢な演出助手、娘の不採用で演出事務所に狂った中年の女、無口で存 在感の薄い「ギターさん」、明朗で軽率な踊り子たちなどの様々な人間である。主人公ド ンチョーは、彼らと同様の位相を取って叙述をしている。作中には近代的利益追求性が 確かに存在しているが、『千秋楽』の主眼はあくまで人間百態の記録にあるのではないか と考える。一方、楽屋に集まってきた人々は「都市遊民」である。彼らは劇場でしばら く集団生活を送って、千秋楽が終わるとまた他の所に移動しなくてはいけない。つまり、
「都市」というメタ風景にいる彼らは、絶えず自分の居場所を探っている人間である。
ドンチョーのように楽屋の内部空間と都市風景の外部空間を往復していた生存状態は、
「近代人」の現実社会に対する不安と彷徨を伝え表している。
最後、『サロメの十字架』の都市風景と登場人物との関係を見よう。この小説の都市風 景は『千秋楽』とかなり似ている。『千秋楽』は劇場に限られ、『サロメの十字架』は銀 座にある高級クラブに限られているのである。しかし、劇場と対照する外部の都市・社 会というメタ風景の存在を提示する『千秋楽』と違い、『サロメの十字架』の物語世界は 厳しく「クラブ」という空間に限定されている。ホステスたちは、クラブを離れると生 存できない人間のように描かれている。物語空間の縮小に従って、金銭利益に溢れた窮 屈な世界に生きるホステスたちの貪欲なまでに利益を追い求める姿が、一層あからさま になる。その中でも、ママさんは唯一「東京―大阪―東京」という大きな範囲で移動し た登場人物である。しかし、彼女の利益追求の本質は変らなかった。東京であろうが大 阪であろうが、ママさんはクラブでしか生きられない人間なのである。場所が変わって も、同質の空間に縛られたからこそ、彼女らは根本的に変ることを望めないのである。
『サロメの十字架』は、狭くて逃れ切れない空間を通して、近代人の狭隘な実利追求性 を描き出した。利益を求めるために自分をこの窮屈な空間に閉じ込め、この空間に閉じ こめられたから利益しか求められないという近代人の悲劇的世界は、この作品の独特な
93 都市風景であろう。
以上で、深沢の三つの近代物における登場人物と都市風景との関わりを整理した。『東 京のプリンスたち』に出た若者たちの青春の迷いから、『千秋楽』の人間百態を経て、最 後『サロメの十字架』の最も狭い空間、最も目立った実利的人間の姿まで行った。総括 すると、深沢の近代背景の物語において、都市風景の空間限定性は、近代人の特質と密 接に関わっている。『東京のプリンスたち』と『千秋楽』の二重的都市風景の構造に由来 する「都市遊民」の特質と違い、『サロメの十字架』に現れた狭い生存空間に生きたホス テスたちは、近代的空虚さと利益追求性を映し出した。彼女らの異様な生存様態は、当 時の評論家たちに「狂気」と非難されていたが、都市風景に基づいた近代人の貧弱な心 理状態を生き生きと語ることは、深沢の近代物の二番目の特色であると言えよう。
深沢七郎の近代物中の都市風景と比べて、読者に一層強い印象やインパクトを与えた のは、やはり彼の土俗的作品に出た風物自然である。次に、『楢山節考』と『笛吹川』に 出た土俗的世界の「自然」と「人間」との関わりをまとめてみたい。
土俗風土の再現は、深沢創作の重要なモチーフである。『楢山節考』と『笛吹川』は共 に甲州地域の自然に基づいて作られた作品である。楢山の風景と笛吹川流域の景色、自 分の出身地の風景に執着しているのは、深沢の故郷原風景への愛着の証でもある。
『楢山節考』の姨捨の話は、「楢山まいり」という風俗をめぐって進んでいる。貧しい 村と神聖な楢山は、物語展開の主要空間である。様々準備した末、おりんが望み通りに 雪の降った楢山で自然と一体となった。『楢山節考』において、「楢山」と「村」には緊 密な一体感があり、村民たちは自然の恵みによって生きている。山地地帯であるから、
食糧が乏しくても不思議ではない。このような状況に対応するために、「楢山まいり」が 皆の守らなくてはいけない掟として作られてきた。自然との共存は、資源が貧しいこの 山村にとって必然的な生き方である。
『笛吹川』の場合、笛吹川・笛吹橋・土手などが物語世界の重要な座標である。作中 人物は毎日橋と土手を行き来している。笛吹川の傍の村は、周りの自然との境界がほと んどなく、大自然の一部として存在している。この自然的な村と対蹠しているのは、笛 吹川から離れた権力者の「お屋形様」である。お屋形様と笛吹川は、庶民たちの生活を 制約している人間権力と自然の両極の力である。農民たちは、自然の恵みによって食糧 を得たり、笛吹川の氾濫によって移動したり、お屋形様のご機嫌に翻弄されたりしてい る。この小説の最後で、お屋形様と「ギッチョン籠」一家は戦争でほぼ全滅してしまっ た。生きている人間を定義する権力と身分は、死によって無意味になった。最後に残っ た唯一不変なのは、ひたすら流れてゆく笛吹川によって象徴された自然のみである。
小林和子は『笛吹川』から、「庶民側からの歴史の書き換えの試み」156を読み解き、こ の作品が「戦後民主主義の欺瞞の隠喩」と「土俗性の復権」を果したと主張した。死ん だ人々は、まるで笛吹川の川底を流れる石ころのようなものである。深沢は、お屋形様 も、「ギッチョン籠」の一族も、「土手のまがり家」の馬までも等価に見ている。一人の 人間が死ぬと別の人間が生まれる。「人間が生れることも屁と同じように生理作用で母親
156 小林和子 「現代文学における輪廻転生についての一断想」 『茨女国文』 茨城女子短期大学 1995 年 3 月号