第2章 集合的記憶の拘束性
第2節 忘却と夢
アルヴァックスは特に、個人と社会の両立を、集合的な記憶内容の忘却(31)によって示唆 している。個人がいかに強く社会に所属しているかを明らかにすることで、アルヴァック スは個人と社会の関係を明らかにした。ここでは、記憶内容の忘却を、アルヴァックスに 則して理解することで、逆説的にではあるが、成員としての個人を考えてみよう。
記憶内容の忘却について、アルヴァックスは『集合的記憶』のなかで次のように説明す
る。
最初の記憶が消滅してしまい、それを再び見いだすことがもはや不可能となるのは、
われわれがずっと以前から、その記憶内容を持ち続けていた記憶の中の成員ではなくなっ ているからである。(Hal bwachs l950:63=1989:16)
アルヴァックスによれば、社会に共通する記憶内容の忘却は、その個人が社会から離脱 していることを意味している(Hal・bvvachs 1950:60=1989:13)。個人が社会の成員である ということは、その成員たちに共有される記憶内容を集合的記憶によって再構成できると いうことである。したがって、個人が集合的記憶によって、他者と共有される記憶内容の
(双1[P950年の『集合的記憶』において、アルヴァックスはそれほど個人的記憶が集団の社会的枠組み の組み合わせによって生じることを、それほど強調しているようには見えない。それでもなお、
「各々の人が多くの集団の成員であり、多くの社会的思考に参加し、その視線は相次いで多くの集 合的時間に注がれている」(Halbwachs l950:189=1989:158)というように、個人の立ち位置 が示されている。
(31)アの章で取り扱う「忘却」、すなわちアルヴァックスの「忘却」は、心理学や脳生理学で扱うよ うな忘却概念とはほど遠い。ここで扱う 「忘却jは、むしろ社会と個人の連帯の欠如であり、記憶 内容を補い、修正してくれる他人の不在を表すといった方が正確だろう。
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再構成に成功し、忘れ去らない限り、その集団という社会に結びつけられていると考えら
れる。
ある集団でのメンバーシップが、記憶内容の成立によって裏付けられていることになる。
片桐雅隆は自己論の観点からアルヴァックスの集合的記憶論を検討するなかで、記憶とメ ンバーシップの関係について論じている。 「アルヴァックスの集合的記憶論において最も 重要な点は、集団のメンバーとして想起が行われるという指摘」 (片桐 2003:129)だ、
と片桐は述べる。
なぜなら、自己形成に寄与する他者から期待される役割は、同じ集団の他者と共有され る過去の記憶であり、共通のシンボルだからである。片桐によれば、共通のシンボルとし ての役割を、他者との相互行為の中から、取得することで、メンバーシップは形成される。
その役割とは現在の状況に応じて、その都度取得されるため、メンバーシップも決して定 式化されたものではないことが説明されている。
片桐の自己論的メンバーシップがアルヴァックスの集合的記憶論に依拠しているのは、
集団において共通に体験された出来事というシンポルが、その集団の成員たちの相互行為 を経て記憶内容を再構成させるからであろう。つまり、そのシンボルは、アルヴァックス において、同集団の成員の記憶によって補完される鮮明な集合的記憶内容へと組み立てら れることになる。
このような議論を踏まえて、アルヴァックスのいう忘却について考えてみると、ある集 団の成員たちに共通して体験された出来事を、他の成員の記憶を頼って補い、詳細に蘇ら せることが、個人と社会が連結を示唆していると考えられる。というのは、その出来事を 忘れてしまうということは、他の成員たちとの連帯を失っていることになるからである。
したがって、集合的記憶論において、人々が同じ出来事について、社会的枠組みを再構 成して、 「類似の描写(tableau des ressemblences)」(Hal・bwachs 1950:140)に成功す るということは、彼らがその集団の成員であることを意味する(32)。また、その「類似の描 写」を維持することは、成員たちの連帯と、その連帯を保持する同一の社会の存続を意味 するといえる。たとえ記憶内容を忘却したとしても、人びとは以前に集合的な記憶内容の 再構成に成功しなければならず、それゆえ個人は、等しく、社会に結びつけられ、社会に その成員として従属していたことになる。つまり、成員としての証が、集合的記憶は成員 間に共通する「類似」を描写することにある。アルヴァックスによれば、集合的記憶は、
記憶内容を再構成することで、その社会の成員たちは自分たちだけに共有される類似する
過去を再認する(33)。
(32}Aルヴァックスは、歴史を「変化の一覧(tableau des changements)」、集合的記憶を「類似の 描写(tableau des ressemblances)」と呼んで、両者を区別している(Halbwachs l950:139=1989:
97−98)。小関訳では、歴史は「変化の場」、集合的記憶は「類似の場面」と訳されている。
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では、どのように集合的記憶は「類似」を描写するのであろうか。 「集団は、その過去 を考察する時、過去がずっと同・であると感じ、時間を通じてその同…性を自覚している」
(Halbwachs l950:139ニ1989:96)、とアルヴァックスが考えたのはどうしてか。さらに いうと、同じ社会に所属する成員たちは、どうやって類似する記憶内容を、間違うことな く、再構成するのだろうか。また、その類似性をどうやって同一一のものとして認識し、社 会的連帯を保持し続けられるのか。
