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第2章  集合的記憶の拘束性

第3節  集団の視点

 社会と個人の両立を、記憶の社会的枠組みによって明らかにしようとしたアルヴァック スは、個人主義以外にも、ベルクソンの記憶について批判を加えている。ここでは、第二 の批判点である主観主義について指摘する。アルヴァックスからの批判点を明瞭なものと するために、アルヴァックスが自らの記憶の社会学のなかで、非主観性=客観性を「集団 の視点(pOint de vue du groupe)」もしくは「他者の視点」によって保証していたことに着目

してみよう。

 「人々の記憶内容(souveni r)を鮮明にし、探し出すためには、社会に暮らす人々が利用 する諸々の枠組みを用いなければ、記憶(m6moi re)は不可能である」(Hal・bwachs 1925:

79)とアルヴァックスはいう。過去の出来事は、集団のなかで時間と空間という社会的枠 組みによって、記憶内容の類似性を抽出され、秩序づけられる。その際、人々は似かよっ

ている、類似している記憶内容を、集団が持つ社会的枠組みで再構成している

(H al bwachs 1925:144)。

 この枠組みは、集団の記憶内容の類似性や近似性だけを集める。集団の成員は、出来事 の類似する時や、類似する場所に注目することで集合的記憶を再構成する。集合的記憶と いう共同作業は、時間・空間枠組みによって、成員が所属している集団への帰属を確認さ せてくれることになる。過去においても、現在においても、記憶は社会から束縛

(contrainte)されている。過去において個人が経験した社会からの束縛は、現在の社会にお いては忘れられてしまう、とアルヴァックスはいう(Halbwachs l925:110−112)。しかし、

このことは束縛からの解放を意味するとはいえない。現在において、その束縛は、別の束 縛に再構成されているからである。

 記憶が社会から被る束縛は、アルヴァックスが夢と記憶内容を明確に区別しようとする 際に強調していたことである。夢は社会的枠組みによって再構成されないため、イメージ

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の断片でしかないが、集合的な記憶内容は同集団に所属する他者の記憶によって、社会的 枠組みへと再構成される。個人は、社会的枠組みに照らさない限り、夢のイメL−一・ジのよう なバラバラに記憶内容を想起しかねない。集合的記憶は、他者の記憶の証言によって、同 時性の時間枠組みを再構成して、 「物的環境」の空間枠組みとして維持されることになる。

集合的記憶は、再構成によって過去から現在へと通じる類似する社会的枠組みを存続させ、

成員を社会へと組み込むのである。

どれだけの人が、彼らの考えていることに含まれる他者からの寄与分を見分けるだけ の、t』分な批判精神を持っているであろうか。 [中略]私たちは、外部からの示唆に 抵抗することなく屈する範囲内において、自由に考えたり感じたりしていると信じて いるわけである。このようにして、私たちが従う社会的勢力の大部分はたいていの場 合、私たちは気づかれない。 (Halbwachs I 950:90=1998:37)

 さらに、アルヴァックスは、自分の思考について、他者からの寄与分を明確に識別でき ないことを、次のようにものべる。

特定の状況において、人は、もはや、自分の思考と他者の思考を同一視できなくなり、

ある概念、図式としての、あるいは振る舞いや事物についての象徴としての社会的表 象の形式に到達する。明確で詳細な点について、自分の思考と集合的記憶のあいだで の接触は途切れてしまう。(Halbwachs 1925:80)

 したがって、個人は、社会的枠組みの再構成という集合的記憶を発揮するために、連帯 を余儀なくされているのである。他者一人一人の思考ないし記憶を詳細に区分することは できなくても、社会的枠組みとして、他者の記憶を取り入れることで、記憶という主観的 作用は、客観性を帯びるようになる。なぜなら、空間枠組みとして存続する集合的記憶は、

「物的環境」という客観性を得ることになるからである。空間として物象化されることで、

集合的記憶に再構成された過去は、客観化されることになる。

 「社会的事実を物のように考察すること」(Durkheim【1895H999:15ニ1978:71)〔強調:

原著者〕は、デュルケムが提唱した客観的方法であった。アルヴァックスがいう社会的枠組 みは集団における集合表象を表すといえよう。 「集合表象が個人意識に外在的であるとい えるのは、集合表象が孤立させられた個人に由来するからではなく、個人の集まりに由来

するからである」 (Durkheim 1 1 898] 2002:35−36=1985:39)。したがって、社会的枠組みは、

客観性を保持していると考えられる。

 アルヴァックスは、社会的枠組みを思い出すとき、その主体である個人だけに依拠する

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のでは実際不十分であり、個人がある記憶内容を想起するとき、 「集団ないし諸集団の視 点」に立っていることを指摘している(Halbwachs I925:VIII)。社会的枠組みは、同質的な

「物的環境」を存続させるため、他者と共有される客観的生活時間や、他者と共有される 客観的場所を再構成させて、 「集団の視点」を獲得すると考えられる。

 したがって、このような時間の同時性と場所の同一性が、自分と他者に共有されるから こそ、アルヴァックスは、客観的な「集団の視点」を社会的枠組みに保証させることがで きる。また、この「集団の視点」は「他者の視点」と一致している。 「他者の視点」と「集 団の視点」の接合を、次のアルヴァックスの言葉から確認できる。

