第3章 記憶と自我
第2節 過去の残存と持続
相補的に連動する二つの記憶、すなわち「類似の知覚」と「差異ある記憶内容」との相 補性は、ベルクソン的持続を生成させることになる。この持続は、アルヴァックス的持続 とは異なり、社会的時間という時間的制約を受けるものではない。
では、そのベルクソン的持続を描き出してみよう。
過去の行動を習慣的に繰り返させるような「身体の記憶」と、一一同限りの記憶内容を記 録する「自発的記憶」は、互いに同時に働いている。ベルクソンは、これらの記憶の片方 が、強力に働いてしまう場合を次のように説明する。 「身体の記憶」だけ働かせる人は、
自動人形ないし俳優であり、 「いつも習慣によって動かされるわけで、ある状況の中に見 てとるものといえば、先立つ状況と実際的に類似した側面のみであろう」 (Bergson 1896:
172=1965:175)。反対に「自発的記憶」だけの人は、夢を見る人(62)であり、過去の数限り ない詳細な事情をあらゆる瞬間に見て取ることができ、 「イメージが他と異なっている点
卿基本的にベルクソンはラヴェッソンから変化を踏まえた習慣論を継承している。ラヴェッソンに おいて、習慣は受動と能動を含む運動に諸々の傾向(tendance)を形成し、意志(volont6)や反省
(r6flcxion)の領域を離れてしまう。つまり、運動が「連続または反復」されるにつれて、受動は弱わ り能動は高まり、次第に努力を必要としなくなるほどその能動は傾向を帯びるようになる。
しかし、その能動は本来のものではなく、 「絶えず不明瞭にかつ無反省に成り行く傾向であって、
この傾向が次第に有機体の中に降りていき、そこに次第に凝集する」(Ravaisson l 183811984:30)。
したがって、もしラヴェッソンとベルクソンの差異を描こうとするならば、それはラヴェッソン は能動性と受動性に、ベルクソンは記憶力によって習慣を論じているところにあるが、習慣が無反 省で無意識的で、薄まった意志しか持っていないという点はそのままベルクソンに受け入れられて いると言えよう。
{hj}Aルヴァックスは、ベルクソンが朗読の例で、他の朗読と唯一一の朗読を区別する特定の状況を問 題にしていることについて、着日している。ベルクソンによれば、その朗読は場所や、朗読の中断、
朗読者の疲れなどが「自発的記憶」によって覚えられているために、区別できる。
しかし、アルヴァックスは、その「差異に加えて、諸々の朗読の間には、確かに類似があった」
と述べ、 「同じ場所、同じ日に、同じ仲間の間で、もしくは両親や兄弟姉妹の近くにある同じ部屋 で」行われたであろう朗読の類似性に注目しようとする。すなわち「人びとが、諸々の朗読を比較 することで、同時に、朗読が展開した枠組みを再構成する」〔強調:引用者〕ことに、アルヴァック スは意味を見出していることになる(Halbwachs l 925:100)。
(62Ftロイトのいう無意識ではなく、ベルクソンがいう「自らの存在を夢を見るような人間存在」
(Bcrgson|896:172=1965:175)は、現在において知覚されないような細かな事実までを、記憶に留め る意識状態を指していると考えられる。
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を見て、似ている点を見ない」 (Bergson 1896:172=1965:175)〔強調:原著者〕。
ベルクソンは、 「身体の記憶」と「白発的記憶」が、同時・相補的に作用することで、
「過去がそれ自体で残存すること(survivance en soi du pass6)」(Bergson 1896:IbOニ1965:
169)〔強調:原著・初を明らかにする。この同時的な相補性は、 「これら相補的な二つの記憶 が相接合する的確性にこそ、 『よく平衡のとれた』精神、つまるところ生活に完全に適応
した人々を認める」(Bergson l 896:170=1965:173)ことだと考えられる。この「平衡のと れた精神」とは、俳優と夢みる人のバランスを指しているといえよう。つまり、 「身体の
感覚=運動的 P衡、すなわち現在の状況への順応(6quilibre sensoh−moteur du corps, c est−a−dire son adaptation a la situation pr6sente)」(Bergson 18%:194=1965:195)は、この二つの記憶の 同時的な相補性であり、過去をそのまま残存させることになる。
この「過去がそれ自体で残存すること」について、ドゥルーズは次のようにいう。
もしも、過去がそれ自体で残存する(survivance en soi du pass6)と考えることに、私たち が困難を感ずるとすれば、それは私たちが過去はすでになく、存在しなくなっている
と考えているからである。その場合、私たちは存在値le)と現在存在しているもの(e舵一 pr6sent)とを混同している。現在は存在しない。それはむしろ、つねにおのれの外に ある純粋な生成変化であろう。現在は存在しないが、活動している。現在に固有の要 素は存在ではなく、活動と有用性である。 [中略]過去は存在することをやめてはい ない。過去は役に立たず、活動せず無感覚ではあるが、ことばの完全な意味において
存在している。(Deleuze I 966:49−50ニ1974:55−56)
すなわち、ドゥルーズによれば、ベルクソンがいう過去を残存させる「身体の感覚=運 動平衡」は、現在を存在させるとともに、過去をも残存させていることになる。ここから、
「持続」の生成を導くことになるだろう。ベルクソンの「純粋持続とはまさに、互いに溶 け合い、浸透し合い、明確な輪郭もなく、相互に外在化していく何の傾向性もないような 質的諸変化の継起以外のものではありえない」 (Bergson 1889:ア7=2001:126)。
現在と過去とが、 「互いに溶け合い、浸透し合い、明確な輪郭もなく、相互に外在化し ていく何の傾向性もない」状態を、ベルクソン的持続として考えられる。ドゥルーズがい うように、 「持続」は過去をそれ自体で残存させる、まさしく記憶であることになる
