第5章 「社会的自我」と「個人的自我」
第4節 ベルクソン自我論の新展開
アルヴァックスは、複数の「集団の視点」によって、個人の「自由な感覚」や個性を描 き出そうとしていた。ベルクソンは、その個人の自由を「行動の不確定性」へと展開した。
アルヴァックスが素描した「自由な感覚」は、ベルクソンの二重化する自我において、 「行 動の不確定性」として展開され、絶えず更新できるように思われる。このような自我が、
本論の冒頭で引用した現代の社会学者にも結びつくと思われる。
バウマンによれば、公的空間においてさえ、見知らぬ他者に対して、市民としての作ら れたアイデンティティを演じることをやめたがっている現代人は、自分の居場所・帰属先 を失いつつある。今ある居場所を確保するために、現代人は、情緒的な個人へ信頼と共感 を、帰属感の代替物にしている。
すなわち、現代における個人は、作られたアイデンティティを要求するような帰属先を 失い、いま現在目にしている代替物に固執していると考えられる。また、作られたアイデ ンティティによって維持される相互関与や、社会参加を煙たがるのも、自分の帰属先や居 場所がなくなることに絶えずさらされているからだと思われる。
しかし、代替されるものは居場所や帰属先にはならない。その代替物の空虚さのために、
人びとは情緒的な個人に共感を抱くとすら思われる。このような公的な空間の空虚さは、
ベルクソンの「社会的自我」を形成する他者との連帯や相互依存の喪失によると考えられ る。 「社会的自我」は、現代人に避けられる、相互関与と社会参加によって獲得される作 られたアイデンティティに相当する。ただし、 「個人的自我」が「ほんとうの自分」に対 応するとは考えられない。
作られたアイデンティティを遠ざける「ほんとうの自分」は、情緒的な個人のような公 的な空間には囚われない、極めて個人的な感情を暴露する個人像を示している。バウマン によれば、情緒的な個人とは、 「公正な、よき社会への展望」を示す政治家ではなく、 「公 的な人間の信頼性」をえた政治家のことであり、(Bauman 2㎜:108=2001:141)、あるいは、
わかりやすい処理方法を提示してくれる指導者(Bauman 2㎜:71・2001:92)を指す。
共感を求めやすい情緒的な個人は、他者との連帯、引いては、いまの居場所を維持しよ うとする社会的な自我に達するように思える。情緒的な個人は、極めて個人的、私的な部 分を表しているわけだが、他者とのつながりを維持しようとする点で、 「個人的自我」と はいうことができない。むしろ、 「個人的自我」の視点に身を置いてみるならば、個人化 を助長する情緒的な個人すら、共感を求める社会的な存在ということになる。したがって、
バウマンが設定した情緒的な個人は、作られたアイデンティティを拒否するものの、社会 的な自我を彷彿させるのである。
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けれども、よりベルクソンに厳密にいうならば、二重化していないという一点において、
共感を求める情緒的な個人は、 「社会的自我」と同義といえない。また、その一一一点によっ て、今後の展開を示唆してくれるようにも思える。つまり、創造的な「個人的自我」と二 重化する「社会的自我」の想像は、現代人が何を社会性 社会参加や相互関与 の代 替物に据えているか、何を維持しようとするのかを判断する契機となる。さらに、 「個人 的自我」の存在が、 「社会的自我」の前提となっていることに着目することで、現代人が いかに安定的な社会的な自我を固持しようとしているかも理解されるところとなる。
また、 「社会的自我」と「個人的自我」の二重化を想像することについての現代的意味 づけは、本論のはじめにに触れたポードリヤールの講演からも、ある程度の可能性を見出 すことができる。
ボードリヤールによると、真の出来事は、ベルクソンがいう偶然であり、予測不能で「逆 転された時間」 (事後的にしか説明できない可能性)という現実だという。例えば、
9.11である。…方の非一出来事とは、イラク戦争のように9.11から当然予測でき る出来事であり、予防戦争やセキュリティ保護といった対策が講じられる危険な可能性で ある。言い換えるならば、リスクのことだといえよう。
