1.2 生存基盤の崩壊と再構築 ―― 「土俗志向」作家である深沢七郎
2.2.1 創作手法及び都市時空間の構築法
深沢七郎は『千秋楽』においても得意な「第三人称」を使って叙述を進めた。しかし、
『笛吹川』の多様な焦点変化と違い、『千秋楽』の語り手の焦点は、始終「ドンチョー」
の身にあるのである。その焦点化子も極単純で、二ヶ月間の劇場内部の世界しかないの である。語り手は主人公ドンチョーを通して、劇場中の人々の言動を観察している。一 方、『笛吹川』の焦点転換の道具――「括弧」は『千秋楽』においてドンチョーの特権と なり、主人公の心理活動を表現する場合に限られたのである。
そんなに気軽くこの舞台に出られるという気持を、ドンチョーは軽蔑したくなっ た。(勿体ねえな、こんな奴、こんな劇場に出るのは)と、侮辱したくなった。
(なんという嫌な顔だろう)と、ドンチョーは思った。そう思った途端、(もう、
あの女と一緒には寝ないぞ)と決心した。笑顔を作って見せる彼女の顔は憎らしい 顔つきなのである。
引用のように、語り手はドンチョーの心理描写を通して、劇場の人々を評価したりか らかったりしている。主人公は一見おとなしくて無害な人間であるが、実は彼がいつも まわりの人間を定義しながら、自分なりの価値判断をしている。ドンチョーの身に「寄 生」して、彼の心理描写を借りて楽屋の世界を観察するのは、『笛吹川』に出た「隠れ手」
という述べ方の再現であると考える。一方、『千秋楽』は『笛吹川』で頻出した「逆手」
という叙述法も使っている。演劇界では地位の高そうな師匠の奥さんであるが、演出助 手さえ彼女に不敬な態度をとっている。人気のありそうな俳優は、実は毎月の化粧品代 も払えない貧乏な生活を送っている。今回の出演チャンスを契機として「出世」を望ん でいたドンチョーの生活には、結局何の変化も起こらなかった。『千秋楽』のような近代 的作品において、作家は「逆手」を使って近代社会で様々な「仮面」をかぶった近代人 の無力さと滑稽な生活様態を語り出した。
次に、焦点と焦点化子の問題を見てみよう。冒頭の東京駅から劇場までの短い描写以 外は、『千秋楽』の叙述は、ほぼすべて劇場の内部に閉じこめられている。踊り子とデー トして外で泊まったことさえ、翌日劇場に着いたドンチョーの姿で語られた。より正確 に言えば、『千秋楽』の語り手の焦点は、劇場の中にいるドンチョーであり、劇場外部の こともすべて彼の言動によって伝えられている。最後、千秋楽が終わってドンチョーが 演出助手にお礼を一言言って劇場を去るところで、この小説は終わった。つまり、劇場 を出たドンチョーの焦点としての使命が終わると同時に、語り手の叙述も終了したので
85 ある。
『千秋楽』の単一焦点と単一焦点化子の語り方は、外部世界から独立した極狭い物語 空間を構築した。このような閉塞的空間は、『楢山節考』と『笛吹川』などの深沢の初期 作品中の開放感のある物語世界とは、截然と区切られている。主人公が劇場に閉じこめ られた状態は、『風流夢譚』事件で莫大な衝撃を受けた深沢が意識的に社会を離れようと した心情の再現ではないかと考える。まともな仕事もない「都市遊民」であるドンチョ ーの姿も、作家の放浪記憶、及び近代都市における自己定位に深く関わっていると言え よう。
全体的に見ると、『千秋楽』の三人称の叙述は、『笛吹川』と同じく「逆手」と「隠れ 手」の効果を果たす一方、都市社会から孤立した「劇場」という遮断された内部空間を 作り上げた。『風流夢譚』事件の影響で、社会に疎外された深沢は、「千秋楽」という主 題を選んで創作の再開を図った。その一つの理由は、「近代嫌いな」彼にとって、1954 年の日劇ミュージックホールでの出演は、貴重な思い出でありながら、しばらく現実社 会を離れた特別な体験でもある。しかし、テロ事件と流浪を体験して来た深沢が、近代 社会と近代的ニヒリスティックな人間関係から逃げようとしても不思議なことではない。
このような心情を抱いていた作家は、「楽屋」という親しい場所で近代的人間関係を再現 しようとした。ドンチョーの劇場の人々への好感と嘲笑などの自己矛盾的な表現は、深 沢の「近代社会」への複雑な心情に因んだのではないかと考える。
では、『笛吹川』のような多様な焦点変化を失った『千秋楽』において、作家はどのよ うなリズムで叙述を進めているのか。次に時間と空間分析を通して、『千秋楽』の創作手 法と叙述法の変化と特色を解明してみたい。
