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第3章  記憶と自我

第4節  二重化する自我

 アルヴァックスは社会という面で諸個人に共有される過去を問題にして、ベルクソンが 社会の記憶に言及しないことを批判した。この批判どおり、ベルクソンは社会性を論じて いないのだろうか。ここでは、蓄積された過去を自らの内面とする自我について検討し、

この疑問について答えることにする。つまり、ベルクソンの自我論を、個人的なものにと どめず、その社会性へと展開することを試みる。

 伊藤淑子は「夢の平面」と「行動の平面」の間を揺れ動く記憶(72)を、自我の構造として 捉えている(伊藤 2003:56−6D。伊藤によれば、『意識に直接与えられたものにっいて の試論』 (『時間と自由』)でベルクソンが明らかにした「『深い自我』は夢の平面に近 い高い水準の記憶[力]の平面を意味し、 『表面的自我』は行動の平面に近い低い水準の 記憶[力]の平面を意味している」 (伊藤2003:59,62)。水準の高い平面ないし、低い平 面とはベルクソンが『物質と記憶』で用いた記憶の逆円すい形に基づいている。 「深い自 我は感覚=運動機構の影響が少なく、個別的なものを夢想する自我であり、表面的自我は 感覚=運動機構の影響を強く受けた、行動を目指す平凡な自我」 (伊藤2003:62)という

ことになる。

 「深い自我(moi profond」は、 「内的自我、すなわち感情を生じる自我で、 [中略]その 諸状態と変容が親密に浸透しあう力である。けれども、その状態と変容が空間にて展開さ れるために、相互に分離されようとするとすぐに、根源的な変質を被る」(Bergson l 889:93

=1990:118/2001:150−151)。要するに、持続する直接的意識として現れる自我のことだと いえよう。また、 「表面的自我(moi superfiiciel )」は、客観的原因によって、外在的な諸部 分、すなわち、等質的環境ないし空間で繰り広げられる(Bergson l 889:93−94=1990:117−118

{72)ノ藤の研究においてもmemoireは「記憶力」と訳され、本論とは異なる訳が与えられている。

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/2001:150−15D。つまり、持続の「質的多様性」を展開して、 「数的多数性」c j)として理 解しようとするr俄のことだといえよう。ペルクソンは、個人的な感情や意識状態を、諸 個人に共通する,『語によって表現することで分離し、社会的生活を営なむ自我を、 「表面

的自我」として考えている(Bergson 1889:96−102 = 2001:154−164)(74)。

 伊藤のいうように、これら一二つの自我  「深い自我」と「表面的自我」  を、.二つ の記憶が作用する二平面に対応する自我の構造と考えられる。確かに、感覚=運動機構へ と結びつく「身体の記憶」は、現実に役立つ、つまり社会的生活に役立つ記憶内容だけを 行動へと展開するのだから、 「表面的自我」に対応しているだろう。また、 「自発的記憶」

は無益な記憶内容である感情や状況を具に記録する点から、 「深い自我」を示していると

いえる。

 ベルクソンは過去を再現する自我を、本章第1節での比喩と同じ俳優に喩えている。け れども、同時にこの俳優は、いま演じている自分自身の状況を観察することになる。観客

としての自我は俳優が繰り返す役割には無関心で、 「自分の自由を信じるいつもの感情を を包含している」(Bergson 1908:139ニ1992:16D。したがって、観客としての私は、行動 している俳優によって、《行動されている》(〈・est agi》)ことになる(Bergson l908:140)。ベ ルクソンはこのように「自我の二重化(d6dou blement dumoi)」(Bergson 1908:140=1992

162)を説明し、俳優と観客としての自我が不可分であることを主張する(75)。

 「自我の二重化」は「表面的自我」と「深い自我」についても同様に指摘できる。なぜ ならば、感情を動かす観客の自我は「深い自我」が表象する持続であり、感覚=運動記憶 を働かせ行動を遂行する俳優の自我は「表面的自我」と同一のものであるからである。一 つ日の自我は「夢の平面」、二つ目の自我は「行動の平面」に位置する。

 自我を記憶の一二平面に位置づけて考えた場合、ベルクソンは晩年「表面的自我」と「深 い自我」の他に、もう一組の二つの自我を明らかにしている。ベルクソンの初期の著作に おける記憶によって明らかになる二つの自我の構造は、晩年の著作『道徳と宗教の二源泉』

でも維持されていると考えられる(76)。

 このもう一組の二つの自我とは、 「個人的自我(moi individuel)」と「社会的自我(moi social)」である(Bergson l932:7−10=16−21)。 「自発的記憶」によって担われる「深い

t73) [数的多数性」と「質的多様性」については、註(67)を参照されたい。

{74)「表面的自我」への変容からわかるように、アルヴァックス(1925)のように、ベルクソンが個人に 対する社会を考慮していないとは言い切れないだろう。

{7s)ベルクソンが論文「現在の記憶内容と誤った再認」で述べている「目覚めている自我(moi de la veille)」と「夢の自我(moi du reve)」という二つの自我と、ここで扱う二重化した自我は位相を異 にすると考えられる。

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自我」が「個人的自我」であり、 「身体の記憶」による「表面的自我」は「社会的自我」

と推察される。ベルクソンによれば、 「他者の個性(personnalite)と通約できぬ[中略]

独自の個性(personnalit6)」 (Bergson 1932:7=1965:16)は「個人的自我」と呼ばれ、 「他 者と連続し、他者と類似し、他者と私たちの問で相互依存を引き起こす規律によって他者 と結びつけられている」(Bergson 1932:7=1965:16)自己の表層は「社会的自我」と呼ば

