第4章 同時性による空間化
第4節 不確定性としての自由
不確定な未来においても持続が存するのは、 「夢の平面1の拡大と、 「行動の平面」の 進行によって、保証されるのであった。その二つの平面のあいだを動く自我構造「個人的
自我」と「社会的自我」を表している。 〈未来〉の行動の不確定は、ベルクソン的持続に 反しない「想像上でしか存在しない瞬間」の存在であり、二つの平面、二つの自我の二重 化に裏付けられている。
ベルクソンの二重化する自我は、現在主義的ミードの自我とは異なり、不確定な行動を 想定する。自我が「過去の奴隷」 (金森 2003)ではなく、過去に囚われ、未来に拘束さ
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れずに(船津 lg83:279)いられるのは、現在主義的な記憶の暴力から解放される必要が ある。 「行動の不確定性」は、 〈現在〉の同時的瞬間の反復から逃れている。
そこで、 「行動の不確定性」は、 〈未来〉における行動の自由を保証することになると 思われる。現在主義的な視点によれば、 〈現在〉という同時性の繰り返しは、人びとに〈将 来〉における行動を予測させて、その中から選択、実行させる。このように行動を予測さ せる場合、集合的記憶論から明らかなように、社会的枠組みの拘束力によって「自由な感 覚」が失われることになる。したがって、社会と個人の両立が成立させられないのである。
けれども、反対に、ベルクソンの「行動の不確定性」により、この「自由な感覚」を取り 戻せると思える。
アルヴァックスが抱いていた自由感、さらに言うと、デュルケムが『分業論』の冒頭で 示した自由感(92)と、ベルクソンの自由感は異なっている。ベルクソン的な自由とデュルケ ム学派のものとの相違は、二つの点で指摘できる。第一点目は、社会と個人とを両立でき る自由であるという点、もう一点目は、非決定的、非選択的自由の創造を可能にするとい う点である。これら二点の違いのそれぞれは、すでにアルヴァックスのベルクソン批判と して大別したこ点と一致している。すなわち、一つは個人主義者ベルクソンであり、もう
…つは主観主義者ベルクソンという批判である。ここでは、第一点目の相違点、社会と個 人の両立に関わる点から検討をはじめたい。
自由な行為について、ベルクソンは「先行条件のすべてあたえられたとき、行為は予見 されることができたかできなかったか、というような問いは、意味のない問いである」
(Bergson l 889:142=1990:174)と述べている。ベルクソンは、ある哲学者ポールがある人物 ピエールの行為を予見し得るかどうか、という興味深い考察をめぐらせている。その考察 は以下のように簡略化できるだろう。
ポールはピエールの過去の全経歴を知ることがなければ、ピエールの行為を再構成する ことも、再体験することもできないであろう。私たちは小説を読んだとき、そこに登場す る人物を完全に知っていなかったからこそ、その人物について抱いていた私たちの観念に 何かを付け足すことで、彼の行為の結末を理解することになる。すると、ポールが、先行 条件によって、ピエー・一・一ルの意識にあらわれるであろう心理状態を知り得るか、ということ を問うた場合、実際に、ポールはピエールの心理を彼と同じ強さで意識することができな いことになる。
したがって、ポールはピエールの役を演じることになる。その際、どんなに些細な出来
(92}fュルケムは「自由そのものは規制の産物である。 [中略]他人が、物理的、経済的優位を、あ るいは私の自由を拘束するようなその他の優越を利用することを妨げられる限りで、私は自由であ りうし、社会的規制のみがこのような力の濫用を抑制しうる」(Durkheim l 893:IV=1989上:26)、
と述べる。
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事でもピエールの生涯 まだ終局を迎えていないピエールの生涯 においては重要で あるから、ポールはピエールのいかなる経験をも縮約する権利はない。しかし、ピエール に起こったいかなる出来事も縮約することなく彼を演じるならば、ポールはもはやピエー
ルであるとしかいえなくなる(Bergson I 889)。
ポールとピエールは、交換することができない二つの体験を記憶した二人の個性的な人 間である。二人の体験の相違は、電車に乗っている人の体験と電車を外から見ている人の 体験との相違だといえよう。ベルクソンによれば、彼らがそれぞれ体験した時間は、 「時 間の多様性」として理解される。しかし、アルヴァックスによれば、彼らの異なる体験も
〈現在〉の客観的な同時性によって、画一的なものとして理解されることになる。
アルヴァックスは、 〈現在〉という同時的瞬間、より正確に言うと、この瞬間が反復さ れるリズムの共有によって、 「他者の視点」を明らかにした。この「他者の視点」は、私 と複数の他者が共有できる「集団の視点」であった。仮に、アルヴァックスにおける自我 を考えるならば、自我(個性)は複数の「集団の視点」の組み合わせによって形成される
