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第4章  同時性による空間化

第2節  空間の不自由一主観と客観一

 ドゥルーズは、ベルクソンの持続が誤解されるのは、次のような理由によるという。こ の理由は、まさに、アルヴァックスの現在主義的アプローチを指していることになるだろ

う。

われわれはいっでも《現在》を媒介にして考えすぎる。われわれは、現在は別の現在 によって置き換えられたときだけ過去になると考えている。しかし、よく考えてみよ う。もしも古い現在が現在であると同時に過去でなかったならば、どうして新しい現 在が生き残るだろうか。ひとつの現在が現在であると同時に過去でないならば、どう してその現在は過去になるのだろうか。過去は、それが現在であったときと同時に構 成されなかったならば、決して構成されないだろう。(Deleuze l966:53=1974:60)〔強

調:原著者〕

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 この「現在を媒介にして」という指摘は、アルヴァックスが「記憶内容は、現在の視点 から考察される」(Halbwachs 1925:141)と述べ、過去が現在において再構成されると述べた 現在1三義的立場を表している。アルヴァックスの現在主義は、過去と同…の同時性によっ て客観的視点を保持している。

 ここでは、アルヴァックスが批判したベルクソンの主観主義的側面を検討して、ベルク ソンの持続が客観的側面のヒに成り立っていることを指摘する。この指摘は、アルヴァッ クスの現在i三義を、ベルクソンが決して否定したのではなく、持続が〈未来〉における〈現 在〉の知覚を存在させることによって、その存在の中に取り込まれていることを明らかに

する。

 アルヴァックスにおける現在主義は、同時性という似かよった〈現在〉の積み重ねによっ て、 〈過去〉を理解するといえよう。つまり、同時的な瞬間の蓄積が、集合的記憶の社会 的持続を生み出していると考えられる。

 ベルクソン的な持続が瞬間を二種類に区別することに、もう一度着目してみよう(87)。一 つは、 「想像的停lil」としての瞬間であり、ベルクソン的な持続には与しない。もう一つ は「持続は瞬間をもちえない」(Bergson l 896:212=1965:213)というペルクソンのテーゼに 反せずに、持続の不可分性と不可能性を掲げる「想像上でしか存在しない瞬間」である。

つ目の「想像的停止」は、停止点としての同時的瞬間であり、 「想像上でしか存在しな い瞬間」は、第3章の図3のように〈未来〉における「行動の不確定性」を存在させる瞬 間だといえよう。一方、前者の「想像的停止」は、不可分な持続を分割して、不可能であ る瞬間を想定する。二つの瞬間を区別するのは、ベルクソン的持続に与しない「想像的停 止」が「想像上でしか存在しない瞬間」と誤解されやすいからである。

 そして、そのような誤解によって持続は分断されて、持続しない瞬間としての「想像的 停止」を空間として生み出してしまう。 「想像的停止」によって捉えられた「運動とは、

明らかに、.一点から他点へと通過すること、したがって空間をよぎることにある」(Bergson l896:211ニ1965:212)。空間上の点と点の間を移動する運動として等質化・均質化されてし まう持続は、誤解された持続であって、ベルクソンが論難した「空間化された時間」に他 ならない。いわば、この運動は、乗車している電車の進行を、電車の外にある不動の建物 やプラットホーム、改札口へと続く階段を規準に考えることだといえる。いつも利用して いる駅のプラットホームに電車が到達するときのことを思い起こしてみよう。電車は最初 にプラットホームのいちばん端を通過し、次にいちばん端の階段、エレヴェーター、そし て、いつも下りる(上がる)階段の近くで停車する。この場合、電車の外にある到達点は

(t「7)

謔R章第3節、同節の図3を参照されたい。ここでは、未来における持続の存在証明が試みた。

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動いていない。このような体験は、外から観察した電車(乗客)の動きである。

 反対に、ペルクソン的持続は電車の内側から流れゆく窓の外の風景を眺める場合に相当 する。外の景色(建物、プラットホームの端や階段)が前から後ろへと動くことになる。

このような体験は、内から見た外の景色の動きである。つまり、観察者の視点と行為者の 視点が存在していることになる。

 行為者の視点からの絶対的な運動と、観察者の視点からの相対的な運動についてペルク ソンは「どうしてここで、見かけの運動と現実の運動が区別されるのだろう。外からみと められるどの対象が動いていて、ほかのどの対象がとまっているといえるか」(Bergson

l896:219−220=1965:219)、と疑問を投げかける(88)。さらに、ベルクソンは、次のように論

じる。

空間が問題である限り、分割はいくらでも進めることができる。分割されるものの本 性はそれで何のかわるところもない。そのわけは、空間は定義上、私たちの外にある

からだ。(Bergson 1896:231=1965:230)

