第4章 同時性による空間化
第3節 現在主義と自我
ベルクソン的反省による主客二元論の克服の影に、客観化のために持続を空間化して物 質的延長を得ることが、空間枠組みによって〈未来〉を拘束する記憶の暴力を潜ませてい ることを指摘できるだろう。ベルクソンは「不確定な行動」の存在を〈未来〉において存 在させることができる。しかし、客観主義的な集合的記憶論は、 〈未来〉ではなく、過去 と類似する同時性を反復する〈将来〉を予測可能にする。つまり、記憶の象徴暴力とでも 呼べる事態を生じさせる。そのとき、「人びとは過去に囚われ、現在にしがみつき、また 未来に拘束される」 (船津1983:279)ことになり、 「人は過去の奴隷」 (金森 2003)と なるだろう。
ベルクソンが必ずしも客観性を放棄していないことがわかった今、持続がその生成過程
阿木田元によると、ハイデガーは来るべき未来として「将来」、来るかどうかわからない未来とし て「未来」を区別した(木田 1993:134−135>。これは、非本来性と本来性によって区別される時 間であるが、本論ではこの本来性の議論には立ち入らない。
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を提供する記憶の構造と対応している自我にも、主観一客観の両立に関わる深い影響を与 えることが予想される。ここでは、 「社会的自我」論の先駆者であるジョージ・ハーバー
ト・ミード(George Herbert Mead)を引き合いに出して、社会的時間に基づくアルヴァックス 的な持続と、ベルクソン的持続とが、自我構造と対照的な関係にあることを示しておく。
ミシュタルは、ミードがデュルケムやアルヴァックスと同様にベルクソンから影響を受 けていて、アルヴァックスの現在主義的時間観が、ミードの時間論と類似していることを
指摘する。
ミードは、すべての時間を現在において再構成されたものだと解釈し、また、過去そ れ自体ではまったく過去にはならず、現在との関係だけがその過去性の根拠であると 主張した。 [中略]ミードは、アルヴァックスのように、過去についての社会的な理 解が、常に、現在の考えと価値を維持する手段となると考えていた。(Miszta1・2003:
113)
ミシュタルは、ミードの時間論に、アルヴァックスと同様の現在主義を指摘している。こ の指摘は、ミードの「見かけ上の現在(specious present)」に関するものだと考えられる。
「見かけ上の現在」とは、 「行為の観点からすれば、過去と未来の両方が含まれている セクションにほかならないもの」である。また、 「『見かけ上の現在』においてさえ、継 起があり、過去と未来があるような時間的推移というものが存在している」(Mead 1924
1925:289=1991:67)。つまり、 「見かけ上の現在」とは一定幅をもち、その両端を過去と 未来によって境界づけられている(Mead l932:53=2001:34)。
過去から現在への推移は、不可逆的なものである。ミードは、時間が必然的な諸条件に よって推移することに認めるが、その推移に新しく生じる現在はその必然的条件によって 規定されないという(Mead 1932:43−50=2001:20−31)。つまり、必然的条件では予測できな い新しい出来事が、繰り返せない時間の推移を明らかにしたと推察できる。
さらに、ミードは「過去と現在の必然的関係は存在し、また、常に存在するだろう。し かし、創発が生じる現在は、新しいものを[中略]受け入れ、その視点から過去を書き直 す」(Mead l932:43 =2001:20−21)という。現在における創発性が、過去を再構成する視点と なる。この視点は、ミシュタルが指摘するところの「現在主義」に他ならない。
このようなミードの時間論について、特に〈過去〉一〈現在〉一〈未来〉の断絶につい て、小川英司は次のようにいう。
ミードにおいては、あらゆる現実性の根拠となるのが現在という位相なのである。単 純化してしまえば、過去とは、つねにすでに、現在の世界との整合性を保つように、
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現在の世界から解釈し直されたものであり、未来とは、現在の位相から行われる行為 的な企投のことである。ミードの考えでは、現在と過去とは連続的ではない。現在は、
過去の諸条件に規定され、還元されつくせるものでは決してなく、過去と現在との間 には本質的な断絶があるのである。その断絶を媒介するのが社会性の原理であり、そ こで生じるのが、つまり現在を過去とは異質のものにするのが創発特性である。 (小 川英司 1997:104−105)
「見かけ上の現在」が過去と未来の両端に接していると考えられる理由は、過去と現在の 問に存在する本質的断絶によって理解できよう。アルヴァックスの現在主義と同じく、ミー