集合的記憶の類似性を、ここでは、その類似性が損なわれた場合から考えてみる。類似 を失った記憶内容は、記憶の担い手である個人と、その個人が所属する集団との連帯の欠 如を示しているのはすでに見てきた通りである。
アルヴァックスは、このように他の成員と共有されない、いわば、他者の記憶内容と類 似しない記憶内容を、 「夢」だと考えていたと思われる。アルヴァックスによれば、 「私 たちの夢は、非常に多元的な記憶内容の断片で作られ、別の記憶内容と混じり合っている ので、私たちは夢を再認できない」(Hal・bwachs 1925:2D。アルヴァックスは「私たちの 記憶内容が他のすべての人々の記憶内容と社会についての記憶の強固な枠組み(les grands cadres de la memoire)とを支えとしているのに、夢は夢自体にしか依存していないので
ある」(Halbwachs 1925:39)、と述べている。
一連の夢のイメージが、本来の記憶内容を含んでいないのは、思い出すために(pour se souvenir)、私たちの記憶の正確さを保証できる人間の社会と関係して、眠ってい
るとき、当然満たされていない条件すべてを推論したり、比較したり、感じたりする ことができなければならないからである。(Hal・bwachs 1925:21−22)
他者との連帯を失い、社会とのつながりを絶った個人の記憶は、あいまいな夢だけしか 想起できない。この連帯やつながりは、集合的記憶が描写する類似によって維持される。
したがって、集団において共有される記憶内容は、その類似性を失った場合、存在しない
ことになる。
アルヴァックスは夢と記憶内容の差異を説明することで、集合的記憶の社会的機能を明 らかにしていたと考えられる。他者の記憶内容と類似するように、記憶内容を修正するこ とは、個人が抱いている他者の連帯と社会への従属を示すことになる(34㌔アルヴァックス
(33スだし、ここで取り扱う記憶は当時の心理学で扱われた連合によるものではない(Hal bw ac hs l925:143−144)。記憶内容を再構成する際の枠組みの類似性を問題とする。
(Uタ際に、アルヴァックスは「夢で見た子供の頃の記憶内容がかつて知覚した現実とうまく一致す ることを確認するには、他人の記憶を用いたり、客観的な調査や検証に従わなければならない」
(H al bwac hs 1925:9)、と述べている。
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によれば、記憶内容は目覚めているときに再認識し、適切に配列することができるが、眠っ ているときの夢は、誤認された記憶内容の断片とされる(35)(Halbwachs 1925:48)。
なぜなら、記憶内容が言語によって担い手の外部から示されるのに対して、夢は個人の 内的言語にのみ依存するため、社会的制約(contr61e de la soci6te)から逃れたイメージと なるからである(Hal bwachs 1925:54−57)。夢のイメージは、個人が夢のなかで使用する 極めて個人的な内的言語に見られるように、非合理的に散在していて、現実の記憶内容の ように社会的制約によって整理されることがない。
夢は、精神の合理的活動(a・cti・vit6 rationalle)(36)の喪失により、そのイメージを合理的に 整理できない。反対に、目覚めているときに想起される記憶内容は、 「秩序立てられ、首 尾 貫している社会環境」(Halbwachs l925:38)}こおいて合理的に展開されることになる。
っまり、他者と共有される社会環境によって、記憶内容が秩序立てられ、首尾一貫した「物 語」(37)のように補完されることになる。実際、人びとはうろ覚えの記憶内容が、その記憶 内容となった出来事を一緒に体験した他者によって、補われ、明瞭になるということをよ
く経験する(横山20(lc)。
したがって、アルヴァックスは夢と記憶内容(souvenir)とを明確に区別するとともに、両 者に区別を設けないベルクソンを、次のように批判する。 「私たちは、ベルクソン氏の理 論を再構築することになるだろう。なぜなら、ベルクソン氏は、記憶内容と夢の間に、注 日にf直する両立不PiJ能性があることを認めていないように見えるからである」(Halbwachs
l925:37)。
夢と記憶内容との間に、根本的な差異を設けないベルクソンにとって、 「目を覚まして いる状態で、一一つの対象について私たちの認識は、夢のなかでなされているものと似た操 作を含んでいる」(Bergson l901:99=1992:118)。ベルクソンは目覚めている状態では、
その知覚と記憶内容が完全に一致すると考える(Bergson 1901:102=1992:122)が、夢 のなかでのイメージ(image)(38は、現実の知覚や感覚とうまく整合しないと説明する
(Bergson 1901:105=1992:125−6)。
(35)Nロノロジックな配列だけを意図しない。
倒林三郎(1957)は、アルヴァックスの記憶の社会学において、知性による合理的活動と、知性によっ て再構成される記憶としての「社会的わく[枠組み]」とを二種類の活動に分けられていることに 注意を払っている(林1957:5−6)(Halbwachs 1925:290)。アルヴァックスによれば、合理的活動 が現在において展開するのに対して、記憶は過去において「枠組み」を形成していた、とされる。
したがって、現在における合理的活動に従い、記憶は過去の社会的枠組みに作用することになる。
夢においては、この合理的活動が失われているため、社会的枠組みが構成されることも、また、
過去の社会的枠組みが再構成されることもないと推察できる。
(37)゚代化により「・つの物語」が失われているという指摘もある(片桐2003)。
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