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三島由紀夫の「片思い」と深沢七郎の「敬遠」

ドキュメント内 深沢七郎論 (ページ 144-153)

『風流夢譚』と『英霊の声』における主人公の死は、「人間天皇」への抵抗感と違和感 を表しながら、人々の心に深く潜んでいる観念としての天皇のイメージを端的に語り出 した。これらの小説に出た「殉死」と「身を捧げる」などの表現は、それが発表された 1960 年代初頭の盛り上がった近代的イデオロギーとは、縁遠いものである。天皇の墜落 と近代思想の蔓延が並行した状況の下に、天皇に代表された「絶対原理」と「伝統」の

256 Ibid

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崩壊している現在こそ「憂える国」であろう。死を通して天皇の伝統的イメージを純化 させ、「左慾」などの「イデオロギー」に溢れた近代社会を鋭く風刺するところには、三 島由紀夫が『風流夢譚』の発表を支持した最大の理由があるのではないかと考える。つ まり、三島はただ深沢七郎の「面白さ」に気付いたばかりではなく、深沢の創作を心か ら理解している人でもある。しかし、何故『風流夢譚』事件以降、深沢は「三島由紀夫 先生」を敬遠してしまったのか。三島の深沢への関心と理解はただの「片思い」なのか。

松本健一は「恋愛の政治学――『憂国』と『英霊の声』」(『国文学 解釈と教材の研究』

1986 年 7 月号)において「革命」と「維新」の問題を論じた。彼は「革命」を「人が地 上で生きつづけるために天の命を革むるもの」と定義した。しかし、日本の「革命」は

「生」のためではなく、「死ぬことによって終いに守るべき大義を提示する」ものなので ある。松本氏は、二・二六事件の蹶起軍の志の究極的価値は「天皇」であるから、彼ら が実は「天皇」という本質的なものを世に顕在化させようとする「尊皇義軍」であると 指摘した。三島は『憂国』と『英霊の声』において、「死」によって天皇の絶対性を訴え る将校たちの姿を描き上げた。「益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日 の初霜」、「散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」の辞世 の句を残して自決した三島自身も、松本の言った「維新」の最大の実践者であろう。

その反面、深沢の『風流夢譚』の「デモ」は、滑稽な行事のように描かれているが、

生活の「根拠地」を改めて構える目標から言えば、その「天皇を殺す」行為は、むしろ

「革命」の本質に近いものであろう。主人公の「私」が天皇に「殉死」したのは、戦後 社会における生存基盤の喪失に因んだものであり、「尊皇」と「大義」と無縁なものであ る。さらに『安芸のやぐも唄』において、深沢はおタミの「生」を通して、新しい生き 方を提示した。「大義」より、「生存」の実感こそ作家の関心事である。

つまり、『風流夢譚』と『憂国』の主人公たちの殉死した「天皇」は違うものである。

三島の作り上げたのは、理想的で完璧な天皇像であり、その絶対性に基づいた殉死自体 も「死の美意識」の再現である。それに対して、深沢が描いたのは、日本伝統と原風景 の代表者として失脚した人間天皇であり、辞世の歌を作って死んでからこそ、権力性の 完全に剥がされた天皇である。この「人間天皇」の死も、近代的生き方に汚された「私」

の死も、醜いものである。一言で言えば、三島が理想的天皇制を構築することを通して、

自分の主張を述べたに対して、深沢は変調した「伝統」とウジのような「近代人」の両 方をからかっている。「主張」或いは「アイデンティティ」の代わりに、「とぼけ」と「ブ ラックユーモア」を用いる手法こそ、深沢らしい書き方である。更に、「思い残すことも ない、死んでもいい」という深沢の人間滅亡教的発想は、三島の「至福の死」の観念的 行為とは全く異質なものである。理想的なものを求めるという三島の創作意識と自分の 目指した庶民の土俗的発想とのギャップも、三島が自己主張の強い「異常神経」の持ち 主であると気づくようになったことも、深沢を「三島由紀夫先生」から敬遠させた理由 であると考える。なくなったものを取り戻せ、なくなったものならなくなってもいい、

このような発想と生き方の根本的差異が、三島と深沢の交際を止めてしまったのではな いだろうか。

全体的に言えば、深沢と三島の創作から、「庶民」と「知識人」の発想・世界観の衝突

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を読み取ることができると考える。彼らの創作は共に観念として、純粋な文化的イメー ジである「天皇」を言及した。地縁血縁的共同体の中核として、日本伝統と「神性」を 集合的に体現する天皇のイメージは、彼らのいわゆる理想的天皇像である。「人間宣言」

で転身した天皇と伝統を崩した近代社会は、深沢と三島の拒否と嫌悪の対象である。し かし、庶民的感覚と知識人的世界、人間天皇の登場に伴って希薄化された日本伝統的原 風景への憧れと理想的天皇の絶対な神威の再構築、深沢と三島の創作意識には根本的な 相違がある。「近代嫌い」という共通の地平線に立っていた彼らは、「大嫌い」と「気味 の悪い生理的なもの」とお互いによって評価され、「庶民」と「知識人」のギャップを示 している。三島の創作の弱点と自決の意味を鋭く指摘した深沢と、深沢の土俗的世界の