ドの時間論においても、現在 「見かけ上の現在」 は、一定の幅と拡がりをもって いることになる。
ミードは、この「見かけ上の現在」に象徴されるような時間観により、自我を展開して いる。船津衛によれば、人間の自我形成にかかわる他者は空間的、時間的に存在し、拡大 している。この他者の空間的、時間的拡大に伴い、 〈過去〉一〈現在〉一〈未来〉に多く の他者が存することになり、 「他者の期待の『一般化』」、すなわち、 「一般化された他 者」の期待が必要となる(船津 1983:267)。この「他者の期待の『一般化』」は、 「自 己の他者へのかかわりのあり方」を示すパースペクティブによって可能となる(船津
1983:268) 。
船津は、このパースペクティブは人によって異なり、複数の他者からの期待を一般化す るには、共通のパースペクティブが形成される必要があるという(船津 1983:268、
2㎜:59−60)。さらに、船津は共通のパースペクティブ形成について、次のように述べて
いる。
共通パースペクティブの形成は、 「時間系の交差」(intersection of time systems)を通じて
なされる。時間系の交差とは、それぞれの時間的パースペクティブを交換させ、再構 成することである。ミードによれば、このことは、他者のパースペクティブに自らを 置く「役割取得」を通じてなされる。ひとは「意味のあるシンボル」によって、他者 の反応を自己のうちに引き起こすことができる。自分のものとは異なるパースペクティ ブ〔の〕想像を通じて認識しうる。そこに役割取得がなされる。 (船津 1983:268)
〈過去〉一〈現在〉一〈未来〉を通じて存在する多くの他者は、共通パースペクティブの 想像を要求する。このパースペクティブは、 「役割取得」を可能にして、過去と未来とに 接している「見かけ上の現在」の視点から再構成されることになる。
ミードにおいて、 「役割取得」は次のような相互関係を基礎としている。 「私たちは、
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私たちに対する関係のなかで他者を認識できる限りでしか、自分自身を実現できない。個 人が他者の態度を取得するゆえに、彼は自らを自己として実現できるのである」(Mead
1934:194=1973:207/1995:239)。
この「役割取得」について、片桐雅隆が展開している時間論と自我論の結びつきを見て みよう。 「役割取得とは、自己の行動が他者にどのような反応を引き起こすかを前もって 予期し、そのことによって自己の行動を調整していく過程であり、そのような予期は他者 の態度を取得できること(meの形成)によって可能となる」 (片桐 2003:84)という。
さらに「meはかっての出来事しての1の記憶によって形成されるのであり、そのような 記憶がなければmeは形成されないという点、さらに役割取得が相互のmeの付与によっ て可能となる限り、記憶に依存するmeが形成されなければ相互行為も生起しない」 (片 桐2003:85)。
過去の客我(me)により、役割取得が可能になる。なぜなら、主我(1)は、過去を 記憶し、現在の「問題的状況」に応じて、新たな役割を創発することになるからである。
片桐はこの創発性を引き出す過程を次のようにまとめている。
ひとは実際の瞬間ごとの反応(1)を振り返って、自己の行動を認知的に反省し、新 たなmeを形成していく。1は認知的にとらえることはできず、それは、とらえたと 思ったときには新たなmeとなっている。この規定は、過去が現在の創発性によって 常に書き換えられるという構図に対応している。1という常に変化する現在の反応や 作用が、meを再構築していくように、認知的に構築された過去も予期しえない現在 の創発的な特性によって常に書き換えられていく。 (片桐 2003:83)
新たな客我(me)の創発は、現在における主我(1)の反省によって解決するところ に生じる(91)。この主我(1)と客我(me)の関係が現在において、常に書き換えられて いることを考えると、ミードの自我論は確かに現在主義的アプローチの下に展開されてい るといえる。
ミードの二つの面 主我(1)と客我(me) に分割された自我論は、ベルクソ ンの二重化した自我 「個人的自我」と「社会的自我」 に対応しているように見え る。けれども、ミードが現在主義的立場にあるとを理解するならば、二人の自我論は必ず しも一致しないことになるだろう。現在に、ある一定の時間間隔を認めるミードは、アル ヴァックスの社会的持続に基づく時間論を展開していることになる。
現在主義的な自我論からは、メルロ=ポンティがベルクソンの二重化される自我に向け
(9Dより的確には、現在の問題的状況の解決による。
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