近代化と都市化の衝撃で、ラブミー農場に移住した深沢七郎の「純粋な庶民」になる 夢は破滅した。ところが、彼が「庶民」になれない原因は農業の近代化だけにあるわけ ではない。前述した「『庶民烈伝』序章」における「私」の位相から、そのもう一つの理 由を垣間見ることができると考える。
「庶民ですね、そんなに早く食べられるのは」、「凄いなあ、庶民だなあ、あんなコッ ペと、ミソ汁なんかにお辞儀をして」271。『庶民烈伝』の叙述を進めた語り手である「私」
270 深沢七郎 「私の近況」 『深沢七郎集』(第十巻) 筑摩書房 1997 年 39 頁
271 深沢七郎 「庶民烈伝序章」 『深沢七郎集』(第四巻) 筑摩書房 1997 年 17 頁
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は常に庶民の生活にびっくりしたり、評価したりしている。つまり、作中の「私」は「庶 民」ではなく、庶民より高いところから「庶民を眺めている存在にある人なのだ」272。 このような語り方は、深沢の「庶民」を観察する立場を提示していると思われる。彼は ただ現象的に日本庶民の貧しさや生き方をキャッチしており、それを取り巻く社会的背 景については、全くといってよいほど触れていないことがしばしば、その「庶民物」の 決定的な欠点であると言われた。しかし、「社会性」と「批判性」などの近代的思考を徹 底的に排除することこそ、この作家の土俗的作品の醍醐味ではないかと考える。
深沢七郎氏のように、イメージを心の中で愛撫し、育てるといっても、感受性の 強くないものや、持続性のない人間には、できないことだ。長い間考えて醗酵させ るということは、自己の世界を、他から隔てて、強く生かして行ける精神力のある 場合に限られる。その点で、一見弱弱しく内攻的に見えるこの作者は、強烈な芸の 魂を持っている人と推定される。273
伊藤整は、深沢の特異な芸術性を鋭く捉えた。1956 年、商家出身で、「庶民」として 生きようとした深沢は、『楢山節考』で突然文壇に上がり作家となった。しかし、作家・
知識人のような身分は、彼に名誉をもたらすと同時に、その「自己の世界」、「心の中で 愛撫し」た感受性を破壊してしまった。「いろいろ束縛されるのがいや」、「責任を持つこ とが大嫌い」、「自由」が大好きな深沢にとって、作家と知識人なりの行動をとらなけれ ばならないのは耐え難い苦痛である。つまり、「作家」への転身が彼にもたらしたのは地 位と富のような近代的利益より、むしろ不安と動揺である。しかも、「良い家」に育った 深沢は、そもそも「庶民」の生存基盤を持っている人間ではない。「土俗的生活」への憧 れを抱いていること自体が、そもそも彼自身が持つ非庶民性の一番有力な証であろう。
「都市遊民・高等遊民」のように生きた深沢は、知識人と庶民のはざまで自分の生存空 間を探っていた。一生涯、叶え得ない夢を追い求めたことが、深沢七郎にとっての最大 の「悲劇」であると言えよう。
だからといって、近代の一員である深沢にとって、生活面においても、創作面におい ても、知識人のすべてを放棄することは無理がある。彼が「土俗物」を多く作りあげた のは、「近代自己」(井上明久)を抱いた自分の「庶民志向」への代償であると思われる。
言い換えれば、深沢の人生は、「知識人」からの離脱不能と「庶民」への憧憬という二つ の鎖に縛られていたのだ。また、『風流夢譚』事件によって追い込まれた深沢の「流浪」
は、同時に「近代」を離れた「自由」を体験する旅でもある。流浪において、都市の束 縛から一時的に解放し、「庶民」と「知識人」間のバランスポイントを見つけることは深 沢の創作にとっても、人生にとっても不可欠なプロセスである。
深沢七郎の「庶民」と「知識人」の間にもがいた生存状態は、『風流夢譚』において再 現された。前章で論じたこの作品のスキゾイド的二重性もまた、作家自身の特質に因ん だものである。次に、心理分析理論を通して深沢のスキゾイド的人間像を解明する上で、
272 佐藤藤三郎 「庶民とは何か――『庶民烈伝』にふれて」 『世界』 岩波書店 1971 年 1 月号
273 伊藤整 「深沢七郎氏の作品の世界」 『楢山節考』 中央公論社 1957 年 214 頁
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彼が「庶民」と「知識人」の隙間に落ち込んだ深層原因を探りたい。
フェアベーンは、分裂的人間の基本的態度の本質が劣等性の態度に由来すると指摘し た。彼は大量の分析と実例を踏まえて、分裂的人間の共通した三つの特徴――「万能的 態度」「情緒的な孤立と引きこもりの態度」「内的現実へのとらわれ」をあげた。分裂的 特徴を持った人は、人を愛することに対しても、人に愛されることに対しても、防衛措 置を講ぜずにはいられないという気持ちに駆られている。一方、彼らが社会的接触を放 棄するのは、何よりもまず、「自分には、人を愛することも人から愛されることも、とも に禁じられているのだ」と感じているからに外ならない。このような特性こそが分裂的 人間の悲劇の源である。分裂プロセスが進んでしまった結果、大規模な感情抑圧が起こ り、ついに感情をヒステリー的に表現することさえできなくなる。個人が次第に甚だし い引きこもり状態に陥って、深い空虚感(徒労感)に打たれるようになってしまう。
多少とも分裂的特徴を備えた人たちにとっては、文学、芸術、科学などの知的探 求は、一種独特の魅力をたたえているようである。(中略)科学には、分裂的な魅 力というものがあることも確かであって、少なくともそれは、科学の妄想・強迫的 な魅力と同等の認識を求めているのである。(中略)