(Deleuze 1966:44=1974:51)(63)。したがって、 「身体の感覚==ma動平衡」は、現在のなかで 動く 「身体の記憶」と、過去のなかで動く 「自発的記憶」(Bergson 18%:168=1965:171)(64)
(ft3)
謔R章第1節冒頭を参照されたい。
?吹B 3章第1節を参照されたい。
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とを浸透させる「持続」を提示しているように思われる。
ベルクソンの記憶論によれば、 「類似する知覚」は、 「行動の中心」(Bergson 18%:14ニ 1896:22)をなす身体によって、実現される運動ないし行動ということになる。過去の残存 を導く「感覚=運動平衡」は、身体において「現在の状況への順応」を実現する行動と、
実現されていない過去とのバランスを示していると考えられる。
記憶内容を行動に結びつける「身体の記憶」は、過去のイメージを再現するだけの自動 的な「模倣運動(mouvements d imitation)」(Bergson l 896:117)である。この「模倣運動」の 実現は、過去のさまざまな記憶内容を現在の知覚に適した運動へと組織することによって
可能になる。この組織化することについて、ベルクソンは次のように言い換えている。
記憶内容(souvenir)が運動に、その運動を通じて、外的知覚に近づくにつれて、記憶
(m6moire)の作用はますます高度な実践的重要性を帯びてくる。委細ももらさず、感情 のニュアンスまで再生する(reproduire)過ぎ去ったイメージは、夢想のイメージか、夢 のイメージである。反対に、行動するということは、とりもなおさずこの記憶が収縮 する、というよりは研ぎすまされること[中略]である。(Bergson l 896:lI6−117ニ
1965:122−123)
ベルクソンがこのように述べるのは、過去のイメージが、現在において、すべて詳細に そのまま再生されるのではなく、 「現在の状況(situation presente)」に合わせて絞り込ま れるからだろう。したがって、 「現在の状況」に不適切なイメージは、現実のものとはな
らず、適切なイメージだけが行動へと結びつけられることになる。つまり、実現した行動 は、過去の一一・部、すなわち、夢のイメージの一部を切り出して、過去を再生=再現する
(repr(xduire)。
過去の再現において、 「身体の記憶」が収縮することに注目したい。感情の詳細なニュ アンスに至るまですべての過去が、この再現において必要なわけではない。けれども、再 現する可能性は捨てきれないため、感情にいたるまで、過去の細かなニュアンスすべてが 保存されていなくてはならない。映像を録画するときに、焦点を絞るのは、無数のイメー ジが展開しているからだろう。つまり、焦点の外に置かれることになるイメージが、残存 していなければならないのである。したがって、行動が再現される「現在の状況」という 瞬間において、 「身体の記憶」は「自発的記憶」とともに働いているということも忘れら れてはならない。
ピアノの演奏練習を例に(朗読を例にしても同じことだが)、一度目の演奏で15節目で
傾第3章第1節を参照されたい。
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失敗し、一:度目の演奏ではその次の17節目で失敗し、三度目は出だしでつまずいたとしよ う。それぞれの演奏には差異があり、それを覚えるのが「自発的記憶」だが、現在におい て、理想的な演奏を行うのが「身体の記憶」になる。 度目や二度日の演奏での失敗やそ れに伴う演奏者の感情、心理状態、さらにはそのときの周囲の光景などは、現在の理想的 な演奏には不要なイメージであり、情報となる。この情報から理想的な演奏をイメージし て、このイメージに意識を集中させ、これを実現すればよい。一 度目や二度目の失敗した 演奏を聴いた周囲の人のため息などは特に不要となるだろう。このことは、スポーツ選手 が、うまくいった白分のスタイルだけを忠実に本番で再現しようとする努力と同じである。
スポーツme T一がイメージしたスタイルの再現を図っても、実現することは不可能だろう。
「現在の状況」 (風量、助走、グランドコンディション)は、そのイメージの再現を妨げ るからである。この状況を見方につけ、イメージの再現を図ることそのものが、 「模倣運 動」への努力だといえる。
したがって、人びとは「模倣運動」を遂行する場合、「現在の状況」に適切なイメージ に過去を絞り込んでいる,そのとき人びとは、過去を収縮させて、理想的な行動を「身体 の記憶」によって再現していることになる。
私たちの記憶は受け取った知覚に、これと類似し、私たちの運動がすでに素描して いる古いイメージを導くものである。記憶は[中略]現在の知覚をそれ自身のイメー ジなり、なんらかの同種の記憶内容一イメージ(souvenir−image)なりに差し戻すこと
(renvoyant)によって、二重化する。(Bergson l 896:lll=1965:117)
図1
容と現在の知覚のあいだで、イメージされる再現された記憶内容の関係を表す。
実現すべき理想的な行動にはそぐわないために、
現在において再現してはならない記憶内容が存在 していると示すことで、唯一、類似した知覚を行 動として再現される可能性が保証されているとい えよう。無用な記憶内容は過去へと差し戻され、
あるいは実現に向けては差し控えられる。 「純粋 な記憶内容」とベルクソンが呼ぶのは、このよう
な無用な記憶内容のことである。左の図1
(Bergson l 896:t47=1965:150)が、純粋な記憶内
過去をイメージの形で喚起するためには、現在の行動を差し控えることができなけれ ばならないし、無用なものに価値を付することを知らねばならず、夢みることを望ま
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