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戦後文壇を離れた深沢七郎

ドキュメント内 深沢七郎論 (ページ 184-189)

私は文壇事情には常識がなかったのである。10 年たって、文壇というものもい ろいろ知るようになった。それでも、ほかの作家より知らないほうである。(中略)

小説は年月と共に成長するどころか衰えてゆくのではないか、ときどき、私はぐー っと身体がひきしまる。小説を書きたいたのしい緊張だ。(『群像』1967 年 5 月号)

小説創作を一種の生理作用だと定義した深沢七郎は、自分の文壇における位置に自覚 を持っている。商人の家に生まれて、店で遊んでいても人の顔を見れば「お客様だ」と 頭をさげる教育を受けてきた彼は、「今までは自分で書いて自分で見物していたのだが、

こんどは自分で見物した後をお客にも見てもらうのである」344と自分の創作心情を述べ た。つまり、深沢には「作家」、或いは知識人としての自覚とプライドがあからさまに欠 如している。この集団嫌いな「遊民」の商家と放浪生活で教わった経験は、「知識人」一 杯の文壇では通用しないのである。近代人との交際が苦手な深沢にとっては、文壇に入 るのは「出世」よりむしろ混乱と不安をもたらすことなのである。

しかし、確かに「戦後文壇の異類」というイメージは強いが、深沢は文壇から完全に 離れたわけではない。正宗白鳥、武田泰淳や井伏鱒二は、彼の先生・親友のような存在 である。1960 年代以降、深沢は複数の随筆を書き上げて、この三人との関係を詳しく述 べた。

白鳥が病床にあって死ぬまで二ヶ月、私は二度、泣いた。一度は白鳥自身の口か

343 深沢七郎 『怠惰の美学』 日藝出版 昭和 47 年 130 頁

344 深沢七郎 「僕は作家か」 『深沢七郎集』(第八巻) 筑摩書房 1997 年 157 頁

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ら死の予告を受けた時だった。もう一回は、いよいよ食物が食べられなくなってし まい、「たべて下さい、たべなければ死んでしまいます、どうぞ、たべて下さい」

と奥さんが白鳥に哀願するのである。345

彼(白鳥)は私の出た頃七十歳ぐらいで、私は四十二歳だった。私は文学、文壇 事情に暗く、彼は私の師.

のような存在だった。(中略)彼は気むずかしいヒトだそ うである。私もそう思うが、どうしたことか、私は父親..

のような気がしていた。346

武田泰淳の死を知ったとき私はぞーっとするような淋しさに襲われた。この淋し さは四十年も以前に父親..

の死んだときに襲われた淋しさと同じで、めったにないこ とだ。(中略)それ(筆者注:『笛吹川』)からあとの小説は「もう私に見せないで いいでしょう」と言われたので不安だったが私も独立したような気になった。いや、

ひとりでやらなければならないと思ったのだった。(中略)そのあと、師.

だと思っ たのでなにかと話を聞くことが私はたのしみだった。347

初めて(井伏)先生..

とお逢いしたのは私の小説『楢山節考』が出たすぐあとだっ た。雑誌に出る対談で――その雑誌の名は忘れたが348、そのとき井伏先生が山梨の ことをよく知っているのでびっくりしたものだった。(中略)

太宰治の亡霊の訪問以来、井伏先生に尊敬というような堅いものではなく、父親..

のような親しさを抱いてしまったのだった。349(傍点筆者)

白鳥、武田、それに井伏は、いずれもその当時文壇のいわゆる「大物」であった。「文 壇事情に暗い」深沢は、文学創作と生活において彼らから様々に指導を受けてきた。白 鳥と武田の死を悼んだ彼は、追憶の随筆をいくつも書き上げ、生涯深い恩義を銘じる意 を語った。文壇だけではなく、私生活においても深沢とこの三人の「先生」の親交は続 いていた。彼らは、深沢にとって「師」でありながら、「父親」のような存在でもある。

