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第3章  記憶と自我

第3節  ベルクソン的反省

 記憶作用からベルクソン的持続の生成が説明されるとしても、アルヴァックスからベル クソンに向けられた個人主義批判は乗り越えられそうにない。そればかりか、主観主義批 判についても、充分答えることはできないだろう。

 ここで、もう. 度アルヴァックス的な持続を思い出してみたい。アルヴァックスの持続 は「社会的持続」であり、社会の存続期間内にだけ持続する「社会的時間」であった。こ の「社会的持続」は、個人の「自由な感覚」を暴力的に拘束するとしても、 「社会的枠組 み」を基礎として夢を記憶内容から区別した。

 反対に、ベルクソンによれば、 「夢の平面」に位置づけられた過去の膨大な記憶内容は、

現在の知覚に人り込む。 「夢の平面」にある〈過去〉は、 〈現在〉と区別されずに、 「行 動の平面」にある〈現在〉の知覚へと収縮していく。

 しかしながら、 〈過去〉と〈現在〉の二重化が、 〈未来〉への記憶内容を投影している ことを加味するならば、アルヴァックスの「社会的持続」が持つインターヴァルは、ベル クソン的持続に吸収されるだろう。アルヴァックス的持続と、ベルクソン的持続が一体と なれば、持続に関するベルクソン批判も別の様相を呈すことになる。

 石井敏夫は、ベルクソンが「実際は、持続の唯一のリズムがあるのではない」(Bergson l896:232ニ1965:231)と述べていることに着目して、 「持続のリズムの複数性」、 「時間の 多元論Jを肯定することを指摘している(石井 2001:94)。ベルクソンは「人は異なっ た多くのリズムを想像することができる」(Bergson l 896:232=1965:231)といい、持続を、

任意に凝縮、弛緩できると指摘している。石井によれば、ベルクソンは、この伸縮自在な 持続を、 「想像の上でしかr私たちにとって』 r存在しない』 『瞬間的なもの』」 (石井  2001:95)として肯定している(os)。この想像上の瞬間は、ベルクソンがいうところの「純 粋知覚(perceptions pures)」(69)に相当すると考えられる。この想像上の瞬間は、 「持続は瞬 間をもちえない1(Bergson 1896:212=1%5:213)というベルクソンのテーゼとは抵触しない

(石井 2001:95)。ベルクソンは二種類の瞬間を想定しているとされる。

 「想像上でしか存在しない瞬間」は、ベルクソン的持続である。逆円すい形のモデルに

㈹ベルクソンは、実際に、 「私たちにとって、瞬間的なもの(d instantan6)はけっして存在しない」

(Bergson 1896:72=1965:81)と述べている。

(6°}ベルクソンがいう「純粋知覚は、物質のすべて、あるいは少なくともその本質的な部分を私たち に与えるもので、ほかのものは記憶からきて物質に付け加わる」(Bergson l 896:76=1996:85)もので ある.石井は「純粋知覚」を、 「もしそれが存在するなら、いわば知覚の意識なき知覚であり、一 度も知覚の意識を伴ったことのない知覚である」 (石井 2001:126)と説明している。

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みるように、実現しなかった過去である記憶内容を、現在という一瞬に縮約する「現在の いわば瞬間的な私たちの知覚」(Bergson l 896:236ニ1965:234)が、想像上で存在する瞬間の 基礎となっている。逆円すい形の頂点である「現在の知覚」は、実際に経験されている、

あるいは実現した知覚であるから、想像1:でのみ存在する瞬間とはいえない。瞬間的な知 覚を想像するとは、 〈未来〉における知覚をイメージすることだと思われる。

 この「想像上でしか存在しない瞬間」は、 「想像的停止(arrets  imaginaires)」(Bergson 1896:211=1965:212)f70)とは異なる。この「想像的停止」がベルクソンによって区別された もうつの瞬間だと考えられる。運動を空間上の始発点から終着点への移動として捉える 場合、運動が点と点の間を分かたずに動くことになる。しかし、この運動は不可分な持続 であるにもかかわらず、始発点とその前の点とを、終着点とその次の点とを区分した運動 となる。この場合、運動は、その始発点と終着点で、確かに停止していたことになり、そ の運動は不可分な持続を象徴できない。このような停止が「想像的停止」である。