『千秋楽』の叙述は、1 月 25、26 日頃から始まり、3 月 31 日で終わった。2 月 1 日ま では挨拶と稽古の時間である。語り手はドンチョーが初めて劇場に行った 1 月 25 日、及 び稽古の最終日である 1 月 31 日のことを詳しく語った。この間、ドンチョーは毎日劇場 に行って様々な人と出会い、心の内で劇場を一つの独立した世界として構築している。
このプロセスは、小説の十分の一の分量を占めている。
ショーが本格的に始まってからの最初の三日間、ドンチョーと楽屋の皆とのコミュニ ケーションが詳しく語られている。彼は人々の行為を観察しながら、自分のこの楽屋に おける位置を見つけようとしていた。一方、「この劇場はストリップが売りものになって いるが、高級なストリップショウである」。この踊り子たちは、普段ドンチョーと別の楽 屋にいる。出演する際行ったり来たりする彼女らの姿は時々ドンチョーの目に入った。
舞台へ出てもただ立っているか、足ぶみしているか、ちょっと身体をうごかすだ けで、身体を見せさえすればいいと思っているストリッパーなど、全然見たいとは 思わなかった。(あんな)と、ドンチョーは階段を降りていく女のうしろ姿を眺め て軽蔑した。(中略)
パーッと、目の前に裸の女が現れているのである。胸も、手も、腰も足も、やわ らかい肌は、白いのか、ピンクなのか、ライトの光りなのか、輝いている美しい肉 体が目の前に現れているのだ。ハッと、ドンチョーは肩をまるめた。背すじが寒く
86
なったのだ。寒けのするほど、怖ろしい迫力でドンチョーを圧倒してくるのである。
共演者を一人ずつ観察した視線と違い、ドンチョーの眼に映ったストリッパーと踊り 子たちは、常に「群」として出ている。「ただ裸になって身体さえ見せればいいストリッ パーなど見たいとは思わないのだ。」ドンチョーの彼女たちを眺める冷たい視線は、「自 分の楽屋」と「踊り子の楽屋」との間に無形の壁を築いた。彼にとって、これらの女た ちは劇場内の「施設」のような存在である。故に、「劇場」という独立した空間において も、「自分の楽屋」と「ストリッパーの楽屋」の異質な空間がそれぞれ存在している。こ の時点では、ドンチョーが内部空間と認めたのは、劇場における自分の楽屋しかないの である。言い換えれば、2 月初頭の三日間は、ドンチョーが劇場における「自分の楽屋
――ストリッパーの楽屋」を「内部空間――外部空間」のように理解・定義する段階で あると言えよう。
2 月 4、5、6、7、8 日の出来事は一言で要約された。2 月 9 日には、母親が自分の息子 を喀血するまで歌わせたトラブルが起きた。その後 10 日と 11 日の叙述が省略され、次 の 12、13、14、15 日の劇場生活が詳しく述べられて、楽屋の人々のイメージが一層鮮明 になってきた。ドンチョーは劇場で、殆ど変わらない日々を送っていた。
13 日の夜、ドンチョーはある踊り子と外に行って泊まり、劇場に来てから初めて外部 のことを言及した。この踊り子は、ドンチョーが出演して以来、初めて「自分の楽屋」
という内部空間へ侵入した者である。彼女と付き合って間もなく、ドンチョーは「そこ に現れている彼女の姿を見ても美しいとは思えない。見ていられないように嫌な感じが するのは、彼女の身体が動くたびに汚いものが動いているようにみえるのである」とい うような気がしてしまった。二人の親密関係が進めば進むほど、ドンチョーは彼女の顔 を見たくなくなる。彼女は「群」を逸脱して、「個人」としてドンチョーの空間に入って しまったからである。このような主人公の心情は、女性との親交を控えた深沢自身の女 性意識を再現していると考える。
(「匿名のデザイン嬢さま」への返信)たくさんの男性と性交渉することです。
そうすれば恋などという精神病は吹き飛んで直ってしまいます。貴女は現在、恋愛 病という精神病患者なのです。異性の存在は肉体交渉だけがあるだけです。人間の ふたつの種類は性器がちがうだけです。それが滅亡教の極意です。150
いい女とか悪い女とかそんなものはないよ。セックスっていうのは味覚のもんだ から。味わうもんだから。顔がいいとかなんだとか、精神的なものは全然もたずに、
相手を利用するわけよ。女のほうは女のほうで、男にああこういうことをしてもら いたいなって思う。男のほうは、やりたいなって思うことをやる。151
両性関係を「肉体交渉」と定義した深沢は、作品において男女の感情面、精神面の交 流を一切描写しなかった。『千秋楽』におけるドンチョーと踊り子の関係も、「味覚・味
150 深沢七郎 『人間滅亡的人生案内』 河出書房新社 1971 年 169 頁
151 深沢七郎 『生きているのはひまつぶし――深沢七郎未発表作品集』 光文社 2005 年 44 頁