しかし、深沢は「先生」と「父親」の言いなりになるような人間ではない。彼は親友を 心底から敬愛しながらも、己の信条を貫いていた。

白鳥とよく一緒に歩いた深沢は、白鳥の話を聞くのが好きだったが、「ネクタイをしめ て、かたい恰好をするので私は疲れてその翌日は一日中、寝て、休養をしたものだった」

350。病床にあった白鳥のところに何回も見舞いに行って泣いたが、白鳥が死んだ後は、

深沢は「冷たい」態度を取るようになった。「生きているうちによく顔を合わせたり、話 し合ったりしたので死骸になってからは興味もなくなってしまったのである。興味がな いというより相手の白鳥のほうでは私が行っても、行かなくても知らないのである。」351

345 深沢七郎 「正宗白鳥と私」 Ibid 245-246 頁

346 深沢七郎 「思い出のヒト――正宗白鳥」 Ibid 258-259 頁

347 深沢七郎 「師のこと――武田泰淳」 Ibid 265-267 頁

348 昭和 32 年 2 月号の『文藝』における「『楢山節考』をめぐって」という対談のことを指す。

349 深沢七郎 「井伏先生と共に」 『深沢七郎集』(第八巻) 筑摩書房 1997 年 283、286 頁

350 深沢七郎 「正宗白鳥と私」 Ibid 238 頁

351 Ibid 249 頁

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病床で何も食べられず、苦しそうな白鳥を見て自分の母親の死を思い出した深沢が、「先 生」に深い感情を抱いていたのはいうまでもないことである。しかし、人間の死を実存 的で、唯物的に理解した彼は、「父親」のような白鳥の死も、そして自分の母親の死をも また、冷静に受け入れたのである。「昨日まで『正宗先生』と言っていたのだが、『セン セイ』とか『サマ』などという敬称は、いらないのだ。(中略)死ねば誰でも同じ物にな るのだから、私はほっとするのである。(中略)死骸は、もう、なにもいらないのである」

352と言った深沢にとって、生者は「人間」であり、死者は「物」でしかない。自分の信 念で自分なりの方式で大好きな人に別れを告げるのが深沢の「流儀」なのである。

武田が富士山近くの鳴沢村に住居を作ったことを知った深沢は、「なんとも言えない焦 燥を感じた」353。草や木を相手にする生活は彼の夢でもあるから。先生と同じことを考 え、同じ夢を抱いていることに気づいた深沢は武田と一緒にいると落ち着くようになる。

彼のラブミー農場移住に対して、武田は賛成してくれ、喜んでくれた。しかし、武田の 生き方と思想に親近感を抱いていた深沢は、先生の文学についてはほとんど一言も言わ なかった。彼にとって、武田は文学の師というよりは、人生の先生のような存在であろ う。一方、井伏の「武州鉢形城」を読んだ深沢は、「井伏先生と共に――井伏鱒二文学紀 行」354という長い随筆を書いて井伏文学への感想を詳しく述べた。井伏の釣りのエッセ イと小説の舞台として、多くの山梨の風景が登場する。彼は甲府と下部に定宿があり、

戦時中は甲運村(現甲府市)に疎開もしていた。とぼけ、ユーモア、それに庶民と自然 を見る視線など、深沢と井伏とは多くの共通点を持っている。武田の人生観に共感を持 ち、井伏文学を愛読した深沢は、この二人を「先生」と「父親」として敬愛していた。

「異常神経の持ち主」の多い戦後文壇において、深沢は思想の接近性、土俗的世界への 感情などを踏まえて上述の三人の作家への好感を言葉惜しまずに述べ表した。

ラブミー農場に引越ししたばかりの深沢の元には、訪問者、編集者、それに文壇の「友 達」が時々訪ねて来た。田舎生活において、彼は「作家」の実質というものを改めて考 えた。

作家などというものは、弱い、哀れなものでございます。(中略)御注文して下 さることは、商売でございますが、仕入れた品物を売るのとは違って、女性が貞操 を売るのと同じ品物なのでございますよ。哀れなこの稼業は、「センセイ、センセ イ」などと言われて、たったひとつしかない貞操を売らなければならない宿命をも った商売なのでございます。(中略)察するところ、よい原稿の出来ないのは、よ い子分が来ないせいではございますまいか。それとも、作家がバカばかりだから、