 したがって、 「想像的停止」は、瞬間的に止められた不可分な運動を示すが、これはす でに分割されたものであり、想像上で存在する瞬間とは異なる。この「想像的停止」はベ ルクソン的持続には与しない。

 こうしてベルクソン的持続は、不可分性と瞬間の不可能性とを表し、ベルクソン的持続 に抵触しない瞬間が、想像上でしか存在しないということも明らかになる。想像的停止 としての瞬間が、分けることのできない運動を実際は分割しているということから、瞬間 は想像上でしか存在しないことになる。

 持続に反しない「想像上でしか存在しない瞬 間」とは、 「運動ないし行動の不確定を表現す る」(Bergson 18%:66=1965:74)知覚であると 考えられる。知覚が果たす不確定性の表明は、

膨大な過去の記憶内容からの演繹や習慣的反復 によって、 〈未来〉の行動が決定しないことを 示すことになる。 〈未来〉における行動の不確 定は、まだ実現していない想像上で存在する瞬 間を潜在化させることによって生じることにな る。現在が〈未来〉への進むにつれて、現在の 知覚は図3のように進行すると考えられる。現 在の知覚が未来へと進めば、それだけ不動の過

/セ

図3

σ゜)「想像的停止」と「想像上でしか存在しない瞬間」は明確な区別を要する。前者は「事物の現実 的諸瞬間(des moments r6els des chose)」であり、後者はベルクソンの持続によって捉えられる「意識 の諸瞬間(des moments de notre conscience)」(Bergson l 896:72=1965:80)と表すことができよう。

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去は膨大になる。 「想像上でしか存在しない瞬間」は、点から面へ拡大して、 「夢の平面」

となるだろう。持続は決して分割されず、瞬間とは馴染まない。

 ベルクソンの持続は、アルヴァックスの持続のようには区切られない。 「夢の平面」に 位置する実現しない過去の膨大な記憶内容だけでなく、 「行動の平面」に属する現在の知 覚も、常に新しい平面へと移動している。この「行動の平面」への移動過程において、ベ ルクソンはアルヴァックスとは異なる方法で、社会の存続を明らかにする。

  〈過去〉の記憶内容が〈現在〉において収縮して残存して、その〈現在〉の知覚が〈未 来〉へと潜在的に残存していく。この〈過去〉一〈現在〉一〈未来〉の移行過程は、 「自 発的記憶」と「身体の記憶」が相補的であるために成立する持続だといえる。このような

「自発的記憶」と「身体の記憶」の二重化は、次のようなベルクソン的反省を要求する。

すなわち、無数の記憶内容から「時間と空間の特殊性を消すための反省の努力を必要とす る。しかし、この特殊性についての反省、それなしには対象の個性が私たちから逃げ失せ てしまうような反省は、差異に注目する能力[中略]を前提としている」(Bergson l896:

176=1965:178) 〔強調:原著者〕。

 習慣的な「身体の記憶」と「自発的記憶」との相補性は、習慣の類似による反復が、す でに、完結した自発的な記憶内容の一般化を支えにしていることを察知することによって 成立することになる。この一般化とは、ベルクソン的反省によって、個別的なものから類 似のものを抽象することであり、個性を消去することではない。そして、そのとき、「類 似する知覚」として対照するため、反復される記憶内容が想起されていることも同時に意 識していることになる(横山 2002b:69)。

 ベルクソン的反省は、 「自発的記憶」と「身体の記憶」を二重化するなかで、個性を捉 える認識となる。二つの記憶のバランス、すなわち感覚=運動平衡は「これら相補的な二

