『風流夢譚』には二つのレベルの違う語り手がある。一つはこの一人称小説を展開さ せる語り手としての「私」であり、もう一つは夢に登場した「私」である。このような 二重語りは『風流夢譚』の物語言説の基本的な重層構造を成している。
「あの晩の夢判断をするには、私の持っている腕時計と私との妙な因果関係を分析し なければならないだろう」という冒頭のフレーズは、『風流夢譚』のディスクールの基準 を明示している。つまり、これは「私」が「現在」に立って、「あの晩」のことを回想す る作品である。「あの晩」は「私」の全体的な叙述に属し、「現在」より下位に位置して いる。この二重的叙述と対応するのは、現実に行動している「私」と夢を見ている「私」
である。日常の「私」が話すのは、第一次物語言説210であり、「私」によって話された「夢」
は、第二次物語言説である。「その夢は私が井の頭線の渋谷行に乗っているところからだ った」というフレーズから、夢の中の「私」が叙述の役目を担って、夢の内容を述べ始 めた。夢中の出来事は全て「私」の視線と行動に従って進み、「私」は「夢」の叙述者で あると同時に、夢世界での行動者である。つまり、「渋谷行に乗っている」「私」が自分 自身の物語内容を語る二次的語り手――等質物語世界の語り手211なのである。
しかし、この等質物語世界の語り手の叙述の他に、もう一つの声が存在している。次 に、夢の中の「私」の二種の「考え」を通して、夢中の語り手の実体を解明してみたい。
マサキリはさーっと振り下ろされて、皇太子殿下の首はスッテンコロコロと音が して、ずーッと向うまで転がっていった。(あのマサキリは、もう、俺は使わない ことにしよう、首など切ってしまって、キタナクて、捨てるのも勿体ないから、誰 かにやってしまおう)と思いながら私は眺めていた。
前述のように、深沢は常に括弧を使って作中人物の思考或いは評価を表す。『風流夢譚』
では、等質物語世界の語り手が考えている内容が、引用のように括弧で示されている。
しかし、次の引用の内容も「私」の考え事であるが、ここでは括弧が現れていない。
こんな風に道にころがしておけば糸が汚れてしまうのに、私は黙って見ているだ けで、拾ってやろうともしないのはどうしたことだろう.........
。(傍点筆者)
私が変だと思うのは.........
、この昭憲皇太后は明治天皇の妃か、大正天皇の妃かも私は 考えないし、そのどちらも死んでいる人だのに、そんなことを変だと思わないでと にかく昭憲皇太后だと思ってしまったのはどうしたことだろう.........
。(傍点筆者)
210 ジュネットの物語論によると、第一次物語言説は物語の主たる時間的水準に位置する物語言説を指 し、第二次物語言説は錯時法が構成する物語言説を意味するのである。つまり、第一次物語がメタ叙 述であり、第二次物語が第一次物語に基づくものである。
211 等質物語世界の物語言説というのが、語り手が自分の語る物語内容の中に作中人物として登場す る場合である。それに対して、異質物語世界の物語言説というのは、語り手が自分の語る物語内容の 中に登場しない場合である。
120 私が変だと思うのは.........