バカな子分しか存在しないのではございますまいか。私が思うのに、まずよい子分 が実在して、それから作家はそれに存在意義を見つけてから原稿が出来上がるもの か、それとも自然発生した天然ガスみたいに、ぽこぽこと原稿が出来上がるものか、

352 深沢七郎 「白鳥の死」 『新潮』 新潮社 1963 年 1 月号

353 深沢七郎 「武田先生と私(二)」 『深沢七郎集』(第八巻) 筑摩書房 1997 年 263 頁

354 初出『現代日本の文学 21・井伏鱒二集』 学習研究社 1970 年

182 そこのところがよくわからないのです。355

作家という「職業」を売春と一緒にした深沢は、ブラックユーモアの口調で「編集長 様」を揶揄した。それだけではなく、気に入らない編集者に対しては、相手を怒らせる ほどに冷たくて無愛想な態度を取っていた。謙遜な姿で出版社と文壇の人々に付き合っ てきた深沢は、『風流夢譚』事件以降の流浪と田舎移住をきっかけとして、「近代人」と の人間関係を改めて定義した。人の機嫌を取ったり、関心を買ったりすることを考えず、

楽しみにしてきた土地と庶民に近づいた生活を送りながら文字を書くことで、彼は「近 代」の束縛からある程度解放されるようになった。こういった意味から言えば、心理的 に社会との「絶縁状態」における深沢は、1964 年に発表された『安芸のやぐも唄』に出 た「一人で生きていく」というライフスタイルの実践者であろう。

1979 年に発表された『みちのくの人形たち』は、1980 年の川端康成文学賞に選ばれた。

しかし、深沢七郎は 1980 年 6 月号の『新潮』に「川端賞辞退について」というエッセイ を発表し、この賞を辞退した。理由は、「賞をもらうことは仏教の五戒の一ツの殺生の罪 を犯すことになると思っている」。深沢の「殺生」の理屈は以下のようである。

相手を殺したり、いじめたりすることも殺生だが、自身をいじめたり、その逆、

賛美することも殺生だと思う。賞はそういうものを持っていると私は思う。オリン ピックで一位になるのは、二位、三位を蹴らなければならない。(中略)少年が入 試のために神々に札を納めて相手を蹴おとすことを神の力にすがる。これは呪詛だ し殺生だろう。356

しかし、翌年の 1981 年、深沢が同じ作品で十七回谷崎賞に推された際には、彼はすん なりと受賞した。彼は同年 11 月号の『中央公論』では「谷崎賞受賞の言葉」を発表し、

自分の受賞理由を以下のように述べた。

去年、はじめて文学賞に選ばれたときは、盲人が、どこか、えたいの知れない所.........

に連れて行かれるような引っ込み思案だった。私は三歳のときから、右眼を病んで 眼の治療におぶさって、通ったことも覚えている。(中略)私のカンのすべては盲 人のそれなのだ。文学賞という無気味な部屋に連れ込まれようとしたとき、私の入 って行く部屋ではないと感じとった。(中略)こんど、思いきって、その不自由な....

部屋..

に入ることになった。谷崎潤一郎の小説「春琴抄」は盲人のカンを強烈に書い てあって、私が感動した名である。その名の文学賞は、やはり私の盲目に通ずるも のがあるような気がしている。357(傍点筆者)

このエッセイは、川端賞と谷崎賞の選考委委員を兼ねていた吉行淳之介からの、「川端

355 深沢七郎 「拝啓 編集長がた様」 『深沢七郎集』(第十巻) 筑摩書房 1997 年 13、15 頁

356 深沢七郎 「川端賞辞退について」 Ibid 216 頁

357 深沢七郎 「谷崎賞受賞の言葉」 Ibid 217-218 頁

ドキュメント内 深沢七郎論 (ページ 184-189)