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土俗的前近代世界の崩壊とその原因

ドキュメント内 深沢七郎論 (ページ 59-62)

2.4 焦点と焦点化子 ―― 文字に構築された「自然の交響楽」

1.1.2 土俗的前近代世界の崩壊とその原因

六十年代に入ってから、虚構の代わりに、深沢七郎の作品には現実的な主題が多出す るようになった。作風は変ったが、作家の近代批判の目線が一貫しているのは、否定で きないことである。共同体の倫理を作り上げた前近代的土俗作品と違い、深沢は近代物 において冷たい口調で、近代の形骸化と空虚さを語り出した。その冷徹な目線と透徹し た時代認識は、河上徹太郎や林房雄などによって高く評価された。しかし、前近代的共 同体・世界をだんだんと離れた深沢の近代背景の作品が、初期作品ほどの迫力と魅力を 失ってしまったのも、認めざるをえない事実である。

では、なぜ深沢は初期作品の絶対的主題である「土俗世界の再現と再構築」を止め、

逆にその世界の崩壊を語ろうとしたのか。次に、『楢山節考』と『甲州子守唄』が作られ

89 深沢七郎 「甲州子守唄」 『深沢七郎集』(第四巻) 筑摩書房 1997 年 442 頁

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た当時の社会情勢及び作家自身の状況を踏まえて、「土俗的世界が消えた」理由を掘り出 してみたい。

高度経済成長初期に、近代嫌いな深沢七郎は、『楢山節考』を通して当時社会への強い 反発を示した。彼は「土俗」という素材を用いて、自分の超近代的視線によって『楢山 節考』や『笛吹川』などの作品を書き上げた。近代と都会の生々しさと制約を拒む彼は、

「より普遍化された人間の原風景」90を再現しようとした。これらの作品が「近代的読 者」に与える衝撃と恐怖感は、深沢文学の最大の魅力であると思われる。その原始的で 自然的な倫理に忠実な人々の生き方は、読者たちの理論抜きの感動を喚起した。土俗的 前近代世界に映された近代的なものの矮小さは、当時の読者の強い反省を呼びかけたの である。

四十二歳になってからデビューした深沢は、長い時間をかけて甲州地域の風土に馴染 んで、土俗的発想の土台を堅実に築き上げた。近代日本文学から「孤立」した彼は、民 話系統の人間の捉え方を習得しながら土着的死生観を身につけてきた。このような特質 は、初期作品で開花して、深沢独自の文学世界を成就した。しかし、作家として世に出 てからは、深沢の言わば戦後文壇からの隔離性は、次第に薄れて行った。次の引用から 彼の気持ちを伺い得る。

その僕が、このごろ作家のような顔をする時があるのだ。作家だと紹介されるの で紹介者の顔を立てるつもりだと我慢しているが内心気がひけてしようがない。一 文なしが急に大もうけすると成金といって板につかないものだ。僕が丁度それに似 ている。(中略)今までは自分で書いて自分で見物していたのだが、こんどは自分 で見物した後をお客にも見てもらうのである。91

「隔離性」の衰弱と創作意識の転変に伴って、近代的要素と生活感覚が次第に深沢の 視野に入ってきた。1959 年の近代のジプシーの生活を描いた『東京のプリンスたち』を きっかけとして、彼は近代的物語を試みた。この作品は「不気味なほど予言的であり深 沢七郎の透徹した時代認識が発揮された作品」92と評価され、全体として文明批評的性 格を備えたものであると認められている。当時の評論家たちも、前近代的素養の持ち主 である深沢の、近代批評の可能性と新しい展開を楽しみにしていたようである。それ以 降、深沢の創作は土俗的視線を通して、近代の社会事実を認識する方向に向かって進む ようになった。ところが、彼の高揚した近代批判は意外な惨事を招いてしまった。

1960 年は日本中が安保闘争に沸き立った年であり、深沢の身に大きな変化を起こす契 機となる作品『風流夢譚』の発表された年でもある。翌年初めのテロ事件の為に、彼の 作家としての「成長」が中断させられてしまった。「私の書いた『F』小説の結果、世間 から遠ざかることになって、去年もことしも旅行していて、そんな日をすごしていても

90 高橋春雄 「深沢七郎における反近代の意味」 『国文学 解釈と鑑賞』 至文堂 1972 年 6 月号

91 深沢七郎 「僕は作家か」 『深沢七郎集』(第八巻) 筑摩書房 1997 年 156―157 頁

92 佐伯彰一 「まことに困った芸術家」 『図書新聞』 昭和 34 年 11 月 23 日

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だれにもあやしまれないでいられるのである」93のように、深沢は各地を転々とする生 活を送らざるを得なかったのである。それからの三年間、彼は「流浪」に関わった一連 のエッセイを作って自分の心情を述べた。この時期に書かれた小説は、『庶民烈伝』とい う短篇集の中の三作94のみである。これらの作品は、「庶民とは気狂いの別名か」(江藤 淳)、「病的な異常さが『文学』とまちがえられて」(林房雄)などと不評となり、失敗作 とみなされてしまった。