れる(77)。

  「社会的自我」と「個人的自我」の二重関係は、ベルクソン的反省によって明らかにさ れる。なぜなら、これら二重の自我に対応する「身体の記憶」と「自発的記憶」が、ベル

クソン的反省によって、その相補的な二重関係にあるからである。

 しかしながら、ベルクソンにおいて、 二つの自我が合一一することを巡って、自我の二重 化を保証するベルクソン的反省にも問題が提起されている。小川侃は、現象学的反省と比 較し、ベルクソンの反省に以ドのような問題を提示する。小川侃によれば、ベルクソン的 反省が「見る自我」と「見られる自我」を区別していないのに対し、フッサールは志向性 のもとにこれらを確かに区別する。ベルクソンは「見られる自我」という言い方をしてい る以11、志向的な態度を示しているはずであるのに、これには目を瞑り、自我を反省によっ て純化することに懸命になってしまう。小川によると、ベルクソン的反省は「反現象学的

一反反省的態度」であり、ベルクソン的な方法で「自我の同一性を確認するのは、やはり 反省であり、現在と過去とに断続を置くこと」 (小川侃 1976:202)というアポリアに陥っ ているという。

 小関彩子は、ベルクソンの二つの自我を、 「様相」と捉えるか、 「局面」と捉えるかに よって、小川の提起した問題が克服可能であることを示唆しているように思われる。小関 によれば、二つの自我を「様相」と捉えれば、私の身体と私の人格とが乖離する。しかし、

「局面」と捉えた場合、二つの自我は融合すると指摘される。前者はメルロ=ポンティか らのベルクソン批判で、後者はドゥルーズによるベルクソン解釈である(小関彩子 200D。

小関は、二つの自我を自我の「局面」と捉え、二つの局面の架橋をベルクソン的直観に委 ねている。つまり、ベルクソン的反省に、二つの自我局面を架橋させると言い換えること が許されよう。

 以ヒのように、記憶と同じく、反省が、 「表面的自我」と「深い自我」に対応した「社

t76)「表面的自我」と「深い自我」が、 『道徳と宗教の二源泉』の「社会的自我」と「個人的自我」

に対応しているという指摘は、三宅中子が明らかにしたベルクソンの習慣論において、すでに行わ れている。三宅はベルクソンが「否定的な、破壊的な意味の習慣と建設的に利用されようとする習 慣の様相」 (三宅 1985:163)を明確にしたことを、習慣を論じたパスカルやメーヌ・ド・ビラン 以降の哲学の成果としている。

mベルクソンが他者を論じていないとの指摘もある(作田 II98711995:70)。

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会的自我」と「個人的自我」を二重化させていると考えられる。そこで、この記憶と自我 の対応関係をもう少し詳しく見てみよう。

 まず、 「社会的自我」は、ミードがいうように、他者からの期待にこたえようとする自 我だといえよう(78)。なぜなら、他者との約束でもある社会規範によって、自分の行動を選 択するからである。 「社会的自我」は社会規範によって行動をコントロールしてもらうこ とができる。他者と同じ社会規範を現実の行動へ移すことは、他者と類似した行動を実現 することであり、また、過去に実現した行動が準拠した同じ社会規範に従うことは、過去 の自分と類似することになる。

 すなわち、ここで問題にされている「社会的自我」の局面は、同じ行動を無意識に反復 させる規準、白我をコントロールするプログラムが存在していることである。この規準や プログラムは、他者や過去の自我にによって実行されたものであり、現在の自我において 作動する場合には、類似した行動を反復させることになる。つまり、 「身体の記憶」の役 割により「類似する知覚」を繰り返させていると考えられる。

 次に「個人的自我」は他者と類似しない差異ある個性をもち、他者によって制約されな い自由な自我である(79ノ。ベルクソンは、社会から孤立しようと欲して、 「社会生活から離 脱した個人」(Bergson 1932:9ニ1965:18)を「個人的自我」と想定している。けれども、ベ ルクソンは次のようにいう。 「もし個人的自我が社会的自我を生き生きと現存するものと して保持していれば、個人的t 1我は、たとえ孤立していても、社会全体のはげましと、支 持さえも得ている場合と同じことをするにちがいないのだ」(Bergson 1932:9ニ1965:18)。

または、 「社会的連帯なるものは、社会的自我がわれわれの一人一人において個人的自我 につけ加えられるときに、はじめて存在する」(Bergson l 932:8=1965:17)。つまり、 「社 会的自我」と「個人的自我」の二重関係を示唆している。

 このようにベルクソンが述べるのは、他者と類似しない独自の個性を「個人的自我」と して考えること自体、 「社会的自我」を前提としているからであろう。というのは、差異 ある「個人的自我」に対する「社会的自我」の類似性の相補関係は、第1節で論じた「差 異ある記憶内容」と「類似する知覚」との相補関係を説明する《類の一般観念》に一致し ているからである。

 ベルクソンは、習慣、法や制度といった「道徳的責務(obligation morale)」(Bergson l932){80)に、社会を維持する役割と、そして社会と利己的な個人とを結びつける役割を認 める。つまり、道徳的責務は諸個人を社会へと拘束する「社会的自我」の形成の規準となっ

(7X)スだし、ベルクソンの「社会的自我」は、複数の様々な他者からの期待を一一一般化しているわけで

はない。

(「 )「個人的自我」の自由については第4章第4節で論じる。

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