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第5章   「社会的自我」と「個人的自我」

第1節  記憶論における社会と個人

 ここまで、アルヴァックスのベルクソン批判を手がかりに、社会と個人の両立可能性を 探ってきた。その結果、社会と個人の両立の問題は、この二人の記憶論者が明らかにした 持続の相違によって生じたものだと考えられる。本論では、社会と個人を、社会的拘束力 と、それから解放された自由な個人の個性として考察してきた。つまり、社会的拘束と個 人の自由は両立するのかどうかという問題に解答を出そうとしてきたことになる。

 アルヴァックスは「社会的枠組み」によって、個人が記憶内容を想起する際に、 「集団 の視点」に身を置くことができて、その視点の複数性によって、個人が感じる「自由な感 覚」と個性を保証したわけである(第2章第1節)。それゆえに、アルヴァックスの集合 的記憶論において、社会的拘束と個人の自由感覚は確かに両立しているように見える。ア ルヴァックスがベルクソンを個人主義的だと批判するのは、特に前者の社会的拘束につい て、ベルクソンが言及しておらず、そのことで個人と社会的連帯が成立させられないと考 えたからであろう。

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 個入の自由と社会的連帯との不成立は、デュルケムが克服を試みてきた功利主義的な(エ ゴイスティックな)社会契約説へ後戻りすることにもなりかねない(98㌔デュルケム学派に 属するアルヴァックスは臆することなく、連帯と個人的活動の統合を取り組んだと考えら れる。その姿勢は、 「社会的事実を物のように考察する」(Durkheim 1895:15=1978:71)と いうデュルケムの手法を引き継ぐものであった。ベルクソンのように個人的な持続だけを 徴用したのでは、他者との共通性や共感を説明できずに、連帯を放棄することになってし

まう、とアルヴァックスは考えていたのであろう。

 その具体的な手段として、アルヴァックスは過去の記憶内容が想起される場合に、現在 の視点から、その記憶内容を社会的枠組みとして再構成するという集合的記憶論を展開し た。過去の記憶内容は、現在の社会的枠組みである時間枠組みとして再構成される。その 時間枠組みは、同時的瞬間に区切られた「社会的持続1として、同集団に帰属する人びと

に共有されている。

 現在という同時性の反復的な再構成により、時間枠組みは更新され、その同時性によっ て「集団の視点」を獲得することになる(第2章第3節、第4章第1節)。また、その「集 団の視点」は同集団に共有されるものであるが、他集団の「集団の視点」もその時間枠組 みに並置される。時間枠組みの交差が、複数の「集団の視点」を表す。つまり、独自のビー トで刻まれるメロディーに調和した異なるビートのメロディーを重ねることを指す。この メロディーは、個人が有している時間枠組みによって生成する「社会的持続」をであると 考えられる。

 そして、このようなメロディーの「社会的持続」は、「集団の視点」として複数の個人 に共有されることによって客観性を保つだけでなく、空間枠組みとして物象化されること で保存される。現在という同時性による「社会的持続」は、その固有の持続を有する集団 に特有の場所に展開されることで存続する。 「集団の視点」に立脚している空間枠組み、

すなわち個人の居場所ともいえる空間枠組みが再構成される。このことで、集団に固有の

「社会的持続」は、客観的で、安定した「物的環境」のイメージを得ることになる。

 アルヴァックスは、 「社会的持続」という集団的かつ客観的な社会性を明らかにしただ けではない。個人が社会的枠組みを複数持っていることと、個人が複数の集団に同時に帰 属していることは、個人の個性を説明しようとしていたことになる(第2章第1節)。つ

まり、アルヴァックスは確かに社会と個人を両立させていたように見えるのである。

 しかし、実際は、アルヴァックスの集合的記憶において、社会的拘束と個人の自由感覚 は両立できないと考えられる(第2章第4節)。なぜなら、個人の個性は、複数の「集団

(981錘タ、デュルケムは過去において締結された社会契約が、その過去を生きていない現在の人びと

によっても遵守されることの困難を指摘している(Durkheim 1893:192ニ1989上:346−347))。

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の視点」に個人が身を置くことによって説明されても、それは複数の社会的枠組みの均衡 を意味しており、社会的拘束による帰属感の喪失を示していると考えられるからである。

辛い過去の記憶内容が想起される場合、その過去を再構成し、その社会的枠組みを確定し て、 「集団の視点」に身を置くことによって、突きつけられる過去の辛さから現在におい て逃れられていないことに気づくことになる(99㌔この認識は、過去への隷属を示し、過去 から自由な感覚を得ているとは思われない。

 ペルクソンは、アルヴァックスから個人主義的で、主観主義的であるとして批判された わけである(第1章第3〜4節)。その批判のいずれもが、ベルクソン的持続は社会的枠 組みを基礎とした「集団の視点」に、個人を立脚させていないということに集約された。