こういう人にとっては、他人に自分の気持ちを表現することに含まれているとこ ろの『与える』という要素は、同時にまた、中身を失ってしまうという意味をも帯 びているのである。分裂的傾向のある人が、社交的交わりの後ひどく疲れてしまう ことが多いのも、実はそのせいである。274
以上の分裂・スキゾイド的人間の「悲劇」は、深沢七郎自身の身にも顕著に出ている。
子供の頃、体も弱く、成績の悪かった彼は気にくわぬことがあると、よくあずけられた 家の茶碗を全部割ってしまったという。その際の「壊す悦び」に味をしめ、七十歳の深 沢は、「今でも、破壊主義者といわれているんだから」と自嘲した。上に三人の腕力強い 兄がいたが、深沢は「口喧嘩」が強く、兄弟中では一番の「にくまれっこ」であった。
フェアベーンの理論をふまえてみると、「母の子」である深沢の破壊性と攻撃性のある行 為は、まるで「リビドー欲求を鎮めるために攻撃心を利用するという子供の技術」であ り、自身のリビドーを解消する幼い手段である。幼少の頃より勉強のできる子が嫌いな 深沢は、汚い着物の間が抜けている子とばかり仲良くした。彼の中学時代の「証明書」
の「本人の性行表」という欄では、「性質」は「裏表あり」、「言語」は「多弁」、「動作」
は「静」、「操行」は「普通」となっていて、いかにも深沢らしいではないか。よく「変 っている」、「奇妙な人」と言われた彼は、自分が「不良少年の代名詞」275であったとも 言った。
また、すでに言及したように、深沢は三歳の頃に角膜炎を患い、右目がほとんど盲目 になった。さらに十九歳のころ、左目も次第に見えなくなり、二ヶ月あまりは盲人と同 じ状態となった。左目がもと通りに見えるようになったのはそれから一年後であった。
「その時、私は、盲目になったことは人間の臨終と同じだと考えていた。すべてのもの
274 フェアベーン 『人格の精神分析学』(山口泰司訳) 講談社 1995 年
275 深沢七郎・中上健次 対談 「人間、土に還るもの」 『すばる』 集英社 1976 年 9 月号
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を失ってゆく気持ちは(死ぬ時は、こんな気持ちだろう)と覚悟を決めていたのだった。」
276後に深沢を「絶望」の淵へ追い込んだのは、二十歳と三十二歳に患った湿性と乾性の 二種類の肋膜炎である。「私は二十歳頃から三十六歳頃まで病人でいたのだった。私は、
この病人時代で世間から離れた人生を作ったのだった。」277 十九歳頃からすでに「死の 視点」を獲得した深沢は、二十八歳ではやくも己の人生を「余禄の人生」と自覚するよ うになった。
フェアベーンは、身体に何かが欠けた者が自ずと閉鎖的になっていく可能性が高いと 言った。その人たちは常に閉鎖性の中に潜ってさらに感性を磨き、独自性を身につける。
しかし、このような行為は大きな知性を生み出すと同時にコンプレックスも自覚させる。
それは肉体的コンプレックスから、さらには精神的コンプレックスと変貌し、個性のみ を信じるように仕向けるプロセスなのである。深沢の「群れ」嫌い、集団に入ることを 拒む特質は、彼の病人体験と自己閉鎖性に深くかかわっていると考える。「私が気づいた ことは、無論悪人たちの集団に入っていることは出来ないのだが、私は善人たちの仲間 入りも出来ないのである。どんな善意の集合へも入っていられないのである。私はひろ ちだけがいいのだ。」278健康な人たちや勉強できる「いい子」に対して、複雑なコンプレ ックスを抱いていた深沢は、自己の価値を内的世界に蓄積しようとする傾向が強くなっ ていった。彼が見る対象は、外的世界よりむしろ内的世界の生まれ育ちの原風景であろ う。深沢自身もまた、自分の存在を内的対象にきわめて熱心に同一化しようとしている。
故に、内心で純化したユートピア的土俗と庶民の世界への憧れは、深沢が自分なりの「芸 術」を作り出す源があると考えられる。
青年期に入り、深沢の「漂泊」が始まった。福岡哲司の『深沢七郎ラプソディ』(阪急 コミュニケーションズ 1994 年 7 月)を参照してみると、彼は昭和十三年から昭和二十 七年までの十四年間、少なくとも六回転職した。「誰とでも、すぐ仲良しになるが、すぐ にアキてしまって一人ぼっちが好きだった」深沢は安住に満足できない性格の持ち主で ある。「私は何もかも一人で考え、私だけの道で、好きなことをしていれば楽しいのであ る。」279さらに、深沢は「流浪の手記」(「サンデー毎日」1961 年 11 月特別号)において、
自分の流浪の人生に対して以下のような自評を書いた。
流浪の終点は死である。ボストンバックを一つ持って出かける。(中略)裸で生 れてきたのに生きているうちにいろんなものが纏いついてしまう。それは、ダニだ。
持ち物、家族、友人、ダニだよ、流浪はそのダニから離れることが出来るのである。
(中略)私の目の前に誰かが訪れる。それは私自身が流浪していることなのだ。ぐ るぐるといろいろ現れては消えて行くのだ。
他人に自分の気持ちを表現することを含んだ「与える」という行為は、深沢のような 情緒的な孤立とひきこもりの傾向の持ち主にとって、中身を失ってしまうことを意味す
276 深沢七郎 「生態を変える記」 『新潮』 新潮社 1966 年 12 月号
277 深沢七郎 『余禄の人生』 文春文庫 1986 年
278 深沢七郎 「生態を変える記」 『新潮』 新潮社 1966 年 12 月号
279 深沢七郎 「自伝のところどころ」 『新潮』 新潮社 1961 年 12 月号