 ベルクソンの持続は、異質性の相互浸透であるため、このような不動、不変の空間によっ て運動を理解する外的な観察とは対立する。ベルクソン的持続は、内的な体験であり、内 的な変化だといえる。

 けれども、空間と時間はどちらの成立の条件にもなっている(Bergson l922a:51−58=1965:

212−218)。内的な運動を空間に表すには時間が必要だからである。また、運動の経過を表す には空間が必要である。つまり、空間を占めるには時間が必要であるし、時間を生きるに も空間を占める必要がある。つまり、外部の視点をとることで、内部の視点は明らかにな

る。

 「空間と持続という二つの項の連結線は同時性であり、これを時間と空間との交差点と 定義することもできよう」(Bergson 1889:82=2001:133)。このようにベルクソンが述べる のは、持続が同時性によって占められる空間を否定してはいないことを示していると思わ れる。したがって、 「想像的停止」ですらも、ベルクソンが肯定した「《時間》の多様性

(pl urarit6 des Temps)」(Bergson 1922a:83ニ1965:246)、すなわち多様な持続の内に含まれて いると思える(89)。

(tc8)

゚藤敏夫(t990)によるすれ違う電車の例を参考にした(近藤 2001:119−120)。近藤によると、

ミードはこのような二つの視点から見た運動には、いずれもリアリティーをもつという。

 ペルクソンの場合、持続が実在であり、 「空間化された時間」は持続がもつ実在性を失わせるこ とになる。本論では、さらに持続の実在性がどのように生成するのかということにまで議論を展開

している。

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 したがって、 〈現在〉という同時性において、持続する時間と、時間の空間化とが接合 すると考えられる。前者はベルクソン的持続であり、後者はアルヴァックスの社会的持続 だといえよう。この場合、ベルクソン的持続は、アルヴァックスの同時的瞬間=〈現在〉

に接合しているため、客観性を保証されていることになる。

 この二つの持続の接合、言い換えると、過去の「差異ある記憶内容」と現在の「類似す る知覚」との接合は、ベルクソン的な反省によって可能になる。つまり、主観主義と客観

}三義が接合されていることになる。

拡がりのある知覚においてこそ、主観と客観は結びつくであろうし、この場合、知覚 の1三観的側面は、記憶の働きによる収縮からなるものであり、物質の客観的実在性は、

この知覚が内部的に分解して生ずる多数の継起的振動と一致するわけである。 [中略]

主観と客観、その区別と統一に関する問題は、空間よりもむしろ時間との関連

で提起されなくてはならない。 (Bergson l 896:74=1965:82)〔強調:原著者〕

ここでいう1三観と客観とは、ペルクソン的持続とアルヴァックスの社会的持続に対応する と考えられる。そうだとするならば、二つの異なる持続の接合は、ベルクソンが試みた主 観と客観の結びつきを意味する。そして、ベルクソンとアルヴァックスのそれぞれの持続 を接合することと、主観と客観の合一は、ベルクソン的反省によって、可能になると考え

られる。

 アルヴァックスの社会的持続は、ベルクソンがいうところの「想像的停止」によって、

持続を分割して、空間的に展開している。この分割や、空間的延長は、時間の同時性によっ て、成功する。その結果、アルヴァックスが社会的持続を可分なものとして位置づけるこ

とになる。

 人びとは、同時性の概念を反省し、 (社会的)持続の可分性という持続とは相容れない 概念に気づくとき、持続が空間を占めることでしか存在せず、その観念により、分割不可 能な持続を分割可能な持続として扱うというパラドクスに陥っていることを知る。ベルク ソンは持続の認識と存在を証明する二つの記憶の二重化には、あるいは《類の一般観念》

には、次のような反省を必要とした。

 膨大な記憶内容から「時間と空間についての特殊性を消すための反省の努力を必要とす る。しかし、この特殊性についての反省、それなしには対象の個性が私たちから逃げ失せ

㈹「時間の多元論」については、第3章第3節において、石井(2001)に従って整理した。

 また、本論のように持続と空間の両立をベルクソンにおいて指摘しようとすることについては、

多くの批判が予想できるが、本論では、持続の成立には記憶の,二重化、持続と空間の相補性、自我 の二重化が不可欠という立場をとる。それでも、このことは、持続と空間の混同を意味しない。

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