けれども、ベルクソンの記憶論を通じて、自我論までを検討すれば、必ずしもベルクソン に「集団の視点」が欠けていないことがわかる。

 ベルクソンは、過去の残存と持続を、1つの記憶作用によって明らかにした(第3章第 1〜2節)。その一つは、 「身体の記憶」であり、習慣的に記憶内容を反復させ、過去と 類似した知覚を実現する。もう…つは、 「自発的記憶」であり、過去の記憶内容との差異 だけを記録する、覚える記憶である。

 松浦雄介は、フロイトとベルクソンの記憶論を比較するなかで、ベルクソンの知覚につ いて、 「現在の状況のなかから関係のあることとないことを区別し、前者だけを選択する のは知覚の役割である。 [中略]平たく言えば、知覚とは行為の準備である」 (松浦 2002:22)、と概略する。

 ここで概略された「知覚の役割」とは、 「類似する知覚」としての「身体の記憶」のこ とだと推察される。実現しなかった過去の膨大な記憶内容(「純粋な記憶内容」)の中か ら、現在の状況に応じて、類似した知覚を行動へと移す(100)ことが、 「身体の記憶jの役 割である。また、この役割が果たされるためには、 「自発的記憶」によって、実現しない

ものも含めて、 「現在の状況」すべてが新たな過去として記憶され、残存していることに なる。ここに、 「自発的記憶」と「身体の記憶」の二重化を認めることができる。

 ベルクソンが「自発的記憶」だけに偏った過去を「夢の平面」に位置したと考えるのは、

実現しない過去の存在を夢として考えたからであろう。そして、 「身体の記憶」によって、

t°U j一野・林・野中による「台風孤児」へのインタビューから「自らの意志が及ぼぬところで言及さ れる」ことへの感情に再度着日したい。註(45)を参照されたい。

(1〔x)}ベルクソンは「記憶内容が作られるのは知覚が作られたあとではなく、それと同時だ」(Bergson 1908:130 =1992:150)という。また、 「知覚はたとえ瞬間的であっても、計算できないほどたくさん の思い出される諸要素からなっていて、本当は、あらゆる知覚はすでに記憶なのだ」(Bergson 1896:

167=1%5:170)とも述べられている。

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実現される現在の知覚は、 「夢の平面」とは対極にある「行動の平面」に位置づけられる。

二重化する「自発的記憶」と「身体の記憶」は、 「夢の平面」と「行動の平面」を結びつ けることになる。

 この二つの平面がベルクソンにおける自我の構造を表しているのであった(第3章第4 節)。 「夢の平面」に位置するのは、個人の内的自我、すなわち「個人的自我」であり、

「行動の平面」に位置するのは、外的な、 「社会的自我」である。 「社会的自我」は他者 と連帯する自我であり、他者との共通性を持っている。 「個人的自我」は他人との共通性 は持っていない。 「社会的自我」は「行動の平面」にあり、類似を繰り返し実現するが、

「夢の平面」にある「個人的自我」は他者との差異を潜在化させることになる。

 「社会的自我」は、社会を存続させ、社会的規律や社会秩序を維持する「行動の平面」

に位置する。例えば、ミードの「客我(me)」のように、多くの他者からの期待を一般 化した役割を反復するのは、 「社会的自我」に担われる。ただし、 「主我(1)」が客我

(me)を反省する主体であるために、ミードの主我(1)がベルクソンの「個人的自我」

に対応するようには思われない。主我と「個人的自我」の不一致は、ミードの「見かけ上 の現在」と、ベルクソンの「想像上でしか存在しない瞬間」が一致しないことからも指摘 できるであろう。

 むしろ、ベルクソンの「個人的自我」は、実現しない自我であり、現実のものとなった 自我は、 「社会的自我」だと考えられる。 「個人的自我」は利他的とはいえない、利己主 義的な自我である。 「社会的自我」と「個人的自我」が、 「行動の平面」と「夢の平面」

に対応して二重化していることは、社会と個人の両立を示唆していると考えられる。

 この二つの自我の二重化は、ベルクソン的な反省によって、生成し、 〈未来〉における

〈現在〉の存在(「純粋知覚」)と持続を証明するものである(第3章第3節)。反省は

「社会的自我」と「個人的自我」という二つの自我を認識させてくれる。 「夢の平面」に ある〈過去〉は、 〈現在〉と区別されずに、 「行動の平面」にある〈現在〉の知覚へと収 縮していく。

 「夢の平面」にあった〈過去〉を収縮させて現実のものとする〈現在〉の知覚は、ベル クソンが許容する多元的な持続としての「想像上の瞬間」である。その瞬間の残存は、持 続が不可分であることから明らかになる。不可分な持続を、可分の瞬間として想像できる のは、時間と空間とが相互の存在条件となっているからである(第4章第2節)。したがっ て、 〈過去〉の残存と〈現在〉の瞬間は相補的に成立し、 〈未来〉においても持続し続け ることになる。

 ところで、ベルクソンは、 「反省が個人に発明させ、社会を進歩させる。だが、社会が 進歩するためには、やはり社会が存続しなければならない」(Bergson l 932:126=1965:1 が、個人が反省に訴えることは、社会的規律を危うくすることだという(101)。なぜなら、

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