つの記憶が相接合する的確性」(Bergson l 896:170・= 1965:173)によってもたらされる。

 中村弓子によれば、この「二つの記憶の的確な接合による的確な知覚能力」 (中村弓子  1995:10)は、ベルクソンの「良識(bon sens)」、あるいは「実践的な感覚」(sens pratique)(Bergson 1896:170=1965:173)のことである。すなわち、 「良識」とはベ ルクソン的反省のことだと考えられる(71)。中村弓子は、この「的確な知覚能力としての《良 識》は、《緊張》によって特徴づけられる」 (中村弓子 1995:12)という。《良識》は

「他者の認識において、精神の高度の緊張によって、対象の持続の深い意味としての個性 を捉える認識」 (中村弓子 1995:16)であり、「他者の直観プロセス」 (中村弓子

(71)?コ弓子は、ベルクソンが著作によって、「良識」と「直観」の観念が変化することを指摘して いる(中村 1995)。事実ペルクソンは、 「形而上学入門」(1903年)において、 「直観によって私 たちは対象の内側に身を置いてみると、その対象が独自で、結果として表現されたことのないもの

と一一致するために、私はここで直観を共感と呼ぶ」(Bergson l 903:1395)、と述べている。

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1995:17)を明示する。ここで中村がいう他者とは、 「物質的なものであれ精神的なもの であれ、何らかの『あらわれ』を通して、すなわち知覚を通して認識される」(中村弓子

1995:15)のことである。

 意識を緊張させたベルクソン的反省は、習慣的な「身体の記憶」と、諸事実の記録とし ての「自発的記憶」とを、的確に二重化する。習慣的に「類似する知覚」を反復すること は、すでに・回限りの「差異ある記憶内容」の一般化を支えにしている。この一般化とは、

個別的なものから類似のものを抽象することで、記憶内容の差異を消去することではない。

その「差異ある記憶内容」とともに、 〈過去〉において類似した記憶内容が反復的に想起 されていることも、同時に意識していることになる。この一般化と差異化が、 「身体の記 憶」と「自発的記憶」の的確な二重化であり、この二重化を達成させるのが、反省という 意識作用だといえよう。この反省によって、はじめて、二つの記憶は相補的だというベル クソンの言い分を評価できることになる。

 それゆえに、 「記憶内容(souvenir)が作られるのは知覚が作られたあとではなく、それと 同時」(Bergson l 908:130=1992:150)になる。また、 「あらゆる知覚はすでに記憶(m6moire)

である。純粋な現在とは未来を浸食する過去の捉えがたい進行なのだから、私たちは、実 際上、過去だけしか知覚しない」(Bergson 1896:167=1965:170)〔強調:原著者〕。つまり、

「夢の平面」が「行動の平面」を浸食し続けるということは、ベルクソン的反省によって、

意識されて、この「未来を浸食する過去」は〈現在〉として存することになる。

 ベルクソンは、このような「反省」を「直観(intuiti㎝)」とも言い換えている(Bergson l922b:95)。反省=直観は、実在を直接捉えることができる意識の働きだと考えられるが、

本能的な動物にはなく、知性を持った人間に特有の能力であるとされている(Bergson 19σ7:

177−8=1966:2034)。

 ドゥルーズは、 「直観はベルクソン哲学の方法である」(Deleuze l966:1)という。また、

平井靖史は、ベルクソン的反省を「時間的にせよ・論理的にせよ遡行的に回復される同一 化ではない。なぜなら反省する(される)のが、そもそも同一性ではない差異であるから。

反省は遭進的に目指される同一化である」 (平井靖史 2000:98)〔強調:原著者〕と述べ

る。

 まとめると、ベルクソン的反省によって緊張した意識が捉える認識とは、二つの記憶の 相補性であり、 〈過去〉の〈現在〉への収縮であった。この反省は、 〈過去〉が〈現在〉

へと流入し続けていることと、現在の知覚が未来へ投影されていることとを同時に提示す ることになる。

 したがって、ベルクソン的反省によって明らかになるベルクソン的持続は、アルヴァッ クスの「社会的持続」のように、社会において成員たちに共有される時間枠組みを持たな いことがわかる。それゆえに、アルヴァックスはベルクソンに、集団主義的側面が欠如し、

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