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自我の分離問題一アルヴァックスの意味一

第5章   「社会的自我」と「個人的自我」

第3節  自我の分離問題一アルヴァックスの意味一

 〈未来〉を創造的に更新していくベルクソン自我論の課題はなんだろうか。

 二重化された関係にある自我の認識は、反省に他ならない。この反省作用がある限り、

「社会的自我」とは異なる「個人的自我」が、 「社会的自我」として、いわば新たな他者 と通約可能な自我に転じようとも、さらに新たな「個人的自我」を認識させてくれる。反 省が試みてきた記憶や自我の二つの側面は、このように自己更新を可能にする。この自己 更新への扉を開くのが反省である。この反省によって示唆された「個人的自我」と「社会 的自我」の二重化・相補性は、新たな二重化・相補性を創造すべく、新たな反省を繰り返

(1{M)このような自我の自己更新過程は、記憶論で明らかにされた「行動の平面」と「夢の平面」のあ いだの移転を表している。さらに、自己更新過程は、 「幾何学的秩序」と「生命秩序」の間にも成 り立つと推測されるが、本論では社会と個人の両立に論点を絞るために、この点については触れな

い。

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す。

 けれども、この点については、先に指摘したとおり、二つの自我の分離に関する問題が 提起されている(第3章4節、第4章第3節)。反現象学的な反省として提起されたベル クソン的反省は、 〈過去〉と〈現在〉を合一させるどころか、 「現在と過去とに断絶を置 く」という問題に陥っている(小川侃 1976:202)。また、メルロ=ポンティは、「夢の平 面」と「行動の平面」という二つの平面のあいだにある「意識の志向的構造」に関するベ ルクソンの黙過を指摘した。これらの指摘はいずれも、現象学における〈過去〉と〈現在〉

のあいだの断章、および、そのあいだの志向性が、ベルクソン的持続に欠如していること を追求する。

 このような追求は、アルヴァックスの現在主義に結びつくだろう。 〈過去〉と〈現在〉

の区別は、現在の視点から〈過去〉を再構成することに帰着する。というのは、 〈現在〉

という瞬間において、時間は〈過去〉と〈未来〉に区切られることになるからである。こ こでは、時間の再構成が行われている。このことは、ドゥルーズが、〈現在〉を別の〈現 在〉で置き換えることが〈過去〉の生成ではないという主張したこと(Deleuze l966)と対立

する(105)。

 今日、社会学的自我論の先験的役割を担うミードにおいても、このような時間論が採用 されていることはすでに見たとおりである。ミードも、アルヴァックスやベルクソン同様、

数学的時間と生きられた時間を区別する(106)。ただし、三者の時間概念はそれぞれ異なると 考えられる。ここでは、その詳細な違いまでは指摘できないが、アルヴァックスの現在主 義的な時間論もしくは記憶論を援用するか、ベルクソン的持続に基づく時間論・記憶論を 用いるかは、社会と個人の両立を検討する場合に大きな違いを生むことになる。

 その違いは自我論を媒介とすることで、より明瞭になるだろう。本論において、アル ヴァックスの現在主義に与する自我論として位置づけたミード自我論研究に、その相違を 求めてみたい。

 ミード自我論は、 〈現在〉を境界として、自我を二つの側面に分けることを基盤として いる。繰り返しになるが、小川英司は「ミードの考えでは、現在と過去は連続的ではない」

(小川英司 1997)と述べているし、片桐雅隆によれば、現在という瞬間に、客我(me)は 過去となった主我(1)の反省によって形成される(片桐 2003)。いずれも、 〈現在〉にお

ける〈過去〉の書き換えを、刻々と変化する〈現在〉時ごとに捉え、その過程で予期でき ない創発を提示したものである。

(1°5)

謔S章第2節冒頭のドゥルーズからの引用(Deleuze l976:53 = 1974:60)に依拠している。

(1h}

ードによれば、物理学的時間は「瞬間的現在(knife−edge present)」、生きられた時間は「見かけ ヒの現在」として区別される。

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 その創発性をさらに強調し、また〈現在〉についても異色の解釈を展開しているのが船 津衛である。ミードは、 「リアリティーは現在の中に存在する。もちろん現在は過去と、

未来を含んでいるが、私たちは、過去と未来との存在を認めない。」(Mead 1932:35=2001:

9)、という。船津によれば、過去や未来は現在という枠組みを通じて選択され、再構成さ れるだけでなく、現在までもが新たに創発されるという。 「過去や現在を含むことによっ て、現在もまた、もとのままの現在であるわけにはいかない。 [中略]そこでは、これま で存在しなかった新しい時間系が創発されてくる」(船津2㎜:62)。