「不気味さ」と『風流夢譚』の近代批評の意図を理解した三島は、不思議な因縁に結ば れた存在であろう。

1970 年 11 月 25 日、三島由紀夫は割腹自決した。柴田勝二は三島の死の実体を以下の ようにまとめた。

三島由紀夫が企図したのは、自衛隊に託して戦後日本への憎悪を表現するととも に、みずからの命を絶つことによって、「天皇霊」の連続性に自身の霊魂を連ねる ことであった。それは昭和天皇の<神性>を最終的に否定し、昭和天皇に自身が取っ て代わることである点で、<天皇殺し>としての意味をもつ行為にほかならない。

それを示唆しているのが、十一月二十五日という日付である。この日は一九二一

(大正十)年に昭和天皇が、病を重くしていた大正天皇に代わり、摂政として政務 を執ることになった日に相当している。257

このように自決を通して、自己主張を最大限にアピールし、自己の道に執着した三島 の死は、深沢七郎によって「主義で死んだんじゃなくて、『自然淘汰』っていうんだ」258 と評価された。深沢は、「天皇霊」の継承を必死に追求した三島が「天皇主義者」と文学 の枠組みを超えて、自分自身を理想化の窮地に追い迫ることを鋭く指摘した。文壇を離 れてラブミー農場で庶民的生活を送っていた彼は、三島の死に対してしつこいほどの激 しい反応を示した。『風流夢譚』事件の衝撃を受け、政治と文壇に関わった発言を慎んだ 深沢が、そのような辛辣な口調で他の作家を批評するのは、稀なことである。距離を保 って批評気味な目で観察することは、深沢なりの三島への関心であると考える。

三島の死後、深沢は当年の「からっ風野郎」のことについて以下のように語った。

「からっ風野郎」の映画のときに、オレが作曲料なんかとらなかったわけだ。そ したらお礼に、中華料理ごちそうしてくれて、ツバメの巣を注文した。(中略)あ んなもんは、値段ばかり高くって、全然うまくない。(中略)値段とか名前で、も

257 柴田勝二 『三島由紀夫 作品に隠された自決への道』 祥伝社 2012 年 261 頁

258 深沢七郎 「三島由紀夫は少年文学」 『生きているのはひまつぶし 深沢七郎未発表作品集』 光 文社 2005 年 130 頁

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のごとを判断している。ほんとうの味覚で処理しているんじゃない。259

深沢は、「坊っちゃん育ち」と呼ばれた三島には、庶民に関わったことに従事した経験 がないから、「人生を実地で学んでない」と言った。庶民の一生懸命に生きる姿を美しい ものとみなす深沢が、三島の生き方と価値判断に同感できないのは不思議なことではな い。彼にとって三島の書いたものは、「少年の世界」であり、「文学少年のまんまの小説」

である。「みんな形式で、本物ではない」というわけである。エリートと「坊っちゃん」

との付き合いが嫌いな深沢は、三島のことを過小評価したと思われる。しかし、「オレは、

三島由紀夫が死んでショック受けたってより、ケンカ売られたって感じだね、あんなイ ヤな野郎、世の中にいないね」260と言った深沢は、死によって最大化された三島の主張 と意志を感じた。それぞれ「庶民的」と「知識人的」価値判断の持ち主である深沢と三 島は、対極的な存在であり、自分の生き方と理念を相反の方向で徹底したライバルであ ろう。しかし、三島は自決によって勝手にこの「勝負」に休止符を打ってしまった上、

死亡という超越できない手段で自分の「勝利」を一方的に宣した。「ケンカ売られた」深 沢は怒りを表すと同時に、「一日働いて、いくらってこと知ったら、三島由紀夫、ハラ切 らないよ」と三島の自決への深い遺憾、及びそのライバルを失った寂しさをも示した。

三島は自分にないもの、つまり土俗的でアンチ・ヒューマニズム的な特質を持った深 沢の存在に惹かれていた。「三島由紀夫先生」に敬意と好感を抱いた深沢は、後に揶揄、

或いは敬遠な態度で生活感覚の欠いた三島に対応した。戦後近代拒否のこの二人の作家 は、お互いに関心を示しながらも、それぞれ土俗的世界と近代都市の世界観に基づいて 書き上げた作品は、「水と油」(深沢語)のようなものである。

前述のように、1959 年以降、天皇に関わったエッセイ、及び近代の若者の生活を描い た『東京のプリンスたち』を書き上げた深沢七郎は、土俗的世界を離れて、近代社会を 背景とする作品を試みた。この戦後社会の不安定で混乱した時期に、深沢の関心は以前 より「近代」の方に傾いていたのである。もし三島の「毒が相殺される」戦略が成功し、

『憂国』と『風流夢譚』が同時に掲載されたら、深沢は『風流夢譚』事件から救われた かもしれない。彼の六十年代初頭の「文明批評」も慌ただしく終わらず、「左翼」の方に 興味を示した深沢と「右翼」の特質を持った三島の真正面の勝負も期待できただろう。

自己主張をはっきりと出し、自決を通してその主張を最大限に表明する三島と比べて、

テロ事件の衝撃で近代に関することを慎むようになった深沢は、いささか「臆病者」と も言えるのではないだろうか。「近代」の恐さを体験した深沢は、次第に庶民の世界に慰 めを求め、「世捨人」の姿を世間に示すようになっていった。一言で言えば、『風流夢譚』

という作品は、深沢と三島の交際にとっても、深沢の人生にとっても肝心な転換点であ る。

259 Ibid 131 頁

260 深沢七郎 「アルバイトをやらない人はダメ」 『生きているのはひまつぶし 深沢七郎未発表作 品集』 光文社 2005 年 135 頁

ドキュメント内 深沢七郎論 (ページ 144-153)