1964 年の『千秋楽』と『甲州子守唄』の発表は、作家である深沢の「復活」を示した。

当年 5 月に発表された『千秋楽』は、楽屋の芸人根性と人生の哀歓を描いた作品として 注目された。このように新たな方向を展開する可能性から見れば、前近代の虚構性と想 像力から現実的な世界へと転換していた深沢が、『甲州子守唄』のような前近代から近代 への転換を語る作品を書いたことは、自然なことであろう。一方、それぞれ都市流浪者 と渡米者を主人公としたこの二つの作品は、深沢自身の流浪生活へ記憶と感想の再現で もあると思われる。林房雄は、『甲州子守唄』には「厭人主義と人間不信」が漂っている と指摘した。このような心情は、深沢の書いた近代背景の物語の基調を決めているので ある。

戦後社会情勢の変化、特に経済の高度成長の社会背景の下、深沢の創作にも様々な変 化が生じていた。1960 年代以降、深沢の目線は近代へと移るようになり、近代社会の発 展は事実として彼に「認められた」のである。オリンピックの開催、多くの空港の開港 および大手企業の合弁と成立、近代化のピークの 1964 年に作られた『甲州子守唄』にお ける前近代の不徹底な「再生」は、深沢の想像世界より現実への回帰である一方、その 中に近代発展の食い止められない勢いを認めざるをえない悔しさも薄らと漂っている。

土俗世界を再現させることに専念した初期の作品から、現実的なモチーフを備えた中後 期の作品まで、深沢の作品を通して、その作家としての成長及び時代変遷の痕跡を伺う ことができる。

戦後文壇と『風流夢譚』事件の二重の洗礼を受けた深沢は、意識的に「近代」と距離 を保ちながら生きていた。「作家」として世に出て、「近代からの隔離性」を失った彼は、

鋭い目で社会を観察したり文明批評をしたりしようとしたが、その努力はテロ事件の影 響で破滅されてしまった。それ以降、深沢の作家としての成長ルートは流浪・逃避に方 向に転じてしまい、作中の近代批評の力も一時衰えてしまったのである。こういった意 味から見れば、土俗風土を離れて、近代批判の鋭さを慎んだ深沢にとっては、六十年代 初頭は「残念な創作期間」であると言わざるを得ない。

以上、『楢山節考』と『甲州子守唄』を踏まえて、深沢作品における「土俗的前近代の 再現」の問題を試論した。初期作品に頻出した迫力の強い土俗的物語世界は、深沢の作 家としての道を大成した。その中でも、庶民の本分を守って共同体のためにすべてを捧 げた「母親」の献身的姿は、彼の土俗物の特に注目された部分であり、戦後文壇中の庶 民的キャラクターの白眉であると言えよう。1960 年代以降、深沢は近代背景の作品の創 作を試みた。『風流夢譚』事件の影響及び近代化の進展に従って、彼は虚構と想像力の代

93 深沢七郎 「年の終わりに」 『深沢七郎集』(第七巻) 筑摩書房 1997 年 357 頁

94 『おくま嘘歌』(1962 年 9 月)、『お燈明の姉妹』(1963 年 9 月)、『安芸のやぐも唄』(1964 年 1 月)

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わりに、現実的叙述法とモチーフを取り、冷徹な目で近代的社会を観察するようになっ た。深沢の近代批判のスタンスが変わったことはないが、土俗世界の再現を離れた彼の 作品は、『楢山節考』ほどの魅力や迫力を失ってしまい、「不気味」で平板な叙述に陥っ た嫌いがあると思われる。

しかしながら、処女作の魅力は輝き、深沢の土俗的世界の魅力は不変である。虚構と 想像力に基づいた『楢山節考』の庶民のすさまじい生存様態は、読者に大きな衝撃をも たらしてきた。その前近代的世界と共に再生したのは、人間の土俗的原風景と、その原 風景によって呼び起こされた人々の共感と反省である。三島由紀夫の言った「恐怖感」

と武田泰淳の指摘した「人間の美しさ」は、そういう点こそにあると考える。『東北の神 武たち』、『笛吹川』、それに『楢山節考』の映画化は、再現された土俗的思考の時代を超 えた魅力を改めて見せてくれた。1983 年に今村昌平が監督を担当し、再び映画化された

『楢山節考』が、カンヌ国際映画祭にてパルムドールを受賞したのは、その土俗的美学 が世界的に認められたことを示した。

『甲州子守唄』において、前近代的、土俗的生き方の持ち主であるオカアは、近代に 対して無気力で辺縁的な姿を示している。しかし、この主人公の「衰弱」が表したのは、

「消極的な人生観」ではない。この問題を解明するために、次節で、同じく前近代から 近代への変遷に注目した中上健次の作品との比較を試みたい。その上で、深沢の「近代」

に対峙する姿勢を覗きたい。

ドキュメント内 深沢七郎論 (ページ 59-62)