第2章 集合的記憶の拘束性
第4節 記憶の暴力
集合的記憶が、集団的で、客観的な記憶作用であることは、アルヴァックスからベルク ソンへの二つの批判点により明らかになった。この二つの特徴的な作用を踏まえて、集合 的記憶は社会と個人を両立させることになる。すなわち、集合的記憶において、過去を再 構成する場合、記憶の担い手である個人が、集団的で、客観的な視点をもつことができる のは、類似する社会的枠組みへと過去を再構築していくからである。この社会的枠組みが、
ある集団における類似する時間間隔と空間である限り、集団は存続して、個人は個性を保 証される。つまり、集合的記憶において、社会と個人が両立することになる。
また、ある集団において、社会的枠組みは、成員のメンバーシップを維持し、個人外在 的な表象として、客観的な「集団の視点」を表しているわけだが、集団の存続、個性、メ ンバーシップ、集合表象、 「集団の視点jのいずれもが、社会的枠組みを基礎に据えてい る。したがって、集合的記憶は、集団における共通する記号としての社会的枠組みから、
社会と個人を非個人主義的に、かつ客観的に両立させることになる。
しかしながら、アルヴァックスは、集合的記憶の方法として、集団において共通する社 会的枠組みを、集団的で、客観的に構築したために、個人をその枠組みの中へと拘束する ことになり、そこから自律する個人的記憶の自由を失わせていると考えられる。
アルヴァックスは複数の社会的枠組みが存続することを指摘していたわけだが、これら の社会的時間はいずれも同時性によって一つの枠を構成する。 「私たちは思うがままにこ の枠を改めるなり、調整するなり、単純化できる。なぜなら、これらの瞬間を分離する時 間は空虚であり、そのすべての部分はまた、最も変化に富んだ区分にも適合するから」
(Hal bwachs 1950:150=1989:108)である(43)。
だが、この自由に改められた社会的時間すらも、画一的で、拘束的で、個人が抱く「他 者と異なっていたいという要求」を強制する(Halbwachs l 950:144)。 「社会的時間とい
うものが現に存在し、その区分が個人の意識に[中略]強制的に押しつけられている」
(Halbwachs 1950:145=1989:104)のである。
このように社会的時間が強制的なものであるのは、成員個人がこの時間を、他集団と混 同されることのない同一集団に固有の「集団の視点」を構成しているからである。常に、
この社会的時間が流動的で相互浸透的であれば、個人は今この瞬間に属している集団を見
(43}アルヴァックスは「各々の個人的記憶は集合的記憶への一観点をなすものであり、その観点は私 がそこで占める位置によって変わるものであり、またこの位置自体も私の環境に対して持つ関係に 従って変わるのである」(Halbwachs 1 950:94=1989:43)と述べ、個人的記憶が集合的記憶の影響によっ て生じるものである、ということを説明している。
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出すことができず、個々人に共通する記憶内容を再構成することもできない。逆に、成員 に共有された画…的な時間枠組みがあるならば、個々人は共通する記憶内容を再構成でき るが、時間枠組みの画一性の維持に束縛されることになる。それゆえ、アルヴァックスの 集合的記憶は一 種の拘束なのである。
アルヴァックスは集合的記憶によって個人的記憶が明らかになるというが4破強圧的に 個人を従える集合的記憶から、個人は逃れることはないように思える。デュルケムのアノ
ミーのように、集団に属す成員個人は自ら自由を放棄することでしか、集合的記憶を働か せることができないように見える。たとえ集団の時間枠組みと空間枠組みの再構成に協力 しても、それから逃れたいと思いながら、集合的記憶に関わることもあるだろう(45㌧個人 が帰属している諸枠組みのすべてが、等しく成員たちをコントロールできるとは考えにく
い。
しかし、アルヴァックスは社会からの圧力に個人が無感覚であり、複数の枠組みが均衡 状態にあることに関して、以下のように述べている。
その時、人は他の集団にいる場合には重くのしかかってくる取り決めを、つまり思 考や想像を抑制する取り決めを少なくとも忘れているのである。どちらからの圧力も 感じないのである。人は同時に二つの社会に属しているのであるが、その社会の間に はどちらからの圧力も感じないほど、うまい具合のコントラストがある。さらに、人 はこの均衡状態で自分を維持できなければならない。(Halbwachs 1939:44−5=1989:240)