であろう。
「集団の視点」に基づいて形成される個性的自我は、ベルクソンがいうところの「社会 的自我」に相当すると思われる。 「社会的自我」とは、 「他者と連続し、他者と類似し、
他者と私たちの間で相互依存を引き起こす規律によって他者と結びつけられている」
(Bergson 1932:7ニ}965:16)自我であり、アルヴァックスの「集団の視点」を有した自我だ と推察できる。
この「外的な自我」、 「表面的自我」ともいわれる「社会的自我」は、 「集団の視点」
によって空間枠組みへと保存されることになる。 「社会的自我」は、 「物的環境」におい て存続を許されることになるために、客観的なものとなる。 「社会的自我」は、アル ヴァックスの社会的枠組みに見るように、一定の社会規範に制約されるものだから、客観 的な判断によって自己と似かよった、あるいは連帯した他者の想像させることができる。
そのような他者をイメージすることは、 「想像的停止」としての瞬間を想像することで、
似かよった他者との共通性を反復させることになる。
しかし、ベルクソンが持続を任意に縮約・弛緩できる(Bergson 1896:232=1965:231)と述 べたのは、内的な体験と外的な体験が二重化しているからだと推察できる。客観的な「社 会的自我」とともに、主観的な「個人的自我」が形成される。 「個人的自我」は、 「他者 の個性と通約できぬ[中略]独自の個性」(Bergson l 932:7=1965:16)のことである。けれ ども、この「個人的自我」はデュルケム学派が否定していたような功利主義的なものには 留まらない。なぜなら、 「個人的自我」は「社会的自我」と両立されているからである。
ベルクソンが「社会的自我」と「個人的自我」の両立を主張するのは、何らかの事情に より社会からの離れ、孤独な生活を余儀なくされる人物でさえ、 「社会的自我によって規
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定された水準に個人的自我を定着しないこと」の辛さ(Bergson l 932:9=1%5:18−19)を知っ ていると考えるからである。この辛さの例示として、ベルクソンは、大罪人が自分の罪を 隠して生活する場合、罪を犯した自己を偽り、常に過去の自分としてではなく、現在の自
分として社会に居場所を求めなければならない孤独感をあげている(Bergson 1932:IO−一 1・1 = 1965:20−21)。この場合の人物は、決して社会的拘束を無視した功利的な人間とはいえない。
拘束を無視できないがゆえの辛さを体験し、社会的拘束の存在、あるいは、 「社会的自我 によって規定された水準」を確かに認識させられているからである。
もし個人的自我が社会的自我を生き生きと現存するものとして保持していれば、個 人的自我は、たとえ孤立していても、社会全体のはげましと、支持さえも得ている場 合と同じことをするにちがいない。(Bergson 1932:9ニ1965:18)
ベルクソンは「社会的自我」と「個人的自我」の関係を以上のようにいう。これは、 「社 会的自我」と通約する他者、すなわち、他者と共通した個性をもつ自我が、現実に、目の 前に存在していなくても、孤立した「個人的自我」は「社会的自我」を想像することがで きると解釈できよう。個人が他者から孤立している場合、他者と共通する「社会的自我」
は、想像上でしか存在しないことになる。
想像上での 「社会的自我」は、 「想像上でしか存在しない瞬間」ないし〈未来〉におけ る〈現在〉のイメージだといえよう。想像された他者は、未だ存在していないにもかかわ らず、孤立した「個人的自我」によって、その存在を想定されていることになる。しかも、
その「社会的自我」は想定されているだけではない。 「個人的自我」は社会の支持、社会 的連帯としての「社会的自我」に孤独感を埋めてもらうことになる。つまり、 「社会的自 我」と相容れない孤立的、個性的な「個人的自我」は、 「社会的自我」によって存立させ
られている。
実在しない他者を想像できるということは、 「個人的自我」が過去の実現しなかった「差 異ある記憶内容」に相当するからだと考えられる。というのは、 「差異ある記憶内容」の 増大が、 〈未来〉における〈現在〉の知覚の存続を保証するからである。また、 「社会的 自我」に「個人的自我」が存立させられるということも、やはり、二つの記憶の二重性に 帰結する。なぜなら、類似を知覚する「社会的自我」は、差異ある記憶内容である「個人 的自我」を差し控えることで成立するが、同時にその知覚を新たな差異として記録してい るからである(93)。すなわち、 「社会的自我」は他者との共通性を意識されると同時に、 「個 人的自我」として記憶されていることになる。
(93)謔R章第1節から第2節を参照されたい。
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