、「糞ッタレ婆ァ」と言うのは「婆ァのくせに人並みに糞を ひる奴」とか、「婆ァのひった糞はやわらかくて特別汚いので、きたねえ糞をひり ゃーがった婆ァ」と言う意味で「糞婆ァ」と言うのは「顔も手も足も糞の様にきた ない婆ァ」という意味なのである。(傍点筆者)
『風流夢譚』では、引用のような「どうしたことだろう」、「私が変だと思うのは…」
などの表現が、何度も繰り返されたのである。括弧の内容は、等質物語世界の語り手の
「考え」であるが、これから「括弧のない考え」の持ち主の正体を解明したい。
まず、この「括弧のない考え」は、語り手の行動にほとんど影響を及ぼしていない。
たとえば、「私」は隣の人と兵器問題の話をしている途中、よこに立った人がヌードダン サーであると気づいた。「私が変だと思うのは、彼女はマニキュアをしながらバスを待っ ているのだが、指をうごかさないでヤスリの方をうごかしているのである。彼女がこん な磨き方をする筈がないし、私は声もかけないで黙って見ているだけなのは、どうした ことだろう。」この括弧のない考えの後、「私」は先ほどの話題を続けて、「それだけ機関 銃があれば大丈夫ですねえ」と言った。つまり、ヌードダンサーについての考えは、「私」
の行為・言葉に影響せず、ただ物語言説を邪魔しただけなのである。このような「私」
の考えと言葉は、まったく次元の違うものである。それだけではなく、昭憲皇太后の登 場後、どうして彼女が方言的な叱りを口にしたのかなどの問題について、「私」は様々に 思考・分析していたが、行動面においては、そのままリビドー的な行動(「いきなり昭憲 皇太后に飛びついて腕を掴んでうしろへねじった」とか)を行ってしまった。総体的に 見ると、括弧のない思考は日常的常識に基づいて、夢の中の「私」の行為を評価するも のである。その持ち主である「私」は明らかに夢で行動している「私」とは異質な存在 であろう。
二人の異質的「私」の存在を一番明らかに提示するのは、「私のアタマの中の頭蓋骨に ヒビがはいったのを、私の目が眺めているのは変なのだが、私の頭蓋骨の裂れ目の中に 細長い、白い米粒のようなものが一杯つまっているのだ」という描写である。これは、
「私」が「私」の自殺を傍から眺めながら考える一節である。「私」は何の具体的な行動 もせずに、ただ観察者として自分の死を眺めて「考えている」。二つの「私」が同時に存 在する場面が、『風流夢譚』の時間面と叙述面の二重性と合致し、「あの晩」の夢の特異 性を端的に示している。この自分の行動を観察している「私」は、自分自身が概して登 場することのない「観察者としての語り手――異質物語世界の語り手」である。
以上の分析をまとめると、現実世界の一次的語り手が、夢の中において「等質物語世 界の語り手」と、「異質物語世界の語り手」との二つの二次的語り手に分裂したという結 論にたどりつく。最後、「ここで私は夢から覚めたのだが、甥のミツヒトに起こされたの だった」。夢に関する叙述は、主人公の目覚めによって終った。従って、「私」が再び現 実社会に戻り、一次的語り手と同じ位相に立つようになった。つまり、二つの二次的語 り手は「目覚め」を通して統合され、また一次的語り手に回帰したのである。
以上の語り手の転換過程を<図―5>のようにまとめられる。
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<図―5>
一次的語り手
夢
行動者としての二次的語り手 観察者としての二次的語り手 (等質物語世界の語り手) (異質物語世界の語り手)
目覚め
一次的語り手
(□――語り手転換のメカニズム)
日常生活を送っている一次的語り手は、「夢」と「目覚め」の二つの媒介・メカニズム を通して二度転換した。「あの晩」の夢の中心となるのは、自分の行動と経歴を述べる「私」
――等質物語世界の語り手である。同時に、観察者としての二次的語り手が、しばしば 登場して、行動者としての二次的語り手の物語言説を妨害する。つまり、行動者として の二次的語り手が物語を展開させている一方、観察者としての二次的語り手は、物語言 説を乱していると言えよう。このような分裂の最後、二つの二次的語り手は再び現実に 戻って、最初の一次的語り手によって統合されるようになった。
では、夢において同時に登場した、二つの二次的語り手に代表された「イド」と「エ ゴ」の関係を、どう理解すればいいのか。次に、二次的語り手の特徴を分析して、この 両者の本質とその関連性を解明してみたい。
前述のように、「私」は理由や目的に問わず、したいと思ったその瞬間からすぐに動き 出した。このような「私」も、デモに参加した「人形」の一員である。八重洲口へ行く 目的も分からず、また分かろうともせず、皇居へ行きたいがためにバスに乗り、昭憲皇 太后の行為と言葉に怒って彼女を罵ったり殴ったりし、最後に死にたいが故自殺してし まった。一言で言えば、夢中の行動者である「私」の行為は、すべて意欲・リビドーに 支配され、自分の情動のみに従ったのである。このような理性的思考と無縁な「私」は、
夢の「本役」――「イド」の特質を表している。
一方、行動者である「私」が、となりの人々に話しかけた時に使ったのは、大体標準 語である。しかし、昭憲皇太后が登場した後、「私」の言葉遣いはいきなり変わった。
昭憲皇太后が目の前に現われると私はその前へ飛んで行って、いきなり、「この