起こりえない出来事、すなわち非一出来事を予防し、事前に除去・抑制するという「出 来事ゼロ」 「死者ゼロ」の時代が、現代に蔓延する予防戦争の戦略だという。情報を取捨 選択するなかで可能性を操作し、可能性を現実へと置き換える交換の回路が完成する。こ の回路によって、非一出来事が実現することになる。
ただし、このような潜在的支配(可能性による支配)のうちにも、依然、予測不可能の 出来事が残っていることは、われわれにとってもチャンスだとボードリヤールはいう。出 来事と非一出来事のどちらにかけるのかが問題なのではない。いくら絶対的予防処置の専 制的支配が、その自動的回路(因果連関)を完成させても、制御不能な偶然に終止符を打 つことはできない。
このような非一出来事を、本論で展開したベルクソンの不確定な「個人的自我」に結び つけて考えることは用意であろう。 〈未来〉における不確定性を示す「個人的自我」は、
まさしく、ボードリヤールが指摘するところの真の出来事である。非一出来事が予測可能 であることからも、このことは明白になる。
「社会的自我」は不可避的で、起こるべくして起こった出来事を受け入れることによっ て形成される自我である。リスクを回避し、セキュリティーを高める自我だということに なる。反対に、 「個人的自我」は、不可避と思われる出来事とは異なる非一出来事を創造 することができる。 「個人的自我」は、ボードリヤールがいうところの予測不可能な出来 事だといえよう。ミードの「創発性」、ないし創造性をもつベルクソンの「個人的自我」
は、その不確定性により、不可避な出来事を非一出来事として回避する可能性をもってい
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ると考えられる。なぜなら、行為の合理性に則して、選択肢としての行為を予測すること も、 「社会的自我」だけに埋没した自我の形成しか意味しないからである。
社会的な自我だけの形成を追い求めていくことは、 (非一)出来事を不可避なものとし て受容するしかないというある種の暴力を被ることになる。それは、過去に囚われて、未 来に拘束されることである。反対に、 「個人的自我」は不可避な非一出来事を斥ける自由 をもっていて、過去や未来に拘束されることはない。それでも、ボードリヤールもいうよ うに、非一出来事と出来事、言い換えると「社会的自我」と「個人的自我」のどちらに懸 けるのかが重要なのではない。 「社会的自我」と「個人的自我」は二重化している。
ベルクソン的持続は、〈未来〉を予想することを許さない。しかし、その予測不可能性 は、予測可能性と二重化しているのである。災害や事故など、偶然の悲惨な(非一)出来 事は、予測できないかもしれないが、予防戦争という必然的な出来事と二重化している。
このことは残念なことかもしれないが、予測不可能な〈未来〉を対峙するという希望はま だ持ち続けることができる。その希望は、ゆるやかな力かもしれないが、人びとがすでに 社会的な白我や、非一出来事性の中に潜ませている確かな力なのである。
むすび
アルヴァックスが示唆した個人の「自由な感覚」は、主観的なものであるにもかかわら ず、客観的な社会的枠組みの複合によって説明された。けれども、このことは、社会と個 人の両立という点では、多少の困難を提示した。
その一一方でベルクソンは、アルヴァックスが提示した「社会的持続」ないし〈現在〉と いう同時性と、異質の連続による独自の持続を区別することから、 「社会的自我」と「個 人的自我」の二重化を説明した。この説明によって、ベルクソンは、社会と個人の両立と いう命題、主観一客観の対立を調停するという命題、そして、これら二つの命題の密接な 関わりを解明したといえよう。
最終章では、これら主要な議論を確認した上で、 〈未来〉における行動の不確定性ない し、実現しない「個人的自我」がこれらの議論に与える役割を強調したことになる。自我 の構造が二つの記憶 「身体の記憶」と「自発的記憶」 を二重化することに、この 役割が裏付けられる。
「身体の記憶」と「自発的記憶」が位置する「行動の平面」と「夢の平面」の相補的な 関係は、実現していない記憶内容の残存と保存を証明する。そのことで、不確定性は、予 測を許さないものであるのに、まだ訪れていない〈現在〉においても存在することになる
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