つまり、個人が二つ以上の枠を持ち(46),その双方の所属集団に所属の感覚を分散させれ ば、 「どちらからの圧力も感じない」で済むという。アルヴァックスに従うと、個人は、
二つ以上の異なる社会的枠組みが複雑に交差するために、的確に帰属感を抱くことができ
(44)謔Q章第3節を参照されたい。
14〜ノ勢湾台風を巡って行われた大野・林・野中(1999)のインタビュー調査に改めて言及しておきたい。
同調査では、 「台風孤児」にみる記憶の異質性として、孤児たちの記憶が伊勢湾台風報道を行った マスコミに対する批判、 「孤児」として扱われることへの反感によって再構成されていることが指 摘されている(大野・林・野中 1999:68−75)。大野らは、これらの対象者について「自分のこと を勝手に記事にされてしまう」、 「『私』に関して自らの意志のおよばぬところで言及されてしま うこと、外部から自分を規定されてしまうということ」への焦りや不安があったのではないか、と 指摘している。
本論で最終的に指摘したいのは、この「自らの意志が及ばぬところで言及されるjことへの感情 である。被災したときの家族枠組みを再構成する一方で、被災者である孤児たちが抱いていた、社 会的枠組みからの拘束に対する反感の感情に注目したい。
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ずに、「自由な感覚(sentiment・de・liberte)」 (Halbwachs 1950:45)を獲得することになる。
大野道邦が、複数の枠組みの組み合わせによって、個性を説明したわけだが、そこには個 人が抱く「自由な感覚」をも伴っていたことになるだろう。アルヴァックスは、複数の枠 組みが組み合わさり、交差することと、個人的な記憶内容について次のように述べている。
記憶内容は錯綜した集合的思考の多くの系列の作用によって再現されるのであり、私 たちはその記憶内容をそれらの系列のどれかだけに帰属させることはできない。した がって、その記憶内容をまったく独立しているものと想像し、その統一性を集合的思
考の多数性(multiplicit6)と対立させているのである(47)。(Halbwachs l950:95−96=1989:
44)
多数の集団のいずれにも所属しているからこそ、個人は独立を感じ、ある集団への帰属 という統一性を感じることができる。その帰属感は、他の集団への排他的感覚により、得 られるものではなく、交差する集合的記憶の多数性によって、 「常に因果律に支配されて いることには気づかない」(Hal・bwachs l 950:95=1989:44)ままに得られる感覚である。アル ヴァックスはこの感覚を、ある行動を生み出すために組み合わされる「因果連関の多数性
(multiplicit6 des s6rie causales)」によって説明される、 「自由な感覚」だと捉えていた(48)
(Halbwachs l l95011997:95ニ1989:44)。
しかし、このように複数の集団からの拘束が交差すれば、あるいは複数の拘束を均衡さ せれば、個人は自由であるとアルヴァックスはいうが、これは錯覚だといえよう。このこ
とは少なくとも、社会的拘束と個人的自由の同時的成立の不可能を示している。
なぜならば、二つの社会的拘束から「圧力を感じない」ということは、どちらの社会へ
,46>t.会的枠組みの複数性については、大野・林・野中による「伊勢湾台風」に関する集合的記憶研 究において、個人が複数の枠組みに基づき伊勢湾台風での出来事を再構成している例があげられて
いる(大野・林・野中 1997/1999)。
〔 7Imultiplicit6の小関訳は「多様性」であるが、本論では多数性と訳した。ここで示唆されている 自由な感覚は、多くの集団の集合的思考の交差によって生み出される。したがって、多くの枠組み の組み合わせを念頭に、アルヴァックスは、個人の自由な感覚を説明したのだから、一個人の多様 性ではなく、多くの枠組みの数を問題にしたと考えられる。
(48)?骰s動に至る因果律の多数性による「自由な感覚」とは、哲学者たちが使用した説明だとアル ヴァックスは同箇所で述べている。アルヴァックスは『ライプニッツ』の中で、 「ライプニッツは 自由が必然に対立する限りにおいて、自由そのものではなく、自由の表れを説明した」と述べた。
さらに続けて、 「ライプニッツにとって、あらゆる行為が原因によって説明され、原因は知られて いるか、または、知覚できないものだ」と述べる(Halbwachs l l90711928:128)。
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