 複数の意識に共通する時間に戻るために、私の意識状態において個人的持続から離 れる傾向がなくてはならない。また、同一の対象を前にして、私自身が同時に私の視

点(mon pOint de vue)と他者の視点(pOint de vue d 皿autre)に身を置いてみることがで

きる。そして[中略]私はそれらの意識に共通する持続をも表象する。(Halbwachs

l950:153)(39)〔強調:引用者〕

 アルヴァックスは、私の視点と他者の視点に同時に身を置いてみることで、複数の意識 に共通する持続が表象される、と述べている。この同時性は、 「私」と「他者」の視点の 両方に、同時に、身を置くことを表し、 「私」が「私以外の人」と接触し、集団を形成す ることを示唆していると考えられる。

 〔現在も存続している昔の集団の〕時間は、相互に浸透せずに、並列して存続して いる。実際、その思考が別々である諸集団は、物的に空間の中に拡がっており、それ らを構成する成員は、同時にあるいは相次いで、それらの集団の多くに参加してい る。普遍的で単一の時間というものは存在しないのであって、社会は非常に多数の集 団に分解されており、その各集団はそれ独自の持続を持つのである。 (Halbwachs

1950:189=1989:158) 〔強調:引用者〕

このように、アルヴァックスによれば、個人が複数の集団に参加し、 「同時にあるいは

(39)『集合的記憶』は、1940−48年に『社会学年報』に発表されたが、その後1950年に単著として公刊 され、1968年にPUFから第2版が出版された。本論では、1997年のAlbin Mlchelから出版されている 増補新訂版を使用している。1997年版には189のバリアントも付記されている。ここでの引用箇所に は、文意をより明瞭にするために、そのバリアントを使用した。

 なお、 『集合的記憶』の公刊事情については、第2章冒頭で簡単に記したアルヴァックスの経歴 でも触れているので、参照されたい。

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相次いで」別の「集団の視点」と自らの「集団の視点」を並置することになる。いまこの 瞬間には集団Aに、次の瞬間には集団Bに参加する。あるいは、それぞれの集団に同時に 視点を捉える。つまり、個人(私)は多くの集団から巧みに拘束されている。私は、同時 に異なる複数の集団に属している他者それぞれの視点(集団Aの他者の視点と集団Bの他 者の視点)と、私の視点を並列させることで、実に多くの拘束にがんじがらめに縛られて いることになる。

 したがって、自分と他者の両方に共通する視点に立脚するという時間的同時性によって、

集団に帰属することが可能になる。さらに、この「集団の視点」は、空間の同一性によっ て、一定の歴史的幅をもって存続させることができる。また、複数の集団に、同時に、あ るいは相次いで帰属するということは、同時性を複数維持することであり、複数の「他者 の視点」に立つことだと考えられる。

 集団の視点による記憶、すなわち集合的記憶には、時間を超えて浸透しあうベルクソン 的持続を分離する社会的枠組みが必要だったということになる(竺つまり、過去のある出 来事に焦点を合わせ、これを集団のなかで再構成していく集合的記憶そのものが、個人的 な持続を分離した上で接合する作用なのである。

 それゆえ、過去を想起・再構成することが、ある集団に属している他者と自分自身の視 点とに、同時に身を置くこと、つまり集団の視点に立つことだから、成員たちは過去と同

一一フ「集団の視点」を維持することができる。つまり、時間枠組みを再構成する「他者の 視点」に立脚することが、客観的な記憶の条件となる。

 「自己同一的であると同時に変化しつつある存在」が「区別なき継起」(Bergson l889:

75)として表われるベルクソンの「持続」意識について、アルヴァックスは、 「私には自 分の持続とは別の持続というのはわからないだろう」し、 「私の視点と同時に他者の視点 に身を置いてみる」 (Halbwachs 1950:153=1989:ll3)ことができない、と論難する。す なわち、客観的な視点を持たない、 「主観的状態にすぎないような意識」(Halbwachs l950:

153=1989:1113)のみをベルクソンは取り上げたことになる。

 アルヴァックスの集合的記憶論によると、 「集団の視点」は、社会的枠組みが存続する 限りでの持続を捉えることになる。なぜなら、「集団の視点」を導く「他者の視点」は、

社会的枠組みの再構成を基礎としているからである。アルヴァックスは、各集団に固有の

「拡がりを持った持続の中の同一のインターヴァル、すなわち体験された社会的持続の同 一のインターヴァル」(Halbwachs 1950:189ニ1898:159)を、時間枠組みと考えているのであ り、このインターヴァルこそが「他者の視点」ということになる。この時間枠組みは、空

醐ここでアルヴァックスが取り扱っている並置された時間は、ベルクソンが言う「持続」とは正反 対のものであり、ベルクソンが『意識に直接与えられたものについての試論』 (『時間と自由』)

において、空間化された時間だとして否定した時間観である。

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