 創発される複数の時間系の交差に、ミードは「役割取得」を可能にさせ、新しい客我を 創造したといえよう。つまり、その都度、他者の期待を一般化することになる。このこと は、過去の他者、未来の他者を含めた時間的幅を通じて「一般化された他者」を創造する

ことを意味する。

 そこで、船津はミードがこの時間的幅を通じて、 「一般化された他者」に強く拘束され、

人びとが「時間による自我の疎外、物象化」を被っていたことを問題にしなかった、と主 張している(船津1983:270)。船津が、現在から過去と未来を再構成されるだけでなく、そ の現在までもが新たに創発されたものであることを指摘するのは、自我の疎外・物象化と いう問題がミードにおいて生じていたからだと思われる。このような指摘は、次のような 主我の創発からも理解されよう。

 ミードにおいて、 「主我」は常に「客我」とのかかわりにおいて現れ、 「客我」

に対する反応とされている。 [中略]人間の反応は刺激を自ら受け止め、解釈し、

修正・変更・再構成するものである。つまり、それは「客我」を再構成し、 「客我」

の枠を越えて新たなものを創発する。 「主我」は時間的には「客我」のあとに現れ るが、しかし、それは新しい「客我」として経験的にとらえられるものである。

 そこで、 「主我」を人間の「創発的内省性」(emergent reflexivity)を表すものとし て解釈するならば、 「主我」によって自己の修正、再構成が行なわれ、そこに新し いものが生み出されることを理解できるようになる。(船津 2㎜:69−70)

 しかしながら、このような船津の主我の創発説について、浅野智彦は、デカルト的自我 論に逆戻りしてしまうのではないか、という疑問を投げかけている。

自己を変えるというときの「自己」とは、 [中略] 「自分自身との関係(対自関 係)」を指しているのであった。他方、「主我」とは「客我」に対する反応である

とされていたのだから、それは、 「主我一客我」という「自分自身との関係(対自 関係)」のなかでのみ現れてくるはずのものである。とすると、主我は、自分が変

loo

えようとしている当の対象(自己= 〈主我一客我〉関係)を自らの前提にしている

ということになる。(浅野2001:149−−150)

確かに、主我は変容しようとしている当の対象自体かもしれない。ただし、 「r主我』は 時間的には『客我』のあとに現れる」、主我は「新しい『客我』として経験的にとらえら れる」という先の船津の主張を見れば、主我と客我の間に時間的なズレがあることがわか る。このズレによって、主我はすでに変容を加えるべき対象となっているのである。主我 と客我の関係において、この両者のあいだに介在する時間的なズレが重要であることにな

る。

 その上で、船津は自我の疎外・物象化を次のように克服しようとする。

人間は過去の他者の期待に条件づけられ、未来の他者の期待に方向づけられる。そし て、それらは内省活動の展開によって、再構成され、新たなものが創発される。 [中 略コそのことは時間の空間化からの解放を表し、時間の物象化状況の克服に当たる。

それによって時間が回復され、時間が自己に取り戻される。自我が回復されることに なる。自我における主我の側面は、このような創発的内省性を表す。(船津 1983:

280)

 船津による主我の創発性は、アルヴァックスの現在主義が提示した社会と個人の問題に ついて反証していると考えられる。 〈現在〉の視点から過去を再構成する限り(ミードを 踏まえれば未来の再構成にも同じことがいえる)、自我は疎外され、物象化され、過去に 囚われた過去の奴隷になってしまう。なぜなら、アルヴァックスの時間枠組みは同時的瞬 間の反復であり、類似の過去を描写し、物的な空間枠組みによって存続することになるか

らである。

 社会と個人の両立を、アルヴァックスのベルクソン批判から検討してきた本論において、

自我を二分して考えることは、そのまま社会と個人の両立を損なうことになりかねない。

すなわち、客我と主我、 「社会的自我」と「個人的自我」に時間の断絶を設けるというこ とが、社会と個人の関係喪失につながる恐れがある。

 自我の二重化は記憶の二平面に対応したものだと考えられるわけだが、ベルクソン自身 が自我と記憶を対応させることで、 「社会的自我」と「個人的自我」の関係を想像上のも のとするか、実現したものとするかについては言及していないからである。自我の分断を 必要としないことは、自我の二重化が〈未来〉における創造性、 〈未来〉における行動の 不確定性を維持していることから明らかになると思われる。この点については、さらにそ の現代的に意味づけることが必要だろう。

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